情事が、死因。.... 佐久間學

(05/8/1-05/8/19)

Blog Version


8月19日

WAGNER
Preludes
Jane Eaglen(Sop)
Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2


ノリントンの10年ほど前の録音が2点、2枚合わせてロープライス1枚分(1390円)というお得な値段で再発になりました。オリジナル楽器によるワーグナーとブルックナーという、発表当時は「ついにここまで!」と話題になった注目アイテムです。
ワーグナーが録音されたのが1994年(ブルックナーは1995年)、1978年にノリントンによって作られたロンドン・クラシカル・プレイヤーズの、これは最後期の録音になるのでしょうか。この後、ノリントンが1998年にモダン・オーケストラであるシュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者に就任したのに伴い、このオーケストラも解散、同じオリジナル楽器のオーケストラ、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団に吸収されてしまいます。
それまでにブラームスの交響曲までもオリジナル楽器で演奏、録音を終えていたノリントンにしてみれば、その方法論がワーグナーにまでたどり着くのは、ごく自然の流れだったことでしょう。そのあたりの意気込み、10年前にリアルタイムで聴くことがなかったこのアルバムから、遅ればせながら感じてみたいものです。
1曲目は「リエンツィ」序曲。これは、冒頭のトランペットのソロで、すでに「オリジナル」の世界へ入り込むことが出来ます。それはモダンオケからは決して聴くことの出来ない渋い音色です。それに続く木管が、やはりオリジナル特有の音程の悪さ、これはいかんともしがたいことなのでしょうか。しかし、ノリントンの持つ楽天的なグルーヴはこのような曲では存分に発揮され、最後の打楽器がたくさん加わるあたりではまさにノリノリントンの楽しさが伝わってきます。
ただ、このグルーヴは、次の「トリスタン」ではやや異質なものに感じられてしまいます。「前奏曲」のあまりの淡泊さ、奏法に起因するのでしょうか、「溜め」のない性急なフレーズの運びは、粘着質のワーグナーを至上のものと感じている向きからは、反発を食らうことでしょう。それは、「愛の死」では、イーグレンの圧倒的な歌に隠れて、それほど表に出ることはないのですが。
「マイスタージンガー」も、その「軽さ」といったら、殆ど爆笑ものです。しかし、ここで笑いが生まれるのは、いかに今まで「重苦しい」ワーグナーが世を席巻していたか、という証でもあるわけで、これはこれで、この「喜劇」の一面を表している解釈ではあるでしょうね。そこへ行くと、「ジークフリート牧歌」も、「パルジファル」前奏曲も、その「軽さ」は違和感を覚えるほどのものではありません。逆に「パルジファル」で、最後に冒頭のテーマが戻ってくる箇所の低弦のトレモロなどは、不気味さから言ったらちょっと捨てがたい味、その前後の緊張感も思わず引き込まれるものがあります。
10年後、この前奏曲をシュトゥットガルトで録音した時には、例えば木管の音程などの機能的な面は飛躍的に改善されていた反面、この緊張感はすっぽりとどこかへ行ってしまっていました。その結果「軽さ」がさらに募っているのは(演奏時間が1分以上短くなっています)、このアルバムでの他の曲の方向性を見ればある程度予想されたことなのでしょう。彼がワーグナーから最終的にどんな音楽を引き出したかったのか、快調に疾走する「ローエングリン」の第3幕の前奏曲は、その端的な回答なのかもしれません。

8月17日

MOZART, SÜSSMAYR
Requiem
Anton Armstrong,
Andreas Delfs/
St Olaf Choir and Orchestra
St Paul Chamber Orchestra
AVIE/AV 0047(hybrid SACD)


