中島飛行機株式会社その軌跡

Nakajima Aircraft Industries ltd.19231945

(2)中島の発動機開発

 国産技術の育成に意欲的だった中島は、発動機の国産化を目指して、1924年(大正14年)、東京説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\nakajima\images9\tokyo.jpg工場(荻窪、左の写真)の建設に着手した。群馬太田で誕生した中島飛行機であったが、中島知久平は「優秀な人材を確保するためには東京に」とあえて機体と発動機を分け、その地を東京近郊とした。

 機体設計の技術総帥は「三菱では零戦の堀越二郎」に対し「中島の小山悌」といわれている。そして「中島の発動機は佐久間一郎」が中心となっていた。佐久間一郎は横須賀海軍工廠に勤務しながら独学で内燃機関の勉学に努め、中島知久平が退官して飛行機研究所を設立する際の最初の若手技術者の一人に選ばれたのである。

 当初は海軍の指導もあって、フランスのローレン社からライセンスを得た水冷式V型400馬力を手がけ、次に同W型450馬力の生産で1929年まで127基を生産した。ローレン・ディエトリッヒ社は古い歴史をもつ自動車メーカーで第一次大戦の始まった翌1915年航空機エンジンの生産に参入した。直6水冷100PSから始まり1916年には15275PSを生産し2座のスパッド機に搭載されて、高い信頼性から好評を得ていた。中島のローレン発動機は中島ブレゲー19A-2B水偵や143号水偵に搭載されたが、外観的にはバルブがむき出しであったりして、イスパノスイザに比して見栄えが悪かった。

 ローレンの生産が始まって間もない時期に関わらず、イギリスのグロースター社の最新ゲームコック戦闘機に着目し、この空冷星型エンジンが将来の発動機として見定め、1925年イギリス・ブリストル社の空冷星型9気筒ジュピターの製造権を取得した。これは今までの空冷発動機はシリンダー自体がプロペラとともに回転する構造であったが、イギリスでシリンダーが固定しても冷却性能の良いエンジンが出来たと、中島乙未平がフランス出張時に聞きつけたことに注目していた為である。このジュピター発動機は、既にタペットクリヤランスの自動調節装置や均等吸気分配のための螺旋管装置、4弁構造の吸排気弁など、時代を先取る優れた発動機であった。1927年ブリストル社から生産指導技術者2名を迎えて、ジュピター6型420馬力、そして過給器付きの7型450馬力の生産が始まり、6型は3式戦闘機、中島フォッカー輸送機等に150基、7型は陸軍91式戦闘機に約350基が搭載された。そのころ、中島のジュピター(空冷)、三菱のイスパノスイザ(水冷)、川崎のBMW(水冷)に区分され、中島の先見性が光っていた。後に8型、9型を加え約600基が生産された。

 なお、ローレンの生産指導を努めたフランスのモロー技師は日本の民家に下宿して他の会社や学校で講演し、日本の風土や習慣になじんだが、ブリストルのバーゴイン技師はイギリス紳士然としており、たくあんの臭いを極端に嫌い、宿舎も帝国ホテルとして荻窪まで電車通勤で、本来西荻窪駅が近いが駅前に漬け物屋が有ったことから、ひとつ前の荻窪駅で降りて通勤したという。

説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\images5\JUENG.jpg
 

中島ジュピター6型
  空冷星型 総排気量28.7リットル
  離昇出力 420馬力 1500rpm
  重量 331Kg


 そして、これを基盤に逐次国産化計画を進め、アメリカの空冷星型9気筒ワスプを手本としながら、国産第一号の独自設計による空冷星型9気筒450馬力の「寿」を1930年に完成した。ジュピターは職人芸的な設計でヘッドのフィンも削り出しであるなど生産性が悪かった。これにアメリカ的合理性のスワプのそれぞれの長所を取り入れようとしたのである。この開発に当たって中島はまづ社内開発符号AA、AB、AC、ADの4種を設計の練習?として設計した。従って試作はされなかったが、次のAEはボア160mm、ストローク170mmの極めて独創的なもので、試作し性能試験まで行ったが、余りに大胆な設計であったため採用にならなかった。

 そして1929年AHに着手、146×160mmのボア・ストロークの総排気量24.1リットルであった。今回は本命として厳しい期限付きで失敗は許されず、堅実主義・簡明主義で取り組んだと言う。そして19306月試作1号機が完成し、夏には耐久運転審査も終了し秋には90水偵に装備して飛行試験が始められた。そして193112月制式発動機として海軍に採用され、90水偵、90艦戦そして、三菱の機体である名機96艦戦に搭載された。陸軍は例によって海軍主導となった寿に興味を示さなかったが、97戦闘機でハ−1甲発動機として採用し、いやがうえにも評価せざるをえなくなった。(「寿」はジュピターの「ジュ」をもじって命名された。以降、中島は縁起の良い漢字1字の名称を、三菱は星の名、日立は風の名を冠した) 

