中島知久平をめぐる逸話(1)

  
 中島飛行機の系譜を受け継ぐ富士重工業の30年史が1984年(昭59)に発刊されているが、その編纂過程で中島飛行機で活躍された方々の当時の稀少な話をまとめ内部資料としている。 
 これらは社史に掲載される性格のものではないだけに、社内記録としたが、そのまま消えてしまうには惜しいものであり、我々現代の者への示唆に富むところもあり、富士重工業の許可を得て、このホームページに掲載しました。 
 
 この内容は既に本HPの中島飛行機の歴史の中で紹介の佐久間一郎氏、およびその舎弟の次郎氏の話が中心で、文章表現は八嶋逸像氏によるものです。 内容そのものは中島飛行機の身内の回顧録であり、相応に誇張されている部分があろうが、ここでは原本を忠実に記載しています。 
 ただし、文中の 【追記】 内は私の追加コメントです。 また、中島飛行機の年表と合わせてご覧ください。
 
 右が製本されたもので、知久平没34年後の1983年の命日に限定出版(非売品)されている。
 
 
 中島知久平 経歴
 
1884年(明17)1月1日:中島粂吉・いつの長男に生れる (現群馬県太田市尾島)
1898年(明31):尾島尋常高等小学校卒業
1902年(明35):専門学校検定試験合格
         (右の写真:和服姿は東京で勉学中の頃、世話になった方々と)
 
1903年(明36):海軍機関学校入学(第15期生)
1907年(明40):海軍機関学校卒業 翌年少尉任官
1911年(明44):日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)、
          海軍大尉に昇進
1912年(明45):海軍大学卒業
1912年(明45):アメリカに出張、飛行士免状取得(日本人で3人目)
1916年(大 5):海軍士官としてヨーロッパへ航空事情の視察
 
1917年(大 6):海軍を退官、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立
1930年(昭 5):第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補して初当選
1937年(昭12):鳩山一郎、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会の総裁代行委員に就任
1938年(昭13):鉄道大臣
1939年(昭14):政友会の分裂に伴い、政友会革新同盟(革新派、中島派ともいう)総裁就任
 
1945年(昭20):終戦直後、東久邇宮内閣で軍需相、商工相。その後GHQにより
          A級戦犯に指定される
1947年(昭22):A級戦犯指定解除となる
1949年(昭24):10月29日:東京都三鷹の泰山荘にて急死 、享年65歳

中島飛行機 創設の頃

- 飛行場とコスモス -

 1917年(大6)12月1日、中島知久平海軍機関大尉は、かねて願っていた予備役に編入(事実上の海軍退役)された。その時、先輩友人らに送った長文の挨拶状「退職の辞」は行間至る所で日本の将来のために民間航空工業の魁とならんとする気概に溢れたもので、「不肖、爰(ここ)に大いに決するところあり・・・海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以ってこれが進歩発達に尽くす」ことを高らかに披瀝した。(右写真は海軍大学時代の知久平)

 知久平の動きは目覚しく、早くも同月21日には太田町に「飛行機研究所」の看板を掲げた。研究所に当てられた建物は、東武鉄道の旧博物館で、当時は町の所有になっていた。

 ところで、太田は江戸初期に日光例弊使街道の一宿駅、新田集落型の列村として発生、さらに大光院(通称 呑竜様)の門前町でもあったが、明治までには商農兼業の単なる田舎町であった。世間に知られた名所旧跡は、子育ての呑竜様のみで、他に金山の頂上に新田岩松氏の金山城址が挙げられるくらいである。

 そこで東武鉄道創始者の根津嘉一郎が東京蠣殻町にあった旧米穀取引所の建物を移築し、そこに農産物を博物館形式に揃えて新名所にしようとした。
しかしこの目論見ははずれ、呑竜様に来た人たちもほとんど博物館に寄らず帰ってしまう有様で、そのため根津は町に寄付したという次第であった。