フランツ・クサヴァ・ジュスマイヤーという名前は、モーツァルトの未完のレクイエムを補筆、完成させた人物としてのみ、音楽史に残っています。しかも、そこには決して後生の人を満足させるような仕事をした人としてではなく、突っ込みどころの多いその成果に対して、いかに他の人が異議を唱えたか、さらには、いかに別の補筆を行う余地を残していたかという議論がついて回ります。
重要なのは、「Sanctus」や「Benedictus」などは、モーツァルトのオリジナルではなく、ジュスマイヤーが自らの裁量で「作曲」したという事実です。ですから、そこに不純なものを認めたモーンダーあたりは、この部分を丸ごとカットするという思い切ったことも行っています。しかし、曲がりなりにもこのジュスマイヤーの「版」で200年以上も演奏が続けられていれば、厳密に考えれば他人の作品でも、いつの間にかモーツァルトのものとして違和感が覚えられないほどのものになってしまっているのも、また別の事実なのです。現に「Benedictus」の持つある種優雅なたたずまいは、モーツァルトを始めとするこの時代の作曲者の表現の一つの「型」を見事に作品にしたものだとは感じられませんか?
そんなジュスマイヤーの、「自作」のレクイエムというものが、あったそうなのです。この録音のプロデューサーであるマルコム・ブルーノという人が「発見」したものだそうで、もちろん、これが初めての録音になります。ただ、なぜか、実際の演奏にあたってはこのプロデューサーによって「Sequenz」が2つに分けられて、その間に「Offertorium」が挟みこまれ、さらにそれぞれの楽章で大幅なカットが行われています。なぜ、そのような措置を執ったのかは、この曲の作られ方を見ればある程度納得は出来るでしょう。まず特徴的なのは、テキストがラテン語ではなく、それをドイツ語に訳したもの、しかもかなり自由に韻を踏んだ「歌」の形に直されているということです(「Dies irae」が「Am Tags des Zorns」なんてなっているのは、ちょっと馴染めませんね)。そして、どの楽章も有節歌曲、つまり「1番」、「2番」といった同じ形の短い「歌」の繰り返しになっているのです。そうなってくると、「Sequenz」では同じメロディーの「歌」を8回も繰り返し聴かなければならないことになり、それではあまりに冗漫だということで、ブルーノはそれを半分カットし、前後に分けるということで、演奏会での鑑賞に堪えるものにしたというのです。そんなわけですから、この曲全体でも、聴けるのは小さな「歌」の繰り返し、いわゆる「レクイエム」から想像される、多くの場面を持つ起伏の大きい音楽といった側面は全く期待できません。
どの楽章を取ってみてもその「歌」のテイストは全く同じものに感じられます。そう、そこには、あの「モーツァルト」の「Benedictus」、あるいは「Lacrimosa」の後半と極めて共通性を持つ世界が広がっているのです。それは、18世紀末のウィーンの香りがあふれている音楽、もちろんモーツァルトその人の中にも確かに存在していた音楽には違いありません。だからこそ、それがモーツァルトのオリジナルの中にあっても特に違和感を抱かれることはなかったのでしょう。
モーツァルトのレクイエムの中でジュスマイヤーが担当したパートは、彼の感性とスキルで充分にその存在を主張できるものでした。しかし、一つの「ミサ曲」を作りあげるためには、それだけではない、もっと他の才能も必要になってくる、そんなことが、このアルバムを聴くとまざまざと分かってきます。
そして、カップリング(というか、こちらがメイン)が、そのモーツァルトの作品です。心なしか「Benedictus」での表現が濃いな、と感じるのは、やはりジュスマイヤーの仕事に積極的な意味を見出そうとしている演奏家の姿勢のせいなのでしょうか。本当はどう思っているのか、「クサヴァ」の陰のモーツァルトに聞いてみたい気がします。

