被爆者青年 往復トーク・トーク (2002.4月〜)

  「トーク・トーク」は被爆者と若い世代の意見交流の一助として、「被団協」新聞紙上で2002年4月から始まりました。 まずは被爆者のメッセージからスタートです。
  編集部では、お読みになった若い皆さんからのご意見、ご感想をお待ちしています。
  被団協宛にぜひメッセージをお送りください。    「被団協」バックナンバー
   
・被爆者より(2002.4)

 原爆投下は米国によるテロ行為であった。原爆慰霊碑に赤ペンキをかけた行為も、テロに等しい絶対悪である。まさに、死者への冒涜であった。
 世界には、そのテロや戦争、核兵器をはじめ、貧困、飢餓、難民、人権抑圧、暴力、地球温暖化など、”20世紀の負の遺産”が存在する。後始末が大問題である。
 「20世紀と同じことを21世紀でもやっていたら、人間の社会も地球もダメになってしまうと思う。僕もあと少しで社会人の一人になる。後始末を任された一人として責任を持ちたいと思う」―数年前、当時中学生だったK君が、「被爆体験と平和について」という私の講和を聞いて、送ってくれた感想文の一節である。
21世紀を生きる人びとよ! ヒロシマを原点として日本国内に目を向けてほしい。もっと大きく目を開いて世界を見つめてほしい。国の内外で今、何が起きているのかをしっかりと見極め、真剣に”負の遺産”の後始末を考えてほしいものである。
   高橋昭博さん(広島)
 

 

・青年より(2002.5)

 高橋さんは、21世紀に生きる人々へ、「ヒロシマ(・ナガサキ)を原点」として日本や世界の「20世紀の負の遺産」に目を開くことを訴えられた。
 今、世界の環境・貧困・人権…の「20世紀の負の遺産」に関心を持つ人は増え、それらと向き合う各種NGO活動の存在感も増している。
 一方、「ヒロシマ・ナガサキ」は、「20世紀の負の遺産」である核兵器を、被爆者の証言を原動力に、人間の命の問題として訴えてきた。
 ただ残念ながら、「20世紀の負の遺産」に取り組む様々な活動の間に、分野を超えた対話・協力は低調である。「ヒロシマ・ナガサキ」は、原水爆禁止運動を中心とする平和運動の枠内で留まっているように思える。
 私は「ヒロシマ・ナガサキ」の分野の対話・協力を、各種NGOやそこに関心を持つ人々にも広げていく必要性を感じている。例えば、「20世紀の負の遺産―地球上の命の問題として」という企画を共催して、被団協からは「原爆と人間展」を出展するのはいかがですか? 
   竹峰誠一郎さん(25歳・大学院生)
 


・被爆者より(2002.6)

 世界戦略への軍事分担を求めるアメリカの有事に際し、日本を「弾よけ」として利用しようというのが今度の有事法案だ。これはやがて戦争への道である。日本の憲法の精神は、戦争放棄であり、平和憲法なのに。
 閃光ときのこ雲に下に消えた何十万の命。あれから57年、被爆者の国家補償の叫びに対する政府の答えは「戦争による犠牲は国民等しく受忍せよ」であった。広島・長崎の被爆の生き証人である我われは、いまもあの惨禍の傷跡を背負いながら「受忍」と苦難の中に生きている。再び子や孫の世代にこうした苦しみが起ることのないよう、核廃絶、平和の旗を掲げながら。
 自ら世の中を変にしておきながら、時代にそぐわないと憲法を曲げようとする潮流。これはまた思想言論の抑圧の道をたどるのではないか。現に、メディアの制限も行なわれようとしている。
 余命少ない被爆者は、核廃絶、平和への道遠しを感ずるが、この旗を降ろしはしない。21世紀を担う若い力にこの旗を手渡したい。そして歴史の歯車を正しく回せる世紀にしてもらいたい。
   大峰元さん(高知)
 

・青年より(2002.7)

