ショパン全作品を斬る
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- [37] ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21
1836年出版。
デルフィーヌ・ポトッカ夫人に献呈。
この年の暮れにショパンはポーランドを後にし、
結局故国に帰ることはなかった。
この年はピアノ協奏曲第1番と第2番という二つの大作が生まれた年だ。
その他にも多くの作曲があり、
意欲的な年である。
祖国を去る寂しさと野心が交錯し、
ショパンの創作活動に火をつけたかのようだ。
二つのピアノ協奏曲はポーランド時代のショパンの最後の代表作となった。
第2番は第1番ホ短調作品11より先に書かれたが、
出版順序は逆になった。
そうなった事情について後年ショパンは「当時協奏曲第2番のオーケストラ総譜が一時見あたらなくなったためだ」と言ったそうだ(
文献[1])。
仕事に追われて自分の草稿をどこにしまったかわからなくなるというところは、
何か大変親しみを覚える。
この第2協奏曲は規模の大きな第1番より繊細で唐草模様的である。
第1楽章は分散和音に独創性が目立つ。特に第99〜100小節右手、
二つのディミニッシュを重ねた分散和音が興味深い。
神秘的透明感のある和音で、
スクリャービンやバルトークが好んで使った和音。
構成上特徴的なのは再現部で管弦楽の第一主題が少し奏されただけでピアノの第一主題も省略されただちに第二主題に入ることである。
これは後年のピアノソナタ第2番や第3番それにチェロソナタなどで現れるショパン独特のソナタ形式
−展開部のあと第一主題でなくいきなり第二主題に入る−を先取りするものである。
この曲の白眉が第2楽章であることは論を待たない。
序奏の後のピアノの主題も素晴らしいが、
誰もが指摘するのは弦のトレモロに乗り高い音域から始まるオクターブユニゾンのレシタティーヴォ(第45〜72小節)で、ここは本当に鬼気迫る。
この手法はリスト「ピアノ協奏曲第1番」(1849〜56年)第157〜170小節や第390〜400小節のレシタティーヴォに受け継がれ、
ファリャ「スペインの庭の夜」(1909〜15年)第3楽章第41〜60小節や第186〜199小節のレシタティーヴォにも使われた。
そして現代に近い例としてはバルトーク「ピアノ協奏曲第3番」(1945年)冒頭弦のさざ波に乗る清冽な光の戯れのような主題の提示にも使われている。
この天才的手法をショパンは全くの無から発想したのだろうか?
特に管弦楽法が得意でないショパンなのに。
これは筆者の疑問の一つであった。
筆者はこの手法に影響を与えたであろう先人の作品を探した。
全く同じ手法は見あたらないが、
さしあたりベートーベン「ピアノ協奏曲第3番」(1800年)第2楽章第29〜31小節、
同じく「ピアノ協奏曲第1番」(1789年)第2楽章第44〜46小節や第115〜119小節、
レシタティーヴォではないがオクターブユニゾンが歌うモーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」第2楽章第99〜103小節が挙げられる。
そしてもっと直接的に雰囲気が近いのはモシェレス「ピアノ協奏曲ト短調」(1820年)第2楽章である。
モシェレスの曲との類似性は
文献[6]に指摘されている。
これはショパンの曲の10年前に作曲されているので、
おそらくショパンはこの曲を聴き、
さらにイマジネーションを膨らませたのではないかと思う。
もちろんショパンのこの曲の方がずっとインパクトが大きい。
これがなかったらリスト、ファリャ、バルトークのその部分もなかったかも知れない。
第3楽章はきらびやかなピアノに気を取られがちだが、
この楽章を聴いていて「おや?」と思うのはオーケストラ部で、
第141小節から始まる弦の伴奏のcol legno(コル・レーニョ:弓の背で奏すること)だ。
コル・レーニョはもともと17世紀に発明された技法であるが、
実際にはマーラーやコープランドなど近代・現代曲以外には滅多に見ない。
