253. 三菱 九六式二号艦上戦闘機一型(A5M2a)[日本-海軍]         
     MITSUBISHl Type96 Model 2-1(A5M2a)Carrier Fighter[JAPAN−NAVY]

   
全幅:11.00 m  全長:7.55 m  翼面積:17.8 u 
発動機:中島「寿」3型 空冷星型9気筒600馬力 総重量:1,608 kg 
最大速度:426 km/3,000m  武装:7.7m 機銃×2 
乗員:1
 1936年2月 初飛行
 
Illustrated by KOIKE, Shigeo  , イラスト:小池繁夫氏 2005年カレンダー掲載

 1937年(昭12)、朝日新聞社の「神風号」の訪欧飛行成功と凱旋を記念して羽田飛行場で大航空ページェントか開催された。 朝からいろいろな飛行機が上空を舞っていた。 タイ国訪問飛行を終えた朝日新聞社の全金属製・双発・引込脚の鵬号(九三式双発軽爆撃機2型改造)の格納庫の屋根を掠めるようなデモフライトに続いて、横須賀航空隊の大林大尉に牽いられた九六式艦上戦闘機の3機編隊が登場した。 おそらく、これが九六式艦上戦闘機が大衆の前に姿を現した最初の機会だったろう。

 低翼単葉の斬新なスタイル。優雅な全金属製の楕円翼が朝日にキラキラと反射する編隊宙返り、編隊反転から急降下、滑走路スレスレで引き起こしてのズーム上昇、スゴイ! これが日本の戦闘機が日本の戦闘機でこんなことができる。観衆はただただ、デモフライトに度肝を抜かれていた。

 午後になって日本陸軍の複葉戦闘機が登場し、戦技飛行の演錬を見せたが、もう複葉戦闘機の時代ではないことが明らかだった。 九六式艦上戦闘機は、1934年(昭9)に発行された海軍の要求から生まれたのだが、欧米に追いつき、追い越そうとしてしいる日本の航空技術の先駆だった。 九六式艦上戦闘機のあと続々と世界水準に肩を並べる全金属製の新鋭機が登場した。


 少し遡るが、1932年(昭7)の海軍艦上戦闘機は、中島製の複葉九○艦戦で、この年より納入され運用が始まっていた。 このころの航空機技術は日進月歩であり、既に同年4月には三菱・中島の両者に九○艦戦に代わるべき新艦上戦闘機・七試艦戦の競争試作を命じた。 

 中島は陸軍の九一式戦闘機を艦上機に改修したもので対応したが採用されず、一方の三菱は前述の九○艦戦、そして陸軍の九一戦ともに中島に独占され窮地に陥っていたこともあり、起死回生を狙って欧米の航空技術を学んで帰国したばかりの若い堀越二郎技師を主務者として、日本で最初の低翼単葉片持の艦戦・七試艦戦を試作完成させた。 しかし意気込みとは裏腹に操縦性不良・前方視界不良に加え強度不足やフラットスピンで1号機2号機共に墜落し試作機は失敗に終わってしまった。

 失敗したとはいえ、この機体は、当時として革新的な応力外皮構造の設計であり、堀越技師たちは多くのことを学んだ。 そして堀越たちは「次の戦闘機は断然片持低翼単葉・全軽金属製として重量軽減に徹すること」と腹を決めることができていた。 その上で「表面の出っ張りを無くし流線型に仕上げること」の重要性を悟り、その実施方法をしっかりと考えていた。

 そして2年後の1934年2月、海軍は再び九試「単戦」の競争試作を三菱・中島に命じた。 今回海軍は七試艦戦の要求仕様のあり方の反省から、寸法や航続距離・着艦性能などには注文をつけず、もっぱら速度と上昇力を飛躍的に向上することに重点を置き、そのため艦戦とは呼ばず「単戦(単葉単座戦闘機)」と呼ぶものとした。

 中島は今回も陸軍向けのキ-11試作戦闘機(後に朝日新聞に払い下げられ通信機AN-1となる)を改修することで対応して機体を翌年完成させたが、保守的な張索支持式主翼の手堅い設計で、運動性は良かったが、やはり顔は陸軍の方を向いており、やや遅れはしているが陸軍の九七式戦闘機に勢力を掛けていたと言わざるを得ない状況であった。 そのためか、これ以降、中島へは海軍から単葉単座戦闘機のオーダーは来なくなった。

