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サラエボ事件

 はじめに、(時代背景)
 多くの本がサラエボ事件を語るとき、その書き出し付近に「オーストリア=ハンガリーの皇太子夫妻がボスニアの首都、サラエボへ訪れた。ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国に併合されて間もないばかりであった.......」とだいたいこんな感じで書き出されていると思う。この部分は、足軽である私や、初学者にはちょっとむずかしく、特になんでボスニア=ヘルツェゴビナがオーストリア=ハンガリーに併合されたかなどは理解しがたい。しかしながら、多くの本はその併合の理由があまりよく語られていないようである。それはなぜか?その理由は私なりの現在の解釈として、このバルカン地方のこのころの状況になる過程を一言で説明するには、あまりにも複雑だからであると思う。しかも、この地方は、おそらく今までは世界史的に辺境の地で不明な点が多いのも、詳しく述べる事を、さけられた点の理由になるであろう。このころのバルカン半島の状況の事だけで一冊の本ができあがってしまうほど、複雑な事項だと私は思う。
 だからといって、このサラエボ事件に至るまでのこの地方のことを何とかして語らないと、なんとなく全体の歴史の流れがつかみづらく、サラエボ事件がただの殺人事件と同じ扱いになってしまう。そこで、私なりに独断と偏見で理解したサラエボ事件に至るまでの、略歴、等の時代背景を簡単に述べたいと思う。(詳細については、後述記載予定。)ただし、はじめに、ことわっておくが、このバルカン地方のみが第1次世界大戦の開戦の要因である、という短絡的な結論を私は主張しているわけではない。そんなに単純な事件であれば、みんな第1次世界大戦の研究をやめているし、第二次世界大戦や冷戦や最近起きたボスニアヘルツェゴビナ紛争なんて、起こっていない。私の知っている限りでは、1990年に発行された本にも、第1次世界大戦の開戦理由を明確に結論付けていないので、おそらく現在も明確な結論はでていないと思う。

\(^^\)(/^^)/ ソノハナシハソッチニオイテオイテ....

 ちょっとまえおきが長くなってしまったので、そろそろ本題にはいろう。
 このバルカン地方と中東等、昔の東ローマ帝国と同じくらいの領土を支配したオスマントルコという強大な帝国が近世にあった。
(知ってる人は知ってると思うが、東ローマ帝国はこのオスマントルコによって滅ぼされた。)だが16世紀を最盛期として次第に帝国は弱体化していった。(その理由はきりがないのでほかのひとにきいてね。(^_^;))そこへ18世紀頃、ロシア帝国が不凍港をめざして、黒海進出をたくらみ、南進政策を押し進めた。(露土戦争のはじまり(ただし、19世紀後半におこったロシアとトルコの紛争を露土戦争と狭義に解す本多数あり))
 

列強のトルコ領争奪戦

 しばらくはバルカン地方はだいたいはトルコとロシアが利権争いをしていたのだが、ロシアがこの地方で優位に立つと、他のヨーロッパ列強がこれ以上ロシアが強力になるのをおそれて、いちゃもんをつけてきた。それがクリミア戦争である。このたたかいで、ロシア帝国は敗北した。この結果ロシアは黒海の独占ができなくなってしまった。そればかりか、今までトルコから奪った特権も手放さなければならなくなってしまった。しかし、ロシア帝国はあきらめない。その後、ロシアはブルガリアやセルビアの民族主義等各地で起こった汎スラブ主義を利用した。1875年以降、トルコの支配するボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア等のあっちこっちで民族蜂起がおこった。1877年、ロシアは、これらスラブ民族の救済を口実に再びトルコに戦争を仕掛けた。(最後の露土戦争)
 トルコの要塞が結構強く、苦戦したがロシア軍はついに首都イスタンブールに迫ったので、トルコは屈服し、1878年3月、イスタンブールの北方のサン・ステファノで講和条約がむすばれた。(サン・ステファノ条約)この条約により、セルビアはトルコから独立し、ボスニアヘルツェゴビナにも自治権があたえられた。ロシアも若干のトルコ領の割譲を得た。そのほか数カ国もトルコから独立を得た。しかし、またここでも、他のヨーロッパ列強が、いちゃもんをつけてきた。そこで、(誠実な仲介者)を自任するドイツのビスマルクの呼びかけにより、同年の6月にベルリンで各ヨーロッパ列強等が集まり、サン・ステファノ条約の修正をおこなった。(ベルリン会議) その結果、ロシアの権益が縮小されるとともに、数カ国の小国がトルコから、独立または、半独立の自治権を得た。セルビアもこのときに完全にトルコからの独立を他のヨーロッパ列強からも認められた。しかし、文献1ボスニアヘルツェゴビナはオスマントルコ帝国の名目上の王権を残したままオーストリア・ハンガリーの占領・行政下に置かれることになった。 文献2どうも、このセルビアの成立過程の時に、ボスニア・ヘルツェゴビナを管理するかわりに、オスマントルコの脅威からセルビアを援助する、という秘密条約があったようである。
 しかし、1903年、突如セルビアに暴動がおこり、セルビアの政治が親オーストリア路線から親ロシア路線に切り替わってしまった。よって、オーストリアとセルビアの仲が険悪となり、いろいろとごたごたが起こり、1908年、ついにオーストリア=ハンガリー帝国は、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合してしまった。大セルビア主義を唱える民族主義者たちにはボスニア・ヘルツェゴビナはセルビアの固有の領土という認識があるらしく、よって、この併合という出来事にかれらは、非情に憤りを抱いていた。しかし、セルビアはこんなプレッシャーにもめげずに1912年〜1913年の2度のバルカン戦争に優位に進めその勢力を着々と強めた。バルカン半島への進出を目指していたオーストリア=ハンガリー帝国はこのセルビアの成長に対し著しく脅威と嫌悪感を抱く。そのような緊迫した国際関係の中で、1914年、6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントは、妻と共にサラエボの市庁舎を訪れたのである。


