読書記録2001年4月
『脳を知りたい!』
野村進(新潮社)/科学/★★★
「脳」を科学的に、専門用語をできるだけ使わずわかりやすく教えてくれる。誰でも読めそうな一般書。
テーマは…早期教育、うつ病、環境ホルモン、睡眠、視覚、言葉、アルツハイマー、意識…の全八章。各テーマを「脳」と結びつけながら具体的に進めてくれる。日本テレビの『特命リサーチ200X』に似ているだろうか?あれをエッセイ調にまとめたような感じ、かな。著者は大勢の研究者に取材されていて、それぞれの優しい説明が聞ける。『心と脳の科学』の著者、苧阪直行さんの話もあり、あの本にもあったワーキングメモリについて語られている。
では雑感を。
第三章の環境ホルモンについてはかなりショッキングだ。これほどまで脳に悪影響を与えているとは…。学級崩壊の一因はここにあるかもしれない、とは驚いた。そういえば立花隆さんも『環境ホルモン入門』でこのことに深く触れているらしい。
第八章とエピローグで語られる、「脳(ここでは意識や心)と環境と身体のつながり」の重要性については「明らかになってきている」とあるが…それは二十世紀前半の哲学者たちが、科学をもふまえてとっくの昔に明らかにしているような気がするのだが?あれとはアプローチが全然違うか…?
脳…分からないことはもちろんた〜くさんあるが、ずいぶん解明が進んでいることを知った。全ての内容は興味深いものだったし、著者の取材力にも感心してしまった。
『犠牲 サクリファイス−わが息子・脳死の11日』
柳田邦男(文藝春秋)/ノンフィクション・脳死/★★★★
次男の自殺、そして脳死…生死の境や臓器移植とは…ノンフィクション作家として医学の知識があり、実際に息子の脳死という状況に直面してしまった著者による「生と死」についてのノンフィクション。
1993年、私はなぜかこの年の夏のことをかなり鮮明に覚えている。舞台となるこの土地もよくよく知っているし、他にも身近に感じられる重要な要素がいくつかあった。だから余計に、著者、脳死に陥った洋二郎さん、その兄、この三人や友人に思いっきり感情移入して読んだ。
理解しきれるハズもないが…胸が締め付けられた。また涙が出ちゃった。「生きる」とは、鈍感でないと難しい、辛く苦しいことなのかもしれない…タイトルの「犠牲」について考え抜いた、繊細で壊れやすい、ガラス細工のような心を持った洋二郎さん。その思いを理解し、なんとか全うさせてやろうとした著者と兄の賢一郎さん。感想ったって…この出来事を知っての心情を言葉にすることはできそうもない、なぁ…。
脳死と臓器移植について。
脳死=人の死にする意味はどこにある?脳死に陥れば絶対に蘇生することはなく、二週間程度で亡くなるという。冷静に現実的に考えれば脳死を「人の死」としても良い気がする。それによって臓器移植でいのちを得られる人が大勢いる。私は浅く、この程度に考えていた。しかしこれは「死の先取り」であり、「プロセス」として捉えていない。
著者が語る三つの死の種類…
「一人称(自分がどのような死を望むかという事前の意志決定)の死」、
「二人称(連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死)の死」、
「三人称(第三者の立場から冷静に捉えられる死)の死」。
私はこの二人称の死を真剣に考えていなかった。「生物学的いのち」と「精神的いのち」(共有するいのち)、前者しか頭になかった。
家族が救急車で緊急入院して慌ててそこへ駆けつける…脳死、つまり「死んだ」らしい…一晩二晩寝てもまだ信じられないのに、カードを確認したからさあすぐ移植…なんて、そんなこと実際その立場になったら…納得いかないだろう?そんなすぐに割り切れないだろう?もう少し時間が必要だろう?
