中島知久平をめぐる逸話 (3)

                                               参照: 中島飛行機 年表 

中島名物 豪勢な花見

 1919年(大8)末、川西と袂を分かち、中島飛行機製作所と社名を変更し、背水の陣で再スタートしたが、翌年になると、工場を整備拡張し、量産体制に着手した。
 
 その後は、知久平以下、連日遅くまで粉骨砕身、一同汗を流して働いた。 そして年度末になると、本年度はおよそ何台注文があり、総額いくらになると発表し、期日内に仕事が完了すれば、諸君の収入は大体このくらいになると目標を示した。 目標が定まれば、仕事にも一段と熱が入るのは自明の理、二週間ほどの日数を余して、全ての作業が完了してしまった。
 
 新年度に入るまで仕事は無い。それではということで、知久平の発案により、花見を催すこととなった。 最初は徒歩や自転車で行っていたが、そのうちに、ただ漫然と花見に行くというのも能が無いので、トラックに山車やお囃子を乗せ、道中にぎやかに飛行場(尾島)まで花見に行った。
 
 これが第一回の花見で、以降も足利の公園、桐生の公園、最後は熊谷まで花見に繰り出した。山車の飾りつけは各職場ごとに分担し、仕事場の脇に堂々と小間を設け、他の職場の者に覗かれないにしてやっていた。
 
 とはいっても肝心の設計は、専門外の者には(頭で)考えることはできても、(図面を)書くことは出来ないので、専門の設計部が担当した。 餅は餅屋で、色を塗るのは塗り屋が、鉄の骨組みは鉄工場と、書く職場が助け合うところはお互いに融通し合った。
 
 それでも全容を知られないように極力隠し通し、いざ開幕となったときにアッといわせようと、各職場とも腕によりをかけたのであった。 山車には、ETの如き宇宙人まで登場して人気を博したそうである。
 
 加えて、お囃子の稽古も始まる。中央から監督官が来て、「いやに工場内が賑やかではないか」と訝しげであったが、目下新年度に備えて、鋭気をやしなっている次第であります」と煙に巻いた。
 
 斎藤昇の回想録によると、熊谷の荒川堤に花見に行ったときには、まだ汽車、バスの便が無い時代のこと、知久平の号令一下、新旧様々の乗用車、トラック五十台余りが関東一円から集められた。 その五十台余りの車が、延々と田舎道を連なり走る様に驚かぬ者はなく、まさに知久平の得意や思うべしであった。
 
     【追記:別のページの斎藤昇氏の「中島飛行機の想い出」をご覧ください】

   女中へのチップ

 戦前の民間航空機メーカーの中では、中島と三菱はその双璧で、常に鎬を削っていた。 あるとき、霞ヶ浦で、中島と三菱とのコンペティションが行われ、中島からは技術やや現場の者が参集した。 さて彼らが厄介になった旅館での話である。
 
 ある日、知久平は世話になる女中にチップを出そうと、袋に包んで弟の乙未平にことずけた。 預かった乙未平はチップの額の多さに仰天した。 その半分でも三分の一でも十分な額であったので、黙って少し削ってしまった。
 
 後日それを知った知久平は、「金を使って宣伝することはたやすい。 しかし、口伝えで、中島はなかなかよくやるよいところだとか、あの会社の人達はよい人達だとか、悪いとかは、ほとんど人の噂から判るもので、女中の気持ちさえも掴むことが大切なことだ。 あまり妙にちびると、お互いのコンペティションのときなど、細かい気配りに対して受ける信用は、一寸したつまらないところで大いに効果があるようなものだから、そんなことでちびるものではない」と諭した。
 
 技術以外の細かいところでも、三菱との競争に勝つために隅々まで繊細な配慮が常になされていたのである。
 
【追記】
「繊細な配慮」というコトバが合っているかどうか?疑問であるが、「派手好み」というと身も蓋も無いが、何事にも普通の人の数倍に物事を捉え、行動する知久平の性格を表す逸話であろう)

