騾馬の乳。.... 佐久間學

(09/1/7-09/1/25)


1月25日

BACH
Messe in h-moll
L. Crowe, J. Lunn, J. Lezhneva, B. Staskiewicz(Sop)
N. Stutzmann(Alt), T. Wey(CT), C. Balzer(Ten)
M. Brutscher(Ten), C. Immler(Bar), L. Tittoto(Bas)
Marc Minkowski/
Les Musiciens du Louvre
NAÏVE/V 5145


ミンコフスキの初めてのバッハへの挑戦、もちろん、オーケストラは彼の手兵、レ・ミュジシエン・ドゥ・ルーヴルです。ただ、バッハの作品、特にこの「ロ短調ミサ」を演奏するときに問題になるのが合唱のサイズなのですが、ミンコフスキはあのジョシュア・リフキン、そしてアンドリュー・パロットの流儀、「1パート1人」をとっているかに見えます。しかし、ここで集められた若手を中心にしたメンバーは全部で10人、つまり5声部のこの合唱は、それぞれ2人ずつで歌われることになります。しかし、実際に彼が行ったのは、以前フェルトホーフェンがとったような、場所によって「1人」と「2人」の部分を歌い分ける、という方法でした。さらに、ソロの曲ではその10人全員が、必ず1度は歌うようなローテーションが組まれています。これはかなり贅沢な布陣なのではないでしょうか。あ、もちろん男性もいます(「婦人」だけではない、と)。
しかし、そんな編成云々の議論などは、ここでミンコフスキが繰り広げてくれた、なんとも生命力に満ちあふれた世界の前ではとても些細なことのように思われてしまいます。彼は、オーケストラと、そしてソリストたちの力を全面的に信頼して、このミサ曲からまるでオペラのように起伏にあふれる情景を描き出していたのです。そこでは、淡々と歌われるはずのアリアでさえも、まるでダンスのように軽やかなフットワークを持つことになりました。例えば、ソプラノ・ソロにヴァイオリンのオブリガートがついた「Laudamus te」では、そのヴァイオリンの細かい音符が堅苦しいものではなく、すべて踊りまくっているのですから、その中で歌われるソロの足取りも、自然に浮かれてくるのも当然のことです。もう少し落ち着いたたたずまいのはずのテノール・ソロの「Benedictus」でさえ、フルートのオブリガートが三連符で微妙にシチリアーノ風のリズムを刻めば、体は揺れてくることでしょう。
そして、トゥッティになったときのエネルギッシュなこと。トランペットは吼えまくり、ティンパニの強打がいやが上にも迫力を演出します。なんせ、そのティンパニときたら、まるでポップスのドラム・セットの録音のように、左右いっぱいに広がった音場設定になっているのですからね。ティンパニがパンポットするバッハなんて、最高!
そんなお祭り騒ぎの中だからこそ、シュトゥッツマンが歌う「Agnus Dei」がしっとりと心にしみてきます。翳りに満ちたその声は、なんの作為を施さなくても、穏やかな世界を見せてくれています。
もう一人、素晴らしい声を聴かせてくれたのが、10年前まではウィーン少年合唱団で歌っていたという、カウンターテナーのテリー・ウェイです。彼のソロが聴けるのが「Qui sedes ad dextram patris」。オーボエ・ダモーレのもの悲しいオブリガートに乗って歌うその声は、カウンターテナーにありがちな弱々しいものではなく、力のこもった逞しいものでした。そう、彼はファルセットではなく、実声でアルトの音域をカバーしているのです。もう一つ、ソプラノとのデュエット「Et in unum Dominum」でも出番がありますが、こちらでは「男声」ならではの深い低音を聞かせてくれています。おそらく、これからのバロック・オペラのシーンにはなくてはならない存在になることでしょう。大活躍の予感、楽しみです。
ただ、バスのティトットだけは、その明るさがミンコフスキとはちょっと違うベクトルに向いているために、ホルンのオブリガートのついた「Quonian tu solus sanctus」は悲惨な結果に終わっています。しかし、そこにすかさず躍り込んでくる「Cum Sancto Spiritu」の勢いは、そんないやな思いなど忘れさせてくれるものでした。ミンコフスキが作り出す大きな流れは、それしきの些細な傷ごときはいともたやすく覆い隠してしまうのでしょう。