ショパンはオーケストレーションがうまくないという定説は特に否定はしないが、
この部分は面白いことをするものだ。
雰囲気的には第1協奏曲第3楽章第2主題の伴奏に近いが、
より効果的。
この第141小節からの伴奏に乗るピアノの音形は小終止(第177小節、第494小節)や展開(第353小節)に使われ、
エスニックな感じすらする。
またもう一ヶ所この楽章で気を引くのは、一貫した流れを止める第309〜316小節のクラリネットで、
安らぎの効果が絶大。
ベートーベン「運命」(1808年)第1楽章第288小節のオーボエのレシタティーヴォに通ずるものがある。
- [38] ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11
1833年出版。
カルクブレンナーに献呈。
ショパンとカルクブレンナーの逸話も有名だが、
今はとりあえず
文献[10]を挙げておくにとどめておこう。
ピアノ協奏曲第2番と同様に、
ベートーベンが死んで2年そこそこの時期に20才の青年がこれを書けたということが筆者には大きなナゾであった。
当時にあってはいくら何でも先進的過ぎるのである。
筆者は、
現在淘汰された当時のレパートリーの中にベートーベンと青年ショパンを中継する何かがあるはずだと確信し、
探していた。
ピアノ協奏曲第2番の場合はたとえばモシェレスだった。
そしてピアノ協奏曲第1番については、
中継者はフンメルと結論した。
特にピアノ協奏曲ロ短調作品89。
これはショパンの2つの協奏曲が作曲される一年前に出版されている。
さらにその一年前フンメルの演奏会をショパンは聴いているが、
そのときに演奏された可能性もある。
なぜなら当時は新作を出版する前に何度か演奏会で取り上げて聴衆の反応を見るということが多かったからだ。
ショパンがこの曲を知っていなかったとは考えにくい。
この曲とショパンの1番には雰囲気上の類似性だけでなく形式上の類似性が著しい。
第1楽章が3拍子アレグロ、第2楽章が4拍子のロマンス、第3楽章が2拍子のギャロップである。
ロマンスの右手旋律はリズムがそっくりである。
(ちなみにこのロマンスの左手伴奏はショパンが第2番のロマンスでほとんどそのまま使っている。)
第1楽章や第3楽章もオーケストラの導入後ピアノが入る手法も似ている。
フンメルのピアノ協奏曲ロ短調はフンメルの他の曲と比べると非常によくできた方で、
結構美しいし演奏効果もある。
ピアノ技巧も和声もちょうどベートーベンとショパンの中間という感じだ。
もちろんベートーベンの第1、3、4、5番やショパンの2曲の方がずっと一流の作品なので、
フンメルの曲が現在では二流の曲にしか見えないことはいたしかたない。
またこの曲があるからといってショパンの尋常でない独創性にいささかも翳りをもたらすものではない。
むしろ逆で、
あまりにも奇跡的な飛躍しか見えないと、
ショパンの何がどう独創的なのかさえ見えてこないが、
この曲があるためにショパンの独創性のありかを逐一確認することができるようになったというものである。
第1楽章の構成に若干の工夫がみられる。
それは主調が短調のソナタ形式では普通平行調(この曲の場合主調がホ短調だから平行調はト長調)で第2主題が現れ、
再現部で同主調(この曲の場合ホ長調)となるのが普通だが、
それが逆になっている。
また第2楽章が同主調(この曲の場合ホ長調)となっているが、
これは珍しい。
ショパンのソナタ形式には大体何らかの工夫した変則が見られる。
ショパンの協奏曲のオーケストラ部については、
たしかにお世辞にもすぐれた書法とは言えない。
オーケストレーションの点から言えば2番の方が実験的で面白い。
しかしだからといって、
この曲が演奏されるときのオーケストラが大抵いいかげんな演奏しかしないことには不満を覚える。
一つだけオーケストラが熱演した録音がある。
それはアルゲリッチがショパンコンクールに優勝したときのライブ録音で、
ワルシャワ・フィルがまるでラフマニノフの協奏曲のようにねっとりと、
時には火のように演奏している。
