uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

五月鳥居

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ 私には思われます、我々の大いなる困難の一つは、言葉によって引き起こされるそれだけでは単にないということです。言葉はコミュニケイトするときに必要です、しかし、コミュニケーションは単に言葉によるだけではありません。そして、人がどれほど言葉の使い方に知的で繊細であろうと、我々は言葉で生きることはできません、なぜなら、我々は、感情をも、強い情動をも、暴力的な激情をも、憎悪をも、同情をも、優しさをも、愛情をも持ち合わせているからです。そして、我々は、我々の存在の異なる次元で生きているように思われます。もし我々が、いわゆる知識人なら、我々は言葉で、何らかの観念で生きていて、賢く、雄弁に議論できます。もし我々が情動的なら、我々はあらゆることについて、ほとんど涙を抑えられません。そして、知識人は、情動家と同様に、内に様々な問題をたぎらせています―自前のそれや環境的な条件づけなどのそれによって。
 我々の生は拷問的なそれです、我々はそれを言葉によって、何らかの感情によって、何かに逃げ込むことによって、いわゆる宗教的な活動や知的な活動などのあらゆる形によって覆い隠そうとします。しかし、それらは、我々の内面の戦いを、我々の内面のフラストレーションを、我々の孤独、深い悲しみ、そして、完全に孤立しているという感覚を隠せません。我々は安心したいのです、物理的にだけではなく情動的にもそうなりたいのです、我々は親密に交わりたいのです、我々は完全に委ねることのできる人を欲するのです、完全に信を置ける人を、親密で尽きることなく触れ合える人を欲するのです。我々は人との関係性の中に安心を追い求めるだけではなく、我々は我々の観念の中にも、我々の信念の中にも、我々の生き方の中にも安心を願うのです。我々は間違わないことを願います、我々は正しい道を歩むことを願います、それが何を意味しようと。我々は我々に何をすべきかを語る人に目を向けます。我々は権威を、伝統への計り知れない愛情を手にします。
 そして、我々はそれらと共に生きる必要があります―知的な次元で、情動的な次元で、物理的な次元で、そして、心理的な次元で、孤独を抱えて、虚しさを抱えて、絶望と共に。我々は病気を抱えて生きる必要があります、生の尽きない退屈さと共に生きる必要があります―毎日、会社へ、この先、四十年あるいは五十年、出向く我々の生です。あるいは、人は会社で、四十年、同じことを、繰り返し、繰り返し行ってきました、そして、その生の終わりには、何も残りません、人は燃え尽きます。あるいは、人は、生を何らかの確信を抱いて、何らかの方式の下に始めます、そして、人は何か大いなる意図を抱えています、しかし、その生は、人から徐々にそのあらゆるエネルギーを、その活力を、その明晰さを、その明らかな気づきを搾り取って、人は自らの虚しさの中に置かれます、人は孤独の中に、絶望や悲しみの中に置かれます。
 これは我々の実際の日常生活です。そして、そのことに気づくと、我々は、何かそれを乗り越えた、遥かな何か、我々の日常生活とは何の関係もない何かを探そうとします。我々はウパニシャッドを紐解きます、バガバッドギータ、バイブル、先覚者、聖者など、この日常の悲惨、恐れ、残酷さから逃れた何かに目を向けます。そのギャップが大きければ大きいほど、その神経症は酷くなります。そして、ほとんどのいわゆる宗教的な人々は神経症的です、なぜなら、その人たちの生は此処にありながら、その人たちは何らかの観念を追い求めようと努めるからです、香木を持参して、教会や寺院に赴き、何らかの儀式を執り行うのです―この日常の拷問的な何かから、生の日常的な労苦から逃げようとするのです。これは事実です。恐らく、私はそれを事細かく表現してはいませんが、それが我々の生です。そして、我々は此処で、我々の日常生活の中で、我々の佇まいの中で、我々の活動の中で、我々の思考、感情の中で、変わる必要があります、と言うのも、これが現実であり、それ以外の何ものでもないからです。その他は、何世紀か前の、あれやこれを話をした誰かの単なる観念です、そして、その人たちの言うことを、あるいは、言ったことを、あるいは、現代の哲学者たちの言うことを、繰り返すことに価値はありません、あるいは、現代の哲学者たちに同調するのは、あるいは、一万年に戻って、死んだ過去を―不幸にも、我々はそれを文化と称しています―生き返らせることに価値はありません。
