もう、模擬天守閣つくるのはやめようよ!!
(城郭=天守閣という短絡的発想が一般化している間は模擬天守閣は消えず、よって城跡破壊消失も無くならないよ!!)

 城郭と聞くと一般の人はまず天守閣をイメージするでしょう。そして一般の人が城を見に行くというのは、天守閣を見に行くことを指すようですね。
 一般の人が城を見学する場合、真っ先に天守閣ないし本丸をめざして行くようですね。まあ、われわれ城郭観察中級者以上?(゚_。)?(。_゚)でも、城郭図を用いて城跡を見学する場合、その出発点を本丸にしたほうが理解しやすいため本丸をとりあえず目指しますことがあるので、それはまあ良しとしましょう。
 そして、そこに天守閣があれば、天守閣内の展示物を見ながら最上階に登る。せっかちな人は即、天守最上階に登る。そして、天守最上階からの景観をみて、物思いにふけたり、人によってはとっとと帰る。まあ、この行為自体もそれが、現存天守ないし、しっかりした復元天守(歴史的証拠を元に復元したと胸を張って言える天守。ただ、だれだれ先生ご監修というだけなら、X(バツ)の可能性大。)なら問題ないので、良しとしましょう。
 問題は本丸に天守閣がない時です。このとき、「なんだ。”城”ないのか、だっせ〜。帰ろう」という発想(実は私も昔はそうでした。(^_^;) )。この「なんだ。”城”無いのか」の発想が問題なんです。こういう「城郭=天守閣」の発想が一般化しているため、天守閣以外の現存城郭遺跡が大した歴史的価値がない、観光資源にならないという烙印を押されてどんどん破壊されてしまうのです。もっとひどいのは歴史考察上価値ある遺跡を破壊し、さらにそのうえでもともとその城に天守がないのに模擬天守閣なる虚構、幻影を建設して、戦乱の世を「お殿様、お姫様恋物語」等牧歌的なイメージに緩和し平和の尊さを忘れさせることに荷担してることだ。ばっきゃろう!!城なんてもんはな!たとえば刀でぶった切れられて捨てられたと思われる刀傷のある女性のドクロが堀底から見つかることだってあるんだぞ!。中世ってもんはものすごい悲惨なんだぞ!。メラメラメラ.....んん!
?(゚_。)?(。_゚)ちょっと言い過ぎたか。(^_^;)ようするに、ただ金儲けのために、人に嘘のイメージを押しつける行為が生まれるのです。
 城=天守閣、天守閣が無いものは城ではない、といった短絡的発想は時には逮捕ざたにまで発展します。
 事例をあげると茨城県の堀之内大台城での出来事です。この城跡が学校建設の候補地にあがり、発掘調査が行われました。次々と重要な柱の跡などが見つかり、TV、新聞等でもとりあげられ、大学、学会、研究機関などから、保存運動に発展、しかし町長は学校建設を強行。発掘調査団がブルドーザーやユンボに襲撃される事件も起こる。最終的に町長は逮捕。(罪状はわかりませんが。・・・・)この事件の原因は城=天守閣、それ以外は無価値、という偏見が根底にあるのではと私は思うんですが。
 天守閣は確かに美しいし、そうした芸術的建築美を鑑賞することを私は否定している分けではありません。ただ、そういう建築美を鑑賞するために建てるのなら城跡をさけて建設してもらいたいですよ。
(最近は城跡をさけて、近くに模擬天守閣を立てる良好な傾向見られているみたいですよ。たとえば、千葉県の関宿城博物館なんかです。私はこれが出来たときは、ああ〜。また城跡が破壊されてしまったなあ、と思い現場を視察したらちゃんと建設前からわずかに残っていた本丸跡が保存されていましたから。感激しました!!。ただ、見学する際それが模擬天守であれば、これはホントは虚構なんだな、っていう認識はもってもらいたいんですよ。....)
 んじゃあ、きみはどういうふうに城郭、城跡を見学するのですって。城郭観察中級者?(゚_。)?(。_゚)以上になりますと、簡単に言ってしまえば、天守閣は城の一部であって、その有無には特にこだわらない認識を持ち城跡のすみずみを観察します。概ね、築城者がどのように防御を施そうとしているのかという軍事的視点を読みとるように城郭を観察します。建物の美しさを鑑賞するというのは、芸術作品を鑑賞するのと同じであって城郭観察とは別の次元のものと私は認識することとしています。(といいつつも、土塁等の土の凹凸に対する芸術的感動が私の心の底で存在していることを否定はできませんが.....)
