汎スラブ主義
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比較的重要な用語と思われますので、二つの百科事典をほぼベラ写しし、以下に示します。(ちょっとだけ私のチャチ入り (^_^;))
汎スラブ主義
Pan−Slavism
スラブ系言語を話すすべての人間を共通の政治的・経済的・文化的目標のもとに連合統一しようとする思想および運動。ヨーロッパにおけるロシアの地位を高める強力な手段として19世紀ロシアの民族主義的知識人の間に勢力をもち、ロシア帝国主義の南下政策を正当化する理論として公式にも用いられ、ドイツ帝国の汎ゲルマン主義と対立した。
汎スラブ主義は、元来ロシアに発生したものではなかった。つまり、それは19世紀はじめ民族覚醒期にスラブの連帯性を求める西ヨーロッパと南ヨーロッパのスラブ小民族ことにチェコ人とスロヴァキア人の間にまず発生し、第一回汎スラブ大会(1848年)も運動の中心プラハで開かれた。そして、チェコの歴史家F.パラツキー指導下の同大会がこの地域におけるスラブ系諸民族の協力によって強化することを強調したのも、ロシアでなくロシアとドイツの誇張主義に対向するためのオーストリアであった。
ロシアにおける汎スラブ主義が姿を現したのは、ようやく60年代になってからである。ロシアに西ヨーロッパとの対決を意識させたクリミア戦争、ドイツの民族的統一への機運、オーストリア・スラブの挫折と幻滅、などがその原因である。当時の指導的理論家は、ポゴージンで、ヨーロッパの時代は過去のものとなり、未来はロシアとスラブに属するとの考えから出発し、ロシアがすべてのスラブ系諸民族を解放して西ヨーロッパとロシアとの緩衝国としてスラブ連合を創造することを説いた。
だが、かれよりも体系的で汎スラブ主義の代表的イデオローグと見なされるのは、ダニレーフスキーである。主著「ロシアと西欧――スラブのゲルマン・ローマン世界に対する文化的・政治的関係にかんする見解」(1871)は、汎スラブ主義のバイブルとしてドストエフスキーらにより熱狂的な歓迎を受けた。ダニレーフスキーは、ロシアと西ヨーロッパとの不可避な対立から出発し、ロシアが勝利して平和と社会正義の世界を永遠にうちたてるためには非ロシア地域におけるスラブ系諸民族の支持が必要である、と説いた。
ロシア・ツァーリズム政府は、例外的にしか汎スラブ主義にたいして公式援助を与えなかった。例外とは1870年代にトルコ駐在ロシア公使イグナーチェフがトルコ近辺のスラブ諸民族の援助を得てバルカンの支配権を確保しようとしたときであった。
20世紀になると、自由主義ならびに立憲主義思想の流入の影響で、ロシアにおける汎スラブ主義の熱は下火となった。汎スラブ主義がロシア誇張主義政策の道具であるという認識がその成長を妨げたのである。そのかわり、スラブによる支配よりもむしろスラブ諸民族間の平等および強調を説くネオ・スラブ主義が現われた。
ソビエト時代になってから、ロシアの汎スラブ主義は、完全に消滅したかにみえた。ツァーリズム時代の民族主義的遺産を否定したボルシェヴィキ政権が西ヨーロッパ・スラブになんらの関心も示さなかったからである。しかし、このような態度は、1930年代におけるドイツ民族主義の影響ならびに一国社会主義理論の採用とともに、大転換をとげた。ヒトラーの対ソ攻撃開始(1941年6月)の2ヶ月後、モスクワに汎スラブ委員会が形成され、アメリカにおいてまでスラブ会議が組織された。
第二次大戦直後の混乱に紛れて、ソ連は東ヨーロッパにやつぎばやに「共産主義」国を建設することに成功した。1946年ベオグラードで開催の汎スラブ民族会議は、ポコージンやダニレーフスキー以来の汎スラブ主義の夢の達成としての勝利を確認した。だが、1948年には、ユーゴスラヴィアが共産主義スラブの「家族連合」からだ津利するなど、汎スラブ主義は今後まだまだ世界を揺り動かせる要因であることにやめないように思われる。(←1970年の文献ですから、このように推測していますが今はそれほど、大きな影響力にはないように思いますが。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では多少影響を及ぼしたのでしょうか?あんまり自信がありませんが。・・・・・)
(社会科学大辞典 鹿島出版会 より抜粋)
それでは、次にもう一つの資料をどうぞ。↓
汎スラブ主義
スラブ語を話すすべての民族の連帯と統一をめざす思想運動。この運動は最初19世紀初頭、西および南スラブ諸民族の民族的覚醒とともに生まれた。これら弱小のスラブ諸民族はオーストリア・ハンガリー二重帝国やトルコの統治下にあって、自分たちの共通の言語的・人種的紐帯(ちゅうたい)を強調した。最初の汎スラブ主義の思想家はチェコとスロバキアから出た。彼らは1848年にプラハで最初の汎スラブ主義会議を開いたが、これはオーストリア・ハンガリー二重帝国治下(←注・・このころはまだオーストリア・ハンガリー二重帝国体制にはなってませんよ!)のスラブ語民族の地位の向上をめざすものであった。 それとは別に19世紀の60年代にはいると、クリミア戦争におけるロシアの敗北、ドイツにおける汎ゲルマン主義の登場(←ここでいう汎ゲルマン主義というのは、ドイツ統一運動における汎ゲルマン主義のことをさしていると思われる。)などに促されて、ロシアにも汎スラブ主義が生まれた。その代表の一人モスクワ大学教授のポゴージンMikhail P,Pogodin(1800−75)は、ロシアの指導下のスラブ諸民族の統一こそロシアの使命だと主張した。またダニレフスキーNikolai Ya,Danilevskii(1822−85)は「ロシアとヨーロッパ」(1869)を著したが、これはロシアの汎スラブ主義のバイブルとなった。このほか詩人のチュッチェフやジャーナリストのカトコフらも汎スラブ主義の思想を宣伝した。67年にモスクワで第1回の汎スラブ主義会議が開かれたが、ロシア正教とロシア語の優位を主張するロシアの汎スラブ主義は、他のスラブ諸民族に受け入れられず、カトリックのポーランドは最初から除外された。このような汎スラブ主義は77年ー78年の露土戦争に際して、戦争を正当化するものとしてロシア政府によって利用された。78年のベルリン会議以後、汎スラブ主義はもはや政府の政策において重要な要素でなくなったが、西欧諸国はロシアがいぜんとして汎スラブ主義的政策を推進しているもの見なした。
1917年のロシア革命後ソビエト政府は汎スラブ主義を否定したが、ナチス・ドイツに対抗するためスターリンによって民族主義が鼓吹され、41年6月にドイツがソ連に開戦した2ヶ月後、モスクワにパン・スラブ委員会が設けられた。第2次大戦後の46年12月、ユーゴスラビアの首都ベオグラードでパン・スラブ会議が開かれ、全スラブ圏におけるロシアの勝利が確立したかに見えたが、2年後のユーゴスラビアの離反からそれも一時的なものに終わった。
(平凡社 世界大百科事典より抜粋)
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