中島知久平をめぐる逸話 (2)

                                      参照: 中島飛行機 年表 

  機転の妙と眼力

 1919年(大8)ころの中島飛行機の創設の時代、重なる試験飛行の失敗により、地元太田の人達は「飛ばない飛行機」と陰口を叩き、知久平の評判は芳しくなかった。 後に中島飛行機及び知久平を語るとき初期の苦しい時代を端的にいい表す言葉として必ず引用されるのが、

   「札はだぶつく、お米はあがる、
     何でもあがる、
       あがらないぞい、中島飛行機」

という俗謡である。 これは第一次世界大戦による成金と、1918年(大7)夏に全国的規模で起こった米騒動と、中島飛行機を絡ませたものであった。 また、中央のある新聞には、「米俵が小さな羽をつけて飛び、下に飛行機が坐って見ている」といった漫画が掲載され、皮肉られもした。

 もちろん中島に働く人は、そのような中傷に耳を貸すこともなく、「米と飛行機を一緒にするとは何事だ!」と憤慨しつつ、必ず成功させるとの信念をもって仕事に打ち込んだ。  
【追記】
写真は中島式3型機。 主翼を海軍時代の試作機のものと同じに改修した。 この機体の試験で重心位置の問題を認識し、さらに四型に織り込んで成果を得た。 この場所は尾島飛行場で後方に利根川の土堤が見える。 この三型機は尾島の飛行学校で練習機として使用された。


−「ぶら下がってみい?」−

  1919年(大8)2月、水田陸軍中尉による中島四型6号機の試験飛行の大成功は、まさにそれまでの全員一丸となった努力の結晶であった。 以降陸軍から中島式五型と甲式練習機、海軍からは横廠式ロ号甲型水上偵察機(下左)、アブロ式練習機(下右)やハンザ水上偵察機などの大量発注を受け、中島は活況を呈した。

      

 こうしたある日、「近ごろの中島はえらく景気がよさそうだ、一つ飯の種にでもするか」と紋付袴に帽子をかぶり、ステッキ片手に、壮士気どりの男が知久平に面会を求めてきた。驚いた佐久間次郎が、本館脇の所長室にいた知久平に取り次ぐと、
「ああ、そうか、わかった、わかった。そいつは汽車賃を貰いに来たんだよ。よしよし、会ってやろう」と、いとも気軽な様子で男を招じ入れた。 見ると、髭をたくわえ、なかなか恰幅のいい男である。

「ふ〜む、君はばかに強そうだなぁ。俺も海軍を出て力はあるんだ。ひとつ、俺が右の腕を挙げるから、君はこれにぶら下がってみい」と知久平は言った。
「ぶら下がって、俺の腕が下がったら褒美を出そう。だが、もし君が足を上げて、俺の腕が下がらんときは何もせんぞ。俺が勝ったんだから・・」
これには壮士気取りの男も、「先生、冗談でしょう?」と笑い出してしまった。
しかし知久平は澄ました顔で、
「冗談じゃない、本気だ!」
 肩いからせて乗り込んできた男も、この知久平の奇妙な提案に、最初の気負いもどこへやら、結局なにがしかの汽車賃を押し頂いて、ニコニコと退散していった。
 普通なら険悪な状態になって当然の場面を、見事ユーモアで納めてしまう。 知久平ならではの気転の妙であった。 
 
 【追記:国定忠治の上州だけに、こんな話は結構日常茶飯事だったのでは・・・?】
 
― 眼力の稽古台 ―

 下のものに優しく接する知久平は、一方において相手の機先を制するのは、眼力にあると言っていた。 例えば、「犬の喧嘩を見ても、最初の出会いで双方が睨み合い、負けた方はしっぽを巻いて逃げていくが、勝者は必ずしも大きくて、強そうなものとは限らない。 実力が無くても、眼力で勝った方が最後までイニシアティブをとるのだ。 人間もまた然りである。だから自分は眼力を養うために、ブルドッグを使って練習をしている」と。 