   追いついてから追い越せ

 三菱とつばぜりあいをしていたころ、国産飛行機の性能は、欧米と比較し、まだ十年の遅れがあると見ていた知久平は、「その差を縮めるには、まず追いつき、次に追い抜くという精神でいかねばならない。 そのためには、欧米の良いところはどんどん吸収せねばならない」と常々から社員に言い聞かせていた。
 
 この中島の方針に対し、三菱は「中島は外国の模倣ばかりしている」と批判的であった。 平均年齢が三十代という三菱の技師は、船舶エンジンを手がけてきた自負もあり、外国の模倣ばかりをすることは、とてもプライドが許さなかったのである。
 
 三菱の批判に対して、知久平は「そんな馬鹿なことはしない。 もし外国の飛行機と戦って負けたとき、真似をするのがイヤだったからと言い訳ができるか」といい、それに応えて平均年齢二十代の若い頭脳は、外国製品の長所をスポンジの如く吸収し、自分達の骨とし、肉としていった。
 
 ただ模倣といっても「けっして単純な事柄ではない。 実は大変むずかしい事柄といえる。模倣をして、若し性能が現物より良くなかったとすれば、それはかえって危険信号がついたといってもよい。 例えば、回転数が現物以上上がったとすれば、やがて耐久性に問題が生じてくるであろう。 したがって模倣というものは、一から十まで万事同一にならなければならない。 それだけに大変困難な作業ともいえた」とエンジン関係の新山春雄は回顧している。
 
 もちろん良いところを模倣するに際しては、契約を結んで買い取る手順をきちんと踏み、知久平以下、会社幹部は外国有力メーカーとの技術提携に力を注いだ。 そのため現場の技術陣の期待以上に、事細かく技術提携の契約がなされたということである。
 
 模倣を通して確固たる土台を築き上げ、その上で初めて自分本来の独創性を発揮する。 これが真に求められる技術者の姿であり、知久平らの考えていたのはそれであった。 その結果、後には中島は世界の航空史に名を残す多くの業績をあげるに至った。

【追記】
 軍による試作発注のコンペティションは1920年代の半ばから始まった。その中で、三菱との競争意識は相当なものであったと想像される。 三菱など他の会社はみな、バックに大きな財閥を持つ大企業であったが、中島は新興のベンチャー企業である。 それだけに闘争心はものすごく、従業員全員に漲っていたようだ。 
 話は違うが、1920年から東京帝国大学に航空学科が新設された。 それまでは船舶工学科のなかに航空工学の講座があるだけだった。 優秀な帝大卒業生は皆財閥系の会社に初めから割り当てられて就職し、田舎の中小企業の中島には誰も来てくれなかった。 しかし、そこに東京帝大航空学科の2期生の吉田孝雄が来るというので大騒ぎとなった。 吉田が初めて太田に姿を見せたときには、提灯行列で迎えたという。 そして、いきなり、佐久間一郎の後継者として、設計図面を一手に管理する製図部門長(工場長)を命じられた。(吉田孝雄は戦後の富士重工業の2代目社長)
 話は戻って、関係者は「中島は模倣」といわれたのを、かなり気にして弁解しているが、やはり軍に納める製品だけに、性能があってナンボの世界であり、劣っていては話にならない。 
 戦後にある中島の機体設計技師から聞いた話であるが、技術提携でもって欧米の機体を導入すると、詳細な構造計算書が添付されていて、それはもう食入るように勉強をしたとのこと。 欧米のメーカーも、戦雲が怪しくなる前は、後進国とみた日本に、技術援助団を派遣したり、資料ノウハウを公開して、結構親切というか甘く対応していたらしい。

   中島の社風(1)

 1931年(昭6)、北海道大学機械科を卒業した小谷武夫が東京工場(荻窪)に入社した。 なかなかのスポーツマンで、ラグビー選手として鳴らし、また普通のスキーではあきたらず、ジャンプをやって、当時の幅広のスキーを折ったとか、水上スキーを試みたとか、危険なことを平気で行う気性の激しさを持っていた。 さらに持ち前の度胸のよさで、外国人とも物怖じせずに話し合ったりし、周囲の者を驚かせた。
 