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 考えても見て下さい。天守閣が無くても城郭の虎口防御がしっかりしている等、なわばり等まともな城郭設計プランで構築されていれば、城は落ちませんが、ちゃらんぽらんな城郭プランで設計して天守閣だけ金ぴかに飾りをつけたりして、熱入れて建設した城なんてあっという間に落城ですよ。金の鯱で敵兵を追い払えますか?(名古屋地方のかたごめんなさいね。なにも金の鯱の悪口をいっているつもりはありませんからね。)なに!、金の鯱はずして外に投げて敵兵が金に目を奪われているうちに逃げるですって?・・・・・・・言うに及ばず(-_-;)・・・・・・・
 軍事的研究は危険だですって。そういう発想はきわめて短絡的平和主義的な発想ですね。現実に過去に戦乱の世があったならば、やはりなにが愚行か、どの程度の悲惨な出来事かを見極めるためには軍事的な研究は不可欠だと思いますが。だいたい城はもともと軍事的なことを想定して建てられているものではありませんか。城から軍事的要素を取り除いたらそれは、城ではなく住居ですよ。私は直感的に城郭=要塞=軍事的防御施設と考えています。(短絡的平和主義者については話が長くなるので詳細はこちらへ
 城郭の構造の研究がいったい何の役に立つかですって?。あのね、私がひつこくいつもいっているように、学問を役に立たせるか立たせないかはあなた方が考えることですよ。物事を役に立たせられるか立たせられないかは己の器量の問題ですよ。そんな問いは安直に聞くもんじゃないですよ、学問を志すものなら。学問的欲求は初めに利便性ありでなくて、初めに知的欲求あり、と思うんですがね。営利一本主義はきわめて危険思想ということは、昨今の政治、金融不祥事をみてもわかりますよね(1998年2月現在のお話)。そういう発想って非常に前近代的な発想ですよ。専門家=オタクと差別化するミーハーな方はしょうがないですが、っていうかそういう人はこんなページ読んでないよね。あれ、ちょっと話がそれたか(^_^;)
 さて、話を元に戻して(^_^;)、とはいえ、人に同意を求めるためには、上記文書ではあまりにも不親切と今更ながら思いますので、m(_ _)mペコ 城郭構造の研究が何に役立つかを数例あげておきましょう。狭義には、城郭作成者がだれなのかをある程度推定できるということがあげられると思います。丸馬出しが頻繁に使われているなら武田氏、角馬出しなら後北条氏というふうに築城者推定のヒントになりますよ。城郭観察になれてくると、「ああ、これは武田っぽい丸っこい縄張りだな、」とか、「ああ、これは後北条っぽい深い堀だな」と理解できるようになります。
 また、その場所での戦乱が発生した場合の推定規模みたいなものがわかると思いますよ。だれもせめて来そうもない場所に物々しい防備を固めた城を建てますか。城跡が物々しい、複雑でしっかりした防御プランがなされていた場合、ここは重要な場所だったのか、あるいはここが、この大名の勢力範囲だったのか、という推定のヒントにもなると思います。(勢力範囲の先端付近の城は防御力が強い傾向があります。(例・・・・・群馬県松井田城など))
 以上のように城郭の構造の研究は、意外と役に立っていると思いません!?
 最近の城郭の研究は城のみに限らず、その城が城周辺の地域と軍事的な側面にかぎらず、どのように関わりあっていたのかを調査しよう、という好発展をしているようです。残念ながら私はこの範囲までには達していませんが。
 いずれにしろ、「城=天守閣」なる固定観念から解放されると、目からうろこがとれたようにいろいろな事がわかってきますよ。実は先にもちょっと述べたように昔は、わたしも「城=天守閣」という固定観念をもっていました。そして、城跡に天守閣がないと、いったいこんなもんがなんでおもしろいのか、という疑問をいだきました。でも、わざわざ史跡として保存してあるのだから、何かあるはずだ、また、実際このでこぼこした地形には築城された時はどのような姿だったのか知りたいという欲求が沸きました。しばらくして、日本城郭大系という書物に巡り会う。
 その本を始めてみた時の感想は「凄い本だな、でも、縄張りばっかり書いてあるではないか、なんでこんなに縄張りにこだわるのかなあ。よし、ちょっとしばらくこれを見ながら城を見てみよう。」、そして、どんどん城跡を見学して行きました。(私に無理矢理城跡見学をつき合わされた方々。痛み入ります。(^_^;) この場で謝辞m(__)mペコ)やがて土の凹凸に感動するようになり、土の凹凸で頭の中に当時の城郭プランがなんとなく推定できるようになっていき、ますます深みにはまってきました。しまいには、簡易的な測量道具を買い始め、城郭図を書き始めるまでに達してしまいました。なんだかんだで、もう8年くらい本格的に城郭を観察しているようです。(城郭図作成はもの凄い忍耐と時間と労力を要しますので最近はやっていませんが。第1次世界大戦の研究がある程度目途が付いたら、また始めてみようかなと思いますが。)
 まあ、ここまで深みにはまれといっているわけではありませんよ。ただ、「城=天守閣」なる固定観念は遺跡破壊に間接的につながると思うし、その固定観念から解放されたほうが目が開けていろいろなことがわかりますよ、ということが言いたかったのです。
 だからといって、短絡的に「中世城郭一番。近世城郭なんてだせーぜ」なんて思わないで下さいね。(実は私はときどきこの傾向に陥りやすい。反省 (__)/ )。近世城郭は戦国時代の無数の城兵、攻城兵の討ち死経験により、いかに城内を守るか、寄せ手を殺すかという工夫を集約したりっぱな防御プランが施されているものが多いようです。まあ、そのほとんどが築城後に戦が無かったので無用の長物に終わってしまったようですが。ある意味ではそれはそれでいいのでしょう。攻城兵の無益な血が流れずに済んだのですから。
 また、「この城郭の防御力がすごいぞ、グフフフ。ここで敵が来たらここから弓で射って。グフフフフ・・・・この袋小路に敵兵をおびき寄せてグフフフ・・・・(~<>~)ケケケケケケケケケケ・・・・・」( コイツコエー(O_o;))なんてことはあんまり考えないように。これこそ短絡的平和主義者に付け入られますから。「凄い立派なプランだ。ああ、この城の周辺はきっとめまぐるしい戦が行われたのだろうな。領民もそうとうコキ使われたのだろうな。ああ、これだけのプランを生み出すのに無数の攻城戦が各地で行われていたのだろうな(T_T)・・・」
と思えば、短絡的平和主義者に付け入るスキをあたえませんよ。ただ、こうして考えるに軍事的研究って諸刃の剣みたいですね。私もこのことを肝に銘じときます。
 せっかくですから、実際の中世城郭とはどういうものかなどを少し述べておきましょう。
 それには、天守閣がなかったころに描かれた絵図などはかなり有効な資料となるでしょう。
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