 したがって、これはと思うときには、知久平は相手を睨みつける。 眼力が一層鋭さを増し、相手を制するのである。 もっとも練習台となるブルドッグは、後にはすぐに弱々しく脇を向いてしまうということで、代わって登場したのが、なんとライオンである。

 1934年(昭9)4月、エチオピア皇帝から上野動物園に寄贈されたライオンに子供が生まれた。 知久平はそれを譲って欲しいと懇願し続けたあげく、、動物園側が欲しがっていたオットセイを苦心して手にいれ、ようやく二ヵ月後、それと交換して、ライオンのオス・メス、各1頭を入手した。

 ライオンの子は、東京牛込加賀町の中島邸で飼われたが、ある日秘書役の武藤金之丞がそのライオンを連れて銀座を歩いたため、大変な人だかりとなり、車も止まる騒ぎとなった。 当時は、これを取り締まる法律が無く、警察側も弱ったが、ともかく交通妨害罪になるということで、引き下がってもらったそうである。

 ところで、このライオン騒動はこれだけでは終わらなかった。 翌年1月21日、ライオン係の若い女性がオスの"エチ"に餌を与えようと檻を開けたところ、アッという間に檻を飛び出した。 そしてライオン係ら二人に怪我を負わせ、邸内を暴れまわった。 中島邸の内外では大騒ぎとなったが、幸い邸外に逃げ出すことはなく、やがて無事檻に戻って最悪の事態には至らずにすんだ。 翌日の東京朝日新聞には・・

   「血に飢えたライオン
      猛然と二人を噛む
        中島知久平のペット
           突如檻から脱出」

 との四段の大見出しが踊り、紙面を大いに賑わした。
 事件の当日外出していた知久平は、この不祥事にすっかり恐縮し、即座に動物商に捨て値で払い下げ、ライオンとの睨み合いも終止符を打ったのである。

    【追記】
    このライオン話は知久平が、既に政界に身を投じていたころの何とも驚きの逸話である。 ブルドッグの話はともかく、ライオンと眼力修行と結びつけるのはいかがなものか? 知久平にとってライオン飼育は数少ない趣味の一つであった。 なお、東京朝日新聞には時折中島の中傷記事が掲載されたようだ。

   知久平叱る!

 知久平が雷を落とすということは、稀有なことであったようだ。30年間仕えた佐久間次郎にしても、その間僅か二度しか叱られた記憶がないという。 
   【追記:にわかに信じがたいが佐久間次郎は知久平の腹心であっただけに特別であったのでは・・・?】

― アエラへの照会 ―

 佐久間次郎がフランスの航空計器専門会社アエラに部品を照会する際、三菱商事がアエラのエイジェンシーということで、うっかり三菱商事に照会を出すという失敗をしでかした。
 知久平は佐久間を呼んで曰く、「お前、もう少し勉強しなきゃ駄目だぞ。三菱と中島はライバル同志だ。 そこへこういうものが欲しいといえば、中島はこれこれに使うとすぐ判ってしまうではないか。 うちは三井と結んでいるのだから、そちらから照会を出せば、向こうでボロが出ないようにうまくやってくれる」と戒め、大きな声で「もうやるなよ」と一喝し、ジロッと睨み、それで終わりであった。

【追記】
本件について三菱商事のOBの方から「アエラと販売代理店契約をしているのだから、顧客の情報を、例え(同じ三菱系列)であっても漏らさないのが商社の商道徳です」と厳しく御指摘がありました!
 