 「有事法制」が制定されようとされ、国内でさまざまな議論をよんでいる。「備えあれば憂いなし」ということであるが、過去の「戦争」という過ちを再びくり返すすのではないかという危ぐを拭いさることができない。
 「有事法制」を考えるにあたって改めて日本国憲法を読み返してみた。前文には、日本、そして世界の恒久平和を願う崇高な精神が掲げられ、第九条では「戦争の放棄」が固く約束されている。私たちはもう一度、この憲法があることの意味を問い直していく必要がある。時代にそぐわないからと憲法を改正しようとする動きは、決して許されることではない。
 私は、青年団平和集会で、広島と長崎を訪れたことがある。両方とも今でこそ美しい都市であるが、大地の底からは、被爆者の悲痛な叫びが聞こえてきそうだった。57年前の戦争はまだ終わってはいない。日本、そして世界に真の平和が訪れない限り、被爆者の人たちは救われない。私たち青年が、21紀を正しい歴史の歯車で回せるよう、平和への旗をしっかりと受け取っていきたい。 川浦直子さん(31歳、群馬県青年団連合会会長)
 


・被爆者より(2002.8)

 私は中学2年(14)の時、爆心地から1.8キロの学徒動員先で被爆しました。1年生400余人は疎開作業で中心街にいて、全員が死亡しました。
 今年また一人の高校生との出会いが生まれました。彼女の名前は鳴海かおるさん。小学校の時、母と広島を訪れ、中学生の頃に被爆体験を聞き、平和への関心を持つようになり、今年高校の学園祭(テーマは「平和〜PEACE OF MIND」)に「原爆と人間展」のパネル展示を企画しました。アメリカでの同時多発テロとアフガニスタンへの報復攻撃…こうした現実に直面して「本当の平和」とはどういうものか今一度考えてみたかったといいます。
 鳴海さんは現在、米シアトルに滞在中で8月6日〜9日も同市で過ごすことになっていおり、「アメリカの人にも原爆の非人間的な実態がわかってもらえるよう、つたない英語ですが話してみたい」と語っています。
 57年前、13〜14歳で果てた生命の無念さを、いま若者が「平和」の尊さを世界に向かって語り初めていることに期待しています。
  中村悦雄さん(北海道)
 


・青年より(2002.9)

 こんにちは。ぼくは神奈川で学生平和ゼミナールを作り平和を広げるために活動しています。ぼくが平和の大切さ、核兵器の危険性を強く意識したのは中学生の時に参加した原水爆禁止世界大会がきっかけでした。なかでも被爆者の方から聞いた被爆体験、そして「日本を本当の意味で被爆国にしたい」という言葉が強烈に印象に残っています。この時、平和は「ただ存在するもの」ではなく「自分たちが作り上げるべきもの」なんだと気付きました。
 そういう意味で、ぼくにとって平和の取り組みを始める原点となったのが世界大会であり、被爆者の方との出会いでした。今年の世界大会に参加し仲間と共に被爆体験を聞きました。「知らなかった。二度と繰り返したくない」と涙を浮かべて話していた参加者…。真実を知ることの大切さを再度実感しました。
 被爆者の方から「君たちが私たちの体験を語り継げる最後の世代」と言われ、思いを新にしています。過去の過ちを繰り返さないために、未来へ真実を伝えて行きたいと思ってます。
  塚田真一さん(21歳・神奈川学生平和ゼミ代表)