 これに対し三菱の九試単戦は、堀越を主務者に久保富雄、曽根嘉年らの主力技師を擁し、社運を賭けて全力で取り組み、1935年(昭10)1月に試作機が完成し、計画要求を遥かに超える450Km/hrの速度を出すなど優れた性能を発揮し、増加試作は三菱の機体となった。

 主翼は誘導抵抗の最小化を狙って抛物線テーパー平面系とし、中央部で16%、翼端で9%の当時としては思い切った薄翼でであった。 また低翼機の欠点である下方視界を懸念して上半角がマイナス16度の逆ガルタイプの構造とした。 また日本で初めての全面的に枕頭鋲を使用し徹底した空気抵抗低減を図ったものであった。 なお、その後の2号機の増加試作では視界懸念も消えたことから逆ガルを採用せず中央部分は水平とし、バランスのとれた優美なスタイルとなった。 そしてこれが九六艦戦の原型となった。

 また発動機は初め「寿」5型減速(旧称)であったが耐久性不足で、その後3型に、また「光」など次々と変更しテストされたが、いずれも十分ではなかった。 そこで性能的には不満であったが既に実用化(九○艦戦で使用)され不安の無い中島製の「寿」2型改1を取り敢えず採用することとして、1936年11月に九六式1号艦上戦闘機として誕生することとなった。

 三菱では1937年(昭12)初頭から量産に入ったが、この時点で海軍の主力艦戦は九○艦戦から発展した複葉の中島製九五艦戦であったが、これと九六戦を比較対戦すると水平面内巴戦では負けるというので、大迎角時に翼端失速を遅らせる手段が求められた。 堀越技師は、主翼の外翼付け根から始まり翼端で2度40分の捩り下げをつけた結果、大迎角の操縦性が著しく改善され、37号機から採用した。

 また合わせて発動機の換装が行われ、3号機から「寿」2型改3A(後に「寿」3型と呼称)を搭載し3翅プロペラを採用した。そして74号機までの機体を九六式2号艦戦1型と呼んだ。それが上の小池さんの画である。 エンジンが降流型気化器を使っているため、その空気取り入れ口が風防の前方に無造作に突出している。

 その後、2号2型として、胴体を太くし、カウルフラップを採用したり、後部胴体内に取り付けるゴム袋式浮泛装置に十分な容積をもたせるためもあって大幅に改修され更に洗練されたスタイルとなった。 また一時期密閉型の風防を装備したことがあるが後方視界不良で再び開放式に戻された。 そして最後の改修量産型は九六式4号艦戦として発動機を「寿」4型680馬力を搭載し、もっとも長期にわたって生産され、日華事変の後期に零式戦闘機と交代するまで主力戦闘機として実戦で活躍した。 製作機数は三菱で782機、佐世保海軍工廠で約200機に加え、瓦斯電(日立)で練習機など小数が生産された。

 九六艦戦は、数々の進歩的な設計方針と技術を使い、日本の航空技術が世界の水準にあることを真っ先に立証した機体であり、新時代を告げる機体であった。 実戦ではGloster GladiaterやPolikarpov I-15などの複葉機では相手にならず、Polikarpov I-16等の引込み脚装備の単葉戦闘機に対しても常に優位にあった。 

 南郷大尉を初めとする名パイロットたちは本機を駆使して華南・華中の制空権を少ない機数で確保した。またそれまでの戦闘機の常識を変える長い航続距離で、九六陸攻の作戦を支えたが、戦線がさらに中国奥地に広がり、次の時代の零戦の登場になっていく。 本機の象徴的なエピソードとして、少年航空兵出身の樫村兵曹が、中国南昌上空での空戦において、カーチス2機を撃墜し、更にもう1機迎え撃つときに空中衝突をし、片方の翼端部を失いながらも600kmを飛行し上海の基地に帰還したことがあげられる。 本機の優れた設計を示すものであるが、戦時下の戦意高揚を狙って、国内で機体が展示されるなど大きく扱われた。

 


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