 反面、同僚の印象では計算が人一倍うまいとか、頭が特別切れるという印象ではなかった。 しかし、知久平の鋭い眼力は、この小谷に非凡な才能を見出していた。
 

 ある日、小谷を呼んだ知久平は、「本来ならお前を外国へやらせたいが、外国へ行くと10万円かかる。その代わり、好きなエンジンに自由に取り組んでみたまえ。 ものにしてやるから」と話した。
 
 思わぬ有難い言葉に、気性の激しい小谷は人一倍感激した。 小谷は精魂込め研究に打ち込み、遂に一時代を画するエンジン「栄」を造りあげ、見事、知久平の恩情、付託に応えたのである。
   ←「栄21型」エンジン
 
 さてこの「栄」試作品が成功したときのことだが、一つの面白い挿話が生まれた。 「栄」の試作エンジンを(耐久)テストしたところ、何時間も順調に回っている。 佐久間一郎、新山春雄(1927年入社)、小谷武夫らは経過時間から、「ハワイまで飛んだ」、「とうとうアメリカまで飛んだぞ!」と大成功に万歳、万歳と喜び合い、祝杯をあげたあと東京中野の鍋屋横丁にある成吉思汁料理店へと繰り出して行った。

 成吉思汁で痛飲して、へべれけになって部屋に戻ってきた一同は仰天した。 有頂天になって祝杯をあげていた留守中、廻し続けていたエンジンは無残、バラバラに飛び散ってしまっていたのだ。 結局再び同じ物を造ればよいので問題は無かったのだが、このような豪快さは、いかにも自由闊達な中島の社風を表しているといえようし、新機軸を生み出す活力源にもなっていたといえよう。
 
【追記】
 中島飛行のエンジン製造拠点である東京工場は現杉並区荻窪に1925年に完成し、フランス・ロレーヌ社のW型エンジン(右写真)のライセンス生産でスタートした。
 そして翌1926年に、知久平はエンジンの自主開発着手を宣言し、なんと同年春に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの田中正利を設計主任に命じた。
 中島飛行機では、若い技術者にどしどしチャンスを与え、進取の気性に富んでいるのが伝統であるとされていたが、そのもとは知久平がつくり、知久平そのものであった。
 中島では設計がオールマイティという思想があり、若い技術者に大きな責任と誇りをもたせるのが知久平のやり方であった。 それだけに若い設計主任は自分のオリジナリティを極度に重視し、ために目先の性能に走りがちで、生産性やコストを度外視する傾向にあり、実用エンジンでは最も重要な信頼性確保や運用現場での補修整備性などはやや後回しにされがちだった。
 
 小谷技師もそういった環境の中で、前述の通り、1933年から研究開発を始めた社内開発符号NAMエンジン、後の海軍の制式名称「栄11型」1000馬力の設計主任に任命され付託に応えたのである。
 なお、小谷はその後設計課長となり、1937年米国ライト社にサイクロンエンジンの生産技術取得のメンバーの一人として新山研究課長らと3ヶ月ほど米国滞在している。 右の写真はニューヨークにて前列中央が中島東京工場の生みの親の佐久間一郎、右側に研究課長の新山春雄、その後ろが小谷武夫である。 (この時点は既にNAMエンジンの海軍による公式耐久試験を終えた段階である)
 
 その後の高出力タイプ「栄21型」から5年後輩の中川良一技師(1936年入社)が主任を引き継ぎ、1939年から終戦の1945年にわたって生産され、零戦や隼に搭載された、日本で最多量産の航空エンジンを生み出し、育て上げた。 中川技師はその後2000馬力の「誉」エンジン開発の主任になっている。
 