・被爆者より<2002.11>

 私は10歳のとき被爆し、母と姉は黒焦げになり、兄は3日後に「死にたくない」という言葉を残して冷たくなってゆきました。8歳の妹と1歳の甥と3人助かったのですが、妹も病気に負け自らの生命を絶ちました。
 現在でも放射線の後遺症のため、肉を切り骨を削って苦しみながら生きている被爆者はたくさんいます。
 このような苦しみは私たちで終りにしてください。
 昨年の9・11テロ事件以降、アメリカは核兵器を使ってでもテロを撲滅すると言っています。様々な紛争のニュースにふれるたびに、核兵器が人間にどんな被害をもたらすのか、多くの人々に真実を伝えつづけねばならないと思います。
 核兵器は決して使ってはいけない兵器です。「長崎を最後の被爆地」として、地球上から核兵器を廃絶することを訴えたいと思います。
 若いみなさんには、どうぞ過去に目をつぶらず現在を見つめ未来に向かって、何をすべきか、何をしなければならないか、お互いに考え、力を出し合って行動してほしいと、心から願っています。 
 下平作江さん(長崎)


・青年より(2002.12)

 私は修学旅行で長崎を訪れました。長崎の街を歩き、平和公園に立っても、57年前本当にこの地に原爆が落とされたのだ、という実感はわきませんでした。原爆資料館を見学した後も、原爆がもたらした物的なものは目で見て感じることができましたが、当時の被爆者たちの生活や心情などはあまり伝わってきませんでした。
 しかし、実際に語り部として活動しておられる被爆者の方にじかにお話をうかがったとき、その思いは一変しました。
 事前学習や原爆資料館の展示物などから私が想像していた原爆とはあまりに被害の大きさが違いました。とくに人体に及ぼされた被害については詳しく知らなかったため、お話を聞き、その悲惨さ、恐ろしさ、悲しさに涙が止まりませんでした。全身真っ黒にこげた母や姉、そして友人たちの中を、私より幼い子どもが生きていったなんて、私には怖くて怖くて想像もできません。ましてそれが、たった57年前の出来事だったなんて、本当に信じられない思いでした。
 「人が人として死ねなかった」、そのことが本当によくわかりました。何か今までとは違った原爆の本当の恐ろしさというものが、私の心の中にずしんと重みを持ったような感じがしました。
 歴史はくり返すとよく言われます。しかし、原爆の歴史は絶対にくり返してはならないと強く思いました。そのために私も何かをしなくてはいけない、という思いがわき起こってきました。
 広島・長崎だけが原爆の愚かさを訴えるのではなく、その他の地域に住んでいる私たちも唯一の被爆国日本として一つになり、世界中の核保有国に核廃絶を訴えていかなくてはならないと思います。
 そのためにも日本人が原爆のことをもっとよく知るべきではないでしょうか。知識だけでなく心でも原爆を理解しなくては、本当の恐ろしさを他の国々に伝えることはできないと思います。
 私は今回、被爆者の方からなまのお話を聞くという貴重な体験をすることができました。しかし今後、私たちのように実際にお話を聞くことができる機会は減ってゆくと思います。だから私は、今回聞いたお話をできるだけ多くの人に伝えようと思います。
 私には大きなことはできないけれど、原爆の恐ろしさを知らない人々に被爆者の方から聞いたお話を伝えるということから、少しずつ平和の輪が広がっていって欲しいです。
   岸 加那子さん(埼玉県立川越女子高校二年)


・被爆者より<2003.2>

破滅するのか、生存するのか迫られる私自身の行動  
 
 足を踏みはずした私は、軍隊が出動して積み上げていた死体の山へ横倒しに倒れてしまいました。感じてはならないことを感じさせられた少年の私の心は、固く凍りついてしまいました。どす黒い血の色に染まる夕暮れ時の光のない西の空。それはムンクの描いた「叫び」の絵にもまして絶望的な光景の中にいました。
 被爆者のだれもが「あの時は地獄だった」といいます。地獄としか言いようのない絶望的な世界を見てしまったのです。
 私は、死んでしまった自分がさ迷い、ここに立っているように思えて仕方がありませんでした。ここでも私は、〈人類破滅の日〉〈この世の終り〉の光景を見ました。
 被爆者は、半世紀以上も前に、核兵器による「地球の最後」「人類破滅」「この世の終り」を実感し、予感させられたのです。
 被爆者の証言に感動し、原爆投下の歴史的意味を理解しても、それだけで直ぐに核兵器廃絶、核戦争阻止の力とはなりません。それを実現させる有効な行動実践とは、いったい何をすることなのでしょうか。
 被爆者自身も、若い人たちにも共通する大課題ではないでしょうか。
 田川時彦さん(東京)