CD Artwork © Naïve

1月23日

MENDELSSOHN
The Complete Masterpieces
Various Artists
SONY MUSIC/88697 42072 2


いよいよ、メンデルスゾーンの生誕200年記念の年に突入しました。すでに数年前から、この年に向けて進行していたプロジェクトなどもあったわけですから、今年はさぞや盛り上がることでしょう。
そんな中で多くの記念アイテムもリリースされることになるのでしょうが、これはメジャー・レーベル「ソニー・ミュージック」から出た30枚組でありながら4000円程度という破格の値段のボックスセットです。「コンプリート」というタイトルですので、「全集」か?と思うかもしれませんが、そのあとに続くのが「マスターワークス」、日本語だと「全名曲集」という微妙な言い方がおかしいですね。事実、声楽関係にはあまり「名曲」がなかったようで、オペラは1曲も収められてはいません。
ところで、このボックスをリリースしたところは、以前プッチーニの全オペラボックスを出したところと同じ「会社」なのですが、その時とは微妙に名前が異なっているのには、お気づきでしょうか。その頃は確か「ソニーBMG」でしたよね。ロゴマークもト音記号を挟んで「SONY」と「BMG」が並んでいるというものでした。しかし、今回は、普通に「Sony Music」というレタリングです。
ご存じでしょうが、2004年8月に、元をたどれば「ヴィクター」と「コロムビア」という、世界で最も古い歴史を誇る2つの大きなレコード会社の末裔である「BMG」と「ソニー」が合併して「ソニーBMG」という会社になりました。これは、昔からのレコード・ファンにとっては、かなりショッキングな出来事だったのではないでしょうか。今まで競争し合ってきたものが合体してしまうというのは、昨今のグローバル化の進む企業の振る舞いからは別に驚くべきことではないのでしょうが、ことレコード会社という、ある種の「文化」を担ってきた企業が、それまで全く別の価値観での「文化」を築いてきた企業と同じものになってしまったのですからね。
その、いわば「対等合併」の末に出来た会社が、2008年8月に、「BMG」が「ソニー」に吸収されるという形で、「ソニー・ミュージック」と名前を変えました。その、商品への反映が、今回のボックスの表記なのです。余談ですが、それぞれの会社の日本法人は、今までは親会社の合併にもかかわらずそれぞれが別個の活動を展開していましたので、国内盤だけを購入している分には合併という実体は捉えにくいものだったはずです。しかし、親会社の「吸収」に伴い、200810月には、日本の「BMG」は日本の「ソニー」の完全子会社となりました。その影響は、いずれ目に見える形で現れてくることでしょう。その時にこそ、「レーベル」という一つの文化が資本主義経済の中で殺されてしまったことが実感として認識されることになるのです。
といったきな臭い話はともかく、「ソニー・クラシカル」、「ヴィヴァルテ」、「RCA」、「アルテ・ノヴァ」そして「オイロディスク」という艶っぽい(それは「オイロケディスク」)レーベルを一堂に会したボックスが、面白くないはずはありません。ブロムシュテットの「エリア」や、ダウスの「パウロ」といったレアな大曲が聴けるだけでも、元は取れてしまいます。さらに、「弦楽のための交響曲」ということで、「普通の」交響曲ほどは顧みられない初期の13の交響曲のオリジナル楽器による演奏(ハノーヴァー・バンド)も見逃せません。まだ3楽章形式だった最初期の6つの交響曲の、なんとチャーミングなことでしょう。真ん中の楽章の美しさなどはモーツァルトさんをも超えています。チェンバロやフォルテピアノの即興的な「おかず」も、素敵ですよ。「8番」では、管楽器の入ったバージョンを採用、こうなると「交響曲」の番号も考え直す時期に来ているのかもしれません。
オルガン作品だけで3枚も費やしているのも、なんとも贅沢な構成。これを聴くと、メンデルスゾーンとバッハとのつながりが再確認出来ることでしょう。そんなこんなで、今年は彼のさまざまな面がクローズアップされてくるはず、とても楽しみな1年です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

