読書記録2001年5月
『はじめての構造主義』
橋爪大三郎(講談社)/哲学・構造主義/★★★★★
レヴィ=ストロースを中心に、構造主義とはなにかが語られる。高校生でも読める、と前書きにあるとおり、とっても優しい解説。
「「構造主義」とはなにか」
「レヴィ=ストロース:構造主義の旗揚げ!」
「構造主義のルーツ」
「構造主義に関わる人びと:ブックガイド風に」
「結び」
の全五章。
今回もほとんどメモ書きになってしまう。
一章…軽くさわり。
二章…ソシュールの言語学。
シーニュ(言語記号)→シニフィエ(対象)とシニフィアン(指示部)、
ラング(規則)とパロール(表現)→言語の恣意性…
ヤーコブソンの音韻論、二項対立、子音母音の三角形、それらの関係…
モースの贈与論…
などの解説、そしてその考え方を使った、レヴィ=ストロースの構造人類学の解説。
世界中の文化になぜか必ずある、様々な種類の近親相姦の禁忌、その根底にある構造を探る。まず、女性を交換の媒体とする。女性交換のシステムを成り立たせるには近親相姦のタブーが必要。タブーだから交換する→交換するからタブーがある。このふたつは表裏一体。交換システムの形態によってタブーの範囲も決まる。
これを社会一般へ当てはめる。価値がないから交換する→交換するから価値が生まれる。なんにために、ではない、基本は交換のための交換。不思議な話だが、これで機能人類学が解けなかった問題を解決できる。社会=交換のためのシステム=コミュニケーションの仕組み。
構造のふたつのレベル…交換システム、制度のレベル、それが人々にどう理解されているかという意味のレベル。後者を<構造>と呼び、それを明らかにするため神話学をうち立て、ヨーロッパの優越思想(キリスト教)やマルクス主義の権威をズタズタにする。全ての文明や神話に共通する<構造>がある。この詳細は三章のラストへ持ち越し。
三章…数学や物理学の、いわゆる理性の崩壊の歴史が延々と語られる。疲れたが非常にわかりやすかった、これには感謝だ。
ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学によって、ニュートン力学は相対性理論や量子力学によって、絶対とされてきた真理は相対的なものになってしまった。なにかを真理と思いこむのは、あるシステムに閉じこめられている結果。
遠近法(視る主体を意識した、二次元を三次元に置き換えるあるシステム)
→射影幾何学(視点の移動、射影変換→位相変換→変換群に共通する性質→<構造>)+構造的代数(同型写像と変換関係→<構造>)
→ヒルベルトの形式主義、ブルバキ・グループ。
抽象的な数学の話はくたびれるが、これらが三章最後の数ページで一気にレヴィ=ストロースの人類学、神話学につなげられ、あぁそうか!と爽快。
感想。
とにかく親切な解説だった。が、どこまで理解できたかは不明。レヴィ=ストロースの<構造>…異文化に接するには素晴らしい考え方だ。歴史の進歩を感じるのは当事者の主観にすぎない、世界中の社会や文化、信仰の違いは<構造>が多様に変換した姿で相対的、だから優劣善悪の区別はつけられない。ヨーロッパでこういうことを言い出すのは凄いことだ。