・青年より(2003.3)

真実が持つ圧倒的な力

 名前の付けられた光景が言葉とともに腐り、やがて消えていく一方、真実はいつも私たちを突き動かす力を持っています。
 広島・長崎を外国人に説明するとき、私は「地獄」「世の終わり」といった言葉を並べがちになります。しかし、「死体の山へ横倒しに倒れてしまいました」という田川さんの一文だけで、からだに戦慄が走るのはなぜでしょう。
 それは真実の持つ力が私たちを圧倒し、飲み込むからだと思います。
 とくに、広島・長崎をリアルタイムで知らない私のような世代を本当に打つのは、詳細な事実の蓄積です。
 被爆者の体験や原爆投下の意味を教えることは、短時間で効果の現れる活動方法とは言えないかも知れません。
 しかし、私たちを突き動かす力は、やはり、ありのままの広島・長崎を語ることではないかと思います。
 真実の戦争・原爆体験を今のイラクやアフガニスタンと重ね見るとき、核兵器廃絶の願いは、世界で起きている反戦運動と通底していくのではないでしょうか。
  橋間素基さん(24歳・記者)

・被爆者より<2003.4>

語ることは被爆者の責務

 去年11月に『15歳のナガサキ原爆』(岩波ジュニア新書)という本を出版しました。その時、いろんな方にあって話を聞いたのですが、強く感じたのは、若い人たちの被爆についての関心の希薄さです。意識的な被爆者の方々が、大変な努力で被爆体験を伝えていこうとされているにもかかわらず、被爆体験が若い人たちに根づかなかったのかという絶望感をもちました。 
 私と同世代の被爆者の中にも、聞かれれば話すけれど、自分からは、孫にも被爆体験は話さないという人が多勢います。
 被爆者が自分の孫にも被爆した話をしないというのでは、被爆体験が次の世代に伝わっていくはずはありません。
 かろうじて生き残った私たちは、原子爆弾で殺された人たちにかわって、原子爆弾で攻撃されると人間はどうなるのか、ということを、語り続けていかなければなりません。また原爆の話かと、シラけられるかもしれませんが、21世紀を生きていく人たちの頭の中に「原爆とあらゆる戦争に反対する」と刷り込むことが、私たち生き残った被爆者の責務だと思います。  本紙前号で、24歳の橋間素基さんがいっているように「ありのままの広島・長崎を語ること」が、若い人たちを動かすことになると信じようではありませんか。
 渡辺 浩さん(映像評論家・カメラマン)
 

・青年より(2003.5)

被害に対する想像力を

 私の父は前号の渡辺浩さんの一年後輩です。『はだしのゲン』を読んだり、父の被爆体験を聞いて育ってきこともあり、私自身は、反核平和への思いを強く持っています。
 しかし、私の世代やさらに若い人たちには、渡辺さんが言われるように戦争・被爆体験に「無関心」な人が多いと思います。
 今の若者は、まともな近現代史教育を受けていません。多くは親も戦争非体験世代です。戦争も原爆も、今の若者にとっては過去のこと、自分とは無関係な歴史的事実の一つに過ぎないのかもしれません。
 その一方で、イラク反戦運動に多くの若者が参加しています。受験競争型詰め込み教育の下で自信と元気をなくしている若者たちは、無法な戦争の下で無残に殺されてしまうかもしれないイラクの子どもたちと自分たち自身を、本能的に重ね合わせているのではないか。私にはそんな気がしてなりません。
 こうした若者たちの反戦平和への思いと戦争・被爆体験は、重ね合わせることができると思います。戦争を防ぐ一番の力は、戦争・被爆体験の継承を含めた、戦争の被害に対する想像力を深めることではないでしょうか。 
 吉田ふみおさん(32歳・被爆二世)