― ドロップ事件 ―

 ある日、佐久間次郎は茶目っ気を出し、友人の監督官佐伯大佐に偽ドロップを素知らぬ顔で「おいしいよ」と進呈した。前に銀座の玩具屋「金太郎」で買い求めたものである。
 
 おかしな味にすぐに正体を見抜いた佐伯大佐であったが、これもまた人が悪い。後刻、海軍横須賀工廠の西本技師に「これを食べ給え」と差し出した。西本技師は、上官の行為に有難く頂戴した。
 
 ・・・ところがしばらくして、西本技師はひどい腹下しの状態になり、折から太田に出来た避病院の第一号入院患者となってしまった。
 
 この一部始終を聞いた知久平は佐久間を呼んで「おい、少し加減しないか」と叱り、例の鋭い眼光でジロッと睨みつけた。
 
 後に腹下しの原因は、全く別の誤診であったことが判明したため、直接の下手人でもない佐久間としては、全くの叱られ損であったが、このおかしなドロップ事件は、一時、世間の格好の話題になったとのことである。

   人心総撹術

五個の金時計―

 ある年、知久平は社員一同の精励を慰労するために、秋になったら伊香保へ一泊旅を行うと発表した。
娯楽の少ない当時の人達にとっては、旅は最大の楽しみの一つである。 その企画を聞いて皆んな張り切って、仕事は一段とはかどった。

 そしていよいよ旅行日の前日、知久平は佐久間次郎を呼んで「佐久間君、東京に服部という時計屋があるんだ。 そこへ行って、懐中時計を五個買ってきてくれないか」と変な注文を出した。佐久間もあえて「何のために」と聞きもせず、はるばる銀座の服部時計店まで出かけ、金張りの懐中時計を五個購入してきた。

 さて旅行の当日、伊香保での宴たけなわのその席で、知久平は一同に今までの苦労を謝したのち、「ところで余興といってはなんだが、諸君に一つ贈り物をしたい。 実はだ、榛名湖へ行く坂の途中に、金時計が吊るしてある。銀座にある有名な服部時計店のものだ。 道から脇に五十間くらい、高さ一間ほどのところに五個吊るしておいた。 従って、明日諸君が榛名湖に行く際に捜してみてくれ。 見つけたものにそれを進呈しよう」

 ほろ酔い気分の一同は、ドッと歓声をあげた。 我こそ、その金時計を手に入れようと、宴会の座は一層盛り上がった。 既にその夜、知久平は密かに部下に命じて時計を吊るさせておいた。

 翌朝おそらく金時計の話がなければ、多くの者は二日酔いにでもなって寝惚けていたことだろう。 まして急な長い坂(頂上の榛名湖まで)が待ち受けている。 ところが一同は早々と起きて、城一番乗りを目指すが如く、急坂に馳せ向かい、たちまち五個の金時計は御用となってしまった。

 その後の旅は和気あいあい、昼食は榛名山頂でとり、夕刻には無事散会となったのであった。 知久平の人心総撹術の妙を示した一例である。

    【追記】
    知久平は酒もタバコもやらなかった。にもかかわらず宴席を盛り上げるのが上手で、話題が豊富で、また猥談も得意で、人を飽きさせなかった。 こういった大袈裟な金時計も、知久平らしいことかもしれない。

  中島の社有車

― チビとデカ ―

 創設期のころ、中島には一台の乗用車があった。 一台でも、自動車があるということは、当時としてはかなりモダンだった。 東京は三田の慶応大学近くの古道具屋から購入した四気筒(佐久間一郎は単気筒と言っていて、それが正しいと思われる。値段は300円だった。)の英国車で、工場事務所の玄関脇に眠っていたものを佐久間一郎が修理して走れるようにしたものである。

 そのころの中島で運転できたのは、佐久間一郎、知久平の弟の門吉ら数えるほどで、1919年(大8)ころ運転免許の取得が必要になったとき、佐久間一郎と門吉は群馬県の免許証ナンバー1号、2号の所有者となった。免許といっても別に実地試験をして取ったものではなく、飛行機の操縦が出来る中島の者なら、自動車の運転などなんでもなかろうという、奇妙な理屈で与えられたものであった。

 したがって、運転技術は未熟だし、交通法規もろくにわきまえていないから、利根川の土堤で転落し、途中の電柱にぶつけるといった事故がしばしば起こった。 ヘッドライトはアセチレンなので、悪い道を走りバウンドでもすれば、たちまち消えてしまう始末であった。