 文化は、発展する、育む、活動する何かです、それは、育まれる、機能する、発展する何かです、そうすると、それは死んだものになります。しかし、見たところ、この国では、我々はこの死んでいる文化を非常に好みます、我々は、それをダンスの中で、歌の中で、寺院の中で、様々な教条を通じて、生き返らせようとします、しかし、それはそうなりません。それがそうならないとき、我々は現実を見ようとしません、我々は生の現実を変質させることができるのかどうかを見ようとしません、我々はハーモニーの本質である単純さをもたらしうるのかどうかを見ようとしません。我々はそうしません、そこで、我々は目を他の何かに向けます、我々は他の何かを探し求めます、我々は我々にどうすれば良いのかを語る誰か見つけたいと思います、そして、我々はその人たちに信を置きます。何かに信を置くことには何の価値もありません。あなたは医者に信を置くかもしれません、なぜなら、その人には経験があるからです。しかし、心理的なことや内面の生について、何らかの経験に基づくその人の何らかの理論には何の意味もありません、そして、見たところ、我々はそれらを手放すことができません。我々はそれらを完全に手放す必要があります、なぜなら、我々は独存する必要があるからです。そして、それは我々の抱く最も深い恐れの一つです―不確かになる感情、危険を感じること、我々の知らない何かがもたらす不安などの恐れです。
 そのように、恐れは未開人に端を発します、そして、いわゆる教育者に、高度に知的で、雄弁で、高度に効率的な能力の持ち主たちからもたらされます。恐れはそこにあります。そして、見たところ、二百万年を生きてきてもなお、人間はこの恐れを取り除くことができません。そして、私は思います、それが我々の存在の主な問題の一つであると、つまり、恐れから自由になることができるのかどうか、ということです。そこで、誰かが言います、あなたは恐れから自由にならなければならないと、そして、あなたに恐れから自由になる方法や何らかのシステムを授けますと。しかし、人は自分自身の恐れの現実に実際に向き合う必要があります、自分自身の恐れに気づいて、それを検討する必要があります、それに直に触れる必要があります、それと通じ合う必要があります、それを理解する必要があります、そうして、それから自由になる必要があります。もし精神が恐れているなら、それは死んだ精神です。あなたはそれを知っています、あなたはそのことをあなた自身の生の中で見てきています。あなたはそのことを見てきたに違いありません、つまり、もしあなたが何かを恐れているなら、その恐れはあなたにつき纏います、あなたはそのことについて考えを巡らします、あなたはそれに対して抵抗の壁を築きます、あなたはいつもそのように見ていて、気づいていて、何としても、あなたは、知性に、あるいは、感情に重要な役割を与えます、そうすることで逃亡を図ります、しかし、恐れに直に触れようとは決してしません。
 もしあなたが身体的な苦痛を感じるなら、あなたはそれについて何かを行います。あるいは、もしその痛みがそれほどでもないなら、あなたはそれに耐えます。あなたはそれについて大いに踊ったり歌ったりしません、あなたはそれに耐えます。そして、それに耐えることは、それは、あなたの思考、あなたの精神、あなたの愛情、あなたの行動を歪めないと見て取ることです―それはまた非常に難しいことです、なぜなら、我々は我々の神経組織の中で生きていて、そして、痛みには何らかの衝撃を伴うからです。我々は健康的でいたいと思います、そして、恐らく、我々は健康的ではありえません。もし我々がそうなりうるなら、それはそれで結構です。もし我々がそうでありえないなら、その痛みの恐怖が存在します、それはぶり返すかもしれません、それは続くかもしれません。そのように、我々は、我々の思考を歪めるそのような恐怖の暗い片隅の中を生きています。