臓器を待つ患者と死に逝く「プロセス」にある「人」…機械的に秤に掛けることなんてできるだろうか?二人称の立場からも納得のいく「死」の受け入れ、これがあって初めて次のステップへ、臓器移植にいけるんだ。この短いプロセスの時間に「物語をつくる」(家族が死を見据え心を整理する)ために、次のステップへ進むために、医療側はどうあるべきなのか…本当に考えさせられた。最後の、欧米合理主義の恐ろしさの一例にはゾッとした。臓器移植を推進するにも、「こころ」を疎かにするととんでもないことになる。
う〜ん…心に深く残る一冊だった。
* * * * * * * * * * * *
2000/5 追記
感情移入しすぎて、後半部の脳死と臓器移植については少々感傷的になっていた。立花隆著『人体再生』を読んで揺らいだ。確かにそこで語られるとおり、人の死は本質的には一人称の死であり、自己同一性が永遠に失われる脳死=人の死、と考えていいだろう。「精神的いのち」は幻想的なもので、「一人の人=個人」の生死の定義には関係ないかもしれない。少なくとも私は身内の幻想で生死を決められたくはない。しかし強引なやり方で移植を進められ、後々まで心を病んでしまう家族の方もいる。ここは忘れるべきでない。…まあ、私自身は強くあろうと努力しよう。
『日本語の「大疑問」』
池上彰(講談社)/日本語/★★★★
日本語の奥の深さを楽しく教えてくれる。目次をそのまま紹介すると…
「放送で苦労しています」
「とっても気になります」
「日本語は難しい」
「日本語を捨てようとしたことも」
「漢字もあるからいい感じ」
「言葉は生きている」
「言葉は文化を映す」
「敬語を敬遠しないで」
「日本語は美しい」
の全八章。
いやいや、目からウロコが落ちまくり(この本を読んでもこんな表現しか…)。読んでよかった。日本語が使いこなせない…これは私の数多くあるコンプレックスのひとつだ。どれもこれも非常に興味深い話だったが、一番強く印象に残ったのは、著者が特に強調した、言葉は生きている、常に変化している、ということ。かなり昔まで遡って様々な例から日本語の変化を教えてくれ、「こういうものなのか」と感心させられた。
以前よくNIFTYの会議室を巡回していたが、そこで「ご苦労様」の一言から大論争になるケースなどを見て「あぁ、自分でなくて良かった」とホッとしたものだ。他人に不快な思いをさせないためにはさらに理解を深める必要がありそう。
日本語は私の母語だ。なにをするにもベースになる。かけがえのない言語…その日本語の持つ多くの利点を活かすためにももっと知る必要がある。とにかくもっと日本語をよく知りたいな。そう思わせてくれた。
本文でも随所に感じられたし、あとがきにあったが、著者は日本語にはコダワリがあるそうで。やはり団塊の、つまり私から見れば旧世代、しかも本職はNHKのアナウンサー、だからだろうか?そういうわけで、若干教科書的な著者の他の本と比べ著者自身の主張も多く、そこがさらに楽しめた。
日本語を使用している方なら誰でも楽しめると思う。特にお勧めしたい方…食べれない、見れない、などの「ら抜き表現」、「全然…(語尾が否定で終わらない)」などの表現に、日本語が乱れている〜、とお嘆きの方。少しは楽になるんじゃないかな。
『三人姉妹』
チェーホフ,訳:神西清(新潮社・『桜の園・三人姉妹』)/戯曲・ロシア/★★★
高い階級の軍人だった亡き父の子(と言っても全員大人)、長女長男次女三女の順で全部で四人兄弟、その家庭、周囲が変わっていく様子が描かれる。
感想を。
チェーホフの作品に触れるのは二作目。前よりは読みこなせた…と思う。たぶん。本当に色々感じることができたが…特に家庭が壊れていく様が寂しくて堪らなかった。この男の嫁、横っ面ひっぱたいてやりたい。家庭がバラバラになる理由はひとつじゃないし、そんなことしたってどうなるわけでもないが…。
登場人物にそれぞれ強い個性があり…大袈裟にいえばそれぞれ思想を持ち、それが絡み合いながら、目の前に「現実」を突きつけられる。『桜の園』と同じく、喜劇であり悲劇、なんとも言えない寂寥感…。この作品は次女、三女、嫁、の恋愛関係も複雑に入り組んでいた。このラスト結末もチェーホフらしい…が、三女の結末には「ここまでやるのかチェーホフは」と少々驚いた。
裏表紙にこの作品を「三人姉妹が………真に生きることの意味を理解するまでの過程を描いた」と紹介してあるが、さて…。自分は長女のラストの台詞、気に入ったな。生きて苦しむ、ありはしないがその本当の意味を理解するために生きる、こんな感じだろうか。
『全共闘三〇年−時代に反逆した者たちの証言』
荒岱介、藤本敏夫、鈴木正文、荘茂登彦、神津陽、前田裕晤、成島忠夫、望月彰、吉川駿、塩見孝也、田村元行、小西隆祐、最首悟、塩川喜信、内田雅敏、村田恒有(実践社)/ノンフィクション・全共闘・共産主義/★★