8月15日

Flautissimo
Dóra Seres(Fl)
Emese Mali(Pf)
HUNGAROTON/HCD 32299


ベルリン・フィルの首席奏者を長く務めたフルーティスト、カールハインツ・ツェラーが亡くなったそうですね。以前、彼の昔のアルバムをご紹介した時に、最近のフルーティストの粒の小ささを嘆いたことがありましたが、本当に近頃は「これぞ」という人にはお目にかかることが出来ません。
このアルバム、ミュシャをあしらったジャケットと、「World Premiere Recording」という文字に誘われて買ってしまいました。ただ、曲目はフルート関係者には馴染みのものばかり、どこが「世界初録音」なのか、という疑問は残ります。
ドーラ・シェレシュというハンガリーの若いフルーティスト、1980年生まれといいますから、まだ25才、それでハンガリー放送交響楽団の首席奏者を務めているのですから、音楽的には申し分のないものを持っているのでしょう。2001年に開催された「プラハの春国際コンクール」で1位を獲得したのを始め、その受賞歴には輝かしいものがあります。同じ年に神戸で行われた国際フルートコンクールでも2位に入賞しています。その神戸のコンクールには、このサイトではお馴染みの瀬尾和紀さんも出場、その彼でさえ6位入賞ですから、その実力は確かなものなのでしょう。さらに2003年のブダペスト国際フルートコンクールでも優勝、その時の「お祝い」ということで録音されたのが、このアルバムなのです。
確かに、その経歴からも分かるように、彼女のフルートが高い水準にあることは、最初のムーケの「フルートとパン」を聴けばよく分かります。輝かしくムラのない音色は、まず上位入賞に欠かせないものです。そして、流れるように正確なテクニック、もちろん超絶技巧を思わせる華やかさも充分に備えていることも必要でしょう。1曲目の「パンと羊飼い」は、それで軽々と乗り切ることが出来ます。しかし、2曲目の「パンと鳥たち」になると、それを超えた次元での「味」が欲しくなってきます。それは、先ほどのツェラーやゴールウェイを知っているものにとっては、この曲には絶対あって欲しいもの、つまり、この2番目のトラックで、早くも不満が噴出するという、若手フルーティストにとっては過酷な状況に陥ってしまうのです。
次のフランセの「ディヴェルティメント」では、何よりも瀬尾さんのアルバムが前に立ちはだかっています。メカニカルな面では遜色はないものの、例えば2曲目の「ノットゥルノ」あたりでは、彼女の歌い方が淡泊になっとるの、というのがもろに露呈されてしまいます。さらに、ここではピアニストのあまりの消極性も。
フェルトのソナタでは、コンディションもあるのでしょうが、リズムに乗り切れていないもたつきがちょっと気になってしまいます。これは、リーバーマンのソナタの第2楽章でも見られること、もしかしたら、これは彼女のクセなのかも知れません。それとも、ひょっとしたらランパルのまね?
結局、「世界初録音」のものなど、どこにもありませんでした。考えられるのは、これが彼女にとっての「初めての録音」ということ。これから数多くの録音を行っていくはずだから、この「初録音」は貴重なものですよ、という意味なのでしょうか。そんな意味でこの言葉を使って欲しくはありませんし、何よりもこれが「最後の録音」にならないように、祈るのみです。

8月13日

SIX
The King's Singers
SIGNUM/SIGCD056


キングズ・シンガーズの最新アルバム、タイトルの「SIX」というのが意味深ですが、これはメンバーが6人であるのと、収められている曲が6曲という意味が込められているのでしょう。それぞれの曲は3分から4分の長さ、つまり、これはいわゆる「ミニアルバム」というものですね。トータル・タイムは20分しかありません。
様々なレーベルの変遷をたどったキングズ・シンガーズ、現在はこのSIGNUMレーベルに所属、前作のジェズアルドについては「おやぢ」でも紹介したことがあります。ただ、あの時の担当者はちょっとした勘違いをしていたようですね。そのジェズアルドの真摯な演奏につい心をひかれてしまったのでしょうが、その時のライナーに載っていた「今後のリリース予定」を見て、それがキングズ・シンガーズがこれから録音するアイテムだと思ってしまったのですね。その中にはタリスの9枚組の全集なども含まれていましたから、いよいよこのグループも初心に返って、このような地味な曲をきちんと録音したりする気になったのだな、と思ったのは、無理もないことでした。
そこに、「ニューアルバム発売」のニュースが入ってきました。ついにタリスが入荷したのかな、と思ったら、それはポップス、しかもミニアルバムだというではありませんか。確かに、このところこのグループのライブ映像なども見る機会がありましたが、そんな堅苦しい曲を演奏しているような気配はありませんでした。しかも、現物を手にしてそのライナーを見ると、「Also available」として紹介されていたのは、最初に出たクリスマスアルバムとこの前のジェズアルドだけ、タリスのタの字もありません。となると、あの「予定」はいったいなんだったのでしょう。そこで、もう1度ジェズアルドのライナーを見直してみたら、それは全く別の団体の演奏のCDの紹介でした。どうやら、あのジェズアルドも彼らにしたらちょっと肌合いの異なるもの、やはり、彼らの本質的な指向性は変わってはいなかったのですね。ちょっと残念なような、それでいてホッとしたような感じでした。
そんな、いつもながらのポップス色が前面に押し出されたミニアルバム、最初の曲は、「ダウン・トゥー・ザ・リバー・トゥー・プレイ」という黒人霊歌、というよりは、ジョージ・クルーニー主演の「オー・ブラザー!」という映画の中で使われた曲。そして、2曲目がビートルズの「ブラックバード」というよりは、やはり映画の挿入歌として、ダコタ・ファニングの可愛さが光っていた「アイ・アム・サム」の中で使われていた曲、と紹介すべきなのでしょう。つまり、いずれもごく最近カバーされて大々的に露出されたもの、いわば「新曲」としてキングズ・シンガーズも歌っている、というノリなのでしょう。このあたりが、やはり現在の彼らの立場を象徴しているのだ、という感じが強くしてしまいます。しかし、続く3曲目の「ザ・ウィッシング・ツリー」という曲だけは、ちょっと趣を異にしています。彼らから委嘱を受けてジョビー・タルボットという作曲家が作った曲で、2002年の「プロムス」で演奏されたといいますから、一応は「現代音楽」、確かにユニークな和声と、テキストの扱いには独特の世界があります。しかし、それでも底にあるのはポップ・ミュージックのテイスト、事実、タルボットという人は「ディヴァイン・コメディ」というロック・グループのメンバーでもあった人ですから、それも頷けることです。
いずれにしても、曇りのないハーモニーで軽やかに歌い上げるという彼らの特質は、ここでも充分に発揮されています。ただ、それをポップスとして楽しむには、あまりにも洗練されすぎている、というのが、いつもながらの彼らの限界なのですが。