…一章で少し触れられるが、レヴィ=ストロースとサルトルの思想は対立する。「自分たちの社会や文化のあり方を自覚、理解し、世界中の多くの人々に共有できる形にし、ひとつの思想に高め、他の思想と対話すること」、五章に締めとして大意こんな一節がある。…<構造>と言ったって、所詮自分は主観的な存在として、必ずあるシステム内にあるわけで…そのシステム内に閉じこもることなく、かといって極端な全体化へ走らず、あるべき姿を自分自身の問題として考えつつ、中庸の立場で他のシステムと向き合う…こういう風に考えればいいだろうか?どうもスッキリしない…主体が消えるとか、真理は相対的という言葉に必要以上に囚われてる。う〜ん、自分でもなにを言いたいのかわからない。
『弁証法入門−正しい認識を求めて』
茅野良男(講談社)/哲学/★★
一,二章で弁証法の語源やそれがどういうものかを簡単に説明、三〜九章で哲学者(古代ギリシアの哲学者、カント、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、キルケゴール、サルトル、ポッパー、アドルノ)が方法、問題としてどう考えたか、十章で弁証法が日本でどう受容されてきたかを解説。
…結局全く理解できていない。三章から先は、意味を掴み欠けるとスルリと抜ける、後にはなにも残っていない、の繰り返し。十章はナニが書いてあるのかさえわからなかった。
弁証法…お互いに対立し否定し合うため同時に真として両立し得ないものの認識、克服。
思考と言葉による表現の一般的なルール…論理学。弁証法もこのルールに従う。
実在的な反対、対立、非両立の関係の認識、その認識に基づいて対立関係を克服する。
対立関係の認識と克服とは…それぞれ根本の前提まで分析、分割し、お互いに否定させ合い、残ったものを綜合、包括すること。
これが具体的に説明されているようなのだが…もうサッパリ…。
哲学の本は今までいくつか読んではみているが、たぶんほとんど全て根本から勘違いしているようなきがしてきた…。ただでさえない自信をさらに失わせてくれた一冊だった。
『そんなバカな!−遺伝子と神について』
竹内久美子(文藝春秋)/エッセイ・利己的遺伝子/★
人間は利己的遺伝子とミーム(文化伝達の単位)の乗り物にすぎない、我々はなにからなにまで全て利己的遺伝子に操られている、という著者の持論が展開される。利己的遺伝子の提唱者はオックスフォード大のドーキンス教授。
「全ては遺伝子から始まった」
「我々は乗り物である」
「利己的遺伝子の陰謀を暴く」
「利己的遺伝子のさらなる陰謀」
の全四章。
感想。
冗談話としてなら面白かった。利己的遺伝子については非常の興味深いが、著者はちと突っ走りすぎだ。反証不能な超越項をおいて演繹法で全てを説明し尽くすような、宗教じみた言説は科学とは言い難い。また、部分において真であることが、全体に当てはめたとき真であるとは言えない。この本で語られることは、真理の一面を持った、誇張された品のないジョーク…新しい考え方を提供してくれた、これくらいに思っておく。公の場で他者を嘲笑し、悦に浸るような利己的遺伝子信奉者になるつもりはない。
動物行動学の事例は興味深かったが、後はほとんどどうでもいい話だった。
『100人の20世紀』
(上・下)(朝日新聞社)/伝記/★★★★★
上下二冊で100人、一人10ページ弱、激動の20世紀に名を残した人物を幅広い分野から紹介。といってもただの偉人伝ではない、注目するのは業績や有名な一面ではなく「その人間が二十世紀とどう関わり、どう生きたか」。あまり知られていないような人物も多く紹介される。