導火線に火はつけられた。
 当時、ボスニア・ヘルツェゴビナの住民の半数近くがにはセルビア人であり、この地方に住んでいるセルビア人の民族主義者たちらは、新興国セルビアに統合されず、オーストリア=ハンガリーに隷属されていることに憤慨していた。フランツ・フェルディナントはそのような不満分子に対する示威行為としてサラエボを訪れたわけではなかったらしい。よくわからないが、文献3ただ妻を喜ばしたいために、サラエボへ訪問したらしい。その理由は、彼の妻は、少し身分の低い貴族の令嬢であるため、ほとんどの公式の儀式には夫と共に列席できないのだが、夫フェルディナントが陸軍元帥かつ監察長官であり、夫が軍人の資格で行動するときは共に列席できたのである。そこで、フェルディナントは軍の監察官として、サラエボの市庁舎を夫人と共に訪れ、夫人のご機嫌をとるつもりだったらしい。
 
たくらみ想像図

 しかし、セルビアの民族主義者たちは、なんの示威行動もせずに太公の訪問を見過ごすわけにはいかないと、秘密結社の「黒手組」の一味である数人の学生はかれの暗殺を計画し、行動を起こしたのである。(文献3彼らが、黒手組に属していないという説もあるようである。)
 この暗殺の日の出来事の詳細をみると、突発性の事故というよりもフェルディナンド夫妻がそこで暗殺される運命にすでに決められていたような因果なものをわたしは感じてしまう。事実は小説よりも奇なり、というか......

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 太公の一行が車で進んでくると、最初に一人がポケットから銃を取り出そうとしたが、群衆がごった返していたのでうまくいかなかった。

まちぶせ想像図

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 次の一人は警官に目をつけられていると感じ、三人目は太公の妻が気の毒になってしまって帰ってしまった。四人目も家に帰ってしまった。

いちゃいちゃ想像図

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五人目は太公の車目がけて手榴弾を投げたが別の車に被害がおよんだだけであった。六人目のガブリロ・プリンチプは爆発音を聞いて、「やったぞ」と思い、後に下がっていた。ちょうどその時、行列が通り過ぎたのである。プリンチプは失敗を知り、喫茶店に入ってふさぎこんでいた。太公の一行は市庁舎に着いたが、太公は憤激していた。そして「ここまで赴いてきた私を君たちは爆弾で迎えた。よろしい、私はここにとどまらずすぐに出て行こう。だが市街地は通るまい」と言った。

爆破された車
爆破された車

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しかし運転手のほうは直行するとは命ぜられていなかったので、曲り角にくると、あらかじめ決められていた道順どうり曲がってしまった。で、その歩道沿いの喫茶店にプリンチプが座っていたのである。彼のすぐ目の前を太公とその夫人を乗せたオープンカーが通過するのを見た時、プリンチプは驚いた。喫茶店から飛び出して一行の車のステップに足をかけ、連発銃をぬき出すと、太公を撃ち、次に前の席のボズナ総督と後部に座っていた太公の夫人を狙い撃ったのであった。

暗殺想像図

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 文献4この日は「聖ヴィトゥスの日」にあたり、これは独立していた中世セルビア王国が1389年オスマントルコに敗れた日を記念してできた日であった。しかし、皮肉なことにオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻の結婚記念日でもあった。  このたった数発の銃声により、人類がかつて体験したことのない大戦争が始まることになる。  この事件後、ヨーロッパ列強は連鎖反応的に宣戦布告を宣言しあう。
導火線に火がついてしまった.....

← ボスニア在住の18歳のセルビア人学生ガブリロ・プリンチプは太公夫妻を暗殺した後あっさりと逮捕された。
 未成年のプリンチプには、死刑の宣告を与えることができなかったので、彼は懲役20年の刑を受ける。
 だが結核のため、1918年プラハ近郊にあるオーストリアの要塞で死亡。この年に第1次世界大戦も終わる。(文献4)


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 参考文献
 文献1 平凡社 世界大百科事典
 文献2 ジョルジュ・カステラン 著 「バルカン 歴史と現在」  サイマル出版会 発行
 文献3 A.J,P テイラー 著 「戦争はなぜ起こるか」  叶V評論 発行
 文献4 J・M・ウィンター 著 20世紀の歴史 第13巻 第1次世界大戦(上) 平凡社 発行
 

 BGMについて
 お聞きの曲(MIDIファイル)はTakemotoさんの作成したMIDIデータのテンポ変化をちょっと単調にして、楽器も一部変えたものです。さらに、システムエクスクルーシブ自動送出バンクとやらをつけ加えたものです。
 曲名 アルビノーニーのアダージョ」
 原曲入手先 http://diamond.hike.te.chiba-u.ac.jp/takemoto/MIDI/bach.html
 だったんですが、どっかいっちゃいました。
MIDI PULUG をゲットしましょう。