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・被爆者より(2002.4)
原爆投下は米国によるテロ行為であった。原爆慰霊碑に赤ペンキをかけた行為も、テロに等しい絶対悪である。まさに、死者への冒涜であった。
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・青年より(2002.5)
高橋さんは、21世紀に生きる人々へ、「ヒロシマ(・ナガサキ)を原点」として日本や世界の「20世紀の負の遺産」に目を開くことを訴えられた。 |
・被爆者より(2002.6) 世界戦略への軍事分担を求めるアメリカの有事に際し、日本を「弾よけ」として利用しようというのが今度の有事法案だ。これはやがて戦争への道である。日本の憲法の精神は、戦争放棄であり、平和憲法なのに。 |
・青年より(2002.7)
「有事法制」が制定されようとされ、国内でさまざまな議論をよんでいる。「備えあれば憂いなし」ということであるが、過去の「戦争」という過ちを再びくり返すすのではないかという危ぐを拭いさることができない。 |
・被爆者より(2002.8) 私は中学2年(14)の時、爆心地から1.8キロの学徒動員先で被爆しました。1年生400余人は疎開作業で中心街にいて、全員が死亡しました。 |
・青年より(2002.9) こんにちは。ぼくは神奈川で学生平和ゼミナールを作り平和を広げるために活動しています。ぼくが平和の大切さ、核兵器の危険性を強く意識したのは中学生の時に参加した原水爆禁止世界大会がきっかけでした。なかでも被爆者の方から聞いた被爆体験、そして「日本を本当の意味で被爆国にしたい」という言葉が強烈に印象に残っています。この時、平和は「ただ存在するもの」ではなく「自分たちが作り上げるべきもの」なんだと気付きました。 |
・被爆者より<2002.11> 私は10歳のとき被爆し、母と姉は黒焦げになり、兄は3日後に「死にたくない」という言葉を残して冷たくなってゆきました。8歳の妹と1歳の甥と3人助かったのですが、妹も病気に負け自らの生命を絶ちました。 |
・青年より(2002.12) 私は修学旅行で長崎を訪れました。長崎の街を歩き、平和公園に立っても、57年前本当にこの地に原爆が落とされたのだ、という実感はわきませんでした。原爆資料館を見学した後も、原爆がもたらした物的なものは目で見て感じることができましたが、当時の被爆者たちの生活や心情などはあまり伝わってきませんでした。 |
・被爆者より<2003.2> 破滅するのか、生存するのか迫られる私自身の行動 |
・青年より(2003.3)
真実が持つ圧倒的な力 名前の付けられた光景が言葉とともに腐り、やがて消えていく一方、真実はいつも私たちを突き動かす力を持っています。 |
・被爆者より<2003.4>
語ることは被爆者の責務 去年11月に『15歳のナガサキ原爆』(岩波ジュニア新書)という本を出版しました。その時、いろんな方にあって話を聞いたのですが、強く感じたのは、若い人たちの被爆についての関心の希薄さです。意識的な被爆者の方々が、大変な努力で被爆体験を伝えていこうとされているにもかかわらず、被爆体験が若い人たちに根づかなかったのかという絶望感をもちました。 |
・青年より(2003.5)
被害に対する想像力を 私の父は前号の渡辺浩さんの一年後輩です。『はだしのゲン』を読んだり、父の被爆体験を聞いて育ってきこともあり、私自身は、反核平和への思いを強く持っています。 |
・被爆者より<2003.10> 若い人に読ませたい被爆体験 永年書き続けてきた広島での体験をもとにした小説『太田川─ヒロシマの焔を映して』(民衆社刊)が、この8月6日ようやく世に出ました。93歳の処女作です。 この『太田川』に対して、目を疑いたくなるような思ってもみなかった賛辞が寄せられ、とまどっているところです。 私が『太田川』でお伝えしたかったことは、原爆の残虐な実像であり、戦争の真の姿でした。 国鉄で働くうら若い女性主人公が、あの”地獄以上の地獄”の中を3日間、深い傷を負いながら必死に生きようと、逃げまどう中で出会った、数え切れない惨禍を、私の筆の力の限り描ききったつもりです。 しかし、あまりに残酷、悲惨な体験や情景には、戦争を知らない人たちは目を閉ざしてしまうのでは、という意見もあり、割愛させてもらった個所がいくつもありました。 そうした杞憂をよそに、中学生から年配者まで、多くの方々からご感想をいただきました。とくに、「他に類を見ない迫真のドキュメント」(東葛看護専門学校校長の三上満氏)「日本語のわかるすべての人々に読んでもらいたい」(岩手の元教師スガワラ ヤスマサ氏)など教育者からお声をいただいたことは大きな喜びでした。つくづく『太田川』を出してよかったと思っております。 私は、だれよりも若い方々にぜひ読んで頂きたいと願って、この本を書きました。しかし、若い方の知り合いは多くありません。どうか、学校の先生方、図書館などを通して中学生、高校生の手に届けられるよう、みなさんのご協力をお願いしたいと思っております。 〔民衆社はTel:03(3815)8141〕 黒木 庄平さん(千葉) |