人というのは複雑なもので…数ページでわかるはずがない、しかしそれぞれ取材者の視点が面白くまとめ方も上手で、わかったような気にさせてくれてしまう。名を知られた人物の評価は賛否両論分かれるものだが、業績と人物像の光と影両面を中立の立場で示し、見事に締めくくっている。さらに詳しく知りたい人のために、目的に応じた参考文献も示されていて親切。名前や有名な一面だけ知っている人物も、実は全然その「人」を知っていないものだ。
そうそうたる顔ぶれの一人一人の意外な一面を知り、驚き、感銘、衝撃を受けた。あえて挙げてみれば…。
特に感銘を受けた人物…ケマル・パシャ、エルウィン・ロンメル、マザー・テレサ、エルネスト・チェ・ゲバラ、ジャン・ポール・サルトル。
特に意外に思う一面を知った人物…ブルース・リー、マレーネ・ディードリッヒ、アベベ・ビキラ、力道山、ジョージ・ソロス、ジャンアンリ・ファーブル、ウィンストン・チャーチル、ウィルバー・ライト、ヘレン・ケラー。
存在自体を初めて知って特に驚いたのは…リヒャルト・ゾルゲ、サバス・チャンドラ・ボース。
歴史を知るのは面白いし大事なことだと思っているが…まず歴史の流れを縦だけでなく横でもつなげ、全体を眺めただけで終わらず、ある一人の人に焦点をあて、その視点からも…とでもいうか、こういう歴史の見方も面白い。大きな流れの中で、ある一人の人がその時代どこでどう生きたか、を知るのも非常に大切で重要なことだ。このことを改めて気付かせてくれた。
私も大きな流れの中にいる…さて、21世紀どう生きようか…っていまさら、だな。
『原始仏教−その思想と生活』
中村元(NHK出版)/仏教/★★★
主にパーリ聖典を資料にした、客観的な、初期仏教の思想紹介。
一、二章が時代背景と釈尊の生涯、三〜八章が初期仏教思想の紹介、九章が教団、一〇〜一四章が諸々の倫理について。当時の社会的、思想的状況もその都度記述があり、なぜ釈迦がそういうことを説いたのか説明があって親切。
まず、本の内容の柱を自分なりに解釈しながらまとめて記録する。
バラモン教が権威を失ってきた時代…台頭したそれぞれの思想家の主張する真理は真理の一部しか捉えていない。哲学的思索の限界を感じ、一説に固執し争わないことにする。
享受されるものは快も不快も全てが移ろい行き、やがては変滅する…よって苦しみ。輪廻転生(生の繰り返し)=苦しみの繰り返し。この超越が真の安らぎ、その最上の安楽、寂静を求める。苦しみと無常に支配されるこの世での拠り所…移ろい行く世にあってそれを秩序付けまとめる永遠なる原理、法。
全てのものへの執着を捨てる。煩悩、貪瞋痴(貪欲、嫌悪、迷妄)による、苦しみの原因となる欲望は捨てるべし。感情の抑圧ではなく欲望を制す。我執を捨て真の自己を探求する。中道…諸説を吟味しながら「法(真理)を観る」、苦楽どちらにも偏らない修行、八正道の実践。
教えに触れたら後はその人次第、法を知り「楽しむ」ことで解脱へ。生死の超越、一切の妄執を滅し尽くした状態、これが解脱、涅槃(ニルヴァーナ)…無我説。これに至れば、たとえ肉体的苦痛はあろうと心的苦痛を感じることはない。
我執を捨てれば自ずと慈悲が生まれる。自己を愛すべし、自己を愛せば他者を愛せる。(?)自我と他我の観念を無に帰してこそ自己の利を追求できる。
最初期は不安、孤独な出家生活での真実の自己探求に重きが置かれたが、法を実現するためには共同体が必要に…教団(サンガ)が現れる。
なぜ倫理が必要か?正しい道徳は永遠の理法であり、それを実践すれば良き結果が得られるから。来世に天界へ行けるし、神が見ているから。(!?)