 新山はその中にあっては先輩格であるが、やはりスポーツ好きの個性的なエンジニアで、東大工学部造兵科出身で1927年に中島に入り、設計ではなく研究課長として「理屈よりも実践」「現地現物主義」で何時も油まみれで中島のエンジン開発を支え、とくにキャブレターのオーソリティで知られる。 また軍からも最も信頼のおける(最高給の・・!)サービスエンジニアといわれ、海軍航空隊のパイロットであった源田実(終戦時海軍航空参謀・大佐)は「新山さんが試験してOKのエンジンならいつでも飛ぶよ」と言わしめたほどであった。同1927年に入社した東大機械卒の伊地知壮一が設計課長として、剛の伊地知、柔の新山と言われ絶妙のコンビであったが、伊地知は戦争中から胸の病に侵され終戦直後に亡くなっている。
 
 新山が中島飛行機に入社する際に知久平との面接があり、その時知久平は「いま会社は今後どうなるか見当がついていないので大学出はあまり欲しくない。飛行機の将来は分からないので、10年後には課長になれるだろう、20年で部長だな、と思っているなら入社を止めなさい。もう一日よく考えて再度明日来なさい」と言われたという。 新山は1日考えたことにして! 翌日「是非入れてください」と返事して採用された。 
 ところが入社してみると、その初任給はべらぼうであった。 当時一般的な大卒初任給は60円〜70円といったところであったが、新山と伊地知は100円、同期の早稲田出身者は95円であった。 もっとも、東大航空卒は105円とさらに高給であったが、その後大卒の給料が統制され、1936年に入った中川(東大機械卒)は75円に抑えられてしまった。 さらに、新山はその技量が高く評価されたのか、入社後1年もたたない内に115円に昇給していて、その辞令(右コピーをご遺族から入手、知久平の捺印がある)が残されていた。
 
 なお、航空エンジンを始めた大正末期はともかく、昭和10年代の「栄」のころは高度な技術水準が要求され、ひとりの技術者だけでは到底全ての開発はではきない。 設計主任の考え方にそって、ベテランの設計者、補器開発部門、研究実験部隊、生産部門、そして運用現場などが一致協力して仕上げていかねば到底出来ないことで、英知を結集する総合的な集団体制になっていた。
 
 戦後、小谷は富士重工業創立時から役員となって更に専務取締役にまで至り1963年に退任している。佐久間は中島の取締役であったのでGHQより一時公職追放になっていたが、関東電気自動車、後の関東自動車工業を興している。 一方、新山は富士精密からプリンス自動車の副社長に、中川は富士精密からプリンス自動車、そして日産自動車への変遷の中で、技術開発のトップとしてやはり専務取締役に至って、皆それぞれに戦後日本の自動車産業・技術・エンジン技術の発展に多大な貢献をしている。
 
★中島の社風の追記:上に出てきた中川技師による社風についてを紹介します。→ここをクリック

   知久平の財産

 知久平の人材発掘の巧みなことは、夙に定評があった。先の水田嘉藤太の活躍も、知久平との出会いがあったればこそであろう。
 
 知久平は東京の定宿の風呂で背中を流してくれる三助を、なかなか使える男と見抜いて雇ったところ、めきめきと頭角をあらわした。 当初は手先が器用で、頭の回転さえよければどんどん昇進できたから、彼は木工で腕を発揮し、終わりには工場長の乙未平に次いで副工場長格にまでなった。(右は木製主翼の仕上げ工場)
 
 この花形スターの水田も、たたきあげの三助も、中島の従業員は全て知久平にとって大切な宝であった。 設計室は、名伯楽知久平に選び抜かれた名馬集う放牧場ともいえた。
 
 彼等は、のんびりした風情で一日を過ごす。ある日、陸軍の検査官がたまたま設計室付近を通りかかったところ、煙草を吸っているものが多く、一向に働いている様子が見えない。
 
 早速検査官は「たるんでるではないか!」と知久平に釘をさしたが、知久平は答えて曰く、「そんなことはない。 いくらやっているように見えても、何も考えていないようなら良い飛行機はできない。 一日ボケッと煙草を吸っていても、本当の技術者は(いつも考えていて)やるべきことをやるのだから、そんなことで判断しないで欲しい」とやり返したそうである。
 
 このことに関して知久平は、しばしば植木屋を例にとって語っている。 「植木屋は煙草を吹かしながら、半日以上何もせず、ただ空を眺めている。あの枝はどういう形にしたらよいかを考えているのだ。 朝から晩までハサミをただ動かしているようでは、よい植木屋とはいえない」と。
 