8月11日

のだめカンタービレ
Selection CD Book
Various Artists
講談社刊(ISBN4-06-364646-7)

2年以上前の「おやぢの部屋」でこのマンガをご紹介した時には、「ブレイク寸前」とは言ってみたものの、まさかここまで「ブレイク」してしまうなどとは思いだにもしませんでした。今や、新しい単行本が出れば平積みで一番目立つところに並べられますし、コミック・チャートのベストテン入りは常に約束されているという、まさに大ベストセラーになってしまったのですから。そうなってくると、ここで舞台となっている「クラシック」の人たちの反応が注目されてきます。その端的なものが、先日のNHK教育の「芸術劇場」。この、長い歴史を持つ権威ある番組で、このマンガが紹介されるに及んで、もはや一つの作品の枠を超えたところでの「のだめ」ブランドの一人歩きが始まったのです。「ブレイクしたマンガで使われた音楽だから、ブレイクするに違いない」と言う、クラシック関係者の大いなる勘違いを道連れにして。
実は、このような打算に基づいた商品は、以前にも企画されていました。2003年の9月に「限定盤」として発売されたこのCDです。
東芝EMI/TOCP-67266

もちろん、「マンガの中で使われた曲を集めたサントラ盤」とは言ってみても、収録されているのはどこでも手に入る安易な音源だけ、マンガを読んで本当に聞きたいと思った珍しい曲がその中で聴けるのではないか、という「クラシック・ファン」の期待には、完璧に背いたものでした(それでも、「限定盤」ということで、現在ではプレミアが付いていますが)。
今回はCDではなくCDブックという体裁です。収録曲も前作と似たり寄ったり、今回レーベルが異なるために演奏者は異なっていますが、音的には全く魅力は感じられません。何しろ、「安い」音源を求めてリヒャルト・シュトラウスの自作自演の「ティル」などが入っているのですから。ただ、1曲だけ、見慣れない曲が収められています。海老原大作作曲「ロンド・トッカータ」。こんな曲、知ってました?初めてイギリスに行った人の曲でしょうか(「ロンドン・遠かった」)。
実は、いくらクラシックにかけては人後に落ちない「おやぢ」常連のあなたでも、この曲を聴いたことがあるはずはないのです。何しろ、この曲はこのCDブックによる演奏が「世界初演」になるという、極めて珍しいものなのですから。種明かしをしてしまえば、この曲はこのマンガに登場した「架空の曲」なのです。のだめがコンクールを受ける時の課題曲の中の1曲として、第8巻にタイトルだけが登場、そのあと第11巻でパリに留学したのだめが一人で弾いていると、同じアパルトマンの学生が「さっき弾いてた曲なに?」と聞く時に「楽譜」付きで登場します。結構難しい曲なのに、彼が初見で引いてしまったためのだめは落ち込む、というオチが付きます。その時に使われた楽譜はそこしか出来ていなかったのですが、それをきちんと8分ほどの曲として完成させ、実際の「音」として録音したものが、これなのですね。もちろん、作曲家の海老原というのも架空の人物、一応本物の作曲家が、その仕事を行っています。あいにく、私はその作曲家の名前は初めて知りましたが。
そんな、言って見れば「遊び心」が横溢したCDブック(もちろん、「佐久間学」さんのポエムも載っています)には違いありませんが、メインは今まで雑誌の表紙を飾ったイラストなどを集めたもの、この曲を聴くためだけに購入するのは、あまりお勧めできません。何しろCDの出しにくさったら、前に苦言を呈したBMGのヴェルディのレクイエムの比ではありません。

8月10日

BEETHOVEN
Symphonies 7 8 9
Michael Gielen/
Rundfunkchor Berlin
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
EUROARTS/2050667(DVD)


