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アウトサイダー―時間的"蛸壺”の外へ

五月鳥居

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ これがマドラスでの最後のトークです。私は、もし宜しければ、リリジャスな精神とは何かについて話したいと思います―理論的にではなく、あるいは、何らかの思索としてではなく、あるいは、我々が、他に何も、あるいは、より良い何かをすることがないからではなく、単なる興味本位からではなく、そうしたいと思います。何かを探究するためには、とりわけ、多くの洞察を、途轍もない叡智を要する事柄を探究するためには、あなたは何らかのエネルギーを必要とします。もしあなたが何かを効果的に、明瞭に、その最後まで行うなら、それを十分に果たすなら、あなたには豊かで尽きることのないエネルギーが必要です。そのことは、ほとんどの我々に当然のこととして了解されます。あなたの生の毎日の三十年の会社勤めとそれにも勝る退屈さのために、あなたはエネルギーを必要とします、もしあなたがその退屈さで、そのルーティンで、そのあらゆる侮辱などで破壊されないなら。そして、とりわけ、我々が心理的な事柄を探究しているときには、我々は、いかなる欲望にも、いかなる目的にも動機付けされない、そのようなエネルギーを必要とします。我々にはそのようなシンプルなエネルギーが必要です。そして、ほとんどの我々には、そのようなエネルギーが欠けています。我々は我々の好きな何かを追い求めます、それは満足のいくそれであって、それをその最後まで追い求めます。そして、そのために我々は多くのエネルギーを手にします―それが良かろうと悪かろうと、あるいは、それが平凡な何かであろうと、それが何らかの価値をもつものであろうとなかろうと、何か意義があろうとなかろうと、我々が何か行動を起こすとき。もし我々が何かを行いたいと思うなら、我々は多くの熱量とエネルギーでそれに取り組みます。
 そして、リリジャスな精神が何かを検討するためには―我々は、そのことを、今宵、行おうとしています―我々は何らかのエネルギーを必要とします、事実に向き合う、“現にある通りのこと”に向き合うエネルギーです。“現にある通りのこと”に向き合うのを避けるのは、全てエネルギーの浪費です。それらが愉快なそれらであろうと、不満足なそれらであろうと、あるいは、不愉快なそれらであろうと、我々はその事柄に向き合う必要があります。そして、“現にある通りのこと”を非思索的に理解するためには―夕日あるいは樹木あるいは青空を、それを実際に見て取るためには―我々は事実に向き合うのでなければなりません。もし我々が実際にリリジャスな精神とは何かに気づこうとするなら、我々は物事に向き合う必要があります、それらから逃げない必要があります。もしあなたが気づくなら、我々の生の全てが一連の逃亡の連続です―退屈さからの逃亡です、ルーティンからの逃亡です、恐れからの逃亡です。我々は様々な種類の逃亡を手にしています、我々がそれらを意識しようとしまいと、それらはそこに控えています、あなたの背後の、あるいは、あなたの目の前の樹木のように実際に控えています。そして、逃げないで、それらと現にある通りに、実際に、向き合うためには、“現にある通りのこと”を見て取るためには、絶えず気を付けている、何らかの熱気を要します、そのような熱気は、“現にある通りのこと”に向き合うことから自然に生じるエネルギーから生まれます。
 そして、もし宜しければ、どうか、話し手に最後まで付いてきてください、同意するのでも同意しないのでもなく、言葉ででもなく、知的にでもなく、どうか、そうしてください。なぜなら、我々は意見を戦わせているのではないからです―そのとき、あなたは同意するか同意しないかできます、そうすると、あなたはこう言えます、“私はそれを好みます、私はそれを好みません”と。我々はそのような意見の真理を探究していません、意見の中に真理はありません―それは他の人に対するあなたの意見であり、その中で、あなたは同意するか同意しないかできます、あるいは、それに全く背を向けることができます、しかし、我々はそのようなことを行っているのではありません。我々は事実に向き合っています、“現にある通りのこと”に実際に向き合っています。そうではないと、我々はリリジャスな精神が何であるのかをその行く先にまで、論理的に、理性的に、健全に、余すことなく、追究するエネルギーを手にできません、そして、それを発見することによる、それに気づくエネルギーを手にしません。