 安全ではない恐怖があります、情動的に、心理的に、内面的に、そして、話し相手がいない恐怖があります、心を開く相手がいない恐怖があります、我が事のように通じ合える相手がいない恐怖があります、あなたが望むときに話せる相手がいない恐怖があります、頼れる人がいない恐怖があります、あなたの言うことを決して誤解していないと感じる相手がいない恐怖があります、あなたが怒っているとき、あなたがお世辞を言うとき、あなたの言うことが本意ではないと知っていて、あなたがその人と大いなる愛情と大いなる感覚で一つであると感じる相手がいない恐怖があります。そして、もしあなたがそのような人を見つけるなら、あなたはその人に何としても固執します。あなたはよく知っています、ある日、その人が顔を背けるかもしれないことを、死んでしまうかもしれないことを、他の興味に向かうかもしれないことを、他の人たちに興味をもつかもしれないことを、他の幻想に浸るかもしれないことを、そのように、あなたはあなたが可能なとき、その人に固執します。そして、それもまた恐怖を生じさせます、なぜなら、あなたはその人に全幅の信頼を置くからです、あなたの全ての愛情を注ぐからです、そして、その人は、あなたや私と同様です、その人はあなたから去っていきます、その人は他の誰かに目をやります、そうすると、嫉妬が生じます、憎しみが生じます、関係の毒気が生じます。
 そのように、我々は結婚がこの上なく神聖になる社会を作り上げます、あなたはそれを壊せません、あなたはそれを法に支えられてしっかりと手にしています、しかし、現代の様々なプレッシャーはその法を破壊しています。我々は永久な何かを関係の中に求めます、そして、我々は何事の中にも永久なものは存在しないことを決して認めません。そのように、恐怖は我々の日常を暗くします。どうか、私は何か空想的なことを描写しているのではありません、あなたはそれを作り出す必要はありません、そのようなことを想像する必要はありません―これは我々の実際の日常生活のことです。
 そのように、我々は安心を追い求めています、物理的に―家を所有することです、財産、名前、地位、身分です、そして、我々はそれに這いよってくるものを押しのけます、法的にも、倫理的にも、宗教的にも。そして、また我々は関係性の中の安全性を欲します、関係性の中に永久的なものはないことをよく深く知っていながらそうします。我々は関係性に慣れることができます。私は私の妻に慣れることができます、彼女の賛辞に、彼女の小言に慣れることができます、彼女と一緒の寝床に慣れることができます。私はそれに慣れることができます、そして、その慣れ、その習慣が私の安全性になります、そして、その習慣に異変があってはなりません。そのように、それがまた恐怖を生じさせます。そして、恐怖から悲しみが生じます。物理的、内面的、情動的な恐怖があるだけではなく、何かを成就したい、何か大きなことを行いたい、有名になりたい、なにか非情な困難に直面するとき、それを難なく処理できるのかどうかという恐怖があります、あなたが非常に取るに足らない、狭量な精神の、自己中心的な振舞いをする、つまらない人間であると内面的に知っていて、それら全てを隠蔽したいと思う恐怖があります。それもまた恐怖を生じさせます―それらは何かを成就したいという欲望です―例えば、壇上の椅子に座り、大勢の人に話をして、そのことから何かの刺激を受けます、そして、聴衆が集まらないとき、人は途方に暮れます。
 我々は幸福でいたいと思います。どこか、深いところで、天国か何かで、我々は幸福でいたいと思います、やすらぎたいと思います、穏やかで、平穏でいたいと思います。そうして、我々は天国を発明します。我々がどこへ行こうと、我々が何を行おうと、恐れや悲しみが我々につき纏います、そして、このことには限がありません。我々はそのことに向き合うことができる、それを超えて行くことができるエネルギー、能力、有能さを持ち合わせていないように思われます。そして、勿論、恐れと悲しみの究極である死が控えています。