1月21日

男と女 Two Hearts Two Voices
稲垣潤一
ユニバーサル・ミュージック
/UICZ-4187

先日のエリック・マーティンのところで少し触れた、稲垣潤一のカバー集です。なんとも刺激的でうらやましいジャケットですが、もちろんこれは、このアルバムが単なるカバー集ではなく、全てのトラックが女性ヴォーカリストとのデュエットとなっている、というコンセプトのあらわれです。しかも、収録されている11曲全ての相方が異なるという、超うらやましいラインナップ、稲垣さんって、そんなにモテたんですね。あの顔で。
その11人が、松浦亜弥をのぞいては、いずれも今のシーンからはちょっと距離を置いたところにいる人ばかり、というあたりに、なんとも微妙なものを感じないわけにはいきません。いや、そんなことを言えば、稲垣さんだって今ではクリスマス以外で注目されることなど、殆どないようなアーティストなのかもしれませんが。
正直、稲垣さんの歌自体には、それほどの魅力があるわけではありません。ソロとしての声に、惹きつけられるものが殆どないのですよ。同じような感じの声である小田和正にはあって稲垣さんにはないもの、それは声自体が放つ存在感ではないでしょうか。
ところが、そんな存在感の希薄な声が、他の人の声と混じり合ったときには、なんとも言えぬ美しい響きをもたらすのですね。単体で存在しているときにはあるのかないのか分からない窒素ガスが、酸素や炭素と結び付いたときにとてつもない破壊力を持つダイナマイトに変貌するようなものでしょうか。
そんな素材の良さを最大限に発揮しているアレンジのコンセプトは、「男」と「女」が、全く対等にパートを分担している、というものでしょう。お互いがそれぞれソロを歌い、ハモリに入ったときにもメロディとハーモニーは同じ長さの分担、そのハーモニーも上に付けたり下に付けたりと、さまざまなパターンが1曲の中に用意されているという、幅広いヴァラエティ、さまざまな面から二人の声を楽しめるような工夫がなされています。時にはシンガーの声に合わせて、パートが変わる部分で大胆な転調を行うこともいといません。ほんと、2小節ごとにメロディパートが入れ替わるなどという大胆なこともやっている、すごいアレンジもあるのですからね。
シングルカットもされている小柳ゆきとの「悲しみがとまらない」が、まず期待通りの素晴らしさでした。ノリの良いオケと相まって、小柳ゆきの歌のうまさが光るとともに、ハモリになった時の滑らかさも素敵です。小柳のソウルフルなカウンター・メロディも、花を添えています。
白鳥英美子(+娘のマイカ)との共演は、なんとほとんど「新曲」と言っても良い、竹内まりやの「人生の扉」です。オリジナルのカントリーっぽいテイストを生かしたアレンジに乗って、まりやのように深刻ぶらない、もっと爽やかな「加齢ソング」が、華麗に繰り広げられています。
意表をつかれたのは、「木綿のハンカチーフ」です。最初聴いた時には、まさか太田裕美本人が歌っているとは思えなかったのは、キーが違うのか、「♪ぼくは旅立つ」の「つ」の音がファルセットではなかったからなのかもしれません。最近の懐メロ番組で歌う時には大幅に、それこそ演歌のようなルバートが付けられていたものが、まさに原点に返ったかのようなイン・テンポ、曲と歌詞の素晴らしさが再確認出来ます。「男」と「女」の対話という松本隆の仕掛けにあえて背いた、ジェンダーを超えた歌詞と歌い手の世界が感動的に広がります。
そして、最後に控えているのが、稲垣さん自身のヒット曲というわけです。「ドラマティック・レイン」で相手を務めるのが中森明菜。彼女がこんな素晴らしいシンガーだったなんて、予想もしなかった驚きです。そう、稲垣さんの窒素原子は、相手の中にもニトロ基を生成させていたのですよ。

CD Artwork © Universal Strategic Marketing Japan

1月19日

BLAKE
Music for Piano and Strings
Madeleine Mitchell(Vn)
Howard Blake(Pf)
Jack Rothstein(Vn)
Kenneth Essex(Va)
Peter Willison(Vc)
NAXOS/8.572083


1938年生まれのイギリスの作曲家ハワード・ブレイクの名前は、あの名作アニメ映画「スノーマン」のサントラを作ったことで、広く知られているはずです。中でも、ボーイ・ソプラノによって歌われる「Walking in the Air」というナンバーは、単なる主題歌の範疇を超えて、多くのアーティストによってカバーされ、一つの「ヒット曲」としてブレイクしたのです。ケルティック・ウーマンのように、完全に独自の世界を持った作品にも変貌していますし、フルーティストのケネス・スミスのインスト・バージョンは、リサイタル用のコンサート・ピースとして使われても、なんの遜色もないものです。
ブレイクは、多くの映画音楽の作曲家のように、しっかりとしたクラシックの教育を受けた音楽家です。自身もピアニスト、あるいは指揮者としてコンサートに登場する機会もありました。故ダイアナ妃の30歳の誕生日のために委嘱されたピアノ協奏曲では、フィルハーモニア管弦楽団をバックに自らピアノ・ソロを演奏したそうです。
そのような、「二足のわらじ」を履く作曲家にありがちなのは、映画音楽と「純音楽」との間で、極端なほどスタンスを変える、というスタイルです。日本人だと池辺晋一郎あたりが分かりやすいでしょうが、映画やドラマであれ程平明な分かりやすい音楽を書いている人が、「交響曲」になったとたん、なんとも深刻で、眉間にしわを寄せなければ聴いていられないようなものを作るのですから、その落差には驚かされます。そこからは、いかに本人が否定しようが「クラシックこそが、自分の本当の姿」みたいな鼻持ちならない姿勢がまざまざと見えてくるのです。
しかし、このCDを聴くと、ブレイクの中にはそんな「垣根」などは全く存在していないことに、気づかされます。ヴァイオリン・ソナタやピアノ四重奏といった、もろ「クラシック」というステージで彼が作り上げた音楽からは、まさに「スノーマン」そのもののテイストが感じられるのですから。
それが端的に感じられるのが、ヴァイオリン・ソナタでしょう。第1楽章のテーマは、低音が半音ずつ下がっていくという「クリシェ」の手法や、シンコペーションがポップな味を出しています。第2楽章では、マイナー・キーで「泣き」を誘い、第3楽章ではまさに「スノーマン」の中での「スノーマンのダンス」と同じ種類の音楽が鳴り響きます。
同様に、1974年に作曲した当時に録音したメンバーが、今回のセッションに全員集合したというピアノ四重奏曲は、とても「現代」に生きる作曲家とは思えないほどの、誰しもが共鳴出来る素敵なメロディと、浮き立つようなリズムを持った素晴らしい作品です。アレグロ、スケルツォ、レント、アレグロという古典的な4楽章構成となっていますが、それはまさに「名曲」と同義語の「古典」の響きに支配されたものでした。ピアノがメロディを歌う時のトリルなどは、まるでシューベルトの「鱒」のように聞こえてはこないでしょうか。スケルツォの間に挟まるトリオの流麗なこと。レントには、とても穏やかな「癒し」に近いものも現れますし、終楽章にはメンバーそれぞれを立てようという対位法までが登場するというほほえましさです。
ただ、いかにもポップス寄りのように思えてしまう「ジャズ・ダンス」というヴァイオリンとピアノのための組曲は、逆に変なこだわりのため、タイトルとは裏腹に頭でっかちの作品のように思えてしまいます。特に前半に多用される変拍子が、とても居心地の悪いものでした。ブレイクだったら、もっと親しみやすい曲が作れるはずのこういうスタイルの方が窮屈なものになっているというのが、ちょっと面白いところです。そんなあたりを、こちらで確かめてみては。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