 高い信頼性から中島傑作機97戦など各種軍用機だけではなく民間機にも広く使われ、終戦まで約7,000基が生産された。(航空発動機の名称は、陸軍では「ハ-25」とか「ハ-112」の様に型式記号で呼び、海軍では「栄」や「火星」の様に愛称で呼んだ。ちなみに中島では縁起の良い漢字1文字の「寿」「栄」「護」「誉」などで、三菱は「金星」など星、日立は「天風」など風である)

 寿はさらに改良されボア・ストロークを160×180mmとシリンダーの限界まで拡大し32.6リットルとなり、出力も720馬力にまで強化される「光」発動機に発展し、95艦戦や96式1号艦攻に搭載され、1933年には寿のボア・ストロークを継承して2列14気筒とした1,000馬力級「ハ-5」試作が完成し、改良型で最大1,500馬力まで発展し、総数約5,500基を生産した。

 そして同時に海軍の要請で開発していたのが「栄」であり、陸軍名は「ハ-25」(詳細クリック)である。これは小容量気筒の小型、軽量、高性能を目指したユニークな設計であった。そして九七式艦攻、零式説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\images5\resen.jpg艦上戦闘機、月光、九九式双発軽爆機、一式戦闘機「隼」等の著名機に搭載され、東京製作所とそれから分離して1938年新設された武蔵野製作所(後に多摩製作所と合体して武蔵製作所となる)を中心として約3万基を超える史上最多基数の生産に達した。

武蔵野製作所は陸軍のエンジン専用の工場として、面積66万平方メートルの近代工場で、佐久間一郎氏の並々ならぬ英知の全てを傾けた結晶であった。当時の最先端であった米国のフォードシステムの流れ作業とテーラーシステムの科学的管理方式を採用し、製造工程と物流や人の動きを綿密に企画されていた。また従業員に対する福説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\nakajima\images9\musashino.jpg利厚生も戦前の時代とは思えない第一級の設備と内容であった。海軍はこれに刺激を受け、同様の専門工場を要求したため1941年、隣接して多摩工場を建設した。その後、戦局の逼迫とともに、中島は効率化のため両工場の合体を何度も提案したが陸海軍の確執から話しがまとまらず、数年後やっと陸海軍が同意して武蔵製作所となったのである。

 これらの中島発動機の各製作所のリーダーとして活躍した佐久間一郎は、更に三鷹に研究所計画を策定し、その建設部長も担当した。三鷹研究所は単に航空技術の研究というのではなく、遠大なる日本の将来を構想し、政治経済から工学までを含む総合研究所を企図し、そのため何と50万坪の用地を確保した。そして偶然昭和16128日、太平洋戦争開戦の日に鍬入れ式を行った。しかしその後の戦局から、研究所としての計画に軍が難色を示し、結局試作設計部門と試作工場として昭和18年に稼働を始めた。(戦後、ほとんどが売却され、設計本館の建物は国際基督教大学の校舎として現在も使われている)

説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\nakajima\images9\mitaka.jpg

三鷹研究所(手前が試作工場、その遠方が設計本館と格納庫)

 1939年欧州での第二次世界大戦の勃発にともない、欧米でのエンジン開発は1,5002,000馬力級に移行していったことに対応して、中島は1939年「栄」の18気筒化の構想を打ち出した。各種技術的問題は山積していたが、海軍の強力なバックアップもあり、19413月世界に類のない小型、軽量、強馬力の「誉」試作基を完成した。三菱の「火星」が外径1,372mmと巨大化したのに対し「誉」は1,180mmに収まり、前面面積が勝負となる高性能機体の設計を容易にし、中島の傑作機「疾風」「彩雲」を誕生させることが出来た。「誉」は中島の戦闘機のみならず、爆撃機「銀河」を皮切りに「紫電」「紫電改」「流星」等に搭載され、当時世界の水準の群を抜いた高出力を誇ったものの、戦局の悪化に伴い、設計の基準となった高質燃料の調達難や熟練工の不足による工作精度の低下、特殊鋼材料の調達難により、十分な性能を発揮することが出来ず、第一線での稼働率も期待に反し、真価を発揮せずに終戦となってしまった。



「誉」21型(ハ-45-21

空冷星型複列18気筒 総排気量35.8リットル
離昇出力 2,000馬力 3,000rpm
重量   830Kg
外形寸法 全長1,785mm、外径1,180mm
生産数  8,747基

説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\images5\HOMAEG.jpg-説明: C:\Users\TSURUMAKI\Documents\MY HOME PAGE\Airplane-Museum\images5\HOMAEG2.jpg


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・出典及び参考文献:「富士重工業30年史」「銀翼遥か(太田市)」「飛翔の詩(中島会)」
          「日本傑作機物語(昭和34年酣燈社)」 

          「日本航空機辞典(モデルアート社)」
          「富士重工業広報部」の協力 等によります。

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