 “現にある通りのこと”に向き合うためには、我々は何らかのエネルギーを必要とします―それは明らかな事実です。そして、我々はそのようなエネルギーを十分に手にする必要があります、なぜなら、ほとんどの我々はひどく怠惰だからです、身体的にだけではなく、精神的にも怠惰だからです。我々は検討するよりもむしろ受け入れたいのです、我々は打ち破るよりもむしろ物事に耐えたいのです、それがどれほど不快でも、どれほど醜悪でも。我々は余すことなく権威を否定して何かを明らかにするよりも、むしろ権威に首を垂れて従いたいのです。
 そのように、我々には、そのように気力を萎えさせる怠惰が控えています。重要なことはそのような怠惰に気づくことです、それについて何をすべきかではありません。なぜなら、もしあなたがそれについて何かをなすなら、あなたはあなたのエネルギーを浪費しています。しかし、もしあなたがあなたの怠惰である実際の事実に向き合うなら、その正に向き合うことが、何らかの心理的な活動を、自然に、自発的に、促し始めます、そこから、あなたはあなたの怠惰をやり過ごすエネルギーを生み出します。どうか、このことをいつか行ってください、そうすると、あなたはこのことを自分自身で見て取るでしょう。そして、ほとんどの我々にとって、我々の文化は、我々の文明は、一連の逃亡の連続です、そして、我々の逃げ込む先が、我々が逃げ去っているそれよりも遥かに重要になっています。
 どうか、話し手がしばしばこれらのトークで、そして、以前にも指摘してきたように、単に、言葉を聴くだけにしないでください。言葉はそよ風と同じです。あなたは言葉で生きることはできません、あなたは言葉をつかまえて生きることはできません、あなたは言葉であなたの全ての精神とエネルギーを活動させることはできません。あなたは言葉を超えて行く必要があります。言葉は単なるシンボルです、コミュニケーションの手段です。そして、お互いに通じ合うためには、我々は言葉を聴くだけではなく、言葉の意味とその意義をも理解するのでなければなりません。そして、言葉の意味を理解するためには言葉に囚われないことです、なぜなら、言葉はそれが伝えようとするその当のものではないからです。言葉はそれが伝えようとするその当のものでは決してありません。“空”という言葉は空そのものではありません。言葉はシンボルにすぎなくて、実際の事実ではありません。
 そして、実際の事実を明らかにするためには、単に、言葉の意味だけではなく、あなたと私は―なぜなら、我々は、一緒に、いわゆるリリジャスな精神と称されるその何かを検討しているからです―通じ合うのでなければなりません、堅持される―知的にだけではなく、あるいは言葉でだけではなく堅持される―何らかの強さで、明瞭性で、通じ合って、そして、正にその行く先にまで行くのでなければなりません、緩むことなく、手綱を引き締めて、そうするのでなければなりません。従って、もし人がその途方もないいわゆるリリジョンと称されるその何かとその全意義を理解しようとするなら―人が何世紀にもわたって明らかにしようとしてきているそれです―あなたはあなたの全ての心と精神を費やすのでなければなりません。従って、あなたが本当に空腹なときに、単に、言葉の前で立ち止まるのは何の意味もありません。そのように、我々は我々が一緒に同じ時間を共有して、絶えず、その正に行く先にまで行く次元の強さを堅持するのでなければなりません。なぜなら、そうすることによってのみ、通じ合う何らかのことが可能だからです。
 そのように、我々が言っていたように、我々の生は一連の大掛かりな逃亡です―我々の退屈さからの、我々の孤独からの、我々の恐れからの、我々の取るに足らなさからの逃亡です、人が、現にある通りのことに向き合うのを避ける手段として培ってきた全てです。我々は多くの逃亡を経験しています、人は実際にそれを意識するかもしれないし、意識しないかもしれません。無意識の様々な逃亡を発見するためには、人は、決して気を抜かない、見守る精神を必要とします―それを、人は、あらゆる思考や感情を絶えず見守るために必要とします。なぜなら、そのように見守る領域の中で―そのように見守ることは否定的な何かであり、肯定的な追究ではなく、それは観察している精神の状態です―無意識のあらゆる活動が、その全ての暗示と共に、気づかれて理解されます。
 多くの逃亡が生じます、意識的にも無意識的にも―私が言ってきたように―退屈さから、何らかのルーティンから、我々の生の途方もない取るに足らなさから。あなたは非常に知的かもしれません、そして、政府の中で相当に高い地位にいるのかもしれません、しかし、あなたのハートとあなたの精神、あらゆるものが、狭小で、取るに足らなくて、底が浅いのかもしれません、あなたは退屈しています、そして、あなたはそれから逃げようとしています、飲酒で、セックスで、あるいは、神に言及して―それら全ては同じ次元です、あなたが逃げようとするとき。そのように、そのことに気づくことが、そのことを意識することが、何らかのエネルギーを生みます。
