ショパン全作品を斬る
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- [53] ポロネーズ 変ホ長調 作品22
1834年にアンダンテ・スピアナートが付けられ「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」として1836年出版。
パリ時代のショパンの弟子デスト男爵夫人に献呈。
ピアノ独奏と管弦楽のための作品。
パリに進出して一年目の年である。
ワルシャワ時代に溜め込んでいたであろう新作のネタをパリで一挙に吐き出すかのように、
前年に続いて多作な年である。
これは明るくブリリアントなポロネーズである。
その瑞々しさは[50]チェロとピアノのための序奏と華麗なポロネーズハ長調に通ずる。
もちろん作品1路線だが、
その中でも高い音楽性を持つ。
ABAコーダの三部形式だが、
AもBもコーダもそれぞれ大規模である。
Aでは特に73小節目の短三度ずつ下降する短六度(長六度でなく!)が極めて近代的な響きを出している。
Bのハ短調の旋律(107小節目から四小節)はどこかで聞いた感じがしないだろうか?
ここはブラームスのバイオリンソナタ第2番(1886年)第2楽章の Vivace 部の四小節と旋律の骨格と和声がそっくりではないか!(ニ短調を長7度上のハ短調に直して弾いて見よ!)
もちろんショパンの方が55年早い。
そのような例を少なからず発見するたびに、
ショパンの独創性に改めて驚かされる。
ところで主部から中間部へのつなぎの部分で、
第80小節目の1オクターブ跳躍する右手ヘ短調主和音に対応する第84小節目のト短調主和音は短三度の跳躍にとどまっている。
この理由は明かであろう。
1オクターブ飛躍させると最高音がG7になってしまうからである。
現代のピアノで弾くときは第80小節目と同様な音型で1オクターブ跳躍するように弾いてもいいのではないかと思う。
もう一つ余計な指摘であるが、
第133小節目から素敵な変ロ長調パッセージがある。
ここの左手バスは1小節ごとに小節冒頭でB♭→A→G→G→E♭となっているが、
私としてはB♭→A→G→F→E♭としたいところだ。
第141小節からも同じ。
しかしこれはピアノの音域不足により仕方なく変えたものでなく、
ショパンが決めたことなので、
個人的に遊びで弾くならともかく正式には改変して演奏することはお奨めしない。
この曲はオーケストラ部を伴わない独奏だけでも十分音楽としての体裁が整っている。
最近は独奏だけで演奏されることが多い。
- [54] ノクターン第1番 変ロ短調 作品9-1
1832年出版。
作品9の三曲のノクターンはプレイエル・ピアノ社長夫人マリー・プレイエルに献呈された。
このマリー・プレイエルは旧名をマリー・モークといい、
ショパンがパリに出てきた1830年にベルリオーズとの婚約を破棄してプレイエル社長と結婚し、
本業を全うするため4年後に離婚した名女流ピアニストである。
翔んでる女はなにもジョルジュ・サンドに限らない。
この辺の事情は面白いがとりあえず文献[10]に任せて先を急ごう。
大変美しいメランコリックな曲である。
変ロ短調の主題も美しいが、
さらに第19小節からの変ニ長調の中間部の主題が夢見心地である。
この主題の特徴はミ→ミ♭→レ(変ニ長調だからF→F♭→E♭)へ移行する旋律で、
リストのピアノ協奏曲第2番などでも特徴ある雰囲気を出している。
ところで細かい話だが、
このF♭のところの左手の伴奏でA♭♭が現れるが、
なぜショパンはこれをGナチュラルとしなかったか不思議ではないだろうか?
