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崩れゆくヨーロッパの平和
(軍事的威嚇に支えられた平和の崩壊)

はじめに
  開戦についての詳細な出来事は、開戦の原因を調べるのに非常に重要な情報源になると思う。しかし開戦の原因が専門家の間でも明確に定まっておらず、よって開戦についての詳細な出来事も文献によってまちまちに記述されている。各文献が共通に認識している出来事に関しても、例えば「ロシアの総動員」に関しては、7月30日説(文献4、5)8月1日説(文献3)と日数がまちまちという始末である。
 だから、このページに掲載した内容もかなり不確定な事が多いの事をあらかじめ断っておく。

 さて、いいわけはこの程度にしてっと・・・・・


事前協議
皇太子の葬儀

 どこの国でも、国の首脳部が暗殺されれば、国の威信にかかわることなので、かなりの強い制裁を加えようとするものである。しかし、強い制裁の結果、もしセルビアと戦争になった場合、弱小のセルビアをうち倒すのはたやすいと思われるが、セルビアの後ろ盾には強国ロシアが控えているとなると、オーストリア=ハンガリー帝国単独ではロシアとセルビアの二国を相手にするのは、ちょっと難しい。
 そこで、オーストリア=ハンガリー帝国はとりあえず、同盟国であるドイツが対セルビア制裁に対して、どれくらいの協力を得られるかを探る必要があった。というのは、以前にオーストリア・ハンガリーがバルカン戦争に軍事介入しようとしたが、ドイツの協力が得られなかったために軍事介入を断念した経緯があったようで、また、その時ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が「バルカン戦争に巻き込まれるとはオーストリアも気違い沙汰だ」と愚痴をこぼしたようだ。(文献1)よって今回もドイツの協力が得られるという確固たる保証があるわけではなかったからだ。
ドイツ皇帝ベートマン小モルトケ
 1914年7月5日、オーストリア=ハンガリー帝国の特使が休暇中であったドイツ皇帝ウィルヘルム2世やドイツ宰相ベートマン=ホルヴェークとサラエボ事件に対する処置について会談した。ウィルヘルム2世はベートマンと相談の結果「ドイツは、セルビアに対するオーストリアの要求を全面的に支援するものである。セルビアの保護者であるロシアが介入することがあっても、ドイツはオーストリアを指示するであろう」という断固たる回答を示した。この回答に関して、ドイツ皇帝やその宰相もべつに、ドイツ参謀本部に「戦争しても大丈夫か」とか「開戦時期はいつがいい」とかという相談を持ちかけたわけでもない。そもそも、参謀総長モルトケ(ホームページの最初のページで掲げた大モルトケとは違います。大モルトケの甥です。彼と区別して小モルトケと呼ばれている)も他の将軍達も休暇中で会談には応じていないようであった。(文献2)ということは、サラエボ事件は大戦争を起こすほど重大な出来事ではないとドイツ首脳部では認識していると推定できると思う。
セルビアへの最後通牒
 さて、ドイツ側の良好な回答を得たオーストリア=ハンガリー帝国だが、彼らはすぐにセルビアに強い態度で迫った分けではなかった。オーストリア・ハンガリー帝国はいつも行動が遅いのが昔からの定評だった。行動を起こすまで数週間かかった。
ポアンカレとニコライ皇帝
今回の遅れた理由としては、フランス大統領ポアンカレがロシアのニコライ2世のところへ公式訪問をしていたので、ポアンカレがロシアを去るまで行動を控えていたのと、皇太子暗殺にセルビア政府の関与があったかどうかの証拠探しをしていたようだ。しかし、証拠は見つからなかった。見つかるはずはなかったのだ。この暗殺はセルビアの軍内部の反首相派の軍内部の企てだったのだから。(文献1)また、セルビア政府は再三にわたってこの陰謀があるから、ウイーンに警戒するように呼びかけていたのだが、ウィーンは警告を聞かず、対した警備体制もせずに皇太子フェルディナントはサラエボへ訪れたのである。証拠はみつからなかかったが、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア政府に対して7月23日に48時間の猶予付きで最後通牒を送りつけた。(ポアンカレはロシアへ発った船中でそのことを知った。(文献5))
 その、主な内容は次の通りであった。
   