 私はこのことを検討しようとしています、なぜなら、そのエネルギーなしに、もしあなたが、このトークの正に初めから、それを手にしていないなら、あなたは、更に、歩みを進めることはないでしょう、そして、途中で、あなたはそれを止めるでしょう、そして、それが何らかの理論に、何らかの言葉による説明になるでしょう、それには非常に僅かの意義しかありません。
 ほとんどの我々にとって、生は―正に生きるということは―何らかの問題になります。私の言う“生きる”という言葉は、会社へ行くこと、通りの汚れを目にすること、人の全くの悲惨、貧困、怠慢、汚穢、我々が受ける数知れない侮辱、喜び、快楽、不安、絶望、愛情、共感、そして、究極的に、死と称されるものなどを意味します。それが我々の生の全体です、それが我々の存在の一部です。我々はそれを理解していません、そして、我々が触るあらゆるものが何らかの問題になります。私は“問題”という言葉で、即座に解決されないで、そして、次の日にまで持ち越される何かを意味しています。
 我々の生の全体が問題です。そして、それを解決できないので、我々は逃げようと試みます、そして、セックスが、我々の逃げて逃げ込む先の一つです、なぜなら、知的にも、情動的にも、あらゆる場面で、我々は創造的ではないからです、我々は二番煎じです、そして、オリジナルな何ものもありません、稚き無垢の、明瞭で、美しく、生のままの、制約されていない何ものもありません。我々は二番煎じです。我々の教育の全てが、我々が単に情報として獲得してきた何かの繰り返しです、職を得ること、生計を立てることなどです。従って、生がひどく退屈になります。
 あるいは、我々は生に何らかの意義をもたせようと努めます、つまり、我々は言います、“生きる目的は何か”と、生きることが何らかの目的を有するかのように。あなたは豊かに、完全に、十全に生きます―目的は全くありません。美に目的はありません。しかし、我々の生が、現にある通り、けばけばしくて、虚しく、大した意味もないとなると、我々は我々の行うあらゆる行為に飽き飽きします。私は考えません、我々がいかに退屈であるのかに我々が気づくことがあるのかを。
 それが宗教組織の存在する理由です―その退屈さから逃れること、その孤独から、その底の浅い存在から逃れることです。それら数知れないスワーミーたち、ヨーガ行者たちなどその他の全ての類がいます、そして、自然に、我々は至る所で壁にぶち当たります、そして、セックスがほとんどの我々にとって唯一の逃げ道です。そのような逃げ道を手にすると、それが驚くべき問題になります、倫理的問題になります、それは正しいのか、それとも、間違っているのかなどです、そうして、我々はそれに囚われます。我々は精神が負っている、縛り付けられている束縛を理解する必要があります、我々は欲望の全領域を、数知れない欲求を理解して、それらを打ち破る必要があります―それは自由でいることです、知的にも情動的にも。それらを理解して、それらを打ち破らないと、一つの方便、セックスがあるだけです。そして、我々はセックスを異なる形で欲します、つまり、何らかの美として、何らかの好みとして、何らかの倫理として、すべきこと、あるいは、すべきでないこととして。
 どうか、我々は途方もない何かについて話しています、理論的な何かではなく、それはあなたの生です。そして、あなたが逃亡するとき、あなたの逃亡先のものがあなたのそれから逃亡しているものよりも重要になります―あなたのセックスが重要になります、神あるいは無神が重要になります。我々は生の意義を見つけたいと思います、つまり、究極的な平和です、永久の何かです、時間とは無縁の永遠の何かです、そして、数知れない理論が存在します。人は逃亡しているので、人が逃亡できればできるほど、人は人が宗教的であると考えます。あなたが神と称する観念と全く完全に一体であるとき、それは何らかの真実ではありません、なぜなら、あなたは、恐らく、いかなる環境下でも、真実と一体になりえないからです。もしあなたがそうするなら、それは真実ではありません。真実に気づくためには、あなたの精神は、あなたが一体になるそれら全てから完全に解放されているのでなければなりません、あなたの精神は恐れから解放されているのでなければなりません。