最近はネットラジオがおおはやり、何しろバイロイト音楽祭などの生放送が、日本にいてもリアルタイムでイロイロト聴けてしまうのですからすごいものです。パソコン(と、ネット環境)さえ持っていればたとえ「リング」全曲を聴いたとしても、そのための費用は一切かからないというのがありがたいですね。ただ、こういう放送用の音源が後になってそのままCDになったときに、普通のCDと全く変わらない価格で販売される、というのには、「なんか変」とは感じられないでしょうか。確かに、昔はレコード会社が放送局と共同制作をして、それなりに手を加えた後に製品になったものですから納得は出来るのですが、最近出ているものは放送時に使った音源と全く同じもの。ラジオを通せばタダで聴けたものに、お金を払うというのは、ちょっと間違っているのではないか、とは思いません?確かに音のクオリティの違いはあるでしょう。しかし、同じようなケースでオペラの場合でしたら、音声はCD以上、映像もDVD、あるいはそれ以上の解像度の「ハイビジョン」が「タダ」で放送されているのですよ。しかも日本語字幕付きで。
そんな割り切れない思いを抱きながらも、日本では決して放送を通して見ることの出来ないようなプログラムがDVDになったとなれば、食指は動いてしまいます。なにしろ、今回のギーレンのベートーヴェンは、正価4490円のところがキャンペーン価格で1990円、これで3曲も入っていれば、まあリーズナブルだと許す気にもなれるでしょう。
音だけではなく映像でシンフォニーを鑑賞する時には、どうしても音楽以外の要素が目に入ってしまいます。この場合も、管楽器の首席奏者の違いとか、編成の違い、使っている楽器など、さまざまなものが気になってしまい、つい演奏に浸るのがおろそかになってしまいます。7番でソロを吹いているフルート奏者は、かなりお年を召した方、しかし、どぎついアイラインを引きまくったその念入りのメークには、思わず引いてしまいます。背中を丸めて、上目遣いに指揮者を眺める仕草はまさに「老婆」、こんなものはアップにして欲しくはありません。8番と9番になると、このポジションが別の人に変わります。この人もやはりかなりのお年の女性なのですが、こちらは殆どスッピンの潔さ、楽器も木管(パウエル?)で渋く決めています。そんな風にトップが変わっただけで、オーケストラ全体の音色まで変わるということが、映像付きではよく分かること、もっと目立つティンパニが違う8番と、7、9番では、勢いが全く違っていました。面白いのは、8番だけでピストン式のトランペットを使っていること。他の曲ではロータリーでしたので、ちょっと不思議です。
そんな中で、やはりギーレンの指揮の様子がつぶさに分かるというのは大きな収穫でした。彼のあの隙のない演奏が一体どのような指揮ぶりから生み出されているのか、納得できたような気がします。決して感情に振り回されることのない冷静さの中で、必要なところだけで見せるエモーションが、非常に効果的に見えました。
彼の場合、ベーレンライター版を使ったりはしていないのですが、9番第4楽章の例のホルンの不規則なシンコペーションのところだけ、自筆稿を採用していたのが、興味深いところです。

8月8日

MOZART
Requiem
Nicholas Kraemer/
Clare College Choir, Cambridge
オーケストラ・アンサンブル金沢
ワーナーミュージック・ジャパン/
WPCS-11864