感想。
…実になんとも言い難い。当時としては画期的な教えだったというのは理解できた。全編通じて、あまりの矛盾の多さに辟易した(理解力に欠けているのか)が…解脱すれば法に固執する必要はない…川を渡る筏の例、矛盾を矛盾とさせない…ときた。…そういうことなのだろう…。
釈迦の教えは私が漠然と抱いていたイメージとかなり異なっていた。この後どのように展開、発展してきたのか少し興味がわいた。
『イスラムとは何か』
ムハンマド・アリ・アルクーリ,訳:武田正明,監修:飯森嘉助(時事通信社)/イスラム教/★★★
サウジアラビアの学者が「イスラムに初めて接する人達を対象」に書いたイスラムのガイドブック。教義と文化、両方とも初心者向け、六信(神、天使、聖典、預言者、来世、運命)五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)の解説(天使についてだけなにも触れられない)と結婚、離婚、相続、刑法など、戒律の具体例を挙げながら、実際それが日常の暮らしにどう影響を与えているか、活かされているか、が語られる。とてもわかりやすい。
これまで読んだ二冊のイスラム関連本と比べてどうも違和感があった。井筒俊彦著『イスラーム生誕』では第三者の立場でジャーヒリーヤと対比しながら、ひろさちや著『キリスト教とイスラム教』では同じく第三者の公平な視点からの両宗教、文化の比較、紹介だったのに対し、この本はイスラムの立場からイスラムを紹介し、他宗教、文化を露骨にではないが否定している印象を受けたから。そこがイイといえばイイのだが、事実誤認、疑わしいと思われる記述がいくつもあり、それがその都度気になった。女の派手な服装は心臓や消化器の病などにつながる、にはさすがに笑ってしまった。
キリスト教についての記述…宗派によって一概には言えないものもあり、誤解がある気がする。イエスを預言者に位置付ける、三位一体を否定、などの根本的な批判はどちらが正しいとかの問題ではなく、それぞれ別物としか言いようがない。…イスラムはキリスト教(福音書)も信仰するが、イエスを神の子としないとか、イエスに祈るのは偶像崇拝、とするのは、私には非常に奇妙に感じるが…。
著者の住むサウジアラビアへの私の知識はゼロに等しく、監修者、飯森嘉助さんによる「イスラムを理解するために」で、憲法や国会、議会、選挙もないと知って驚いた。国家の理念、方針は全てイスラム教が拠り所という。それでもサウジは周知の如く世界最大の石油産出国、シッカリ一国家として成り立っている。さて、これをどう受け止めようか?
最後に…思想や宗教を理解するためには、それが生まれた土地柄や当時の社会背景、歴史など、様々な事柄を考慮する必要がある、と改めて思った。それがこの本ではあまり語られない。先に上記二冊を読んでおいて良かった。
『輝ける闇』
開高健(新潮社)/ノンフィクション・ベトナム戦争/★★★★
ベトナム戦争に従軍記者として参加したノンフィクション…なのだが表現が文学的で、文学作品と言ったほうがいいのかもしれない。性行為の描写などはなにか違う本を読んでいるのではないか、と思ってしまうほどだ。
ベトナムでの体験を「もし書くとすれば匂い」とウェイン大尉に語るが、まさにそれ。生死紙一重の世界、混沌を極めたサイゴンや最前線、そこに生きる人々の様子…。数年前読んだときは、ただひたすらそれに圧倒された。
外から来たただの傍観者であることに著者は悩むが…確かにそうかもしれない、でもそんなことはない、と言いたい。出会う人々の出来事や言葉を全身で受け止めている。それでいてどこまでも謙虚だ。著者はこの混沌のただ中に身を投げ出した真摯な一人の人だ。それが去年読んだ二作とは比較できないくらい強烈に感じられる。
著者の死を見つめる眼、直面しての反応を少し記録。
銃の引き金を引きたくなった衝動…「銃では殺人罪ですら犯せない」。
サイゴンで目撃した二人少年の銃殺刑…一度目から二度目の慣れ。
少年時代の思い出…死への安易な憧れ→機銃掃射するパイロットが笑っていたことと餓死体への恐怖→「澱み腐れた潮」。
前線へ向かう決意…「わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ」→凄まじい極限状態→最後のページ、「自尊心が崩壊した」〜「泣き出した」前後の部分。