 我々は国と、家族と、社会的な共同体と、何らかの献身的な社会活動と一体になりたいと思います、そして、究極的には国家と一体になりたいと思います、あるいは、もし国家がありきたりなら、そうすると、我々は神と一体になります。この何らかの組織宗教との一体化は、あるいは、あなた自身の空想した神との一体化は、あなたの何らかの神話やあなた自身のその神話のビジョンは、別の逃亡です。従って、国家と、国と、神と、何らかの活動と完全に一体化する人々は―その人たちは何らかの形の神経症的なエネルギーを手にしますが―そのようなエネルギーは破壊的であり、腐敗していて、矛盾しています。
 そのように、人はこの事実に気づく必要があります、つまり、いつも、何らかの集団と、何らかの観念と、何らかの人物などと一体になる欲望があるという事実です。あなたが何かと一体になるとき、あなたが逃亡するとき、問題が生じるとき、あなたはエネルギーを失っています。そして、真実とは何か、リリジャスな精神とは何かの問題を検討しようとする精神は、あらゆる形の退屈さから、多種多様な形の逃亡から―ただ一つの形だけではなく、あなたの教会、神々、宗教、グルなどを含みます―解放されているのでなければなりません。あなたが逃亡を止めるとき、そうすると、正に、あなたは独存していて、あなたは理解できます。
 私は願います、あなたが耳を傾けていることを、従って、あなたの逃亡に気づいていることを、そして、それらの逃亡に即座に終止符を打っていることを、明日ではなく、今です。もしあなたがそのことを引き延ばすなら、それもまた、あなたの何かへの献身という事実に向き合わないでいる逃亡です、あなたの献身の対象が何らかのアートであろうと、あるいは、美であろうと、音楽であろうと、文学であろうと、社会活動であろうと。なぜなら、そのような献身は、そのような逃亡は、そのような退屈さは、現にある通りの実際のあなたを見て取ることを妨げるからです。もしあなたがあなたを実際に現にある通りに理解するなら、そうすると、あなたは、究極的なことに、あなたの完全な孤独感に行き着きます。
 しかし、ほとんどの我々は、我々の活動によって、我々の思考によって、我々が生まれている文化によって、我々の観念によって―我々は自分自身を孤立させています。我々は家族の中で生きています、妻と子供たちと、何らかの社会の中で、何らかの社会的共同体の中で生きていて、友愛について、寛容、友情、愛について、そして、我々が果てしなく使うその他の全ての言葉について語ります。もしあなたがそれらの言葉を内面的に超えて行くなら、その孤独感が生じます、そして、そこから、あらゆる逃亡が始まります。そして、あなたがそのような孤独と向き合うとき、それを理解するとき、それから逃げ去らないとき、それを理解して、それと共に生きるとき―あなたが樹木と共に、雲と共に、汚穢と共に生きるように―そうすると、そのように生きることから美が生じます。
 そのように、リリジャスな精神は、そうすると、恐れとは無縁の精神です。そして、それが理解するのに最も難しいことのひとつです―完全に、余すことなく恐れから自由でいることです。あなたは死を恐れているかもしれません、あるいは、あなたはあなたの妻や夫を恐れているかもしれません、あなたは恐れを抱いています、ごく些細な恐れから恐れの高度の形まで―もし恐れの高度な形があるのなら。そして、そのような恐れを理解して自由になるためには、あなたはそれを探究するのでなければなりません、あなたは見守るのでなければなりません。宜しいでしょうか、自由は何かからの自由ではありません。もしあなたが何かから自由なら、あなたはただそれに抵抗する方法を学んできているだけです、それをいかに避けるのか、それをいかに迂回するのか、それをいかに乗り越えるのかと。しかし、もしあなたがそれを理解するなら、そうすると、あなたは自由です。従って、自由はそれ自体の何かであり、何かからのそれではありません。そして、そのような自由を、あなたは完全に手にするのでなければなりません、なぜなら、そうでないと、あなたは幻想を作り出すからです。
 いわゆる宗教的精神は、迷信的で、鈍感な、受け入れる精神です、数多くの信念と共に、なぜなら、基本的に、恐れが存在するからです。宜しいでしょうか、人々は寺院に足を運びます、なぜなら、何か不幸なことが起こるからです、なぜなら、その人たちは十分なお金を稼いでいないからです―お金がその人たちの神です、あるいは、その人たちは誰かの体が良くならないと恐れるので、その人たちは寺院に赴いて、何らかの儀式を繰り返し行います、それには何の意味もありません。そして、そのような精神が驚くほど宗教的であると考えられます―それは全くナンセンスです!