 死、生の終わり、物理的に存在しなくなること―それが我々全ての関心の対象です、我々が死と称する当のものです。死には沢山の形があります。三十年あるいは四十年、自分自身や社会と絶え間なく争って生きる人―それもまた死です。ある特定の状態の中に何年も生き続けること―それもまた死です。単調な、それほどの意味もない愚かな生を生き続ける死があります。そして、我々は生の中に、それほどの意味をもたない何らかの目的を発明します、何らかの目標、いわゆる精神的な美しさ、何らかの感覚、そして、再び、悲しみを抱えた、この戦いが続き、決してそのゴールにたどり着けません、なぜなら、我々はそうなりえないからです。
 死には沢山の形があります、単に身体のそれだけではありません。いわゆる蛸壺の中の精神がそうです、そこから決して抜け出せません、それは何らかの観念の囚人です、何らかの意見に囚われる人です、それは人々の言うことに囚われて、その狭量な行動規範に従う人です―それは実際に世界との関係における非倫理的行動規範です―それもまた死です。そしてまた、その途方もない孤独の悲しみがあります。私は知りません、あなたが人のその生の、深い、尽きることのないように思われる孤独をこれまで感じたことがあるのかどうかを。
            ......
現在、我々が目の当たりにしているのは、欧米=中東的知性及びその東洋的亜流の凄惨な終焉でしょうか?
            ......
 我々は、今宵、それら全てについて話し合おうと思います、そして、あなたと私は、誰でもが、恐れと向き合って、それを取り除くことができるのかどうかを話し合おうと思います。もしあなたが恐れから自由でないなら、あなたがどんなに賢くても、あなたがどれほど何かに共鳴しようと、あなたは暗闇の中を生きています。あなたはいつか自分自身を見守ります。恐れが不意にあなたを襲うとき、あなたは麻痺します、その恐れが深ければ深いほど、その緊張感が強まります、その息苦しさが強まります。そして、あなたはそれにどう向き合うのか知りません。あなたはそれに決して直に触れません、それと通じ合いません―食べ物を飲み下すように、性的欲望のように、何らかの行動を直に起こすときのように。見たところ、我々はこの恐れに決して触れていません。
             ......
          死者とは何でしょうか?
         死者を弔うとは何でしょうか?
    死霊=生霊の意識に水を遣り、香を焚き、花を生け、鉦を響かせるのは何でしょうか?
         空間の美と愛とは何でしょうか?
             ......
 恐れはそれ自体で存在しません。それは何らかの物事との関係です―何らかの闇との関係、隣人の言うこととの関係、何か間違いを犯していることとの関係、あなたの職を失うこととの関係です、妻や夫が他の誰かに目を遣ることの恐れ、フラストレーションの恐れ、子供を決して持たない女性、あるいは、結婚しないで、生のその側面を全く知らない女性、そして、男性が、辛辣で、攻撃的で、虚栄心が強く、傲慢で、非常に如才のない精神の持ち主で、論理的であることの恐れです。
 恐れる人は闇の中を生きます。恐れの原因を見つけるのは非常に簡単です。私は隣人を恐れます、なぜなら、私は彼の親切な言葉に依存するからです、彼は私の意に反することを言うかもしれません、そして、私は私の職を失うかもしれません、あるいは、私は娘を嫁に出すことができません、そのように、私は恐れます。そのように、私は依存しています、私はその原因を良く知っています。
 恐れの原因を見つけ出すことはそれほど難しいことではありません―意識的あるいは無意識的な恐れです。それは非常に単純です、もし人が十分に気を付けているなら、人はそれをすぐに検討できます。しかし、その原因の発見は、精神から恐れを解放しません、その恐れは依然としてそこに存在します。どうか、このことに少しだけ耳を傾けて下さい。恐れの原因の単なる分析は、恐れを洗い流すことにはならないように思われます。このことは事実です、あなたはそれを見て取ることができます。人は原因を知っています、しかし、人は依然として恐れています。そのように、原因の単なる分析は、それがどれほど深くても、どれほど微に入り細にわたっていても、どれほど深くその原因を発見して分析しても、その原因の単なる理解は、精神を、あるいは、その存在を恐れから解放しません。事実の単なる暴露は恐れを取り除きません。あなたは恐れに直に触れる必要があります。そして、それは最も困難なことです―それに直に触れることです。