この録音にはヒスノイズ(磁気テープ特有のホワイトノイズ)が乗っているのが惜しまれるが、
独奏パートも含め稀代の名演である。
- [39] ノクターン(ヘンレ版第20番)嬰ハ短調(遺作)
1875年出版。姉ルドヴィカに献呈。ABAコーダの三部形式。
Aは少し感傷に溺れ、
ワルツ10番路線。
また一聴してわかるが、
Bはピアノ協奏曲第2番に使われるモチーフがいろいろ組合わさってできている。
そのパロディ感覚にはユーモアさえ感じさせる。
この曲はショパンの臨終にも駆けつけた一番親しい姉のルトヴィカに献呈されショパン自身は出版しなかった。
コーダで何回も現れる上昇下降音階はことのほか印象深い。
- [40] 練習曲 ハ長調 作品10-1
作品10の全12曲はまとめて1833年出版されフランツ・リストに献呈された。
有名な話であるが、
この練習曲をリストがあざやかに弾くのを聞いて、
ショパンは「僕もこんな風にこの曲を弾きたい」と言ったそうな。
大人数を圧倒するように聞かせるリストと少人数に詩的に聞かせるショパンはもともと演奏スタイルが違うだけなのだが。
練習曲というのは訓練目的を絞った同じ音型の繰り返しで出来ている。
いきおい味気ない音楽が多く、
まさか人前で弾いて聴かせることは前提とされない。
だからまともな作品しか残さないつもりだったモーツァルトもベートーベンも書いていない。
ところがショパンはそれを人に聴かせる音楽にしてしまった。
もとはと言えばショパン自身が自分の曲をまともに弾けるように自己鍛錬するために考え出した正真正銘の「練習曲」だったが、
音楽的に古今最高の練習曲集になってしまった。
この第1番は豪壮雄大なハ長調アルペジオで始まり、
最初の曲にふさわしい。
右手の伸縮が激しいので、
第31小節は指使いを2413231などとしたくなるし第35小節は2124212としたくなるだろう。
これでは訓練にならないという話もあるが、
筆者は必ずしもそうは思わない。
リズムが乱れなければ指使いは各人に適合するものを見つけるのが一番と思う。
さてこの曲で一カ所気になるところがある。
それは第25小節目で、
右手の上昇するアルペジオの最後の第4拍目で下降に折り返しているところである。
これと似た折り返しは最後近くの第68、71、75小節目にも現れる。
後者は音楽的に自然であるが、
前者(第25小節目)は全曲の一貫性をそこだけ破っている。
ここでショパンはなぜ上昇一本槍にしなかったのか?
順を追って読まれた読者には答は明かだろう。
一貫性を保とうとすると最高音がG7に達してしまい、
ショパン青年時代のピアノにない音だからである。
現代のピアノではもちろんG7のキーはある。
そこでこの箇所を上昇一本槍に変えて演奏するというのはどうだろう?
その譜例を「音域の話:ショパンの場合」に示そう。
ショパンに対する冒涜だと言われる危険性は承知の上である。
もしそうする場合は、
当然上昇のときクレッシェンドを効かせることになろう。
そうでなく元の楽譜通りに弾くとしたら(皆そうしているわけだが)どう演奏するか?
その場合は、表情をつけて柔和に奏すべきだろう。
少しねばり気味(わずかにリタルダンド)で。
そして右手第4拍目のG6と次の小節のG6とF♯6を旋律として歌わせる。
そうすると最後の第68小節目以降の同様な音型のところの伏線とすることができる。
- [41] 練習曲 イ短調 作品10-2
第1番に続いてすぐまた難曲が置かれている。
モシェレス24の練習曲の第3番の右手やクラムマービューロー84練習曲の第32番(60練習曲の第39番)の左手でも同様の音型が使われている。
モシェレスの曲は単調な曲だが、
クラムマービューローとショパンの曲は面白い。
この曲は和音伴奏に乗る半音階なので、
瞬間的に形成される和音に着目しても意味はない。
たとえば第1小節第2拍は右手イ長調左手イ短調の主和音がぶつかるが、
それは気が付かないうちに通り過ぎるので不協和音には聞こえない。
しかし第20小節と22小節の第4拍目に形成される和音は近代的な響きがする。
ジャズでいう「裏のコード」である。
これはさりげなく、しかし丁寧に弾きたい。