1月17日

MAHLER
Symphony No.2
Elena Mosuc(Sop)
Zlata Bulycheva(MS)
Valery Gergiev/
London Symphony Chorus & Orchestra
LSO LIVE/LSO0666(hybrid SACD)


ゲルギエフとロンドン交響楽団のマーラー・ツィクルスも、順調にリリースが進んでいるようですね。ところで、この一連のSACDのジャケットを彩る雷のような画像は、なかなか印象的なものではないでしょうか。コンピューターで作ったのか、あるいは実際の放電を撮影したのかは分かりませんが、このコンビの刺激的な演奏を、まさに象徴するようなインパクトを与えてくれるものです。最初、この「雷」はアイテムごとに別なものを使っているのだと思っていました。それぞれの「数字」との絡まり具合が微妙に異なっていて、独特の個性を出していますからね。しかし、結構たまってきたこれらのジャケットを眺めていると、その「雷」はすべて同じものであることが分かってしまいましたよ。向きを変えたり、あるいは裏焼きにしたりと、変化は付けてはいますが、元になった画像は全く一緒なのですね。だからどうだと言われそうですが、「発見」したことはみんなに教えたくなるという性分なものですから。
そんな、今までに聴いてきた彼らの録音は、なにか引っかかるものがあって、全面的にその演奏にのめり込むことが出来なかったような気がします。しかし、今回の「2番」では、かなり素直に彼らの音楽を受け入れることが出来ました。それは、演奏する側と聴く側双方が、次第にゲルギエフのやり方に「慣れて」来たからなのでしょうか。聴き終わったときの充実感は、今までのものではあまり感じられないものでした。
第1楽章では、提示部の第2主題、ヴァイオリンで上昇する夢見るようなテーマが、それまでの「熱い」流れとは一線を画して、極めて寒々しい面持ちとなっていたことに、ちょっとしたショックを与えられたものです。ブーレーズを気取って、クールに決めたのかな、と。しかし、その同じテーマが展開部で現れたときには、どうでしょう、もちろん調も変わっていますが、そのたっぷりした歌い方は最初に出会ったときにつれなかった分、とびきりの喜びを与えてくれるものでした。マーラーがこのあたりには執拗にグリッサンドを指示したことが頷けるような、心憎い演出です。
第2楽章は、やはりグリッサンドが粋に感じられる、たっぷりとした「ダンス」が楽しめます。ソロ奏者たちにも伸び伸びと演奏させているのも、良く分かります。中でもフルート・ソロはとても素晴らしい音色と、まさに「粋」なフレージングが、とても魅力的です。
第3楽章では、一転して引き締まったテンポで緊張感あふれる音楽になります。一見のどかなテーマが、実はかなりのアイロニーを含んだ恐ろしいものであることも、そんなテンポの中では容易に感じ取ることが出来るはずです。
メゾ・ソプラノのソロが入った第4楽章では、ゲルギエフの手兵、マリンスキー劇場のブルィチェワが、スケールの大きな歌を聴かせてくれています。ゲルギエフは、その歌を暖かく包み込むような優しさを見せてはいないでしょうか。
そして、さまざまなシーンが交錯する第5楽章こそは、ゲルギエフの本領発揮の場です。まるで映画監督のように、それぞれの場面を手際よく届けてくれる姿は、見ていて(聴いていて)胸がすくような思いです。オーケストラもそれに応えて、見事に的確な演奏を披露してくれています。ただ、ソプラノのモシュクに今ひとつの精度が欠けているのが、惜しまれます。それと、決して悪くはないのですが、合唱にこのようなシーンにふさわしい緊張感のようなものがもう少し備わって入れば、さらに素晴らしいものになったことでしょう。
2枚組のSACDで、余白に10番のアダージョが収録されているのが、お買い得。木を切ってますね(それは「与作」)。あまり粘らないあっさり感が素敵です。しかし、この演奏から「トリスタン」の第3幕が連想されてしまったのは、なぜなのでしょうか。

