075. 中島 三式2号 艦上戦闘機 A1N2 (日本海軍)

           NAKAJIMA Type 3 Carrier Fighter A1N2 [JAPAN NAVY]

 
全幅:9.68m 、全長:6.49m、 総重量:1,450kg、 最大速度:239km/h
発動機:中島ジュピター7 450馬力、
武装:7.7mm機銃×2、30kg爆弾×2、乗員:1名
国産機初飛行:1927年
 
                              Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏  2007年カレンダー掲載

 日本海軍の初代艦上戦闘機は、イギリス人H.スミス技師の指導により三菱で開発された一〇式艦戦(水冷300馬力:1921年・大正10年初飛行制式採用)だが、その後継機として海軍は1926(大15)年に450馬力級の艦上戦闘機の競争試作要求を発表した。

 これに応募した三菱、愛知時計、中島飛行機の3社による競争試作の結果選ばれたのが、この三式艦上戦闘機(1928年・昭和3年制式採用)で、1930〜35(昭和5〜10)年に運用された日本海軍の本格的な艦上戦闘機である。

 このときの競争試作には、三菱は旧型の一〇式艦戦の発動機出力の向上などの大幅で独自の改良設計を行った鷹型試作艦上戦闘機を試作提案した。 また愛知時計はドイツのハインケルに設計を委託した愛知H式試作艦上戦闘機(HD23)を試作提案したが、両機ともに水冷エンジンで、加えて海軍の要求した不時着水対策のために機体重量過大となって性能が劣り不採用となった。

 一方、中島飛行機は当時優れた旋回能力で世界的に名声を得ていたイギリスのグロースター社のゲームコック戦闘機(1996年版掲載)に、空母での運用を考慮して、翼幅・翼面積を拡張する改良設計した機体を発注した。グロースター社は3機の試作機(ガムベット)を送ってきて日本でのライセンス国産化に応じた。 

 中島飛行機では、吉田孝雄技師(中島飛行機初の東京帝大航空工学出身者で戦後は富士重工の第二代社長を務めた)を主務として、さらに日本の国情に合わせて独自の改良を施した試作機を提案した。 

 この海軍次期艦上戦闘機の競争試作では、海軍からの要求の一つに「不時着水したときに7時間海上に浮いていられることを基準として、水密構造と艇体形状の胴体とする」と示されていた。 ところが、この対応が採否を分け、また教訓を残した。 他社では機体下半部をボートのような構造とすることに腐心をし重量過大を招いていたが、中島案は敢えてそれを採用せず、木製骨組に羽布貼りの軽量な構造のままで通した。 そして7時間浮いているという目的を達成するために新たな方法を考えた。 中島案は機体後部に膨張式の浮袋を収納するだけのシンプルな方式を採用していたのだった。 その方式は、後にゼロ戦を含む海軍機の標準となった。その結果、戦闘機として最も大切な飛行性能で他社機を圧倒したのである。

 目的を最も効果的に達成するアイディアの捻出は設計者にとって大切な資質である。 軽量なエンジンとこのアイデアもさることながら、さらに複葉の上翼にキャンバー(上反角の反り)の大きな翼型を使うといった空力設計で、他の競作機とは飛行性能で圧倒的な差があり、その後の日本海軍戦闘機隊の戦術思想にも大きな影響を残したとさえ言われた優れた旋回性能を作りだしていた。

 またこのとき、中島飛行機は搭載している空冷エンジンの最高傑作と言われていたブリストル“ジュピター”エンジン(星型9気筒420馬力)のライセンスも取得し、荻窪工場で国産化した。 それが中島飛行機をひいては日本の空冷星型エンジンの技術を大きく育てる基盤となったのである。 後の中島九○艦戦や三菱設計の九六艦戦のエンジンはジュピターを発展させた中島設計の「寿」であり、更に零戦では星型2列14気筒とした「栄」エンジンへと発展していった。

 1928年(昭和3年)制式化が内定し、同年8月には高度7,300mの日本記録が認められ、翌年「三式艦上戦闘機」として制式機となった。 初期型(A1N1)はジュピター6型と木製プロペラであったが、後期の2号(イラスト)はジュピター7型(公称450馬力)と金属製プロペラを搭載し「三式2号艦戦(A1N2)」となり、上海事変で日本機として初の空中戦に参加した。

 第1次上海事変が勃発したのは1932年、その時旧日本軍史上初めて空中戦で敵機を撃墜したパイロットが
生田乃木次(のぎじ)海軍大尉だった。 生田海軍大尉は1932年2月22日、上海の 飛行場を発進し、「三式艦上戦闘機」3機の指揮をとった。 まもなく蘇州上空でボーイング218戦闘機1機と遭遇し、空中戦の末に撃墜した。 相手機の操縦者は、米国人義勇飛行士のロバート・ ショート中尉であった。

 旧日本軍による空中戦初の撃墜に、生田大尉は英雄ともてはやされた。 反面、海軍内で激しくねたまれ、
嫌気がさした生田さんは同年12月に退役したが、太平洋戦争の勃発で再び軍に戻 り、終戦時は少佐だった。

 戦後、生田さんは「大切なのは教育」との信念から千葉県船橋市内に保育園を開設し、「保育園では私が園児の父親」と語り、園児や職員から慕われ「お父様先生」と呼ばれた。

 あるとき、生田さんは撃墜されたショート中尉が出撃した事情を知った。 中国側の避難列車を日本軍が爆撃に来た と思って、単機、迎撃に出たのだった。 以後、命日の供養を欠かさず、1977年には、ハワイにある ショート中尉の墓を訪ね、中尉の弟、エドモンドさんと対面した。 生田さんは観音像を手渡し、「勇敢な戦いぶり でした」とたたえた。 エドモンドさんも来日するなど、交流が続いたが、撃墜からちょうど70年がたった2002年に没した。 (当時ご親族からお手紙を戴き、下の生田さん搭乗機のイラストを差し上げた)

 イラストはその空中戦に参加した生田大尉の機体である。その後、三式艦上戦闘機 は中島と海軍工廠で合わせて約100機が生産され、次期九〇式艦上戦闘機の登場までの間、花形戦闘機として活躍した。 

 

                              Illustrated by Shigeo Koike , イラスト:小池繁夫氏  1978年カレンダー掲載

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