華々しくはないがなかなか味のある曲。
- [42] マズルカ第3番ホ長調 作品6-3
1832年出版。ポーリーヌ・プラーテル伯爵令嬢に献呈。
ショパンはマズルカで(相対音階で)ドとソだけの和音を太鼓のように左手で繰り返すことをよくしている。
この曲の場合ホ長調なので(絶対音階で)ミとシであるが。
これは民族的雰囲気を作るのに効果的な伴奏である。
前奏が終わると元気なマズルが始まる。
ショパンお得意の三連符+8分音符四つ([5]マズルカ変イ長調参照)の音型が右手にふんだんに現れる。
中間部はオベレクも現れる。
- [43] マズルカ第6番 イ短調 作品7-2
1832年出版。ジョーンズ氏(ショパン・ファンだった人)に献呈。
ショパンのマズルカやワルツにはABA形式のイ短調の曲が多いが、
どことなく寂しげな雰囲気が漂う点がこれらの曲に共通している。
またAでは一瞬ハ長調に属和音から入って行ってまたすぐイ短調に戻ることや、
中間部のBは明るいイ長調になることも共通している。
これをワルツ3番路線と呼ぼう。
その中でこのマズルカ第6番は[17]マズルカ第49番に続き作曲年代順にいって2番目の曲である。
リズム的には付点が特徴的なマズルだが、
雰囲気の方が優先するので、
これはもちろんクヤヴィヤクである。
明るいイ長調の中間部は
文献[1]ではマズルとあるが、
曲想は dolce である。
中間部の中に嬰ヘ短調の中間部があるが、
これはマズルだろう。
どの部分を何と分類するかによって弾き方が違って来るだろうが、
筆者の好みを言えば主部は遅いクヤヴィヤク、
中間部のイ長調はスピードを上げて明るいクヤヴィヤク、
嬰ヘ短調部は元気なマズルと弾いてもらいたい。
- [44] マズルカ第48番(ヘンレ版第46番)ハ長調 作品68-1(遺作)
第49番(ヘンレ版第47番)イ短調 作品68の2[17] 、
第50番(ヘンレ版第48番)ヘ長調 作品68-3[45]、
第51番(ヘンレ版第49番)ヘ短調 作品68-4[241]
を含む作品68の4つのマズルカは1855年フォンタナ出版。
エルスナー先生の娘エミリアのアルバムに書かれていた。
太鼓連打のような4小節の序奏のあと、
属和音に始まる旋律のリズミカルなクラヴィヤクが続く。
- [45] マズルカ第50番(ヘンレ版第48番)ヘ長調 作品68-3(遺作)
第48番(ヘンレ版第46番)ハ長調 作品68-1[44]、
第49番(ヘンレ版第47番)イ短調 作品68の2[17] 、
第51番(ヘンレ版第49番)ヘ短調 作品68-4[241]
を含む作品68の4つのマズルカは1855年フォンタナ出版。エルスナー先生の娘エミリアのアルバムに書かれていた。
軽い感じだが元気のいいマズル。
中間部速度を増して変ロ長調のリディア旋法は特徴的。
- [46] ワルツ第16番 変イ長調(遺作)
1902年出版。エルスナー先生の娘エミリアのアルバムに書かれていた。
8分の3拍子で書かれている。
(そういう書き方のワルツはたとえばリストのメフィスト・ワルツがある。)
終始糸車を思わせる細かい音型が続く速いワルツ。
- [47] ワルツ第17番 変ホ長調(遺作)
1902年出版。エルスナー先生の娘エミリアのアルバムに書かれていた。
これはショパンの作品といわれてもあまりピンと来ない。
急速には弾けない音型なのでペダルを効かせて遅めに弾かれることが多いが、
むしろ軽快に速く弾いてみたらどうだろう。
冗談のような主題がより曲芸的になって面白いし、
のびやかなトリオとの対比がついていいと思うのだが。
- [48] ワルツ第14番 ホ短調(遺作)
1868年出版。
これもなぜショパンは出版しなかったのだろう?
スケルツォのような才気に溢れた逸品である。
ワルツ第2番変イ長調の出だしと同じリズムだが、
逆に上昇指向の音型だし変イ長調から遠いホ短調なので2番の連想は起こさせない。
前奏の緊張感、
主部の才気、
中間部の大変美しい旋律、
コーダの華々しさ、
どこをとっても自ら出版すべきだった佳作だと思うのだが。
そもそもショパンはどういうつもりでワルツを作り始めたのか?