CD Artwork © LSO Live (UK)

1月15日

TORMIS
Works for Men's Voices
Sofia Söderberg Eberhard/
Svanholm Singers
TOCCATA/TOCC 0073


あるいは「男声合唱」と言われて連想するものによって、その人の音楽的なバックグラウンドや、感受性の「ツボ」などが分かってしまうのかもしれません。ある人は、ロシアの広大な大地を思い起こさせるような力強いベースの響きと、叫びまくるテナーの咆哮といった、まさに「体育会系」のイメージを抱くことでしょうし、またある人は、男声だけで編成されていることによって生まれる、えも言われぬピュアなサウンド、まるで大聖堂の中で響き渡るような豊かな倍音の世界を思い浮かべることでしょう。逆に言えば、それほどまでに、「逞しさ」から「繊細さ」までの幅広い嗜好をカバーしているのが、男声合唱というものなのです。
もちろん、一つの団体でそれだけの幅広い属性をそなえることなどは、不可能であるに違いありません。「逞しさ」は、時として「粗野」につながるもので、「繊細」からはまさに対極に位置するものなのですからね。しかし、まれにそんな奇跡のような表現力を持っている男声合唱団に出会えないとも限りません。例えば、スウェーデンの名門、「オルフェイ・ドレンガー」などは、ほとんどその条件を満たした合唱団のように思えます。彼らが日本公演で披露してくれた武満の「小さな空」は、まさに男声合唱にはあるまじき繊細さを持っていました。ただ、一方で間宮芳生の「コンポジション」で見せてくれた「粗野さ」も、かなりのものではあったものの、もうひとふんばりの弾けぐあいが欲しかったのは、事実です。
同じスウェーデンの男声合唱団「スヴァンホルム・シンガーズ」は、もしかしたらそんな「奇跡」を現実のものにしている希有な団体なのかもしれません。1998年、往年の名テノール、セット・スヴァンホルムの娘エヴァ・スヴァンホルム・ブーリーンによって創設された20人ほどの若いメンバーから成るこの合唱団は、2001年から指揮を引き継いだソフィア・ソダーベルク・エバーハルトの下で、殆ど理想的と言って良いほどの男声合唱団に成長したことが、このCDから分かるはずです。
このアルバムは、エストニアの雄、ヴェリヨ・トルミスの作品を集めたものです。確かに鳥の巣のようなヒゲですね。合唱曲の分野で幅広い曲を作っているトルミスですが、ここではなんとトルミス自身がシャーマン・ドラムの演奏で参加しています。それが、元々は混声合唱のための作品だった「鉄を呪え」の、男声バージョン(これが、世界初録音)です。その、まるで原始宗教の典礼のような重々しい響きのドラムに導かれて、深遠な世界を持つ歌詞(「鉄」は「武器」のメタファー)が、あたかも呪文のように歌われるさまの、なんと「粗野」なことでしょう。オルフ風のオスティナートに乗ったその合唱は、時には囁き、時には叫びとなって、確かな「力」を放っているのです。そして、その対極のテイストを存分に味わえるのが、そもそもキングズ・シンガーズという洗練されたグループのために作られた「司祭と異教徒」です。まさに、中世の教会で響いていたであろうサウンドの模倣、ここで聴くことの出来るパートの違いを感じさせない均質な音色は驚異的です。
このジャケット写真(ミニスカート姿の指揮者のかわいいこと)が東京オペラシティのステージであることからも分かるとおり、彼らは何度となく日本を訪れてきました。その演奏に接する機会のあった人たちはすでに彼らの魅力に気づいていたのでしょうが、あいにく録音として世に出ていたものはごく狭い販路での流通にとどまっていたために、それが広く知られることは殆どありませんでした。しかし、2007年にリリースされたこのCDは、注文さえすれば確実に入手出来るレーベルのものですので、実際にこの「奇跡」を体験することは造作もないことです。もっとも、聴くだけでしたらこちらでもOKですが。

CD Artwork © Toccata Classics, London

1月13日

Air
Yolanda Kondonassis(Hp)
Joshua Smith(Fl)
Cynthia Phelps(va)
Bridget-Michaele Reischl/
Oberlin 21
TELARC/CD-80694


