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はじめに、(時代背景) ![]() しばらくはバルカン地方はだいたいはトルコとロシアが利権争いをしていたのだが、ロシアがこの地方で優位に立つと、他のヨーロッパ列強がこれ以上ロシアが強力になるのをおそれて、いちゃもんをつけてきた。それがクリミア戦争である。このたたかいで、ロシア帝国は敗北した。この結果ロシアは黒海の独占ができなくなってしまった。そればかりか、今までトルコから奪った特権も手放さなければならなくなってしまった。しかし、ロシア帝国はあきらめない。その後、ロシアはブルガリアやセルビアの民族主義等各地で起こった汎スラブ主義を利用した。1875年以降、トルコの支配するボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア等のあっちこっちで民族蜂起がおこった。1877年、ロシアは、これらスラブ民族の救済を口実に再びトルコに戦争を仕掛けた。(最後の露土戦争) トルコの要塞が結構強く、苦戦したがロシア軍はついに首都イスタンブールに迫ったので、トルコは屈服し、1878年3月、イスタンブールの北方のサン・ステファノで講和条約がむすばれた。(サン・ステファノ条約)この条約により、セルビアはトルコから独立し、ボスニアヘルツェゴビナにも自治権があたえられた。ロシアも若干のトルコ領の割譲を得た。そのほか数カ国もトルコから独立を得た。しかし、またここでも、他のヨーロッパ列強が、いちゃもんをつけてきた。そこで、(誠実な仲介者)を自任するドイツのビスマルクの呼びかけにより、同年の6月にベルリンで各ヨーロッパ列強等が集まり、サン・ステファノ条約の修正をおこなった。(ベルリン会議) その結果、ロシアの権益が縮小されるとともに、数カ国の小国がトルコから、独立または、半独立の自治権を得た。セルビアもこのときに完全にトルコからの独立を他のヨーロッパ列強からも認められた。しかし、文献1ボスニアヘルツェゴビナはオスマントルコ帝国の名目上の王権を残したままオーストリア・ハンガリーの占領・行政下に置かれることになった。 文献2どうも、このセルビアの成立過程の時に、ボスニア・ヘルツェゴビナを管理するかわりに、オスマントルコの脅威からセルビアを援助する、という秘密条約があったようである。 しかし、1903年、突如セルビアに暴動がおこり、セルビアの政治が親オーストリア路線から親ロシア路線に切り替わってしまった。よって、オーストリアとセルビアの仲が険悪となり、いろいろとごたごたが起こり、1908年、ついにオーストリア=ハンガリー帝国は、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合してしまった。大セルビア主義を唱える民族主義者たちにはボスニア・ヘルツェゴビナはセルビアの固有の領土という認識があるらしく、よって、この併合という出来事にかれらは、非情に憤りを抱いていた。しかし、セルビアはこんなプレッシャーにもめげずに1912年〜1913年の2度のバルカン戦争に優位に進めその勢力を着々と強めた。バルカン半島への進出を目指していたオーストリア=ハンガリー帝国はこのセルビアの成長に対し著しく脅威と嫌悪感を抱く。そのような緊迫した国際関係の中で、1914年、6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントは、妻と共にサラエボの市庁舎を訪れたのである。
導火線に火はつけられた。 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナの住民の半数近くがにはセルビア人であり、この地方に住んでいるセルビア人の民族主義者たちらは、新興国セルビアに統合されず、オーストリア=ハンガリーに隷属されていることに憤慨していた。フランツ・フェルディナントはそのような不満分子に対する示威行為としてサラエボを訪れたわけではなかったらしい。よくわからないが、文献3ただ妻を喜ばしたいために、サラエボへ訪問したらしい。その理由は、彼の妻は、少し身分の低い貴族の令嬢であるため、ほとんどの公式の儀式には夫と共に列席できないのだが、夫フェルディナントが陸軍元帥かつ監察長官であり、夫が軍人の資格で行動するときは共に列席できたのである。そこで、フェルディナントは軍の監察官として、サラエボの市庁舎を夫人と共に訪れ、夫人のご機嫌をとるつもりだったらしい。
しかし、セルビアの民族主義者たちは、なんの示威行動もせずに太公の訪問を見過ごすわけにはいかないと、秘密結社の「黒手組」の一味である数人の学生はかれの暗殺を計画し、行動を起こしたのである。(文献3彼らが、黒手組に属していないという説もあるようである。) この暗殺の日の出来事の詳細をみると、突発性の事故というよりもフェルディナンド夫妻がそこで暗殺される運命にすでに決められていたような因果なものをわたしは感じてしまう。事実は小説よりも奇なり、というか......
太公の一行が車で進んでくると、最初に一人がポケットから銃を取り出そうとしたが、群衆がごった返していたのでうまくいかなかった。
次の一人は警官に目をつけられていると感じ、三人目は太公の妻が気の毒になってしまって帰ってしまった。四人目も家に帰ってしまった。
文献4この日は「聖ヴィトゥスの日」にあたり、これは独立していた中世セルビア王国が1389年オスマントルコに敗れた日を記念してできた日であった。しかし、皮肉なことにオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻の結婚記念日でもあった。 このたった数発の銃声により、人類がかつて体験したことのない大戦争が始まることになる。 この事件後、ヨーロッパ列強は連鎖反応的に宣戦布告を宣言しあう。 導火線に火がついてしまった..... |
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← ボスニア在住の18歳のセルビア人学生ガブリロ・プリンチプは太公夫妻を暗殺した後あっさりと逮捕された。 未成年のプリンチプには、死刑の宣告を与えることができなかったので、彼は懲役20年の刑を受ける。 だが結核のため、1918年プラハ近郊にあるオーストリアの要塞で死亡。この年に第1次世界大戦も終わる。(文献4) |
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参考文献 文献1 平凡社 世界大百科事典 文献2 ジョルジュ・カステラン 著 「バルカン 歴史と現在」 サイマル出版会 発行 文献3 A.J,P テイラー 著 「戦争はなぜ起こるか」 叶V評論 発行 文献4 J・M・ウィンター 著 20世紀の歴史 第13巻 第1次世界大戦(上) 平凡社 発行 |
BGMについて お聞きの曲(MIDIファイル)はTakemotoさんの作成したMIDIデータのテンポ変化をちょっと単調にして、楽器も一部変えたものです。さらに、システムエクスクルーシブ自動送出バンクとやらをつけ加えたものです。 曲名 アルビノーニーのアダージョ」 原曲入手先 http://diamond.hike.te.chiba-u.ac.jp/takemoto/MIDI/bach.html だったんですが、どっかいっちゃいました。 |