日本被団協の40年の歩み(略史)


 日本被団協は、原爆被爆者の全国組織です。原爆被爆者とは、第2次世界大戦末期の1945年8月6日に広島で、9日には長崎で、アメリカ空軍のB29戦略爆撃機が投下した1発ずつの原子爆弾で被害を受けた人たちのことです。  原爆で当日殺された人、年内にもだえ死んだ人が広島で約14万人、長崎で7万人。その後苦しみながら死んでいった人をふくめ、1995年度末までに亡くなった被爆者は約34万人、いま生存している被爆者は約32万人です。  被爆者は、日本全国に住んでおり、47都道府県に被爆者の会があります。これらの都道府県の会があつまってつくっているのが、略称「日本被団協」、フルネームでは「日本原水爆被害者団体協議会」です。

 日本被団協は、1956年8月10日、長崎で結成されました。この日は、第2回原水爆禁止世界大会が開かれているときでした。この世界大会は、1954年3月1日にアメリカが太平洋のビキニ水域で行なった水爆実験(アメリカはこの実験をブラボー実験とよんでいます)をきっかけに開かれるようになったものです。3・1ビキニ水爆被災事件といわれるこの実験で、この海域で操業中の日本漁船約860隻が放射能を含んだ「死の灰」をあびました。マグロ漁船・第5福竜丸では、乗組員16人全員が「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さんが急性放射線障害による白血病で亡くなりました。

 この海域で獲れたマグロが、水爆の放射線によって、濃厚に汚染されていることが分かって、日本中が大騒ぎとなりました。海に囲まれている日本が、魚が食べられなくなったら大変です。「放射能汚染マグロはごめんだ」という声がわき上がり、「水爆実験を禁止せよ」の署名運動が遼原の火のように広がりました。こうして「原水爆禁止日本協議会」が結成され、1955年8月6日に原水爆禁止世界大会が広島で開催され、翌年長崎で第2回大会が開催されました。

 原爆被爆者は、この原水爆禁止運動がおきるまで、放置されていました。アメリカ占領軍からも日本政府からも、被爆者には何の援助もありませんでした。アメリカ軍の占領下では、被爆の実相を語ったり、書いたりすることは厳重に禁止されていました。1951年のサンフランシスコ講和条約の締結のさい、日本政府は、原爆投下に対する損害賠償権も放棄しました。被爆者は、健康と財産を失い、社会的偏見で差別され、社会の片隅で、体を小さくして生きていました。  こうしたなかでおきた原水爆禁止運動でした。被爆者はこの高揚に励まされ、被爆から10年目になって、やっと「生きていてよかった」と思い、全国的に結集していったのです。

 日本被団協結成大会では、5つの要求を採択しました。

1)原水爆の禁止
2)国家補償の援護法の制定
3)被爆者の自立・更生
4)遺家族の生活補償
5)原水爆による国民生活の安定保証
大会は、結成宣言「世界への挨拶」を世界に発しました。

 その日から40年間、日本被団協は、被爆者の唯一の全国組織として、核兵器の廃絶と、原爆被害への国家補償を要求し、被爆者のいのち、くらし、こころの相談・世話活動の推進に努めてきました。

 被爆者と国民各層の支援で、1957年、被爆から12年も経って、初めて、被爆者の医療について施策する「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)が制定されました。この法律はその後14回も、日本被団協などの要求で改正されました。

 1967年には、病気に苦しむ被爆者に手当を支給する「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」(原爆特別措置法)が制定されました。この法律も、運動のなかで19回も改正されました。

 しかし国は、被爆者対策を社会保障の枠内にとどめ、原爆投下にいたった戦争責任を反省せず、国際法違反の原爆投下責任を追及することもしようとはしませんでした。

 日本被団協は、原爆被害の特質から国家補償の援護法を制定するべきであるとして、1966年10月に『原爆被害の特質と被爆者援護法の要求』(略称=つるパンフ)を発表し、72年4月には『原爆被爆者援護法のための要求骨子』を発表。政党各党に援護法案づくりを要請しました。これに応えて74年3月に野党4党共同の援護法案が衆議院に提出されました。野党援護法案の提出・審議には、その後いろいろな経過がありましたが、合計13回、国会に法案として提出されました。

 日本被団協は、全国の被爆者の相談相手となり励ましあい、要求を実現する運動を国内外に広げるため、76年5月31日に機関紙「被団協」を創刊しました。 新聞「被団協」 は79年6月から月刊となり、79年12月7日、第三種郵便物の認可をうけました。

 日本被団協はまた、被爆者の相談に応じ、指導・助言、その他援護に必要な活動を行なうため、76年9月19日には、被爆者中央相談所を発足させました。相談所は78年3月30日、社団法人と認可されました。

 この間に、韓国から密入国した被爆者・孫振斗に対し、被爆者健康手帳を交付できるかどうかについての最高裁判所判決があり、「原爆医療法」の根底には「国家補償的配慮がある」として手帳を交付すべきだとの判決を下しました(78年3月30日)。これにあわてた国・厚生省側は、厚生大臣の私的諮問機関として「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(略称=基本懇)をつくり、戦争による犠牲は「すべての国民がひとしく受忍しなければならい」として、原爆犠牲にも「受忍」を強いる答申を出させました。(1980年12月11日)

 これにたいし日本被団協は「原爆被害がどうして受忍できようか」と、全国の被爆者に討論を呼びかけて、意見を募り、検討を重ねて 「原爆被爆者の基本要求」 をまとめ、1984年11月に発表しました。これは今日でも、被爆者運動の゛憲法゛と位置づけられ、活用されています。