ドビュッシーと武満徹の作品をカップリングした、という、ちょっと面白い企画のアルバムです。そのどちらの作曲家も偏愛していたハープとフルートという楽器が中心になっているところも、魅力的です。演奏しているのは、このレーベルで多くのソロアルバムを出しているハープのヨランダ・コンドナシスと、クリーヴランド管弦楽団の首席フルート奏者ジョシュア・スミスです。
武満の作風の中に、ドビュッシーやメシアンと同質のテイストを見いだすのはそんなに難しいことではありません。彼自身、フランス人の作る音楽にシンパシーを見せていたことはよく知られていますし、彼が使ったピアノには「フランス語の鼻母音の響きがある」と言ったのも、彼自身ではなかったでしょうか(それの受け売りが、高橋悠治でしたっけ)。実際に、彼の作品の中には明らかにドビュッシーに対するオマージュと受け止めるべきものがいくつか存在しています(もちろん、メシアンに対するものも)。そんな曲のうちの「エア」と、「そして、それが風であることを知った」の2曲が、それぞれの「元ネタ」と一緒に演奏されている、というのが、このアルバムの一つのポイントとなるのでしょう。
武満の最後の作品となった、独奏フルートのための「エア」は、晩年の彼の作風を反映して、極めてリリカルな面を持っています。同じ楽器のための作品でも、「ヴォイス」などが持っていた前衛性などはすっかり影を潜め、息の長い瞑想的な音の流れが原初的な音楽としての「うた」を紡いでいます。そんなコンセプトの源を、ドビュッシーの名曲「シランクス」に求めるのは容易なことです。そこで繰り広げられる、とても1本のフルートだけとは思えないような大きな世界は、ともに魅力的な力を放っています。
「そして、〜」の場合は、フルート、ハープ、ヴィオラという特異な編成から、ドビュッシーの「ソナタ」の継承であることは明白です。こちらには、テーマそのものの借用など、そのつながりはさらに強まっている印象を与えられることでしょう。もちろん、ドビュッシーの持っていたオリエンタルなたたずまいや、かなり大きなダイナミック・レンジの広さなどが、武満ではもう少し内に秘めた繊細さに変わっているというのは、当然のことです。
しかし、このアルバムで感じられるのは、そのような個々の作品の相違点よりは、全体に漂う言いしれぬ甘ったるさです。まず、フルートが入っていない、ハープと弦楽合奏という編成の「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」が、そのようなトータルイメージの牽引役としていとも甘美な音色で迫ってきます。ハープという楽器が、これほどまでにまろやかで暖かい響きに録音されているのは驚異的ですが、それを取り巻くストリングスのなんというソフトな肌触り。
武満の「海へII」は、それと対をなす意味でのエントリーなのでしょう。しかし、元々アルトフルートとギターという緊張感をはらんだ編成のための曲が、ギターの代わりにハープ、そしてそこに弦楽合奏が加わったときに、これほどまでに「甘い」ものに変貌するのは驚くべきことです。そのような印象は、ひたすら美しく歌い込む弦楽器と、特殊奏法を敢えて無視して口当たりの良い滑らかな音色にこだわるフルーティストから与えられたものなのでしょう。この曲を聴いて、弦楽器が邪魔だと感じられたことなど、初めての体験です。
ドビュッシーの「ソナタ」などからは、フルートのスミスの柔らかい音色と相まって、とびきりの癒し感が与えられます。それはフランス音楽の持つエスプリとは無縁なもの、ドビュッシーはともかく、武満までもがこれほどまでに和む、殆どバックグラウンドミュージックとして聴いても何ら違和感のない音楽になりうることなど、前世紀にはとても想像出来なかったことでしょう。「現代音楽」の全盛期は、とっくに終わっています。

CD Artwork © Telarc International

1月11日

SIXTEN
En svensk Markuspassion
Jeanette Köhn(Sop)
Jesper Taube(Bas)
Ragnar Bohlin/
Maria Magdalena Motettkör
CAPRICE/CAP 21803