オーケストラ・アンサンブル金沢(OEKと略すのですね)がワーナーから出している自主制作盤、以前は1枚1000円(税抜き)で販売されていたのですが、いつの間にか1500円(税込み)になってしまったようですね。それでもまだ他の国内盤に比べたら低く抑えられた価格設定ではあるのですが、ちょっと残念です。
このCDのジャケットには、ライブ録音が行われた石川県立音楽堂の写真が載っています(金沢って、カナザワ県ではなく、石川県だったのですね)。一見ちょっと小振りの中ホールのようですが、実は客席数1560という堂々たる大ホール、音の良いシューボックス構造、ステージ後方にはパイプオルガンも設置されているという、全ての条件を備えた「コンサートホール」です。最近では、地方都市でもちょっと大きなところでは必ずこのようなちゃんとしたコンサートホールが建てられるようになったというのは、喜ばしい限りです。県庁所在地で、しかも政令指定都市であれば、もちろんコンサートホールがないなどということは考えられませんね(信じられないかもしれませんが、仙台市という、国際コンクールさえ開催しているという大都市には、そのようなちゃんとしたコンサートホールが存在しないのですから、笑えますね)。
今回、イギリスの指揮者ニコラス・クレーマーを客演に迎えてモーツァルトの「レクイエム」を演奏したコンサートでは、合唱団とソリストもイギリスから招いています。その合唱団というのが、ケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団、つい最近NAXOS盤でステイナーの録音を聴いたばかり、もちろん、合唱指揮はティモシー・ブラウンですから、これはひと味違った仕上がりが期待できます。そんな期待通り、これは、とても軽やかで風通しの良い「レクイエム」でした。オーケストラが指揮者のセンスにピッタリ寄り添って、決して重たくならない運びになっているのが、とても爽やかな印象を与えてくれます。そのような爽やかな風景の中で、このオーケストラの「顔」とも言うべきティンパニのオケーリーが、信じられないほど的確なビートを打ち込む様は、殆どショッキングな様相すら呈しています。その粒立ちの良い乾いた音によって、今まで聴いたことのないようなリズムが聞こえてきて、思わずスコアを見て確認する場面も。「Tuba mirum」のトロンボーンソロも完璧。ライブ録音だというのに、殆ど傷らしいものが感じられない全体の演奏は、「商品」としてのCDにはありがたいことです。
ソリストたちは、合唱とワンセットと言うことで、合唱団のメンバーとしても表記されている人たちです。ただ、この録音のほんの一月前に録音された先ほどのステイナーのライナーには名前がありませんでしたから、一応別格のソリストではあるのでしょう。それほど自己主張のない、アンサンブル重視の歌い方が、この曲によく合致しているのは言うまでもありません。
ライナーにある演奏中の写真では、合唱が左からソプラノ、テナー、バス、アルトという、面白い並び方をしているのが分かります。キリエ・フーガのような各パートが強調される場面ではなかなか効果的な並びではあるのですが、ホモフォニーではちょっと女声同士がバラバラに聞こえてしまいます。というのも、この録音でのソプラノパートのコンディションが最悪で、他のパートと音色といいフレーズ感といい、全く別物の浮き上がりかたを見せているからです。全体としてはかなり高いレベルの演奏ではあるのですが、この合唱団、本当はもっとしっとり歌えるはずなのに、と思ってしまう場面が多かったのも、ちょっと残念です。

8月5日

ATAK006
高橋悠治
ATAK/ATAK006

ATAK」というのは、そのサイト(http://atak.jp/)の情報によると、「2002年に音楽家・渋谷慶一郎とモデル・mariaによってスタートした音楽を中心としたレーベル。メンバーに空間デザイナー、ウェブデザイナー、プログラマー等を擁しその活動は多岐に渡る。」というものだそうです。そのレーベルの最新作、高橋悠治の電子音楽を集めたこのアルバムも、いかにも「デザイナー」の発想がぎっしりと詰まった仕上がりになっています。まず、カタログ番号がそのままアルバムのタイトルになっているというのが、おしゃれですね。これだけでは全くアルバムの内容は分からないよう、と言ってもしょうがありません。それで押し通すというのが、「デザイナー」の感覚なのですから。そして、ジャケットもかなりの凝りよう、というか、「凝って」いるのか「手抜き」なのかは判然としないあたりが、やはり「デザイナー」たる所以なのでしょう、緑の地に白抜きの文字がある部分は実はCDの本体、紙ジャケットを切り抜いて、そこだけを見せるというやはりおしゃれなデザインです。もちろん、ライナーノーツのような余計なものは一切なく、曲目だけを書いたタックシールが、PP袋の外側に貼ってあるだけ、ちょっとこれはなくしてしまいそうで心配ですね。そして、最大の関心事、入手経路ですが、かなり大きなショップでも店頭には置かれていないようですから、サイトから入手するのが最も確実です。
このアルバムでは、高橋悠治の最新作から、「処女作」とも言える1963年の作品までを、たっぷり聴くことが出来ます。最初の6曲が、2005年の作品、冒頭の「gs-portrait」では、なんと高橋自身の肉声を聴くことが出来ます。彼の、ちょっと媚びたような語り口は、それだけでとても魅力的です。そして、この中では英語のテキストも語られているのですが、そのブロークンぶりも彼の持ち味、クセナキスの講演会で通訳を務めた時に「Is'nt it〜」で始まる「否定疑問文」が当時の「楽壇」を賑わしたことがありますが、そんなことが懐かしく思い出されるような、そんな英語の語りです。「電子音」のパートは、決して冗長にならない、ごく切りつめられたフレーズが耳に残ります。その、ちょっと排他的なサウンドの中に、いかにも「悠治」というパーソナリティが感じられるのはなぜかと考えてみたら、これは、まさに彼の書く文章の持ち味そのものではないですか。慎重に言葉を選び、突き放すような一撃で完璧にメッセージを伝えるという彼の多くの文章にみられるテイスト、それが、この音楽と見事に符合していたのです。
1989年の作品「それと、ライラックを日向に」という、このアルバムの中では最も長い曲では、そんな、ある種無機的なものの中に、全く異なる要素を持つ部分が存在することが確認できるはずです。ここでも作曲者自身の肉声が聴けるのですが、カフカのテキストによるそのタイトルの部分が語られる時、周りの情景はとても懐かしい肉感的なものに変わります。日本語で語られる彼の言葉はとても素直で柔らかいもの、それは、変調を加えられたドイツ語の部分との、見事な対比を見せています。彼にとっては不本意かもしれませんが、ここには確かに人間の感情に背かない豊かな情感が波打っています。
そして、最後に収録されているのが、「幻の音源」とされていた1963年の「Time」という作品です。真鍋博のアニメのサントラとして作られたもの、何度もダビングを重ねたアナログテープ特有のハムやヒスノイズによって、いきなり40年前の世界に引きずり込まれ、まるで昔の白黒テレビの画面を見ているような錯覚に陥ってしまいますが、ここでの音源の選び方が、最新作と全く変わっていないことには、驚かされてしまいます。