 ある技術者は朝十時ごろ出社すると、将棋を打つなどして半日をブラブラ過ごす。本職の設計は夕方の六時ごろから始め、徹夜も辞さない。 「会社のガチャガチャ騒々しい中で、いくら仕事をしてもいい考えが浮かぶはずがない」というのが彼の言い分であったが、知久平はそれに対しては文句一ついわなかった。(右は太田工場の設計室)
 
 知久平の自由放任主義は、決して無定見なものではない。 とにかく中島では、全体に個性の強い一徹者が集まっている。 例えば、発動機の型式が同じであれば、それに付属する部品も当然同じでよいのだが、皆それぞれに図面を書いている。
 
 確かに、万事標準化すれば値段も安く、早くできるかもしれない。 しかしそれでは一向に進歩がない。量産、標準といったことは考えず、自由に構想を練ればよい。 それが知久平の考えであった。
 
 ことほどかように、知久平は技術者を大切にした。 「設計担当の者には三キロ以上の物を持たせてはいけない」と命じたともいう。 微妙な線引きに全勢力を注ぐ者に、余計な力仕事は百害あって一利なしだと・・。
 
 また知久平は、よく人に次のようなことを言っていた。 「俺の財産は土地でも、金でもない。一人当たり何万という価値をもつ技術屋を、四十人も五十人も持っている。それが唯一の財産だ。その財産は、ほっておいてもどんどん価値が増えるのだよ」
 
【追記】
 大正も終わりの1920年ころ、陸海軍からの注文が増加し、その品質を監督するために検査官が軍から派遣され常駐し、工場で目を光らせていた。
 またこのころから学士の技術者の採用が多くなってきた。そのころの知久平の話である。 1930年終わりころの中島の機体空力設計の技師に糸川英夫がいた。彼も相当に個性派の技術者で、戦後ロケット博士として名をはせたが、彼曰く「組織の三菱、人の中島」といって、中島の社風を端的に言いあらわしている。

   知久平の趣味

 知久平の趣味・道楽の面では、取りだてて特筆すべき物はもっていなかった。僅かに落語、漫才、手品を好み、小唄の勝太郎や落語の柳橋らをしばしば座敷に呼んだ。自らは八木節を唄うこともあり、あとはダンス、将棋をたしなむ程度であった。
 
 酒、煙草も全くやらなかった。酒はやらなかったが、それでいて御茶屋にはしばしば足を運んだ。座敷の名手でもあり、長時間、酒を飲まずに座をとりもち、話題は一向に尽きず、人を飽きさせなかった。
 
【追記】
 既に書いたように宴席での猥談は得意としていたらしい。太田の工場でも通勤の路上で歩いている工場の女性を、気軽に自分の車に乗せ、送りがてら滑稽な猥談で大騒ぎしながら帰ったという話である。 政界にはいってからは、謹んでいたようで、止む終えない接待以外、常に静かな部屋で読書に耽るのが、楽しみであったというが・・・??? 
 でも特異なのはライオンの飼育であろう。佐久間次郎は「眼力を養うため」と書いているが、かのアレキサンダー大王がライオンを飼っていたという話から、知久平も生態観察と称して自分の屋敷内で飼育をしたかったようで、変な趣味といえば趣味であろう。
 また話は違うが、知久平は一生正妻をめとらなかった。 「国家のために働くのが自分の使命で、そのために女房は必要ない」といっていたというが、両親から中島家の跡継ぎをと懇願され、中島飛行機を立ち上げたころより、ずっと自分の身の回りの世話をしてくれていた女性との間に生まれた子を、長女と長男として自分の籍に入れ後継ぎとした。
   (写真は終戦直後、晩年の知久平である)

【注】内容そのものは中島飛行機の身内の者の回顧録であり、相応に誇張されている部分があろと思いますが、
   ここでは原本を忠実に記載しています。 また言葉使いも今日に合わないところもありますがご理解ください。
 

       中島の社風(2)のページへ


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