 日本被団協はまた、「受忍」できない被爆の惨害を明らかにするため、1985年11月に、全国1万3000人の被爆者を対象にして「原爆犠牲者調査」を行ないました。この調査は、被爆から40年経ってもなおつづく原爆被害の恐るべき実態を明らかにし、被爆者の願いが核兵器の廃絶と国家補償の被爆者援護法であることを裏付けました。この調査の「自由記載欄」に書き込まれた被爆者のことばは、和文、英文4冊ずつの本にまとめられています(「日本被団協編集・発行の資料」欄参照)。

 1988年には、この調査をもとに、「HIBAKUSYA」パンフが、日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語の組み合わせでつくられて海外に大量に普及されました。これは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、エスペラント、ロシア語、中国語にも翻訳され、世界中に普及・活用されています。

 NGOフォーラム(1988年4月)、SSD III(第3回国連軍縮特別総会=88年6月)に向けて被爆の実相を普及するための英文の「原爆被害者の訴え(88文書)」も作成され、代表団によって普及・活用されました。

 野党提案の国家補償を明確にした被爆者援護法案が12回目に提出されたのは、参議院選挙で与野党逆転となり、野党が多数となったときでした(1992年4月)。参議院の野党6会派は共同提案者となり、与党側委員の質問に答えて委員会審議を終え、本会議で初めて、賛成多数で可決されました。議場からも、傍聴席からも万歳の声があがりました。しかしこのときも、衆議院では期限切れ廃案となりました(同年6月)。

 13回目に提出した法案も衆議院解散で廃案になりました。その時の衆議院選挙で、自民党が大きく後退、与野党が逆転、連合政権となりました。この時点で、ようやく政府レベルでの協議が「援護法に関するプロジェクト」として始まりました。これも、政党間の組み合わせで紆余曲折がありました。

 日本被団協が全国の被爆者・支援者とともに集めた被爆者援護法制定を求める国会請願署名は94年11月末までに1001万、地方議会の被爆者援護法制定促進決議は2465(75%)、国会議員の被爆者援護法制定賛同署名は衆議院351(69%)、参議院171(68%)に達していました。

 NHKなどの世論調査でも、「被爆者援護法をつくるべきだ」という世論は80%前後という高率を記録しました。

 こうした国民世論を背景に、被爆50周年を目前にした1994年11月、村山政権は「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を閣議決定し、12月2日にはこれを衆議院で、9日には参議院で可決、16日公布しました。

 この法律は、1945年8月6日、9日の原爆投下時までさかのぼって、原爆による死没者、および被爆者手帳をうける条件にあった死没者には、死因を問わずに「特別葬祭給付金」(2年償還の国債で10万円)を支給する対象者としたこと、諸手当の所得制限を撤廃したことなど、国家補償の要素を含むものではありました。

 しかし、国家補償の法律とはならなかったため、「ふたたび被爆者をつくらない」「核兵器は国際法違反」という国の態度が明確でなく、施策面でも特別葬祭給付金の受給資格者を被爆者手帳を持っているものに限るとか、外国人被爆者を排除するなどの矛盾、欠陥が残りました。

 核兵器を廃絶し、ふたたび地球上に被爆者をつくらないための運動では、日本被団協は世界各国で活躍しました。日本被団協として正式に代表団を派遣した国は29カ国。国連、ニューヨーク・スイスのNGOへの代表派遣も数次にわたりました。日本被団協が文書で要請した国は、128カ国におよびます。他団体とともに被爆者が遊説した国の数は数えることができないくらいです。

 日本被団協の精力的な核兵器廃絶への努力に対し、IPB(世界平和ビュロー)は1985年と1994年の2回、日本被団協をノーベル平和賞の候補に推薦しました。94年のときは「受賞を逸した」からと、重ねて推薦したものです。

 被爆の実相普及を中心にしたこうした海外活動で、95年10月には国際司法裁判所での核兵器を裁く裁判が始まり、96年4月には南太平洋全域が非核兵器条約地帯となり、7月には国際司法裁判所で「核兵器の使用と威嚇は一般的には国際法違反」であり、「各国は核軍縮交渉を誠実に推進し、同交渉をまとめる義務が存在する」という「勧告的意見」が出されました。これをうけて12月の国連総会は、「核兵器廃絶条約締結のための多国間交渉を開始する」ことと、「1999年にSSDIV(第4回国連軍縮特別総会)を開くための合意づくりを行なう」決議を賛成多数で採択。4月21日からの国連第1委員会でその協議が始まります。
 

 日本被団協は1996年10月、結成40周年を祝う式典とレセプションを行ないました。被爆52年目を迎えて、日本被団協はいま、「核兵器をなくせ、原爆被害に国家補償を 21世紀をめざす国民運動」を起こしています。この運動は、被爆の実相普及を基礎に、日本政府に「核兵器は国際法違反と明言せよ」、「被爆者援護法を国家補償の法律に改正せよ」とせまり、同時に、緊急改善要求をだして、現行施策の改善・改正をせまるものです。国民運動としての行動は次の諸項です。

1)核兵器廃絶の国際条約を締結せよ、原爆被害への国家補償、非核3原則の法制化を求める1000万人の国会請願署名
2)地方自治体の首長と議長に、1)と同じ項目での賛同署名をしていただく
3)「原爆と人間展」と題する原爆展を全国各地で、大々的な規模で開催する
4)被爆体験の聞き書き語り残し運動をひろげる
  を重点にしています。

 被爆の実相普及のため、インターネットを通じて日本被団協 の情報を国の内外に発信すること、「原爆と人間展」という原爆パネルをつくって原爆展を開催すること、被爆体験の聞き書き・語り残し運動をすすめることに取り組んでいます。  
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