全共闘運動…積極的に活動に関わっていた方々が当時を振り返る。
「ベトナム反戦からの出発」
「人民の中へ」
「目の前に世界革命があった」
「大学の変革を目指して」
の四部構成。対談と論説風、半々くらい。
その頃の歴史、思想に無知な私が読むような本ではなかったようだ。しかしそれなりに感じるものはあったので感想を。以下、なにもわかっちゃいない人間の戯れ言。
まず、純粋に正義を追求して闘った、当時の若者の姿勢はよくわかった。で、理論を展開する方々の話は面白くない。「現実を見据えた○○」なんて理論も、現実から遊離しているとしか思えない。彼らの使う「大衆」「労働者」という言葉…これにはどうも違和感を覚える。彼らが語ることは、私も含まれるであろう「大衆」が考えたり求めたりすることとあまりにかけ離れすぎている。当時の一般の「大衆」「労働者」にとってだってそうじゃないのか?彼らは最初になにを感じて立ち上がったのか。なにを求めたのか。そこがいつの間にか抜け落ちてしまっているのでは?人間自分に酔うと危ない。
元叛旗派の神津陽さん…私は感銘を受けたハイデガーの、死を意識した本来的自己、を本来的でない、とアッサリ批判。あぁそうですか、残念だ。でも神津さんの語りを読んでいると、「大衆」を強調しながらも結局「大衆」としてしか見ておらず、「一人の人」として見ているのだろうか?という気がしてくる。しかし彼の語ることには納得することが多い。
赤軍派、よど号をハイジャックして朝鮮へ渡った小西隆祐さん…世界には様々な思想、考え方があるとはいえ…呆れた。赤軍と名が付く集団と他の学生たちの本質的な違い…『連合赤軍「あさま山荘」事件』で佐々淳行さんが語っていたことが少しは理解できた。
悪いことを書いたが、もちろん共感できる話も多くあった。特に第四部の四人の話には共感だ。あと、有機農業で有名な「大地の会」創設者、藤本敏夫さん…あの活動の下地はここにあったのか。
しかしな〜…正義を求めたとはいえ、どうして当時の若者はこの、マルクスを源流とする思想にそこまで熱狂したのだろう?
さて…私の尊敬する人物の一人、ゲバラだが、彼は共産主義者だったか、という問題は研究者でも意見が分かれるそうだ。私は…そうではなかったんじゃないか、と思うんだが。共産主義者が国連でソ連批判するか?彼を動かしたのはもっと素朴な怒りだ。全共闘運動の学生たちだって最初はそうだった。ゲバラは、最初から社会主義国を作ろう、なんて思ってなかったろう。形を変えただけの植民地の解放…帝国主義に支援を受ける、独裁政権の打倒。ちょっと違うかもしれないが、GHQが日本でやった農地解放、あれと同じだろう。地主に相当するものがアメリカ資本だったからああいう結果になった。アメリカが、そうならざるを得ない状況に追い込んだ。巨大な暴力に対する暴力は肯定したが独裁は?その後の行動を見る限り否定した…そう思うんだが。
『哲学者かく笑えり』
土屋賢二,マンガ:いしいひさいち(講談社)/ユーモアエッセイ/★★★★
『小説現代』で連載されたものと書き下ろし一編からなる、哲学的お笑いエッセイ。
著者のエッセイはこれまで数冊読んできたが、それらと比べて笑いどころが多かった。ほぼ全ページ笑った。笑い声を何度漏らしたか数え切れないほどだ。この笑いを説明すると…論理的で理詰めの少々イヤミな笑い、というか…う〜ん、うまく紹介できない。要するにクドイ笑いだ。人によっては全然面白くないだろう。
わざと「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」の意味を微妙に誤っていたり、旧約聖書中最大の矛盾とされる創世記の一節をさりげなく織り込んだり…などなど、教養を試される?笑いもある。私も気付かないとこが多々あったと思う。特に英語が絡むと全くダメだ。なにが可笑しいのか全然わからない。
純粋、素朴で素直な方は疑いの眼を持って読んだ方がいい。まずないと思うが、そうかなるほど、と納得して鵜呑みにしてお終い、としてしまわないように。思考の幅が広がることは間違いない。お勧め。
『実存主義入門』
茅野良男(講談社)/哲学・実存主義/★★★★★
タイトルどおり。今まで読んだ思想の本と比較して、難易度は中程度。簡単すぎず、専門用語連発で難解すぎるわけでもなく、私にピッタリだった。
これは解釈しながら要約した個人的ノート、感想はこっち。
まず人の生き方考え方について。
人は生きるから考える。考え方に基づいて生きる。その考え方…選択や決定には理由や根拠が必ずあり、たえず価値の上下を決めている。それを支えている原理を思想と呼ぶ。
既存の思想について。
明確に意識し、それを生き抜くことによってこそ自分自身のものにできる。分析や評価をしている段階ではまだ与えられた思想。それらの選び取りや決定において次第に見えてくる、自分自身を根本的に律し尽くす、自分自身の思想から目を離さないこと。そして自己のあり方を考え続けること。