 二階建て一部三階(約百坪)の旧博物館は、田舎ではちょっと見られないしゃれた洋館で、知久平の遠大な目標、東洋一の飛行機工場の発祥地として、まことに相応しい建物である。知久平は直ちに成田定次郎町長に借用方を交渉し、賃貸契約を成立させた。 そして、尾島の研究所にいた人達も移って来て、新しい仕事場でのスタートが切られた。

 洋館の一階を事務所に、二階は十畳程の知久平の居室と設計製図室に当てられ、やがて付属建物として部品向上及び板金工場も新設された。

 洋館の前には大きな瓢箪型の蓮池があった。太鼓橋がかかり、夜ともなれば洋館や工場の灯かりが池面に映って、なかなかの風情であった。また研究所の周りは塀が無く、普通の鉄線で囲っただけなので、始業時間に遅れた者は表から入らず、裏から鉄線をくぐって入ったという。(右写真は、未だ池の残っている初期の写真。 直ぐに埋め立てられた模様。両側の寄棟の建屋は板金と組み立て工場)

 かくして研究所は太田の新名所となった。土地の人たちは、研究所が呑竜様と土堤を境に接していたので、「呑竜工場」とか、単に「飛行場」と呼んで親しんだ。

 先の1909年(明42)2月に、太田は東武鉄道の足利・太田間の延長工事が成って東京と直結し、東京の人の格好のピクニック地となっていた。 そこに民間最初の飛行機工場が登場したのは、一寸したトピックであったろう。 
 跡見、山脇、御茶ノ水などの女学生が遠足で訪れると、呑竜様を参拝したあと、土堤に登って嬌声あげながら工場を眺めたという。 そして工場の若者達が、その女学生のために土堤に咲くコスモスを採ってやるといった微笑ましい光景も見られた。(左上の写真が大光院・呑竜様)
 
【追記】
知久平は、遅刻が大嫌いであった。呑竜工場では、自身がそこで寝泊りしていたので、朝の始業の7時半前には、幹部は勿論、社員全員が揃っているべきの考えでおり、そのため自室の窓から社員の出勤状態を厳しく見ていたらしい。 従って遅刻者は裏から忍び込んだようだ。 しかし、それ以降お昼頃に、抜け出て休んでいたりしても、それは全く放任であったらしい。

 ―【追記】 東洋一の飛行機工場―

     最初に中島知久平のもとに馳せ参じたのは、横須賀海軍工廠造兵部員を命じられ飛行機工場長をしていたときの部下で、図工の奥井定次郎である。彼が知久平に勧誘されたときの話を紹介する。
     
    1916年(大5)のころ、中島大尉は奥井を密かに工場長室に呼び、
    「東洋一の飛行機工場が出来るのだが、君はそこに行く気はないかい?」 と訊ねた。
     奥井が
    「いつどこに出来るのか?」 と聞くと、
    「絶対秘密のことだから、今は未だ言えない」と中島大尉は答えた。
     そこで重ねて奥井は「大尉もそこに行かれるのですか?」 と訊ねると、
    「行くつもりでいる」 と答えた。
    「大尉が行かれるなら、私もついていっていいです」
     すると中島大尉は
    「よし分かった。このことは絶対に秘密だから誰にも言うなよ!」
     と厳しい口調で念押しされた。
     
     このとき奥井は、帝国海軍が、東洋一の飛行機工場をどこかに建設するのだろう、と思ったという。
     いかにも知久平らしい、でかい話から入る話口の逸話である。

 −多分 現場の職長か−

 ところで知久平が飛行機研究所を興す以前の経歴は、当時の片田舎出身の者としては出色といえよう。 海軍機関学校を恩賜の銀時計組で卒業、欧米に留学すること2回、また政府委員を拝命、そして将来の栄達は約束されている。地元住民にとっても郷土のホープとして折にふれ耳目を集めていたことだろう。 

 しかし、栄光の一切を捨てて、並々ならぬ径倫を持つにしても、一介の民間人として、飛行機製造という未開の道に踏み込む決断は尋常の者ではなかなかし得ぬことである。 そして今や作業衣をつけ、油にまみれて陣頭指揮に立つこともしばしばあり、海軍時代のスマートさを売り物にした制服姿(左の写真)とは、余りの変わり様であった。