 恐れから自由な人は神を追い求めません。どうか、このことを理解してください、本当に、恐れから自由な人です、何ものからも、誰からも何らかの恩恵を追い求めない人です―とりわけ、人が作り上げてきた神々からも。そして、この繰り返される、絶え間ない恐れを理解するためには、あなたはあなた自身を理解するのでなければなりません、あなた自身を検討して“現にある通りのこと”に向き合うのでなければなりません―つまり、あなたの孤独であり、あなたの退屈さであり、あなたの逃亡であり、あなたが抵抗の手段として培ってきた徳や倫理です―それは徳でも倫理でも全くありません。徳は全く異なる何かです、徳は何らかの香りです、それは知恵と共に生まれる美です。そして、知恵は自己知と共に生じます―大我を知ることではなく、通常の自己を、日常の自己を知ることです、そのような自己のあらゆる活動を、その美を、そして、その醜さを知ることです。そこから知恵が生じます。そうすると、自由が生じるだけです―それは恐れからの自由だけではなく、権威からのそれでもあることを意味します。
 我々は我々自身でリリジャスな精神が何であるのかを検討することによって、真実のオリジナルな何か、その源泉を明らかにしようとしています―言葉を超えた、計ることとは無縁の、思考を超えた何かです、核となるものが存在しない働きです。そして、そのことを検討するためには、あらゆる形の権威が終了しているのでなければなりません。とりわけ、権威を書物の中に追い求める精神はそれ自身を知るのでなければなりません。書物にはいかなる権威もありません。ウパニシャッド、ギータ、コーラン―それらにいかなる権威もありません、それらは他のいかなる書物とも同じで、ただの印刷された言葉にしかすぎません。しかし、あなたの精神こそが正に権威を、確証を、慰安を、それらの書物の中に追い求めます、そして、それがそれらに聖性を付与します。そのように、あなたは権威の全解剖的構造を理解して、それから自由になる必要があります。
 そうすると、そのような観察から、そのような気づきから―その中には、いかなる選択もなく、それは否定的な気づきであり、それは見守っているのです―あなたに熱気が生じます。宜しいでしょうか、ほとんどの我々にとって、その言葉は何らかの渇望や嗜好と同一視されます。そして、あなたはこう言われてきました、宗教的な人間は何かを渇望しないと、その人は欲望とは無縁でいなければならないと、その人は誰かによって確立されたパターンに自分自身を捻じ曲げなければならないと、自分自身を拷問に掛けてそうしなければならないと。あなたはその人が確立してきた何かを成就したいと思います、なぜなら、あなたは生を恐れているからです。従って、あなたはあなた自身を破壊します、あなた自身を拷問に掛けます、あなた自身を捻じ曲げます、社会によって、組織宗教によって確立されたパターンに適合するためにそうします、そうして、あなたは二番煎じにとどまります。
 どうか、これら全てに付いてきてください。我々は二番煎じの人間です、オリジナルなものは何もありません。そして、リリジャスな人はオリジナルな何かを探究します、二番煎じではありません。そして、いかなる神もオリジナルな何かではありません、なぜなら、オリジナルな何かは、人の思考を、人の構造を超えているからです、人が宗教として作り上げてきた物事―その中には、あらゆる儀式、それらの繰り返し、そして、それら全ての愚行を含みます―を超えているからです。
 そのように、恐れから自由な人は完全に理解もしています、そして、権威から自由です―それは精神が追い求める権威であり、それが正しい行為なのか間違っている行為なのかを明らかにするための、そのことを下支えしてくれる、それによって導かれることを、救われることを願う権威です、そのような精神は決してリリジャスな精神ではありえません。明らかに、リリジャスな精神は決して政治に触れません、なぜなら、政治は目先のことに関心があるからです―“目先”とは、その中で何かがなされる時間的な間隙という意味で、その中には、腐敗、誤魔化し、二枚舌、ナショナリティーなど、政治という名で行われるその他の全てが含まれます。