・被爆者より<2003.10>

若い人に読ませたい被爆体験

 永年書き続けてきた広島での体験をもとにした小説『太田川─ヒロシマの焔を映して』(民衆社刊)が、この8月6日ようやく世に出ました。93歳の処女作です。
 この『太田川』に対して、目を疑いたくなるような思ってもみなかった賛辞が寄せられ、とまどっているところです。
 私が『太田川』でお伝えしたかったことは、原爆の残虐な実像であり、戦争の真の姿でした。
 国鉄で働くうら若い女性主人公が、あの”地獄以上の地獄”の中を3日間、深い傷を負いながら必死に生きようと、逃げまどう中で出会った、数え切れない惨禍を、私の筆の力の限り描ききったつもりです。
 しかし、あまりに残酷、悲惨な体験や情景には、戦争を知らない人たちは目を閉ざしてしまうのでは、という意見もあり、割愛させてもらった個所がいくつもありました。
 そうした杞憂をよそに、中学生から年配者まで、多くの方々からご感想をいただきました。とくに、「他に類を見ない迫真のドキュメント」(東葛看護専門学校校長の三上満氏)「日本語のわかるすべての人々に読んでもらいたい」(岩手の元教師スガワラ ヤスマサ氏)など教育者からお声をいただいたことは大きな喜びでした。つくづく『太田川』を出してよかったと思っております。
 私は、だれよりも若い方々にぜひ読んで頂きたいと願って、この本を書きました。しかし、若い方の知り合いは多くありません。どうか、学校の先生方、図書館などを通して中学生、高校生の手に届けられるよう、みなさんのご協力をお願いしたいと思っております。
〔民衆社はTel:03(3815)8141〕   黒木 庄平さん(千葉)

・青年より(2003.12)
 8月1日、広島平和公園に保存されていた折鶴が放火され、14万羽が焼失するという事件がありました。
 犯人は広島に来ていた大学生でした。「就職できず、むしゃくしゃしてやった」という身勝手な理由で、世界中の人が平和を祈って、原爆の子の像に捧げた千羽鶴は失われてしまったのです。
 事件後、インターネットの掲示板にこんな書込みがされました。
 「政治的信条は一切抜きにして、我々でこの事件の埋め合わせをしませんか? 終戦記念日までに14万羽の折り鶴をそろえ、広島に届けましょう」
 これがきっかけとなり、「14万羽折らないかプロジェクト」が発足しました。その後様々な人たちによって折り紙のサイズ、糸の通し方、送り先の指定など、具体的な内容が決められました。最終的に、地元でそれぞれ集まり鶴を折って都市ごとの支部に送り、そこで取りまとめるということになりました。直接参加できない人は、支部に直接郵送するわけです。このプロジェクトを見て、1人また1人と鶴を折る人が増えていきます。私もその1人でした。
 被爆者の父をもち、常日頃被爆当時の話を聞いて育った私は、このプロジェクトを知った6日に折り始めました。夏休みだったこともあり、母と一緒に200羽を折り、9日に広島に送りました。
 結果的に今回のプロジェクトで84万羽の鶴が集まり、うち26万羽が15日に広島の同志たちにより直接平和公園に献鶴され、後日すべての折り鶴が捧げられました。
 正直に言えば、鶴を折り始めたのは掲示板の雰囲気もありました。しかし鶴を折りながら原爆の悲惨さ、平和の大切さなど、普段あまり考えないことを考えることができました。きっかけはともかく、私にとっても、プロジェクトに参加された他の方々にとっても、今回のことは少なからず心に変化をもたらしたと思います。
 日本の若者の中では戦争はほとんど風化しています。しかし、忘れたわけではありません。事実今回のプロジェクトに賛同し、参加してくれた人がこんなにもいるのです。
 私は、この夏のことを一生忘れません。  (17歳・被爆二世)