1962年生まれのスウェーデンの作曲家、フレドリク・シクステンが作った「スウェーデン語によるマルコ受難曲」の、世界初録音です。その名の通り、曲のテキストは新約聖書のマルコ福音書のスウェーデン語訳、さらに、その間で歌われるコラールも、ベンクト・ポホヤネンという、1944年生まれの詩人によって作られたスウェーデン語のものとなっています。島根県の名産ですね(それは「シジミ」)。そんな「スウェーデン語」一色の曲だから、というわけではないのでしょうが、このスウェーデンのレーベルのCDでは、ライナーノーツも全てスウェーデン語という徹底した姿勢が示されているのです。したがって、作曲家自身による解説もスウェーデン語、英語ならなんとか読み書き出来ても、そんな北欧の言語など全く縁がないという我々日本人にとっては、ちょっと辛い仕様です。せめてテキストぐらい、英語の対訳がついていれば、と思うのですが、これもスウェーデン語だけ、まあ、普段受難曲を聴きなれている人でしたら大まかな流れは分かるでしょうし、時折「ペトロ」とか「ピラト」といった単語が断片的に聞こえてきますから、それほどの支障はないのかもしれませんが、オリジナルのコラールには、もはやお手上げです。
曲の構成は最初と最後に、少し長めの合唱(これには児童合唱も加わります)がセットされていて、いわば全体の「額縁」といった趣となっています。型どおりの福音書の朗読が、レシタティーヴォやアリオーソあるいは合唱によって音楽的に進む中、要所要所に全部で11曲のコラールが挿入されます。ただバッハの曲などに見られるような、ソリストによるアリアなどは全くありません。ですから、外見上はまるでシュッツあたりの作品のような、極めてストイックなものとなっています。演奏時間はほぼ1時間、凝縮されたそんな構成による、あまり長すぎないものです。
演奏者は、ちょっと意外なソプラノによるエヴァンゲリスト、そしてイエス役のバス歌手の二人が物語を進行させます。そこに合唱も加わり、室内楽の伴奏が入ります。その楽器編成がちょっと変わったもので、弦楽四重奏にコントラバスが2本加わった弦パートに、1本のオーボエ、2本のファゴット、そしてオルガンが入るという、低音楽器が異常に多い不思議な編成です。
冒頭の合唱が、そんな楽器編成の暗い音色をめいっぱい披露してくれるものであったのは、ある意味予想出来たことでした。しかも、その曲はまさにバッハ風の「パッサカリア」、執拗に繰り返される低音に乗って、テーマが延々と変奏されるというものですから、「暗さ」はさらに募ります。しかし、よく聴いてみると、そのテーマにしても変奏にしても、どこか北欧的な素朴な旋法に支配されていることに気づきます。
その合唱が終わり、レシタティーヴォが始まると、そんな思いはさらに強まります。それは、「レシタティーヴォ」と言われて思い浮かべるようなある種無機的なものではなく、まるで北欧の民謡のようなテイストを持っていたのですからね。曲の大半を占めるエヴァンゲリストのレシタティーヴォを、なぜソプラノ歌手に託したのか、その意味が良く理解出来るような、それは優しさに満ちた、耳に心地よいものでした。それを歌っているケーンという人が、とても柔らかな声と滑らかな歌い方の持ち主であったことも、そんな印象を強く与えられた要因なのでしょう。
そうなってくれば、合唱によるコラールがどんなものかは、自ずと想像がつくことでしょう。それは、まさにスウェーデンの民謡を編曲した合唱曲のように聞こえてくる親しみやすいものでした。そう、これはまさに、非常に分かりやすいスウェーデン人によるスウェーデン人のための「受難曲」だったのです。それなら、英語のライナーなどは必要ありませんね。

CD Artwork © Caprice Records (Sweden)

1月9日

クラシック新定番 100100
林田直樹著
アスキー・メディアワークス刊(アスキー新書
089
ISBN978-4-04-867512-3


先日テレビを見ていたら、「クラシック」の番組にゲストで出演していたのが、「クラシック」の愛好家であるというさる著名人でした。しかし、その方の興味の対象はもっぱら「ブルーノ・ワルター」あたりで止まってしまっているようで、その番組のテーマである「ダニエル・バレンボイム」などという人の名前は聞いたこともないというのには驚いてしまいました。おそらく、その方にとっての「クラシック」とは、そのワルターがレパートリーとしていたいわゆる「古典派」や「ロマン派」の音楽がすべてなのでしょうね。その方の中では、「古楽」や「現代音楽」といったものは、「クラシック」とは全く別の範疇の音楽であるに違いありません。もちろん、ワルターにとってマーラーがバリバリの「現代音楽」であったことなど、彼には思い及ばないはずです。
いや、「クラシック愛好家」と言われている人たちの多くは、実はこの方と同じような嗜好の持ち主なのではないでしょうか。それは、別に悪いことでもなんでもはありません。現に、そのような人たちを導く立場にあるはずの「評論家」でさえも、例えば「古楽」とか、極端な場合は「古楽風の演奏」さえも認めないという強い意志を貫き通してらっしゃることもあるのですからね。
そんな、もしかしたら「クラシック」とはバッハから始まったほんの200年足らずの間の音楽だと今でも信じている(信じさせられている)人にとっては、ここで扱われている100人の作曲家の生年のスパンが450年にも及んでいることが、まず信じがたいものに違いありません。しかし、そんな未知の作曲家の名前に直面しても、何もおびえることはありません。林田さんの、それぞれの作曲家に寄せる眼差しは、決して「評論家」にありがちな教条的なものではないからです。林田さんは、あるときは自らの体験を語ったり、またあるときは音楽とは全く無関係に見えるエピソードを披露したりと、さまざまな手法でその作曲家が林田さんにとってどれだけ大切なものであるかを「告白」してくれているのです。
そう、これはまさに、とぎすまされた感受性を持ったジャーナリストの「信条告白」に他なりません。そして、そこで語られる体験の数々は、まさに林田さんの今までの仕事の根幹をなすものであったはずです。特別なことがなければ接することなど出来ないような「巨匠」たちと直に接する機会を多く持てた立場にあったことは、彼にとっては何にも代え難い財産だったに違いありません。スメタナの項で登場するクーベリックなどが、その生々しい実例、その指揮者の知られざる素顔を紹介するだけで、すべてのものを語っています。もちろん、多くの参考文献による、客観的なデータも満載です。それを裏付ける、巻末5ページにわたる膨大なリストには、圧倒されます。
これだけ長期の時代にわたる作曲家の紹介で、林田さんが心がけたのが、すべての人を同等の価値観で扱う、ということだったのでしょう。それぞれに割かれた紙面は、3ページから4ページだけ、ごく希に5ページなどとつい語りすぎているものもありますが、どんなマイナーな作曲家であっても、その作品は超有名な人のものと変わらない、という姿勢には惹かれます。また、「ワーグナーのオペラでは、悪役が面白い」といったように、オペラ関係の記述でハッとさせられるようなユニークな視点が見られますが、そういえば、林田さんは以前こんな本(共著)も出されていましたね。
この中で紹介されている曲を、そのまま聴くことが出来るサイトが用意されているというのも、ネット社会ならではの配慮です。エレベーターには乗せないようにしましょう(それは「ペット」)。旧弊にとらわれることなく、「クラシック」のさらなる沃野に分け入りたいと思っている人にとっては、これは恰好のガイドとなることでしょう。