 しばらくして、新たにもう一台購入することになった。
 
 当時呑竜工場で完成した機体は、荷車を使って飛行場のある利根川河川敷近くの格納庫まで運んでいた。 しかしこれでは一向に能率が上がらない。 そのためもう一台馬力の強い車をということで、佐久間一郎が東京中野の、日本自動車で中古のハドソン(ビュイック)を千円で買い求めてきたのである。
 
 この後、英国車はチビ、後のハドソンはデカという愛称で呼ばれるようになった。
 
【追記】
右の車はデカである。ナンバープレートは、29番である。 右から4人目が知久平、その右が佐久間一郎、一人置いて右端、車のボンネットにどっかと座っているのが栗原甚吾である。 1919年秋頃、幹部慰安の伊香保温泉旅行らしい。

 この車は飛行機の資材集めにも大車輪の働きをした。 初期の飛行機は木製であったが、その胴体になるところは欅でなければならなかった。 しかも"枝下四間もの"といって田舎の大家の屋敷内以外には余り見かけられない稀少品であった。

 そこで担当の乙未平(知久平の3番目の弟)と佐久間次郎および山師の3人が、古い欅を持つ近在の農家を訪ね回り、平身低頭で譲って欲しいと頼むのだが、なかなか色よい返事が貰えない。 農家側とすれば、「あの家はとうとう欅を手放してしまったか」という評判が立つのは困るのという訳で、これも尤もなことであった。 特におばあさんを口説くのが大変だった。

 それでも乙未平はなかなかの口説きじょうずで、話をよくまとめあげた。 ただし運転の方はフランス仕込みにしては、お世辞にも上手いとはいえなかった。

 また、苦あれば楽ありで、炎天下に遠方まで欅を求めに行った帰途、利根川で一泳ぎし、再び車上の人となれば町が近づくまで裸で甲羅干しを楽しんだという。 大正時代、人と車のなんとも長閑な光景である。

  中島の飛行家

水田嘉藤太(スイタカ・ドウダ、 ミズタガ・トンダ)

 中島の創設のころ、中島の名を広く全国に知らしめた功績者の一人に、水田嘉藤太がいた。
1919年(大8)2月、中島式四型6号機の試験飛行を行うにあたり、知久平はその操縦士を探していた。 実は中島飛行機専属の佐藤要蔵飛行士が前年12月、一型4号機の試験飛行の際に負傷し、まだ飛ぶには無理だったからである。
  【追記】
佐藤は、1918年10月末から1ヶ月本島病院に入院し、その後もしばらく療養生活を続けた。 その間、三型、四型と改良が進み、重心位置の適正化で、飛行の目処がつき好成績を得た。
 
 そうした折に、知久平は水田陸軍中尉がある事情から軍を退いたことを耳にし、「是非うちに来て欲しい」と声をかけ、水田を引き取ったのであった。
 
 水田はそれまで所沢陸軍飛行場で操縦教官をしていたが、新橋仕込の美人との恋愛問題により、兵器廠付に配置変えとなり、憤然辞表を出していたのであった。
  【追記】
水田嘉藤太は、第三期操縦将校出身の陸軍騎兵中尉から予備役編入=除隊となって中島飛行機に1919年春ころに入所した。
 
 一方、陸軍にもある思惑があった。 陸軍は中島創設以来、その成功を期待して応援を続けてきたが、度重なる試験飛行の失敗により、一時は中島を見限りかけていた。 ところが今回の6号機に関して、海軍の将校が飛ぶと太鼓判を押したという噂を聞き、ここで海軍に油揚げを攫われてはならじと考え、水田が中島に入ることを大いに歓迎したともいわれている。
 
 かくして水田は中島の人の全ての期待の中で、ホールスコット150馬力装備の四型6号機(右の写真)の試験飛行に挑み、5回も宙返りをやってのけるなど、見事な成功を納め、中島飛行機飛躍の原動力となった。
 
 知久平は操縦技術向上のため、同年尾島に飛行学校を設け、水田をその校長とした。 水田はさらに伎倆の研鑽を積み、同年10月に行われた日本航空会初の画期的行事「第一回懸賞郵便飛行(東京←→大阪)」に同僚の佐藤要蔵とともに参加した。
 