・被爆者より<2004.4>  
 小泉内閣はイラクへの自衛隊派兵を強行、日本を戦争する国に変えようとしています。  憲法九条を守れ、核兵器なくせの国民世論を広めるために、原爆被害の実相を語り伝える活動は、改めて重要になっています。
  本紙1月号で「原爆・戦争体験を現代につなげる」の見出しで、新春座談会が掲載されました。この中で3人の青年のいずれもが、戦争・被爆体験者から被害の実相を聞くことによって、平和運動の大切さを自覚し、聞きとった体験を、語り伝える運動に参加していると話されています。
  被爆者の話は、子供たちの平和教育にも大きく役立っています。  小学校であれ中学校であれ、被爆体験の話を頼まれて学校に行くと、初対面の校長先生は、どこでも「うちの学校の生徒は行儀が悪く、お話の途中で御迷惑をかけることを心配しています」と、釘をさされます。
  ところが、体育館に全校生徒が集まり、被爆者が「あの日」の実相を語り始めると、子供たちは一瞬にして静かになり、目を輝かせて真剣に聞き入ります。話が終わって校長室に戻ると、校長も先生たちも「子供たちの真剣な姿に私たちが感動しました」と言われるのです。
  私たちは一昨年から三重大学の学生と交流を始めています。最初は被爆体験を聞く会で、「初めて聞く話です」といっていた学生が、今では自ら計画して学校の食堂で、「原爆展」を開催しています。被爆者はこうした青年たちの自発的な行動に何よりも励まされます。 嶋岡静男さん(三重県)

・被爆者より<2004.6>
 広島で生まれ、広島で育った私が、何もかも失い、実姉にいる信州松本に来たのはその年の9月末のこと。どん底の生活が続き、手足を切り取った方がよほど楽になるのではないかと思うほどの毎日でした。  
  3・1ビキニ被災のとき初めて放射能にやられているのではないかと気づきました。
  「俺はいつ死ぬかわからない。残った家族が何とか食べていけるように小さな食堂でも」と思い、1961年6月に、なんとか店を形にできました。屋号をどうするか悩んでいる時に、甥が「おじちゃんはゲンバク、ゲンバクといつも言っているのだから、あっさりピカドンにしたら」と冗談半分に言ったのです。「ピカドン」の誕生でした。
  「度胸がいいな」という人もいますが、恐れることもないし、「ピカドン」と名づけたためにわざわざ話を聞きたいという人もあり、広島や大阪などからマスコミの取材もありました。相当な反響があったようで、たまたまでしょうが、郵便が「長野県ピカドン様」で届いたこともあります。
  「ピカドン」と名づけて本当に良かった。年老いた満身創痍の体ですが、ふたたび被爆者をつくらないよう、命のある限り頑張り続けたいと思います。前座良明さん(長野県)
・青年より(2004.7)
 私は現在、仕事をするかたわら、大学院で長崎市の戦後復興について研究しています。テーマは戦後、平和公園がいかにつくられていったのか、また、つくられていく過程でどのような議論が交わされたのかを記録・分析し、そこから戦後復興期における慰霊・平和思想の変化を読み取っていくことです。  被爆体験に比較すると戦後体験の記録は相対的に少ないと感じていて、とりわけ一九九六年に長崎市で巻き起こった原爆中心地碑撤去問題に接して以降、この気持ちが強くなりました。  戦後世代の我々に、被爆以上に壮絶だったかもしれない戦後の精神的苦痛を理解することができるのか、これは決してかんたんに答えのでる問いではありません。しかし、平和公園がつくられていく過程をたどりながら、少しでも想像力をたくましくしていきたいと目下、奮闘中です。  長崎市の平和公園の形成過程については不透明な部分が多々残されています。詳細についてご存知の方には、ぜひとも紙上で思いを語っていただければと考えています。
   末廣眞由美さん(
東京大学大学院)


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