  • 反オーストリア組織の弾圧。
  •  反オーストリア的内容の出版活動の禁止。
  •  最後通牒に名指しされた人物の逮捕。
  •  暗殺事件の調査内容を逐一オーストリア側に報告すること。
  •  オーストリア側が調査に直接参加することができるようにすること。
   セルビアは、最後通牒に対し、驚くほど譲歩した。最後の条件の、オーストリア側が調査に直接参加することは、セルビア政府の主権の侵害につながるという理由で拒否した。しかしそれ以外はほとんど受け入れたのだ。(文献3)  (この回答を聞いたドイツ皇帝は、「この回答は、戦争へのあらゆる理由を消散させるもの」といったとか、いわなかったとか・・・(文献5))  驚くほどの譲歩をしたセルビア政府だが、実はその陰で最後通牒の期限切れの30分前に軍の総動員をも発令していたようだ。(文献4)だが、このことはべつにロシアとの申し合わせによりこのような行動をセルビアがとったとは思えない。なぜならば、幸か不幸かベオグラート駐在のロシア公使は、この緊迫した情勢の最中で非常な興奮状態にあったため、死んでしまった(文献2)ので、そんな申し合わせなどできる話とは思えないからである。
 
地域限定戦争の予定だったのか?
(オーストリア=ハンガリー帝国の思惑)
 さて、セルビアの著しい譲歩による回答を得たにも関わらず、オーストリア=ハンガリー帝国は最後通牒受諾拒否と見なし、国交を断絶。
グレイ
その直後、事の重大さを認識したイギリス外相のグレイが五カ国会議を開こうと仲裁を申し出たが、オーストリア=ハンガリー帝国、及びドイツ帝国は拒否した。(文献2、5)
 7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、7月29日、セルビアのベオグラードを砲撃した。オーストリア=ハンガリー帝国は1913年のバルカン戦争以降、早晩セルビアにけりを付けなければならないと軍部では口癖のように言うようになるほど、セルビアに対して軍事制裁を加えたがっていたようだ。その証拠を示すこんなエピソードがある。
ベルヒトルト
 オーストリア=ハンガリー帝国の外相ベルヒトルトのセルビアへの最後通牒を送る時の行動について、のちにベルヒトルト夫人は「かわいそうに、レオポルトは、セルビアに最後通牒を送った日には眠れませんでした。セルビアが最後通牒を受け入れるかもしれない、と気をもんでいたのです。夜中に何度も起きあがって、絶対に受け入れられないように言葉を変えたり、つけ加えたりしてました。」と語ったらしい。(文献1)
    セルビアに戦争を仕掛けた場合、ロシアがセルビアを援護するおそれがあるがこれについては、過去に事例すなわち、1908年にオーストリア=ハンガリー帝国がボスニア、ヘルチェゴビナを併合した際にロシアは併合に不服を申し立てたが、その時ドイツはオーストリア=ハンガリー帝国の支持に回り、1909年3月21日、ロシアに対し最後通牒を突きつけ(内容は不明)、ロシアは仕方なく併合を承認した経緯があった。(文献4)(日露戦争に負けて間もないロシアは弱気だったようだ。)
 よって今回もドイツの後押しがあるオーストリア=ハンガリー帝国は、ロシアがセルビアを援護しようとしたときは、ドイツに威嚇してもらってロシアのセルビア援護を断念させ、オーストリアハンガリーがセルビアだけにと戦うという地域限定戦争をするつもりであったように推定できる。(限定戦争とは違う意図があったと思われるエピソードもある。)過去何度もいろいろな地域で戦争の危機はあったが、その都度軍事的威嚇と利害調整外交によってヨーロッパ列強は戦争を回避してきたのだ。


音を立てて崩れていくヨーロッパの平和。
(動き出す事前軍事計画)
 しかし、事はそうはうまく運ばなかった。
 案の定、汎スラブ主義(都合のいいときだけ?)唱えるロシア政府は、当然のごとくセルビアを援助するため7月30日に総動員を開始した。
 ドイツはロシアに対し、7月31日に「十二時間以内に総動員を中止し、その旨をドイツにたいし明確に宣告すること。」という最後通牒を発する。それと同時にドイツはフランスにも最後通牒を発する。露仏同盟の関係上、ドイツがロシアに攻撃を仕掛ければ、フランスがドイツを攻撃するおそれがあるからだ。ドイツ政府は次の内容の最後通牒をパリ駐在のドイツ大使におくった。