 創設期に入社した斎藤昇も回想記の中で、『油に汚れスリ切れた作業服の肥大漢が無造作に入室して直ちに製図員と図面のことで話が始まったが、この様子から私はたぶん現場の職長かと思ったら、私が所長と思った奥井定次郎氏がその肥大漢に言葉を改めてペコペコしているので、私は不思議に思って、隣の人にそっと聞いたら「あれが中島サンだ」とのことで、初めて知久平だと知った』と知久平の飾らない様子を感慨深く述べている。 この包容力と真実味溢れる知久平の人柄が、全従業員を自家薬籠中のものにしたのであった。

 また、地元住民は初期の重なる試験飛行の失敗に随分陰口をたたきもしたが、中島が川西と訣別したころから、中島と地元住民の一体感の意識が芽生え、知久平に対する住民の尊敬の念も強まっていった。

    【追記】
     知久平は、上述のように設計室の隣の小部屋を自分の居室として寝泊りしていた。生活全てが飛行機造りであった。そして、設計者の図面は全て最後にチェックをした。 そして現場を足しげく回っていた。 これは政界に出るまで続き、またその後も、来所時には現場周りを欠かさなかった。また知久平は生活面で奢ることをほとんどしなかった。エンジンの東京工場の開設後は、東京に居る事が多くなったが、丸の内にある日本工業倶楽部や東京の中島事務所でで寝泊りしていた。 このように自宅といえるものを、政界にでるころまで持たず、飛行機造りに徹底していた。

 

  情の人 中島知久平

 初期の中島は従業員の数も僅か何十人という小規模なもので、元海軍大尉中島知久平から小使に至るまで、一家族のごときなごやかな雰囲気に包まれていた。 夜遅くまで残業が続けば、十時頃になると、「腹がすいたろう」と知久平が町の汁粉屋に電話をして何十人分と取り寄せる。 このように知久平の部下達をとことんまで大切にする思いやりは、当然所員一同の心の奥深くまでしみこんでいったことだろう。

 戦後、元海軍大将井上幾太郎は、『巨人 中島知久平』の序文の中で「余は既に八十路の坂を越えているが、まだ中島君より偉いと思われる人に接したことがない。 とにかく、中島君の人物が巨大でそれに卓越した頭脳を持っているのであって、その高邁なる見識と先見の明には驚嘆せしめられるものがある・・・・」と述べている。
 この言葉に要約されるように、後に航空人、事業家、政治家として幾多の業績を重ねた知久平の偉大さを顧みるとき、峨々たる近寄りがたい人物像が浮かんできてもやむをえないだろう。

 ところが、今、かつての知久平と働き、仕えた人達の思い出話は、知久平が決して雲上人ではなく、実に近しい、滋味あふれる人柄であったことを一様に伝えている。 ここでは佐久間一郎、同次郎のお二人の思い出話を中心に断片的ではあるが、情の人、中島知久平のプロフィールを覗いてみたい。
 
   【追記】?もあるが、ともかく知久平は、創業時代の仲間を“当然ながら”とくに大切にしたようだ。

−「その頭で帰れるかい?」−

 知久平の言葉遣いは非常に柔らかな調子で、上が下の者を見下すような威圧的な言葉遣いでは決してなかった。 それは友人に対するような話し方であったという。

 1918年(大7)のことである。知久平は尾島の実家に両親を訪ねるために佐久間一郎運転の車に同乗した。実家のそばに高さ2メートルの土堤に登る急勾配の坂があった。 なにしろ大正時代の車である。知久平は「佐久間君、この坂、この車で登れるかい?」と尋ねた。 

 「はい、登れます」と、当時25歳の佐久間は一気に急勾配の坂を登り切った。

 ところがである、次いで直角に直ぐ曲がるべきところを、あまり勢いよく登ったために曲がりきれず、不運にも下の桑畑に転落横転してしまった。 二人は車から放り出され、特に佐久間は車の下敷きになって、頭にひどい怪我をした。 はじめに念を押されて登ったにかかわらず、車を横転させ、放り出された知久平は、あわや首筋に達するほど、桑の切り株で洋服の襟元を切り裂かれた。

