阿曇比羅夫之像
安曇野を切り開いた、
安曇族の英雄。
大将軍大錦中(だいきんのちゅう)
阿曇連比羅夫(あづみのむらじひらふ)は、
天智元年(662年)天智天皇の命を受け、
船師170艘を率いて百済の王子豊璋を
百済に護送、救援し王位に即かす。
天智二年、新羅・唐の連合軍と戦うも
白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、
8月申戌27日戦死する。

9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、
阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、
英智の神と称えられている。

伝統芸術である穂高人形飾物は、
阿曇比羅夫と一族の勇姿をかたどったものに
始まると伝えられる。
参考―
「阿曇山背連(やましろのむらじ)」と記す場合もある。
@山背は山城で大阪府南河内郡河南町で比羅夫の本拠地。
A連(むらじ)
古代民族の姓(かばね)の一つで
数十種類あり臣・連が尊敬され、
大臣・大連が国政の枢機にあたった。

阿曇比羅夫の称号
大仁(だいじん)→大花の下(たいかのげ)661年→
大錦中(だいきんのちゅう)662年 (冠位十二階位の位)
以上、境内石碑より

阿曇比羅夫が活躍していた頃は、
もうすでに安曇族は、
安曇野を切り開いていただろう。

九州から渡って来た安曇族が、
大阪と安曇野に分かれて定住していたと
推察できる。

もとは朝鮮半島からの渡来人であったのでは?
それ故に、白村江(はくすきのえ)の戦いに
参戦したのであろう。

海から来た民族が、
北アルプスの山々を
何を思い眺めたのだろう?
こんな山の中で、
何を思い暮らしていたのか?

懐かしい海を思い、
祖先を思い始まったのが、
「お船まつり」であり、
「穂高人形」だったのであろう。

ほんのひと時、
古代史に思いを馳せて、
ロマンを感じるのでした。
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