1月7日

STRAUSS
Der Rosenkavalier
Anne Schwanewilms(Marschallin)
Kurt Rydl(Baron Ochs)
Anke Vondung(Octavian)
森麻季(Sophie)
Uwe-Eric Laufenberg(Dir) 
Fabio Luisi/
Sächsische Staatskapelle Dresden
MEDICI ARTS/20 56918(DVD), 20 56914(BD)


200711月に行われたザクセン州立歌劇場の日本公演の模様を収録したNHKの映像が、DVDと、そしてブルーレイ・ディスクによってリリースになりました。この歌劇場は一般にはゼンパー・オーパー、あるいはドレスデン国立歌劇場と呼ばれているところで、2006年の大洪水で、衣装が使い物にならなくなりました(ドレス、出ん)?もちろん、これは以前にそのNHKのハイビジョンによって放送されたものと全く同じ内容です。あ、とは言っても、放送の時のあのげんなりするような悪趣味な解説は入ってはいませんから、ご安心を。
ラウフェンベルクの演出は、例えば非常に有名なクライバーの映像などで見ることが出来るオットー・シェンクあたりに代表されるような、貴族社会の豪華絢爛さをそなえたものではありません。時代設定もかなり現代に近いところに置き換えてありますから、なによりもそんなハイソな、ちょっと堅苦しい作法に支配された人間ではない、もっと生身のリアリティが伝わってくるものに変わっています。
その中で、最も輝きを見せているのが、シュヴァンネヴィルムスの元帥夫人ということになるのでしょうか。なんでも、当初予定されていたアンゲラ・デノケが病気で来日出来なくなったための急遽の代役だったそうですが、彼女は見事にその大役を果たすだけではなく、ひょっとしたらデノケよりももっと魅力的なマリー・テレーズを見せてくれていたのではないでしょうか。この人のルックスから連想したのが、「デスパレートな妻たち」というアメリカのテレビドラマに出てくるブリーというキャラ、あんな現代的な、それでいてちょっとタカビーなところを見せる、シャープなマスクに、惹かれました。声も、本当は若いはずのこの役にふさわしい、守りに入っていない力強さを持つものでした。ですから、大詰めに見せる諦念のようなものも、ありがちな深刻さではなく、もう少し前向きの意志まで感じられるものとなっているのではないでしょうか。
さらに、それこそシェンクのような演出では間違いなく嫌われキャラとなって浮き上がってしまうはずのオックスが、ここではいくら粗野な振る舞いをしようが笑って許されるという、おいしい役どころに変わっています。そこでのリドルが、まるで水を得た魚のような生き生きと振る舞っているものですから、とても楽しめます。やんちゃなオックスが次は何をやってくれるのか、そんな思いで眺めていられるのですね。
オクタヴィアンのフォンドゥンクも、とても素晴らしいものでした。第1幕の前奏曲の間に、愛人同士がまず衣服を脱いでベッドに入るところから演じる、というのがこの演出のリアリティを象徴するような場面なのですが、そこでの彼女はまさに「男」になりきっています。
そんな、全てがこの演出の中で必然と感じられる中にあって、ゾフィーに森麻季のようなシロートがキャスティングされていたのは、いったいなぜなのでしょう。例えば、群衆の中の1人ですら、それぞれがしっかり意味のある演技をしているというのに、彼女だけは全くその場にそぐわない、まるで学芸会のような稚拙な振る舞いを見せていたことが、何度あったことでしょう。歌っていない時の、まるでやり場がないような投げやりな態度は最悪です。その歌も、響きがしばらくしてから乗ってくるというおかしなエンヴェロープを持つものですから、最後の聴かせどころ、フォンドゥンクとのデュエットでは、聴くも無惨な醜態をさらしています。決して安くはない入場料を払って聴きに行ったお客さんであれば、こんなキャスティングに憤りを感じないはずはありません。なんでも、カーテンコールでは彼女に対するブーイングも出ていたそうですね(映像でも、それらしいものが確認出来ます)。もっともです。
オーケストラは、さすが、隙のないところを見せてくれています。しかし、ルイージの指揮には、たびたび引き合いに出しているクライバーのようなしなやかさはありません。

DVD Artwork © Medici Arts

おとといのおやぢに会える、か。


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