この最後の戦闘の描写は凄まじいとしか言いようがない。想像で書けるようなものではない、実際に体験した一人の真摯な文学者の証言だ。これが戦争なんだ。極限での殺し合いなんだ。ウェイン大尉他、兵士の変化も見逃せない。
著者の感じた「つくづく戦争は嫌だと思った」…まったくだ…。ニンテンドーウォー?この本で語られたことを考えよう。
『人体再生』
立花隆(中央公論社)/科学・再生医学/★★
構成は…まず、再生医学、脳死、臓器移植、について著者の論説。その後、様々な角度から最先端で再生医学に携わる、七人の研究者との対談。超ハイレベル。
著者の論説の感想。
おおすじ、いや全て納得、同感。だが一ヶ所だけ…「日本のルールでは本人の意思表示があっても、家族の同意がなければ、本人の意思に沿った決定がなされないことになっているのだが、この点はどう考えてもおかしい」この一文だけ気になった。その後に続く記述に反論の余地はない。全くもって正論だ。私もこう臨みたい、私が今後どうかなったとしたら身内にもそう臨んで欲しい、が…全面的に頷くことはできない。柳田邦男著『犠牲』で感じたことを忘れてはいけない。もし身内が脳死の状態に陥ったら…頭ではわかっていても、そう毅然としていられるだろうか?人間そう強くはない、即割り切ることはできないだろう。医療側がどういう態度に出るかわかったものではない。家族が気持ちを整理する時間を大切にするうえで(本来これは法でどうこういう問題でないと思うが)、家族の同意が必要、の一文はあって良いと思う。前提として、家族間でよく話し合っておくこと、があるが。…ゴチャゴチャになっている。この問題はあまりに難しい。
死体利用について、これが素晴らしい、全く同感だ。解剖実習のときの医学生の度外れなフザケた行為を聞いているので(ある方からそれはないぞと指摘を受けた。壁に耳あり障子に目あり、はただの噂、流言か)、解剖実習への献体は嫌だがこれなら喜んで提供できる。この死体利用や臓器移植も、再生医学が完成するまでの過渡的な医療だろうという…。
この後の対談については私にわかる次元の話ではなかった。立花隆著『100億年の旅』と同じような感じ。
一番興味深く読んだ、川口三郎さんとの対談についてだけ少し記録。
中枢神経の再生研究には様々な方向性がある。川口教授の場合、いつか講演を聞きに行ったときと同じく、胎児の脊髄移植の可能性について力説。それが有効であるのは間違いないが、その何が有効であるのかがまだ明らかになっていない、そして実験で鋭く切断するのとは異なり、人の脊髄損傷の場合「挫滅」であり、それを再生するにはまだ時間が必要、とのこと。要するにまだまだ先が見えないってこった。…「日本せきずい基金」を通じて応援します。
読んでいるときはわかったつもりでも、後になるとほとんどなにも残っていない。また最先端の世界を垣間見た気になっただけで終わってしまったが…それでもいいか。
…そう、どなたかは、即ビジネスにならないと研究者もやる気が出ない、と言っていたが…そういうものだろうかね?色々事情もあるんだろうが、すぐに技術に、カネにならなきゃやる気が出ないなんてなんか違うんじゃないの、と思うのだが…。
著者のバケモノぶりを改めて実感した一冊だった。
『人間は笑う葦である』
土屋賢二(文藝春秋)/ユーモアエッセイ/★★★
哲学的ユーモアエッセイ。このシリーズを読むのはこれで六冊目。
どれも笑えるエッセイだが、私は著者の不幸や失態を特に喜んでいるようだ。『汝みずからを笑え』の「食べた」や『ツチヤの軽はずみ』の「涙の試験監督」などなど。自身の苦しみを、こうも笑いものにできる著者は凄い。見習いたいものだ。
「ナンセンスの疑い」はNHKの『ようこそ先輩』で子供たちに語ったことと同じことで、かなり真面目なエッセイだと思う。(他のエッセイが不真面目とは言っていない。念のため。)確かあの番組で「これが私のスタイルだ」と語っていたと思う。いくら「ライヤー土屋」と呼ばれているとはいえ、これまでウソとは思えない。この「ナンセンスの疑い」と一番最後の「ユーモアのセンスとは何か」で語られることはは常に頭の片隅に置いておきたい。
が…とすると、私が今まで考え、悩んできたことの多くは、ナンセンスだったのでは…?まぁそれもイイじゃないか。