現にある、とは。
無、非存在ではない。「がある」と「である」がある。「真に…がある(存在の存在)」を確認し「真に…である(その本質)」を追求する。可能態と現実態、潜勢状態と現勢状態、エッセンティアとエクシステンティア、本質存在と現実存在など…この考察は実存のあり方を考えるには避けて通れない。この後はいよいよ本番、実存哲学と呼ばれる哲学者たちの思想解説。
シェリングの思想は『人間の自由の本質』を中心に解説される。
ヘーゲルの合理主義では問題にされない「現にある」こと、この問題からスタート。神に創造された人間、その現実存在の根拠は神の自然のなかにある。神の現実存在の根拠もそのなかにある。我意ないし我性、悪の自由、神への反抗も神の自然に基づいている。究極の実存である神に根拠を持つ人間の実存。
キルケゴールの思想は『死に至る病』を中心に解説される。
シェリングと異なるのは、単独者としての人間の存在、その主体性、それ自体で実存としたところ。その主体性の、内面的な無限の情熱と客体的な不確実性、この間の矛盾を認めざるを得なくなったとき、あの、最後の決断と飛躍を受け入れなければならない…。
ハイデガーの思想は『存在と時間』を中心に解説される。
実存とは…「自分の存在することへ向かって自分を関わらせつつ存在すること」「現存在という存在者の存在」。本質は実存することにある。この実存の前提には存在了解がある。
実存的な了解…実存することを先導する、特定の可能態を事実的な理想とする了解。
実存論的な了解…実存的な了解を「実存の構造から説明する」こと。これこそがハイデガーの哲学。
事実態ないし被投態、投企ないし実存態、頽落、これら三つ、平等に現存在の存在を構成する。三つの契機の全体を「関心」と呼ぶ。自己、自己への関わりあい、自己以外のもの(神ではない)への関わりあい、これと直面して現にあるということ、これが人間。
「死の不安」は気配りばかりする現存在を、不本来態(日常態)な「ひと」というあり方から本来態(根源態)な「単独の自己」へと引き渡してくれる。死、時間性…了解するものでもされるものでもなく、現存在が存在する、実存、それ自体の意味であり根拠。有限な時間性が根拠ゆえに現存在も有限。
「実存がもっとも固有な自己でありうる姿」とは…「終末の可能態へ向かう可能態…すなわち有限態」「自己の不可能態を見越している可能態」つまり「終末に向かう覚悟を決めた単独な自己」。
ヤスパースの思想は『現代の精神的な状況』『世界観の心理学』『理性と実存』『実存哲学』などから解説される。
人間存在の段階…現存在(ここでは生存程度の普通の意味)、意識(精神)、自己(実存)。
包括者としての人間のあり方…現存在、意識一般、精神。
状況内存在である人間は限界状況(死や病など)を経験するとき、孤独、実存、自己の有限性を知る。同時に人間の根拠、実存の根源である包括者の包括者、超越者の存在に気付き、その語りかけを聴き、日常を越えた本来の自己の開明…実存開明のチャンスが生まれる。そうした実存同士の交わりによって孤独を去り、真の自己を取り戻す。
サルトルの思想は『実存主義とは何か』『存在と無』を中心に解説される。前者についてはやはり読みが浅かった。そちらに追記しておく。
対自存在と即自存在について。
対自存在である人間…実存や投企の根本の構造…ハイデガーの現存在に明確に意識を与えた。人間とは、存在と意識の間にある裂け目、意識がもたらす無を乗り越えようとする、それのみで充実した世界を持つ「もの」のような即自存在を目指して(なり得ないが)永遠に投企し続ける存在。
最後にそれぞれの総まとめ、で終わり。「考え抜かれた実存の考え方を身に付け」「実存として生きる」か…。
『羅生門・鼻』
芥川龍之介(新潮社)/短編小説・古典/★★★
「王朝もの」と呼ばれる短編小説。羅生門、鼻、芋粥、運、袈裟と盛遠、邪宗門、好色、俊寛、の八編、と解説の構成。多くが『今昔物語』を芥川の解釈で描いたものだそうだ。
解説によれば彼の短編小説は新技巧派と呼ばれたそうだが、本当に、心理や場景など、なにを描写するにしても繊細で美しい。
芥川が見た人間…A・ビアス著『悪魔の辞典』の帯に「芥川に絶賛され」た、とあったが…確かに頷ける。どの作品も、人間心理の矛盾に満ちた様が見事に描かれている。
感想を少々。いくつかはなぜかあらすじを知っていたが、実際に読んだことはない…と思う。
「邪宗門」…こんな最もイイ、さあこれからって場面で未完でお終い、とは!芥川も罪作りだ。未完のワケは解説にあったが、それにしてもアンマリ。
「好色」…これは笑った。いや可笑しい。口説きの達人、哀しき天才がこういう結末を迎えるとは!
…私の読解力と感性ではこんなもんだ。
作品を読み終えた後、非常に親切な、芥川の人物像とその作品についての解説に、なるほどなるほどと感心しながら勉強した。