通常ダブルシャープやダブルフラットが使われた場合の理由は明白なことが多いが、
この部分はちょっと自明ではない。
これはもちろん、
右手F♭がFへの導音でなく「変ニ長調の第三音から変ニ短調の第三音」に下りてきた性格を強く持っているのでそれに対応させたものである。
もし右手F♭がFを導く音としてEナチュラルで表されていたら、
それに対応してGナチュラルが使われていたであろう。
あと、
最後近く第82小節後半に現れる和音の新鮮さを指摘しておきたい。
これはもちろん、
変ロ短調のナポリ六の和音(=ロ長調主和音)にセブンスのA音(イ音)を加えかつ低音は主音の変ロ音を保持したもの、
と分析される。
同じ手法は後年の舟歌の最後にも現れ、
バスの嬰ヘ音に乗ってGセブン和音を基調とする上昇下降グリッサンドが奏される。
ノクターンに戻ると、
ここの響きは和音的にはE♭-G♭-A-B♭-C♭となっていて、
特にうしろの三つは半音で並ぶ密集した和音になっている。
これはラベルが好んで使った。
特に嬰ヘ短調で使うことが多いのでその場合はF#-A-B#-C#-Dだ。
もちろんラベルの場合ナポリ六の機能ではないので厳密には機能が違うのだが、
これもやはりショパンの先進性を示す例である。
- [55] ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2
出版年、献呈は前項参照。
大変有名な曲なので説明の要はない。
ここに至ってショパンはメロディー、
和声ともにますます冴えわたり、
無駄も一切削ぎ落とされるようになって来た。
パリに出たショパンが自国のマズルカやポロネーズとは別にサロン的音楽を自分のレパートリーとし、
世界共通音楽の作曲家として踏み出したことを告げる一曲である。
- [56] ノクターン第3番 ロ長調 作品9-3
出版年、献呈は前々項参照。
前二曲に比べると人気は今ひとつであるが、
なかなかどうして和声もメロディーもさらに凝った成熟した音楽である。
前二曲より規模も大きく、
より本格的作品。
この曲もミ→ミ♭→レ(ロ長調だからD#→Dナチュラル→C#)の主題が特徴的。
この主題では下降音なのか導音なのかの区別が一層はっきりしている。
すなわち、
最初に現れるCダブルシャープは明らかに次のD#を導く音であるし、
その次のDナチュラルは明らかに一拍目のD#から下りてきた音である。
- [57] ノクターン第4番 ヘ長調 作品15-1
1833年出版。
この曲と次の曲は1833年に作曲された[80]ノクターン第6番ト短調とともに作品15として出版、同世代のピアニスト、フェルディナント・ヒラーに献呈。
ノクターンに多いABA三部形式だが、
主部Aはショパンとしては陽気な歌謡的旋律。
この幸せな旋律を伴奏する左手もショパンに珍しいくらい気楽な音型の三連符。
この伴奏はベートーベンのソナタ第16番第2楽章や第25番第2楽章を思い起こさせる。
和声的には第17〜18小節のドミナント機能の代わりにドッペルサブドミナントのセブンスを使っている点がジャズ的で斬新。
中間部Bは一転して中低音からわき起こるヘ短調の嵐。
バラード第4番のコーダのようでいかにもショパンらしい。
- [58] ノクターン第5番 嬰へ長調 作品15-2
出版年、献呈は前項参照。
嬰ヘ長調の第三音から始まる浮遊するような旋律の高貴なこと。
聞きごたえがあるわりに使われている音域が意外と狭く、
特にABAの最初のAでは右手も左手も加線を必要とする音が多くは出てこない。
そんなこともあって、
曲全体はしっとりと落ち着いた雰囲気だ。
広い音域を煌びやかに使うようなことをしなくても、
こんな名曲が書けるのだ。
Bでは、
同時に弾くオクターブとずらして弾くオクターブの組み合わせで音楽的に面白い5連符にしている。
普通人ならまず両方ずらす6連符か両方同時の4連符を思いつくところ。
もちろんそれではありきたり。
こんなところにもショパンの独創性が垣間見える。
- [59] 練習曲 ハ短調「革命」 作品10-12
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
1830年ショパンが祖国を出てウィーンからパリへ向かう途中
シュツットガルトでロシア軍によるワルシャワ陥落の報に接したとき、
絶望のあまり狂わんばかりになった。
その激情に駆られて作曲しはじめたのがこの曲や[181]前奏曲ニ短調、
それに[79]スケルツォ第1番であると言われている。
この曲はただ音符を再現するだけならともかく、
ショパンの激情を存分にからめて演奏するのは並大抵ではないだろう。
第25小節左手8番目の音符は多くの版で付点16分音符であるが、
パデレフスキー版ではただの16分音符である。
ここは付点で粘る方が効果的であろう。
第65〜66小節右手の力強い旋律は特徴的。
これは[155]即興曲第2番嬰ヘ長調の第55〜56小節にも使われる。
- [60] マズルカ第7番 ヘ短調 作品7-3
1832年出版。ジョーンズ氏(ショパン・ファンだった人)に献呈。
[106]ポロネーズ第2番変ホ短調の導入部のような不気味な導入で始まるこの曲は、
マズルカとしてはマズル、クヤヴィヤク、オベレクが全て現れるので、
短いにもかかわらず盛り沢山な曲。
しかも第9小節目からのテーマのオベレクはどこかスペイン風でもある。
第41小節目からのマズルは速度を落として3拍子をしっかり刻んで欲しい。
- [61] ワルツ第3番 イ短調 作品34-2
1838年出版。ディブリー男爵夫人に献呈。
この曲は1835年作曲の[114] ワルツ第2番変イ長調と1838年作曲の[150] ワルツ第4番ヘ長調とともに「華麗なる大円舞曲」として1838年出版された。
上のような事情で「華麗なる大円舞曲」と呼ばれることがあり、
ワルツ第2番と第4番はその通りのワルツであるが、
この曲は全く逆に寂しいロマンが漂う。
[43]マズルカ第6番の項で「ワルツ3番路線」と言った元になる曲で、
主部で一瞬ハ長調に属和音から入って行ってまたすぐイ短調に戻ることや、
中間部は明るいイ長調になる点が特徴的。
どこを取っても旋律美に優れ、
特に第17小節目からの主旋律はアルビノーニのアダージョを連想させる。
- [62] 歌曲「使者」ニ長調 作品74-7(遺作)
ヴィトフィツキ詩。1859年フォンタナ出版。
「はるばるやって来た燕さん、ようこそ。
ところで私の娘のことを知りませんか?