 「ドイツが対ロシア戦にはいった場合、フランスは中立の立場にとるかどうかについて、18時間以内に回答するようように要求する。そしてもし中立の立場をとるのならその保証として、トゥールとヴェルダンの要塞をドイツに手渡す事を要求する。ドイツはこれらの要塞を占領し、戦争終了後に返還する」(文献5)

 ずいぶん、めちゃくちゃな最後通牒である。こんなめちゃくちゃな最後通牒を直接渡す気はないドイツ大使は、要塞要求の部分は伏せて中立に関する言明だけをフランス政府に要求した。しかし、フランスは訓令を傍受し、暗号も解読していたので、どっちみち事情は知っていた。
 8月1日、フランス政府は「フランスは、自国の利害に基づいて行動するであろう。」という回答をドイツに送った。なんだか曖昧な回答でよくわかんないがようするに、ドイツにとやかく言われる筋合いはないというようことで最後通牒は受諾しないということなんだろう。イギリスとドイツの間ではこのころは最後通牒はなかったが、これもなんだかよくわかんない曖昧な電文のやりとりがあったとかなかったとか。
ロシアはロシアで、ドイツの最後通牒に対して何の回答も示さなかった。
 よってドイツは8月1日、ロシアに対して宣戦布告する。そしてさらに対フランス戦のために兵を西に向けて動き出す。露仏同盟に対抗するために計画されたドイツの軍事計画シュリーフェンプランがついに動き出してしまった。シュリーフェンプランを簡単に説明すれば、露仏同盟のためドイツはフランス・ロシア両方面と戦争をする可能性が強くなったのでもし、そのようになった場合、鉄道網をフルに利用して大多数の兵力を早々にフランス方面に向けまず、フランスを叩きのめし、その後急遽ロシア方面に展開してロシアをたたくという、戦略であった。
 ドイツ軍は、シュリーフェンプラン(正確には小モルトケによって一部補正されたシュリーフェンプラン)に従い8月1日午後7時にルクセンブルクへ進入。8月2日ルクセンブルクを占領した。
 そして、8月2日午後7時にドイツ帝国はベルギーの外務省へつぎの最後通牒を送る。

 「仏軍がジヴェとナミュールを結ぶ線に沿って前進したいと申し入れたということであるが、これはとりもなおさずフランスがベルギー領土を通過し、ドイツめざして進軍する意図のあることを明示したものである。ドイツはベルギー陸軍が仏軍の進撃を遮断し得るとは考えかねるので、”自己保存の必要”から敵の攻撃にたいし先手をうたなければならない。もしベルギーが独軍のベルギー領土への侵入をベルギーにたいする敵対行為とうけとるようなことがあれば、真に遺憾に堪えない。これに反し、もしベルギーが好意的中立の立場をとるならば、講和が成立した後、ただちにベルギー領土から撤兵する用意がある。また独軍によって生じた損害は、いかなるものもこれを補償し、ベルギー王国の主権と独立を講和後に保証することを誓うものである。もしベルギーが、独軍のベルギー領土通過を拒否するならばドイツはベルギーを敵と見なし、今後のベルギーとの関係は”武力による解決”にゆだねられることとなるであろう。このことについて12時間以内に明瞭な回答をよせるように要求する。」(この文章は7月26日に小モルトケが起草されたらしい。(文献5))
 
なお、ベルギー政府は、「仏軍がジヴェとナミュールを結ぶ線に沿って前進したいと申し入れたということであるが、」との申し入れなど受け取っていなかった。
 8月3日、ベルギーはドイツの最後通牒にたいし次のように回答する。

 「もし、ベルギーがドイツの申し入れを受諾するならば、ヨーロッパに対するベルギーの義務にそむき、名誉を犠牲にするも同然である。ベルギーの権利にたいするいかなる攻撃をも、国力のゆるすかぎり、あらゆる手段を用いて撃退する決意を固めている。」

