(追記) 中島の社風 その2

   

 終戦となってから30年余り過ぎた1978年(S53)のころ、中島飛行機荻窪工場(エンジン開発部門)の勤めていた人々があつまり、「中島は機体もさることながら、発動機も輝かしい成果をあげたが、その歴史をまとめた文献がない・・」とのことから、「いまここでまとめておかないと永久に歴史に埋もれる・・」という危機感が後押しとなり、新山春雄(中島1927年入社)氏を委員長に、中川良一(同1936年)氏、水谷総太郎(同)氏が委員となって編纂に取り組んだ。

 そして1983年「中島飛行機エンジン史(若い技術者集団の活躍)」として中川・水谷両氏の共著として発刊(酣燈社)に至った。 ここではその巻末に記された中川の「あとがき」に中島飛行機の社風が端的に表現されているので、中川氏のご遺族の了解を得て、ここに紹介いたします。

(各種エンジンの写真は富士重工業に残されていた「中島全エンジンの写真帳」から、そのままで紹介します)

   中島飛行機エンジン史」 執筆あとがき
 
                  元中島飛行機且O鷹研究所試作部次長 中川良一
 
 まず全体に流れる自由な社風である。もちろん組織はあるのだが、組織の中でも別の組織の人でも自由に話し議論することである。こと技術の議論だと先輩も後輩もない、部長も課長も無く自由に議論する空気である。
 だからお互いの呼び方も名前かあだ名を呼び合う。部長だとか課長だとか呼ばない。ちょうど米国ではロンとかヤスと呼ぶのに似ている。例えば新山さんに対しては我々が入社したときは課長だったが、新山さんとか新山オッサンと呼んだ。
 課長なんて呼んだことはない。亡くなった上田さんは当時技手だったが、上田オヤジという。二人だけのときは只オヤジだけだ。亡くなられた小谷さん(小谷武夫)はタニさんまたは小谷オッサン、また私のことはプーさんと呼ばれた。
 当時フランスから超小型機 プー・デ・シェル(空のシラミ:右写真)が輸入されて評判だったので、同時入社の悪童がつけたものだ。
 
 だからそのかもし出す空気は最近の官僚的な会社での空気と全く違うものだ。これがあの当時の雰囲気の基調となっていたと思う。
 
 昭和8年頃から"寿"の成功は中島飛行機の発動機部門が日本の空冷星型エンジンのトップの地位を占めることとなった。その後ライト・サイクロンとの提携で、それをコピーした"光"によって新しい技術、構造を取り入れたが、それ以降の方針は、軍からの要請もあったが、何かしらオリジナリティを出せという要請であった。
 下の写真はライト社から購入したサイクロンとコピーを疑われた「光」発動機。もっとも名前も「光」とは、
 ライト社の名前(綴りは違うが)から連想して名づけたと思われ、疑われても仕方がないか?
 
 昭和10年前後に学卒の若手が大量に入社して設計、研究、実験、生産などに配置された。その連中が思い切った力を出すような指導があったと思う。まず気化器を空戦でエンジンが止まらないようにする伊地知、新山、上田各氏の名案が最初の輝かしい成果を挙げた。
 
 これにつれて設計では工藤技師が昭和10年入社だったが、4弁式の9気筒星型空冷エンジンを着想設計してすばらしい性能を発揮していた。不幸にも生産に入らなかったが、今でも傑作と思っている。(下の写真が9気筒4弁のハ-20)
 
 私も小谷さんの設計された栄11型のあとをついで栄21型(下の写真、側面写真が欠落)に色々と工夫をこらした。その後"誉"の構想と並行して、液体酸素噴射のグループでの開発、低圧燃料噴射方式のプロジェクトなど次々に外国にはないものという精神で努力した。試作には至らなかったが"富嶽"のエンジンなども全くこの方針が貫かれていた。
 
 設計の中のこのような若手陣の活躍に呼応して研究実験も20歳台の学卒を中心とする若手陣の異色ある研究実験体制で当らざるをえないものだった。戸田技師の冷却や吸入ポートの実験をはじめとして、近藤正夫技師のピエゾによる圧力検出、渡辺(栄)技師の軸受の製造方式、浅野技師のスーパーチャージャーのマッチング、橋倉技師のばね系、八田技師の液体酸素を用いた身を挺しての実験、蓮尾技師の性能解析など枚挙に暇がなくすばらしいもので、すべて戦後の発展にも貢献しているものである。
 