 そのように、リリジャスな精神は独存する精神です。孤独と独存との間には違いがあります。あなたはこの独存性に踏み入ることができません、もしあなたが孤独の途方もない性質を完全に理解して、そのことを経てきていないなら―もしあなたがそれを完全に理解していないなら、それをテストしてきていないなら、それを嗅いできていないなら、それを知悉してきていないなら、それに完全に触れてきていないなら、セックスや様々な形の逃亡によって、それを避ける瞬間を決して経てきていないなら、それと完全に関わってきていないなら、言葉でではなく、実際に。“孤独”という言葉はその孤独という事実ではありません。そして、ほとんどの我々が恐れるのは言葉です、その事実ではありません、なぜなら、言葉は思考を事実から分離するからです。ですから、あなたは言葉の全構造と我々がいかに言葉の奴隷であるのかを理解する必要があります。これら全てのためには、途轍もないエネルギーを要します。
 リリジャスな精神は逃亡する精神ではありません、世界を避けて、単衣で過ごし、外面的にシンプルになるそれではありません。外面的なシンプルさは単なるこれ見よがしの自己顕示です! 内面的なシンプルさは、それよりずっと厳しい、それよりずっと厳格な何かであり、それは外面的な自己顕示ではありません。そして、リリジャスな精神にはこの内面的な理解が備わっています―それはコントロールとは無縁であり、それは、誰かによって敷かれたパターンを―それが誰であろうと、そして、それは抑圧、従属を要請するそれを―追い求める思考を形成しません。
 私は自己知によって生じる厳格さのことを話しています。そして、それはもっとずっと厳格です、なぜなら、それは精確さを要請するからです、それは理性的な、断片的ではない思考を要請するからです。そして、それは、あらゆる思考を、あらゆる感情を絶えず見守ることを、それらに余すことなく気づくことを要請します、そうすることで、余すことのない行為が、断片的ではない行為が生じます―断片的なそれとは、ある場面では官僚的で、別の場面では迷信的で、醜く、残虐で、愚かなそれであり、誰かが死にかけているか泣いているので、寺院に駆け込むそれであり、あるいは、人がもっとお金を欲するがゆえのそれです。そのように、リリジャスな精神は完全に独存している精神です。独存は孤立ではありません、それは実際に協同する状態にあるそれです。あなたは、もしあなたが独存していないなら、協同して働くことはできません。一般的に、あなたは何らかの賞罰が生じるときにのみ、あなたが何かを得ているときにのみ、あなたが何らかの権威の下で、何らかの観念の下で一緒に何かを行いたいと思うときにのみ協同して行います。あなたが何らかのユートピアあるいは理想のために活動するとき、あなたは、本当は、協同して行っていません、その観念があなたを惹きつけています、あなたはその観念に吸収されています、そして、あなたがその観念に同意しないとき、あなたは袂を分かちます。そのことはあらゆる社会集団で起こっていることです。そのユートピア、理想社会、国家の中では、誰もが互いに反目しています! 共産主義世界も同様です、そこでは、人々は、理想的な、ユートピア世界を築こうと出発したけれども、競争は、そこでは、更に残虐で、更に情け容赦ありません、そして、人々はみな国家と協同するよう努めています―コミューンであり、集団農場です、そこでは、人々を無理やり協同作業させます、従って、人々は内面的に戦っています、人々は何かを破壊しています、あなたは、あなたがそれら全てに対抗できる方法と手段を見つけようとしています。それは協同ではありません。
 協同はあなたが独存しているときにのみ生じます、この完全な独存の感覚が生まれるところでのみ生じます、それは逃げることのない、恐れることのない、いかなる権威にも無縁で、このエネルギーの全問題を理解している精神の産物です、その自然な産物です。そうすると、それは協同する状態の中にいます。従って、協同する状態の中にいるので、それは協同すべきではないときも知っています。
             ......
        独存する感覚の美とは何でしょうか?
             ......