ようするに、ドイツ側の通牒は拒絶された。
 そこで、まず、ドイツは同日の8月3日に、分けのわからん言いがかりをつけて、フランスに宣戦布告する。しかし、ベルギーには正式には宣戦布告はしなかったようだ。シュリーフェンプランではベルギーの武力抵抗をそれほど、考慮していなかった。すんなり、ベルギー領内を通過できると思われていたからだ。8月4日、ドイツ軍は、ベルギーが本気では武力抵抗しないだろうと期待しながらベルギー領内に進入した。
 ドイツ軍のベルギー侵攻を待ってましたとばかりに、イギリスはドイツにたいし中立国の権利を侵害したとして8月4日に宣戦布告する。イギリス軍部は1914年の春には英仏合同計画のW計画を準備し終えていた。(文献5)、イギリスの首脳部は議会に内緒でフランスに、「もし、ドイツがフランスより先にベルギーに侵攻した場合に限り、イギリスはフランスに援軍をし向ける」という密約を結んであったのだ。 フランスもこのため、実はすでに7月30日に各国境警備隊などに国境より10Km後退して控えるように命令してドイツの先を越さないように、そしてドイツに越させるように待っていたのだ。そしてフランスも事前の軍事計画、「第17計画」が動き出す。(普仏戦争でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌを取り戻す計画)
 バルカン半島がヨーロッパの火薬庫というのは有名であるが、私はこのアルザス・ロレーヌ地方も火薬庫だったと思っている。ここが、普仏戦争でドイツに奪われて以来、フランスは取り返すことを執念深く待ち望んでいたのだ。こうして、東で起こったバルカン問題と西で起こったアルザス・ロレーヌ問題が、サラエボ事件→シュリーフェンプラン→第17計画とW計画等、各国の事前軍事計画が連動してしまい、ヨーロッパ全土に戦火が広がり第1次世界大戦は始まってしまったのである。

 なお、イギリスのW計画は、内々の計画なので実行に移されるまで協議が必要であり若干の修正を得て実行された。
 また、オーストリア=ハンガリー帝国は、一番最初に宣戦布告をしたくせに、8月6日になって、ようやくロシアに宣戦布告した。それに対しイギリス、フランスは8月10日にオーストリ=ハンガリー帝国に宣戦布告した。
 また、イタリアはドイツ、オーストリア・ハンガリーと三国同盟を結んでいたが、8月3日中立を宣言した。
(そもそもイタリアは、オーストリア・ハンガリーの所有するトレンティノ、トリエステなどのイタリア人が多くすんでいる領土を要求していて、オーストリア・ハンガリーとは仲が悪かった。セルビアに制裁を加えるときに、ドイツとしか相談しなかったオーストリア・ハンガリーも少々問題があるようだが。)
 また、トルコは8月3日、各国に秘密にドイツと同盟を結んだ。
 

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参考文献
文献1 図説 ハプスブルク帝国衰亡史 千年王国の光と陰
アラン・スケッド著  鈴木淑美、別宮貞徳訳 原書房
文献2 戦争はなぜ起こるか A.J,P テイラー 著 古藤 晃 訳 叶V評論 
文献3 ボスニア・ヘルツェゴビナ史
 ロバート・J・ドニャー/ジョン・V・A・ファイン著 佐原 徹哉 他訳 恒文社
文献4 バルカン 歴史と現在
 ジョルジュ・カステラン著 山口俊章訳 サイマル出版会
  文献5 八月の砲声 バーバラ・W・タックマン著 筑摩書房


 お聞きの曲(MIDIファイル)はTakemotoさんの作成したバッハの曲にシステムエクスクルーシブ自動送出バンクとやらをつけて、楽器をピアノに変えたリピート部をつけ加えたものです。
 曲名 たぶん「8つの小プレリュードとフーガ ホ短調」と思います。
 原曲入手先 http://diamond.hike.te.chiba-u.ac.jp/takemoto/MIDI/bach.html
 だったんですが、どっかいっちゃいました。

MIDI PULUG をゲットしましょう。