 往路、水田は目の覚めるような青色の愛機を駆って西へ向かったが(鈴鹿の上空で雲の中に入ってしまい)航路を誤って、和歌山市郊外に不時着、失敗した。 しかしこれくらいでへこたれる男ではない。 翌日、目的地の大阪練兵場に飛来したとき、彼はS字型飛行3回と宙返りなどを行った後、横転、木の葉落としという彼独特の放れ業を演じて喝采を博した。 更に帰路では栗原甚吾同乗のもと、大阪東京間を2時間39分で飛ぶ大記録を作って、往路の雪辱を果たした。
 
 当時パイロットは飛行家といって、一種の芸能人扱いをされ、ハイカラさも手伝って、花形スターの存在であった。 水田の姓名をもじって花柳界では「水田嘉藤太」(好イタカドウダ?)とはやしたてられ、飛行場では「水田嘉藤太」(ミズタガ飛ンダ!)と言われ人気を集めた。
 
 妻となった芸妓は、とびきりの美人と評判高く、水田は二人してスポーツカーで走り回った。 当時としては、ひときわ目立つことで東京から太田に帰るときも同伴で、マフラーをはずして下に向け、中山道を土煙をかきたてながら走った。 からっ風による土埃に慣れた上州人も、この土煙にはさぞや度肝を抜かれたことだろう。
【追記】
オープンカーの誤りでは?と思ったが、これでは暴走族の奔りではないか!
 
 斉藤昇の回想記には「水田氏のあるところには必ず夫人が付き添われ、連れ添った二人の町歩きは太田名物となり、町の人々に大きな興味を与えた……氏が出歩くときには大勢の見物人で大変な騒ぎであった」と記されている。
 
【追記】
右の写真は、左から佐久間一郎、その右スリムな姿が水田嘉藤太、 更に三人は栗原・飯沼・奥井の中島幹部各氏である。
 
 岡目八目に見れば、水田夫妻の派手な行動は、太田の人々に旧来の陋習を打破することを図らずも指し示したともいえよう。 中島では社員といいながら別格扱いであった水田は、その後、尾島の飛行場で水田飛行学校を経営していたという。
 
   【追記】
    ―創業期の飛行家たち― 
 水田は、その後も中島の飛行試験係をしながら、自分の飛行学校を経営していた。 しかし1924年3月練習生の操縦教育中に墜落して重傷を負い、事実上の引退をして、その9年後に42歳の若さで逝去した。   一方、もう一人の殊勲者・佐藤要蔵飛行士も詳細はわからないが、1920年に雇用契約上のトラブルで不可解な仕方で退所になった。そして1年余後の、1921年に津田沼飛行場で自家用機で練習生とともに宙返りや螺旋降下の練習中に突然失速し墜落死した。それは水田が懸賞郵便飛行の帰路についている丁度そのときであった。 享年27歳の若さである。 
 いずれにせよこの頃の飛行士は大きなリスクをもった仕事であった。また中島式飛行機も、文字で表すほど簡単にはいかず、ベンチャーの常とはいえ、操縦性の悪さや火災の不具合など散々な開発過程を経て、苦しみながらやっとの思いで一人前の飛行機会社になっている。 
 
 また、もう一人、中島の懸賞郵便飛行の歴史に出てくる飯沼金太郎飛行士は、帝国飛行協会の委託練習生で、その第二期には佐藤要蔵がおり、飯沼は第三期の卒業であるが、帝国飛行協会の研究生でとなって、その身分の時に中島に出張となって、1920年の東京大阪無着陸往復の懸賞飛行に「在米同胞号・中島式七型」で出場し、途中丹沢の山中に激突して入院10ヶ月の重傷を負って、そののち飛行機操縦から引退している。
 
   〔下左写真の中央が佐藤飛行士で機体は三型、 右は飯沼飛行士、 革の飛行服がカッコいい!〕
 
    

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