茅野良男著『実存主義入門』を読んでの感想


実存哲学には強烈な感銘を受けた。読み込みも知識も浅く、勘違いしている可能性は大だが。

自分の存在は…正直な気持ち、客観的に見てゴミだと思う。ゴミ以下だ。残念だが事実だ、どうしても自分自身でそう確信できてしまう。しかし自分は現に在る。なぜ?一体どうすればいい?実存哲学はこんな悩みにも光を与えてくれる。「個性」の問題にもひとつの答えを示してくれる。


part.1 キルケゴールとサルトル

以前なにかで知ったのだが、キルケゴールは背骨に変形のある、程度は軽いが一見して分かる身体障害者だったそうだ。うろ覚えだが、出生もなにやらいわくつきだったらしい。ここからは勝手な想像だが…きっと、忌まわしい視線が常につきまとったろう。多数の人がキリスト教を信仰しているはずの社会で…あの教えが信仰されているはずの社会で…なぜそういう視線を浴びるのか、なぜそう思われるのか?なぜ信仰を持つ自分自身まで彼らと同じ視線を自分に浴びせ、彼らと同じことを思うのか?そんな自分の存在自体に、想像がつかないほど苦しんだんじゃ…絶望したんじゃなかろうか。彼はそれを克服するために自分自身の思想を構築し、真の信仰を見出した。

その一方で無神論者サルトルにも強烈な魅力を感じる。呆れるくらいにサルトルは理想主義者だ。人間を過大評価しすぎている。しかしそれは時代背景、フランスの歴史や文化をも考慮しなくてはいけない。嘔吐の言葉で表現された存在の存在、そこでは終わらない。人間は、その呆れるくらいの理想を追い求め続けるべき存在なのだと、アンガジュマンを唱えてそのとおりに生涯を生き抜いた。「飢えて死んでゆく子供の前で『嘔吐』は無力だ」と言った。やっぱり偉大な哲学者だよ。

両者の思想は実存がスタートという点は共通だが、あとは全く違う。その両者になぜ同等の魅力を感じるのか。彼らは自分自身の思想を構築してお終い、ではなく、実際にそれを自らの生きる原理として生きた。ホント尊敬する。ゲバラも見事にこれに当てはまるんじゃないかな…。


part.2 ハイデッガー、終末の可能態へ向かう可能態

ハイデッガーの「死の不安、時間性」の考察、これは実存を考える上で非常に重要だ。日常、人は人が死ぬことを「知って」はいるが、自分自身が死ぬことを「信じて」いない…いつかなにかでこんな意味のことを読んだ。この言葉は核心を突いている。自分の死は誰かに代わってはもらえない。その瞬間、自分にとっての自己の存在は終わる。消えてなくなる。馬鹿か、当たり前のこととじゃないか…そう、知ってはいる。しかし信じていない。例えばガンで余命三ヶ月、と宣告されたらどう反応する?どういう反応を示すかわからないが…「ああそうか、自分も死ぬのか」と、やっと実感を持って信じるに違いない。ここで自己を見失ってしまう人がいれば、その人は自分が有限であることを全然「信じて」いなかった、ということになる。柳田邦男著『「死の医学」への序章』で語られていたことを思い出す。逆に、その覚悟を決めた瞬間、自分はいずれ死ぬ、このことを信じた瞬間、この瞬間こそ飛躍するチャンスなんだ。有限な自分は仮の存在ではない、それこそが自分自身、それを悟らないとあるべき本来の、他者に振り回されない自己に気付くことはできない。…信仰を持つ人に関してはわからないが、そうでないならこれはピッタリ当てはまるだろう。ハイデガーの思想が私などに理解できるわけはない、それでもこのことの重要性は理解できる。

けれど、この本には書いてないが、ハイデッガーはナチスに傾倒し、率先して協力したらしい。こういう凄い哲学者が、と理解できない。


part.3 実存哲学・まとめ

それぞれの哲学者のいうことをゴッチャにして、気に入った所だけ取り出し、砕けた言葉で簡単にまとめてしまうと…。自分自身は現にある。この世界も現にある。世界というのは自分自身が関係する関係の世界。そこにはありとあらゆる考え方や価値観やモノ、自分自身ではないが自分自身と同じ構造を持った人間、つまり他者、など、がある。自分自身は自己に関係しながら世界のあらゆる事柄に関係し、本来あるべき自己を見出していく。あらゆる価値観を自分自身で責任ある選択決定し、自分自身を律する価値体系、考え方を見出していく。そして関わりへと積極的に関わってゆく。自分自身を連発したが、自己中心的であってはならない。他者との関係あっての自己、他者をも見つめた普遍性…たぶん見つからないが…を追い求めるべき。本質を探し求めるべき。そこへ立ち出でる、その課題を追求すべき。

この本…たぶん一年前に読んでも「なんだこりゃワケわかんねーしもーいーや」で終わったろう。たとえ理解しきれないでも、今まで少しずつ思想の本に触れてきた意味はあったように思われる。しかし本を読んで素晴らしいものを得た気になっても、実生活でほとんど活かせていない。そこが大問題だ。根性が腐りきっている。こりゃ禅寺にでも頼み込んで、一年程預かってもらおうか?

実存主義って一歩間違えると、もろに自己中心的、あるいは極端な全体主義へ走る危険がある気もする。そこに気をつければ素晴らしい土台になってくれる思想じゃないだろうか?なんだかんだ私には難しくて、誰か哲学がわかる人にやさしく教えて欲しいものだ。

実存思想は…自分の存在自体が悩みの種とか、自分が自分とよく似た他人と代わっても、消えてしまっても、世の中にはなんら問題ないんじゃないかとか、自分が大きな機械の歯車にしか思えないとか…こんなことで不全感抱えて悶々としている人には光を与えてくれる思想(他にもいっぱいあるけど)ではないだろうか。だからそういう方へお勧め。とにかく私は気に入った。まだ立ち現れていない、見えていない、いやきっと死ぬまで見えない、真にあるべき世界、自己へ向かって立ち出で続ける!イイネ。

例によって勘違いも多くあると思う。それでも大きな啓示を与えてくれた、素晴らしい一冊に出会えた。


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