 そのように、この独存する感覚が生まれます。恐らく、あなた方の幾人かはそこまで歩みを進めています、言葉でではなく、実際に、時折の経験としてではなく、明瞭に、不動の何かとして。それは成し遂げられる状態の何かではありません、あるいは、経験される何かではなく、そこに生まれる何かです。この独存は精神がその全ての内容を空にしたときの精神の状態です。正に、部屋やコップが、それが空のとき、それが家具や何かで散らかっていないとき、使用できるのと同じように、精神が、完全に、何らかの観念や信念そして教条を無にするときにのみ、それは歩みを進めることができます。そうするときのみ、その無から、何らかの行為が生まれます。その行為は、そうすると、何らかの観念ではありません、その行為は、そうすると、何らかの観念の近似値ではありません、それは何らかの観念ではありません、その行為は、そうして、何らかの観念ではなく、その行為は、そうすると、何らかのパターンの、観念の、思考の、シンボルの近似値ではありません。
 そのような精神はドラムのようです。先日、夕方、ムリダンガムの演奏がありました。その中は空洞です、そして、それに触れたあらゆる指が正確な旋律を、ピュアな音色を奏でていました。しかし、もしそのドラムが何かで詰まっていたら、音は響かなくて、それは不協和なものになるでしょう。
 精神の空虚は作り出されうるものではありません、精神を空虚にはさせられません、精神を空虚になるように作り上げることはできません。空虚は、夕刻の夕日が、美、魅惑、豊かさを湛えて訪れるように訪れます、それは花が咲くように自然に訪れます、いかなる恐れも生じないとき、いかなる逃亡も生じないとき、いかなる退屈さもないとき、そして、いかなる追求も生じないとき。そして、それが全ての中で最も重要なことです―追求することがあってはなりません、なぜなら、あなたは見つけることができないからです。あなたは永遠を見つけることはできません。時間とは無縁の何かをあなたは探し出すことはできません。それはあなたに訪れるかもしれません、しかし、あなたはそのことに取り組むことはできません、なぜなら、あなたの精神は、とても浅くて、取るに足らなくて、虚しくて、野望、恐れ、醜さ、そして、歪みに満ちているからです。従って、精神はそれ自身を空にするのでなければなりません、それがそう願うからではありません。なぜなら、あなたがそう願うとき、あなたには何らかの動機が生じるからです、そして、あなたが何らかの動機を抱くや否や、あなたはあなたのエネルギーを失っています。
 従って、完全に空虚な精神のみが正に不動の状態にあって、そのような不動こそが正に動です。そして、そのような精神のみが正に熱気のある何かであり、そのような精神のみが正に美と共に生きることができて、そして、美に慣れないのです―樹木の美、顔の美、目や笑顔の美、醜い汚れた道路、汚穢、汚れ、貧困など。熱気を湛えた精神のみが正にそれと共に生きることができて歪みません。
 そして、そのような精神のみが正に完全に空虚であり、それが正に瞑想の状態です。それを三昧やあなたが学んできたその他の全ての馬鹿げたことと同じように解釈しないでください。それはそれら全てとは違います、それは全く異なる何かです。言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。もしあなたがそれを自分自身で明らかにしていないなら、誰かの言うあらゆることがあなたにとっては嘘です―その誰かは問題ではありません、それがシャンカラであろうと、それ以前、あるいは、それ以後の誰であろうと。
 真理はあなた自身で明らかにする必要があります。あなたは道を一人で歩く必要があります、そして、真理への道はありません。真理は海図のない広大な海です、それは計り知れません、あなたはそれを見つける必要があります、あなたは果てしなく歩きます。そして、その果てしなさが拷問になります、あなたが恐れるものになります、もしあなたが我々の話してきていた最初のことを理解していないなら。そうすると、時間とは無縁の何かがあります。そうすると、あなたはその空虚の中を正に完全に生きているので、時間は消え去って、現在のみがあります、その活動的な現在のみがあります。
 私は知りません、あなたが、これまで、飛ぶ鳥、落下する木の葉、あるいは、水面の太陽、あるいは、水面に映える月に気づいてきたのかどうかを。もしあなたが気づいているなら、もしあなたがその美を見ているなら、その瞬間は、時間とは無縁です。そこに、尽きることのない、汚れのない、腐敗しない、時間とは無縁の何かがあります。同様に、リリジャスな精神がそれです。そして、そのようなリリジャスな精神のみが、正に、計り知れない何かに、名付けようのない何かに触れることができます。
                ―1964年 2月2日 マドラス
                 1964年 1月22日 マドラス
                 1964年 1月26日 マドラス
                 1964年 1月29日 マドラス
                 1964年 12月27日 マドラス
                 1964年 12月30日 マドラス