 車は土堤の下の畑に横倒しになったが、いあわせた農家の人たちによって引き起こされ、今日は縁起が悪いということで、再び佐久間の運転で引き返すことになった。

 彼は激しい叱責を覚悟した。 ところが知久平の第一声は、大怪我をした佐久間を気遣って、「佐久間君、その頭で帰れるかい?」という優しい言葉であった。 知久平は3度も同じ事を繰り返し尋ねたという。 帰って来て、佐久間は自分の頭がスイカのように(コブで)腫れあがっているのに初めて気付いたそうである。

 その晩、アメリカに機械を買い付けに行く、栗原甚吾の送別会が開かれた。 その席上でこの顛末を話した知久平は、「佐久間という奴はえらいやつだ。 あんなスイカみたいな頭で運転して帰ってきた」と、半ばからかいながら、佐久間の気力を褒めたたえたのである。

 このように「・・・・・かい」という優しい尋ね方、危機に直面しながらも、部下のみを真っ先に気遣う思いやりは、まさに知久平の真骨頂をしめすものといえよう。
 
【追記】
このときの車は中島が最初に買っもので、東京芝の古道具屋で300円で購入した単気筒エンジンの中古車。 昔東大の先生がイギリスで買って持ち帰ってきたもの)
 

−保険がかけてあるから、大丈夫だよ−

 1921年(大10)8月のある夜、尾島飛行場にある格納庫3棟が全焼した。 原因は中島格納庫の一隅を借りていた民間飛行家が自機のエンジンを整備中、誤ってガソリンに引火し、木造であったため、またたく間に燃え広がった。 そして佐久間一郎らの懸命の消火活動むなしく、すべての格納庫と中の8機を焼失した。
   

 燃え切るころには知久平も駆けつけてきた。佐久間は責任の重さを感じ、なんと謝ろうかと思いつつ知久平の前に出たが、間髪を入れず知久平は、「佐久間、心配することはない。 保険が掛けてあるから大丈夫だよ」といった。

 後に調べて判ったことだが、保険はそれほど掛かっていたわけではなかった。 それを承知で佐久間らの気持ちを少しでも和らげようとする知久平の深い思いやりがあった。

      【追記】
      写真が尾島の格納庫。 尾島飛行場は民間の飛行場として利用され、格納庫も共同利用されていた。 焼けた飛行機の前で中島の所員が呆然とする写真を見たことがあるが、この時のものだったのか?、それとも機体の火災か? 何処で見たのだったかなぁ・・・? 

−廊下でコツコツ−

 中島が一回り大きな会社に成長したころの話である。知久平は社内を見て回る際、いきなり大部屋のドアを開けて入るようなことは決してなかったという。 まず自分が来たことを知らせるがごとくドアの前の廊下をコツコツ足音をたてながら歩き、しばらく間を置いてから、おもむろに部屋のドアを開けたそうである。
 そして部屋の中に入っても、上の者には目もくれず、下の者に対して、「おお、やっとるか」といった調子で声を掛けて回った。 これでは皆いい加減な気持ちで仕事が出来ないのは道理ではないか。

−「奴の鼻づらをこすりつけてやれ」−

 同じように工場内視察のときであるが、翼の組立て工場にくると一同不満気な様子だった。「どうだい、うまく出来るかい」と尋ねると「はい、ターンバックルが足りなくて、一寸仕事が途切れています」との答えが返る。

 ターンバックルが切れていること、そして明日入荷することを百も承知の知久平だが、「そうか、だれか佐久間次郎のところへ行ってこい。 佐久間は事務所でタバコを吸いながら天井を見ておったよ。 ここへ引っ張ってきて、奴の鼻づらをこすりつけてやれ。 そうすりゃ、間違いなく直ぐ揃うぞ」と、ユーモアたっぷりにけしかけながら何気なく皆の不満を吹き飛ばしたのであった。
 
   【追記】写真は陸軍向けの中島式五型練習機を組み立てる呑竜工場内部

       中島知久平をめぐる逸話(2)へ 


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