楽しく過ごしているのか、
不幸せに泣いているのか?
この母に教えて下さい。」
ショパンの歌曲の詩の特徴の一つに、
美しい自然描写に始まり次第に人の心の機微に入っていくことが挙げられる。
これはヴィトフィツキの特徴かも知れない。
音の動きはナポリ民謡「海に来たれ」や中山晋平作曲(野口雨情詩)「雨降りお月」と同じである。
(余談だが日本歌曲は歴史に残れるのだろうか?)
しかしリズムは異なるのでメロディー的にはそれぞれ別物と考えられる。
先に[55]ノクターン第2番のところでパリに出たショパンが世界共通音楽に向けて歩きだしたと書いた。
それを示すようにこの年、
ノクターンを5曲発表しているが、
一方でこの曲を初めとして歌曲を5曲も作っている。
ショパンの歌曲は全てポーランド語による私的な音楽である。
生涯にわたって作られた20曲ほどの歌曲のうち4分の1がこの年に作られている。
これは想像するしかないのだが、
パリに出てすぐのショパンは、
ポーランドのことを忘れたくないという気持ちがひとしお強かったのではないだろうか。
- [63] 歌曲「つわもの」変イ長調 作品74-10(遺作)
ヴィトフィツキ詩。1859年フォンタナ出版。
戦いに行く兵士の歌。
騎馬的リズムのせき込むようなピアノ伴奏がバンジョーを掻き鳴らすようだ。
- [64] 歌曲「悲しみの川」嬰ヘ短調 作品74-3(遺作)
ヴィトフィツキ詩。1859年フォンタナ出版。
これも自然描写に始まる。
あたかもテレビカメラが豊かな森をゆっくり流して映すように。
すると、視界に老母の顔が入って来る。
泣いている。
7人の娘を亡くした母の悲しみの歌。
歌詞にふさわしい深い静かなメロディーが流れる。
ショパンの歌曲は悲しい曲であっても、
スケルツォ第1番や「革命のエチュード」で見せたような激情をぶつけるのでなく、
瞑想的な悲しみを醸し出す。
- [65] 歌曲「許婚」ハ短調 作品74-15(遺作)
ヴィトフィツキ詩。1859年フォンタナ出版。
馬で森を駆け抜け許婚の元に駆けつける若者。
しかし時既に遅く彼女は息をひきとる。
棺の前で呼ぶ若者に応えて、許婚よ、蘇ってはくれまいか。
このドラマ性豊かな有節歌曲はシューベルトの「魔王」を思わせる。
前奏と間奏のピアノが低音ユニゾンで奏する無調気味の「熊蜂の飛行」的疾風が印象的。
- [66] 歌曲「リトアニアの歌」へ長調 作品74-16(遺作)
オシンスキ詩。1859年フォンタナ出版。
「娘よ、朝までどこをほっつき歩いていたんだよ。どうせ男の所にいたんだろ」
「母さん、何もなかったのよ。ただ彼と話ししていただけよ」
どことなく微笑ましいような感じもする、生活の一こまをうたった詩。
曲も気楽で庶民的な感じ。
フォンタナ出版の作品74の17曲の歌曲の順番はどのように決定されたか知らないが、
こうやって年代ごとにまとめてみると、
ショパンが生涯を通じていろいろ違った雰囲気の歌曲を作ろうとしていたことがわかる。
次は1832年(22才) ♪
前は1830年(20才) ♪
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