軍事的考察をとにかく拒絶し、残虐的な出来事をひた隠しにすることによって平和が実現できると勘違いしている短絡的平和主義の危険なこと。 |
我が国には、軍事的考察を短絡的に戦争につながる危険な行為だから軍事的考察は極力さけた方がいいとか、戦場の残虐なシーンを見せることは短絡的に子供には悪い刺激を与えてよくないので極力見せないほうがいいとか、そのようなできるだけ戦争という出来事から目をそらすことによって平和が実現できると思っている人が結構多いのではと私には思います。 しかし、そのようなヒステリックな戦争嫌いは返って戦争を誘発する危険性があるように私は思うんです。だって、そもそも人の思想、考察を抑制するとか、情報を隠し遮断するという行為は、かつての世界大戦で戦争を遂行しようとした人たちもさかんに行っていたじゃないですか。物事を隠す。それはファシストの常套手段じゃないですか。 下の写真を見て下さい。ちょっと私の所有するビデオキャプチャーの質が悪いためあまり画質がよくありませんが、下の写真は第1次世界大戦下、フランスの将校の遺品の中から見つかった隠し撮り映像の一部です。内容は戦死者運搬シーンです。
次のシーンを見て下さい。
このシーンはテレビ放映され世界に衝撃をあたえ、アメリカのベトナムへの軍事介入に関しての疑念が強まり、すでに芽生えていたベトナム反戦運動にさらに拍車をかけたようです。ある意味ではこのシーンがもし放映されていなければ、ベトナム戦争はもう少し長く続いていたかもしれないように思います。 それが、たとえば、このシーンの残虐性を弱めるため下記のようにカモフラージュして伝えた場合どうでしょう。
現実に残虐的な出来事が起きているのですから、事実は事実としてありのままに情報を伝え、善悪の判断は個人に任せるのが理想と私は思います。 残念ながら人間にはおそらく生存本能のためなのか、暴力、破壊を好む欲求が生まれながらにして潜んでいるように私は思います。おそらく、軍事的なこと、残虐的なことを隠そうとしている人の中には、その残虐的生存本能をいたずらに刺激しない目的で過剰に情報を隠そうとしている人も多くいるのでしょう。 たしかに、いたずらに残虐的生存本能を刺激するのはよくないと思います。しかし私は残虐的情報から退避することに重点を置くよりも、むしろ自己のその残虐的生存本能の存在を自覚し、それを他者と共存する上でのどのように忘却、消化または、創作活動へのエネルギーなどに代謝するかを学ぶことに重点を置いた方が理想的だと思うんです。よくある残虐な殺戮事件が起こるのは、それは残虐なシーンを見たことが発生の根本的な原因ではなく、犯罪者の自己中心的でありかつ他人を思いやる精神の欠落が根本的な原因なのだと思います。自分の欲求を満たすために人を殺すという行為は、残虐的な性格が問題なのではなく自己中心的な欲求解消方法が問題なのだと思います。だから、残虐的なシーンを制限するというのは対処療法であって、根本的な犯罪抑制、戦争防止にはならないと思います。 いったいどんなことが戦争で行われたかをありのままに見つめなければ、いったい何が悪いのか、問題なのかわからないと思いますが。やたらと戦争情報、残虐情報から退避するよりも、ありのままに戦争を見つめ、ありのままに人間の醜いところを知り、そのうえでどのように理想的な対処の仕方を考える事のほうが、根本的な戦争防止につながるのではないのでしょうか。戦争自体が当然にして軍事的なことなのですから、それをありのままに見つめるためにも軍事的視点はぜひとも必要に思えます。たしかに軍事的視点だけに暴走することは危険ですが。軍事的視点は諸刃の剣のようなものだと自覚していれば問題はないと思います。 最後に、私は子供がいないので偉そうなことはいえないけど、でももし小さい子が戦争について親から下記のようにしつけらているのをみた場合、みなさん、どう思います? 親「戦争はいけないことなんだよ。」 子「えっ、戦争ってなあに?・・・・?(゚_。)?(。_゚)」 親「とにかく戦争はいけないことなんだ。(^_^;)」 子「だから戦争って何?、そんで、なにがいけないの。?(゚_。)?(。_゚)」 親「よけいなことは考える必要はない。 だまって親のいうことを聞きなさい。(\_/#)」 子「(T_T)・・・・・・・」 こういうしつけ自体がきわめて軍隊的ですよね。 子供の頃に理由も無しにやみくもに親から禁止されたことって、逆に大人になるとやたらとそのことを実行したくなると思いません? |