8月3日

VERDI
Messa da Requiem
Eva Mei(Sop), Bernarda Fink(MS)
Michael Schade(Ten), Ildebrando d'Arcangelo(Bas)
Nikolaus Harnoncourt/
Arnord Schoenberg Chor
Wiener Philharmoniker
RCA/82876 61244 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34132/3(国内盤 8月24日発売予定)

しかるべき機材を使いさえすれば、SACDも、そしてサラウンドSACDも再生できるというハイブリッド仕様のSACDは、もはや完全にクラシック・ファンの間で市民権を獲得したようですね。信頼できる筋の情報ですと、何でもこのシステムを導入している人は全てのクラシック・ファンの3割を占めているのだとか、どうやら、DVDオーディオの撤退は、時間の問題のようですね(というか、まだ売ってったい?)。この注目盤も、もちろんそんなハイブリッド仕様の2枚組アルバムです。今まで2枚組の場合はデジパックになっていたものしか買ったことがありませんが、これは例の面取りをしたオールPS製、蓋の開け方にちょっとコツがいる頑丈なケースです。ところが、その蓋を開けると、2枚組の場合普通は中のトレイがヒンジで開閉できるようになっているものが、どこを探してもそんな部分が見当たりません。とりあえずCDをかけてみようと取り外したら、なんと、その下にもう1枚CDが入っているではありませんか。つまり、2枚のCDが重ねられて同じポール(と言うのかな)に刺さっていたのです。こんな使いづらいケースってありますか?1枚目をかけ終わって2枚目をセットする時、その1枚目は一体どこに置いておけばいいのでしょう。
そんな、どこか人間としての感情に欠陥のある人が作ったに違いないケースに入っていたからでもないのでしょうが、このヴェルディの「レクイエム」は、何か、普通の人間の感情からは少し離れたところで演奏されているような気がしてなりませんでした。もっとも、それはここで指揮をしているアーノンクールでは恒常的に見られる現象ですから、今さら驚くようなことではありません。ただ、比較のためにゲルギエフ盤を聴いてしまったことで、なおさらその趣が強調されて感じられた、と言うことなのかもしれません。
この曲は、ご存じのようにダイナミック・レンジが非常に広いものです。幾度となく繰り返される「Dies irae」のバスドラムの強打があるかと思えば、「Lacrymosa」の薄い弦楽器に乗ったメゾのソロのような静かな部分もあるという具合です。また、スコアを見て頂ければ、この曲には「pp」と指定された部分が思った以上に多いことに気付かれるはずですが、そんなppの部分でどれだけ緊張感のある音楽を作れるか、というのが、この曲を演奏する上での「命」と言っても差し支えありません。曲の冒頭「Requiem」が、まさにそのような音楽なのですが、この演奏では、そのppでの緊張感が、全く感じられません。そこにあるのはただの「小さい音」、さらに、ちょっとしたアクセント記号がある部分など、注意深く演奏しさえすれば身震いするほどの情感を表すことが出来るはずなのに、そこで彼がやっているのは、「アーノンクール節」の最たるものである「間の抜けたふくらまし」ですから、失笑を誘いこそすれ、感動などは生まれるはずもありません。それに続く「Te decet hymnus」という、バスから始まる合唱のカノンの生彩のないこと、「敢えて劇的な要素を廃した」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、その実体はまるで能面のように無表情な「死んだ音楽」です。「Offertorio」の中間部、テノールのシャーデが「Hostias」と心を込めてしみじみ歌ったあと、同じメロディーを歌うフルートの何と無表情なことでしょう。そう、これこそが彼の演奏の本質、曲が始まってから終わるまで、オーケストラのどのパートからも、ゲルギエフ盤を聴けばあふれるほど感じられる生命感がわき出てくることは決してありませんでした。
自宅でSACDサラウンドを体験できる人が、このCDを聴いて「Tuba mirum」でのトランペットのバンダが後ろから聞こえてきたことに感動したという話を聞きました。そんな子供だましの小細工に引っかかって、演奏の本質を見落とす人が、気の毒でなりません。