 またエンジンの運転での新山さん、上田さんなどのサービスエンジニアとしての熟達ぶりは内外にとどろき、源田実・元海軍大佐などは「新山さんがOKといえばいつでも飛ぶよ」という信頼ぶりであった。
 
 しかし外面的に派手な上記の業績に対して、これを立派に実現した裏方の努力功績のほうも大きかったのではなかろうか。特に経験の少ない若手が存分に活躍出来たのは各部署での裏方の経験実力のおかげで、それがなければ成果をあげることは難しいのだ。例えば設計部門では若手の主任設計者などの計画した略図や一部寸法の入れてある内容をキチッとした設計図面にするのはこれらの人々がいなければ到底成り立たないのである。
 
 私の経験でも私の計画したフリーハンドに近い図面を、直ぐに理解して信じ難いようなスピードで、組立図面や部品図面にしてしまうのだ。このようないわゆる書き手が揃っていることがこの会社、このグループを支えているのである。
 
 これらの人々は設計だけでなく、機械、仕上げ、熱処理、組み立て、検査、運転、実験などあらゆる部門におり、我々の画くかなりあぶなかしい図面を立派に工程化して一人前のエンジンに作り上げ、飛行機にのせられるようにして行くのだ。私が図面を出して各部門を回って歩いて見ていると、各部門から「これはこんな風にするんだ。でないとうまくまわらないよ」などという注意が沢山あった。
 
 一例をあげてみよう。木型の神様といわれる生島君という人がいた。私は栄20型の設計の時に、極めて難しい後蓋の図面をかいて、やや得意気に生島氏に見てもらった。彼は「うーん仲々良く出来ているがここは間違っていますよ。この断面を出してごらんなさい。すると分かりますよ」といわれて舌をまき成程と感心したことがある。彼の頭の中には図面を見れば外型と中子が立体的にちゃんと出来ているのであろう。
 
 またそのほかに一部記載してあるが低圧燃料噴射方式が途中で行き詰ったときに、フリーピストン式バルブを考案した八田技手や、混合比自動調整方式を伊地知さんと一緒に考案した萩野技手なども思い出される。
 
 このようなベテラン集団は、工業揺らん期の日本産業の何処でも幼稚な当時の技術を支え補って存在していた。しかし中島発動機部門の各部門において支えていたのはそれらの中でも特級の名人級の人々が多く、中島の発動機部門の急速な成果を支えた人々として忘れることは出来ないと思う。地味な方々のすばらしい功績として心からの感謝と賞賛の意を捧げるものである。
 
 以上のような明るいのびのびとした自由の空気の中で若い連中が競争と協調の中で思い切った努力を傾けた。しかもベテラン諸氏のこれを生かし支えた大きな力が組み合ったのである。皆があの頃は良かったというのは全く当然である。
 
 太平洋戦争に突入した時に我々は直前に噂は聞いていたものの、全面戦争に突入したと聞いた時に一同愕然且つ暗たんとしたものである。というのは海軍機用としてハワイ攻撃に参加した主力の"栄"やその他"光"などの海軍向けエンジンは僅かに小さな荻窪工場で作っていたこと、戦争前にカーチスライトの技師が生産指導に来所していてその能力を熟知していたこと、太平洋決戦機として海軍が試作を指示した"誉"は指示後僅か一年半でまだ海軍の耐久も終っていなかったこと、協力工場のレベルの低いことなどで、全く勝ち目のないことが分かっていたからである。緒戦の奇襲勝利後は、半年後のミッドウェーの惨敗以後、全くの一方的なものとなってしまったわけである。(下の写真は中川氏が設計主任の「誉」、残念ながら量産機では十分な成果が得られなかった)
 
 結局このような集団が身を挺して働いたが報いられることはなかった。
終戦後にこれらの経験は、富士精密(プリンス自動車)から日産自動車、富士重工業(スバル)、あるいはかなりの人達が揺籃期に入った本田技研その他多数の内燃機関に関係する機械工業に受けつがれ、日本の高度成長に貢献していることは喜ばしいことである。 (1958年記)
  
    中川 良一 
    1936年東京帝大工学部機械工学科卒業、同年中島飛行機入社
         「栄20型」以降の設計主任、「誉」設計主任
    戦後は新山氏と共に参画し富士精密工業、のちのプリンス自動車にてR380などに代表される高性能車、同エンジンの開発を指揮し活躍した。プリンスは1966年日産に吸収合併となり、常務・専務をを歴任、また自動車技術会会長などを通じて日本の自動車技術の発展に貢献した。
    1998年7月30日逝去 享年85歳

  社風 その3(中島知久平の次の夢)→ここをクリック


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