誇り高き伝統音楽のマズルカに比べてワルツは外国(西洋主要国)の音楽だし、
ショパンは当初ワルツを軽薄なものと見なしていた。
それなのにワルツを作るというのは、
音大出身者がポップスを作ってみたくなる心境に似ているのかも知れない。
ショパンの場合ワルツ作曲には女性が関係する場合と、
社交のための場合と、
自分が作ってみたいから作る場合があったと思われる。
[30]ワルツ第10番[32]15番それにこの曲はとりあえず自分が作ってみたかったのかも知れない。
[31]13番[46]16番[47]17番は女性のためのようだ。
後にパリで書き始めるワルツは社交のためで、
その頃からワルツを出版し始めている。
このワルツはまだワルシャワ時代なので、
出版して売れるかわからなかったのか、
ワルツの出版が自分にふさわしいのか判断がつきかねていたのかも知れない。
マズルカはパリに行ってからもワルシャワ時代のものをいくつか出版しているが、ショパンとしてはマズルカの方が思い入れがあったのは確実だろう。
- [49] 「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調(遺作)
出版。
これはフルートとピアノのための曲であるが、
プライベートな目的で作られた曲に違いない。
特にピアノパートの信じがたいつまらなさを見れば、
長い人生のうちには(ショパンの場合それほど長くないが)そういう作業が必要な場面もあったのだろうと想像する以外にない。
- [50] 序奏と華麗なポロネーズ(チェロとピアノのための)ハ長調 作品3
1831年出版。
ヨゼフ・メルク氏に献呈。
ラジヴィーユ公([34] ピアノ三重奏曲ト短調作品8の項参照)宅に出入りしていた頃作曲。
ショパン自身は「サロン向けの軽い曲」と評しているが、
健康的な明るさに溢れた逸品。
ショパンの室内楽の中では現代でも演奏頻度は高い。序奏の出だしのピアノ音型はリスト「鬼火」の出だしと同じ音型。
同様の音型がニ短調で繰り返されるところは [26] ロンドハ長調作品73の序奏と同じ。
長い序奏の後には青年らしい溌剌としたポロネーズが続く。
この曲には二つの編曲版がある。
一つはエマヌエル・フォイアマンによるチェロパート補強板で、
現代こちらで演奏されることも多い。
ショパンの作品を他人が補強したものは協奏曲やバラードなどいくつかあるが、
ほとんどが品を落とした恥ずかしい補強である(完全な改編ならまだしも)。
しかしこのポロネーズの補強は品が落ちていないばかりか、
チェロパートが一層充実している。
もう一つはショパン自身によるピアノ独奏版で、
これはごく最近ポーランドの音楽学者ヤン・ウェーバーによって発見された。
彼は友人のピアニスト、エヴァ・オシンスカによって初演されることを希望していたが、
それが実現される前に死亡した。
しかし今はエヴァ・オシンスカによるCDを聴くことが出来る(CD[1])。
もちろんチェロ版の方が音が豊富なので面白いが、
この曲が基本的にピアノ独奏で十分弾けることを如実に物語っている。
- [51] 歌曲「酒宴」ハ長調 作品74-4(遺作)
ヴィトフィツキ詩。1859年フォンタナ出版。
題の通り「酒を飲もう!」とはやしたてるようなマズル。
歌曲というよりも老若男女が酒場で合唱した方が合いそうな曲。
ショパンにこんな面もあったんだと思わせる歌。
ピアノ間奏にリディア旋法のF#がしきりに現れる。
- [52] 歌曲「魔力」ニ短調(遺作)
ヴィトフィツキ詩。1859年フォンタナ出版。
一節はごく短いが、
歌詞が7番まである有節歌曲。
7番を通じてドラマ性のある失恋の歌なので、
もしポーランド語が分かれば内容を楽しむことができるだろう。
ショパンの歌曲のヴォーカル部は概して音域が狭く低く、
それだけを見れば男でも女でも全くの素人にも歌えるように作ってある。
この曲の音域はことに狭くC4#からB4♭までの長六度に入ってしまう。
次は1831年(21才) ♪
前は1829年(19才) ♪
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