・青年より(2003.12) 8月1日、広島平和公園に保存されていた折鶴が放火され、14万羽が焼失するという事件がありました。 犯人は広島に来ていた大学生でした。「就職できず、むしゃくしゃしてやった」という身勝手な理由で、世界中の人が平和を祈って、原爆の子の像に捧げた千羽鶴は失われてしまったのです。 事件後、インターネットの掲示板にこんな書込みがされました。 「政治的信条は一切抜きにして、我々でこの事件の埋め合わせをしませんか? 終戦記念日までに14万羽の折り鶴をそろえ、広島に届けましょう」 これがきっかけとなり、「14万羽折らないかプロジェクト」が発足しました。その後様々な人たちによって折り紙のサイズ、糸の通し方、送り先の指定など、具体的な内容が決められました。最終的に、地元でそれぞれ集まり鶴を折って都市ごとの支部に送り、そこで取りまとめるということになりました。直接参加できない人は、支部に直接郵送するわけです。このプロジェクトを見て、1人また1人と鶴を折る人が増えていきます。私もその1人でした。 被爆者の父をもち、常日頃被爆当時の話を聞いて育った私は、このプロジェクトを知った6日に折り始めました。夏休みだったこともあり、母と一緒に200羽を折り、9日に広島に送りました。 結果的に今回のプロジェクトで84万羽の鶴が集まり、うち26万羽が15日に広島の同志たちにより直接平和公園に献鶴され、後日すべての折り鶴が捧げられました。 正直に言えば、鶴を折り始めたのは掲示板の雰囲気もありました。しかし鶴を折りながら原爆の悲惨さ、平和の大切さなど、普段あまり考えないことを考えることができました。きっかけはともかく、私にとっても、プロジェクトに参加された他の方々にとっても、今回のことは少なからず心に変化をもたらしたと思います。 日本の若者の中では戦争はほとんど風化しています。しかし、忘れたわけではありません。事実今回のプロジェクトに賛同し、参加してくれた人がこんなにもいるのです。 私は、この夏のことを一生忘れません。 (17歳・被爆二世) |
・被爆者より<2004.4>
小泉内閣はイラクへの自衛隊派兵を強行、日本を戦争する国に変えようとしています。 憲法九条を守れ、核兵器なくせの国民世論を広めるために、原爆被害の実相を語り伝える活動は、改めて重要になっています。 本紙1月号で「原爆・戦争体験を現代につなげる」の見出しで、新春座談会が掲載されました。この中で3人の青年のいずれもが、戦争・被爆体験者から被害の実相を聞くことによって、平和運動の大切さを自覚し、聞きとった体験を、語り伝える運動に参加していると話されています。 被爆者の話は、子供たちの平和教育にも大きく役立っています。 小学校であれ中学校であれ、被爆体験の話を頼まれて学校に行くと、初対面の校長先生は、どこでも「うちの学校の生徒は行儀が悪く、お話の途中で御迷惑をかけることを心配しています」と、釘をさされます。 ところが、体育館に全校生徒が集まり、被爆者が「あの日」の実相を語り始めると、子供たちは一瞬にして静かになり、目を輝かせて真剣に聞き入ります。話が終わって校長室に戻ると、校長も先生たちも「子供たちの真剣な姿に私たちが感動しました」と言われるのです。 私たちは一昨年から三重大学の学生と交流を始めています。最初は被爆体験を聞く会で、「初めて聞く話です」といっていた学生が、今では自ら計画して学校の食堂で、「原爆展」を開催しています。被爆者はこうした青年たちの自発的な行動に何よりも励まされます。 嶋岡静男さん(三重県) |
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・被爆者より<2004.6> 広島で生まれ、広島で育った私が、何もかも失い、実姉にいる信州松本に来たのはその年の9月末のこと。どん底の生活が続き、手足を切り取った方がよほど楽になるのではないかと思うほどの毎日でした。 3・1ビキニ被災のとき初めて放射能にやられているのではないかと気づきました。 「俺はいつ死ぬかわからない。残った家族が何とか食べていけるように小さな食堂でも」と思い、1961年6月に、なんとか店を形にできました。屋号をどうするか悩んでいる時に、甥が「おじちゃんはゲンバク、ゲンバクといつも言っているのだから、あっさりピカドンにしたら」と冗談半分に言ったのです。「ピカドン」の誕生でした。 「度胸がいいな」という人もいますが、恐れることもないし、「ピカドン」と名づけたためにわざわざ話を聞きたいという人もあり、広島や大阪などからマスコミの取材もありました。相当な反響があったようで、たまたまでしょうが、郵便が「長野県ピカドン様」で届いたこともあります。 「ピカドン」と名づけて本当に良かった。年老いた満身創痍の体ですが、ふたたび被爆者をつくらないよう、命のある限り頑張り続けたいと思います。前座良明さん(長野県) |
・青年より(2004.7) 私は現在、仕事をするかたわら、大学院で長崎市の戦後復興について研究しています。テーマは戦後、平和公園がいかにつくられていったのか、また、つくられていく過程でどのような議論が交わされたのかを記録・分析し、そこから戦後復興期における慰霊・平和思想の変化を読み取っていくことです。 被爆体験に比較すると戦後体験の記録は相対的に少ないと感じていて、とりわけ一九九六年に長崎市で巻き起こった原爆中心地碑撤去問題に接して以降、この気持ちが強くなりました。 戦後世代の我々に、被爆以上に壮絶だったかもしれない戦後の精神的苦痛を理解することができるのか、これは決してかんたんに答えのでる問いではありません。しかし、平和公園がつくられていく過程をたどりながら、少しでも想像力をたくましくしていきたいと目下、奮闘中です。 長崎市の平和公園の形成過程については不透明な部分が多々残されています。詳細についてご存知の方には、ぜひとも紙上で思いを語っていただければと考えています。 末廣眞由美さん(東京大学大学院) |