8月1日

GERSHWIN
The Work for Solo Piano
Frank Braley(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901883


ガーシュインの伝記映画「アメリカ交響楽」をご覧になったことがありますか?黒田さんの母校ではありません(それは「学習院」)。彼が亡くなってから8年後の1945年に作られたこの映画、原題は「Rhapsody in Blue」というだけあって、その、殆ど彼の代表作とされる曲の初演の模様が、一つのハイライトになっていましたね。何しろ、実際にこの曲をガーシュインに依頼し、自らのオーケストラを指揮して初演を行ったポール・ホワイトマンが「ヒムセルフ」で出演しているのですから、リアリティがあります。ただ、その場面では、かなり大人数の「シンフォニー・オーケストラ」がステージに乗っていましたが、実は初演の時の編成はピアノソロにジャズのビッグバンドだったのですから、これは決して真実の姿を伝えるものではありません。ホワイトマン本人が出演しているからといって、だまされてはいけません。
いくらジャズのバンドであれ、この初演の時のスコアすらガーシュイン自身が書いたものではなく、あのグローフェによるものだというのは、よく知られていることです。そもそも彼はショービズの世界の売れっ子作曲家、ピアノの譜面は書けますが、「オーケストレーション」というちまちました仕事は、そちらの専門の人に任してしまえばそれで済むような立場にあった人なのです。これは、現代のショービズ界でも同じこと、あのヒットメーカー、アンドリュー・ロイド・ウェッバーも、デヴィッド・カレンという有能なオーケストレーターを抱えていれば、自らはそのようなスキルがなくても、自在に華麗なサウンドを作り上げることは出来るのです。「レクイエム」などという、紛れもない「クラシック」の曲を持っていながらロイド・ウェッバーが決してクラシックの作曲家と呼ばれることはないのと同様に、ジョージ・ガーシュインも生涯「クラシック」の作曲家ではありませんでした。もちろん、それは、作曲家本人がそのように望んでいたこととは全く別の次元の話です。
俊英フランク・ブラレイがこのガーシュイン・アルバムで見せてくれたものは、まさにそのような「非クラシック」の作曲家としてのガーシュインの姿でした。オープニングでいきなり聞こえてくる、彼の代表的なミュージカル「ポーギーとベス」の冒頭を飾る「ジャスボ・ブラウンのブルース」は、そんな「ショービズの世界へようこそ!」というブラレイからのメッセージなのかもしれません。そして、ガーシュイン自身によってピアノ・ソロに編曲された「ラプソディー・イン・ブルー」が続きます。これこそが、ホワイトマンやグローフェによって渋々まとわされた「クラシック」の衣をかなぐり捨てた、この曲の真の姿なのかもしれません。控えめにスイングするブラレイのピアノからは、そんな開放感が伝わってくるようです。
次のトラック、1932年に出版された「ソング・ブック」こそは、このアルバムのメインと言っても差し支えないでしょう。これは1918年にアル・ジョンソン(彼も映画には本人役で出演していましたね)によって歌われ、最初の大ヒットとなった「スワニー」を始めとした18曲のヒット・チューンのオンパレードです。もちろん、編曲はガーシュイン自身ですが、注目したいのはその中にあふれるファンタジー、元の曲をそのまま聴かせるのではなく、そこから自由に広がるアイディアが、いかにもスマートです。
後半には、ウィリアム・ドリーによって編曲された「パリのアメリカ人」(この曲をクラシックと思う人はいないでしょう)に続いて、「前奏曲」とか「即興曲」といったタイトルのピースが収められています。イタリア語の表情記号まで伴った、いかにも「クラシック」っぽいものですが、聞いてみれば「ソング」と何ら変わらないスタイルとテイスト、彼は、どこまで本気で「クラシック」の作曲家になりたがっていたのでしょうか。

さきおとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17