 そして、我々はあらゆることについて直に触れることを決して行ってきていません、食べ物や、恐らく、セックスを除いて。我々は樹木を樹木として決して見ません―純粋な知覚です。我々は何らかの観念を抱いて、思考します、イメージを作り上げます―その樹木の生物的構造や性質などについてそうします。そして、直に触れるということは、その樹木にあなたの頭をぶつけるということではありません、そうではなく、その性質、その美と共に息づくことです、それに触れることです、その香りを嗅ぐことです、そして、そのしなやかな枝や、その葉や、その花と共に、葉群れの中を通る風を感じることです―そうすると、あなたは直に触れます。しかし、我々は決して恐れに直に触れません、そして、我々はそれが実際に何を意味するのかを知りません。我々は決してそれに触れてきませんでした、我々は決して直に触れてきませんでした、なぜなら、我々はすでに恐れに直に触れることを恐れているからです。どうか、耳を傾けて下さい。
 我々は恐れに決して触れてきませんでした、なぜなら、それがもたらすかもしれない恐れ、何かが起こるかもしれない恐れがすでにあるからです。もし私が、私の隣人の私について言うことを本当に気にしないなら、私は私の職を失うかもしれませんし、失わないかもしれません。しかし、私の思考は言います、“注意しなさい。何も言わないことです。不正直になりなさい、如才なく振舞いなさい、狡賢くいなさい。しかし、隣人の悪口を言ってはなりません、なぜなら、その人はあなたを傷つけようとするからです”と。そのように、思考は恐れに先手を打ちます、思考は恐れ守ります、従って、それに直に触れることは決してありません。それが最初のことです。
 “恐れ”という言葉は、不安、危険の警告、災難、良いことの喪失と邪悪の到来を意味します。その言葉は、恐れそれ自体ではありません、それは確かです。しかし、我々にとって、その言葉―そのシンボル、その観念―が非常に重要になっています、そして、その言葉が物事自体に我々が直に触れることを妨げます。それは極めてシンプルです。我々は言葉で生きています、我々にとって、重要なのは言葉です、言葉の分析です、言葉の狡賢い使い方です、我々が言葉に関わって引き起こすあらゆる騒動を見てください。結局のところ、ウパニシャッド、バガバッドギータとは何でしょうか? それらは言葉にすぎません、あなたはそれらを放り出しません! 我々は言葉を使って、言葉で事に触れようと欲します。しかし、言葉は我々をいかなるものにも決して直に触れさせません。我々は言葉だけで生きてきたのではなく、感情によっても、気質によっても、愛情によっても、美によっても、何らかの気づきによっても生きてきました、つまり、雲を見ることです、夕日を見ることです。“夕日”という言葉は夕日それ自体ではありません、その光、その雲の形、その雲の中の光ではありません。そのように、人は、言葉が、触れることを妨げるのを理解する必要があります。あなたがこう言うとき、“私は愛します”、あなたは手を握ります、あなたはキスをします、あなたはあらゆる種類のことを行います。言葉は事実ではありません。
 そのように、“恐れ”という言葉が恐れを生みます。人は言葉が恐れを生み出しているのかどうかを明らかにする必要があります、そして、精神はその言葉から自由になりえて、恐れに直に触れうるのかどうかを明らかにする必要があります。私は知りません、あなたがそれを見守っていることをそれが知らないで、鳥を、蜘蛛を、あるいは、何らかの動物を観察したことがあるのかどうかを。そうすると、あなたはあらゆる動きを見て取ります、あなたはその羽のあらゆる模様を見て取ります、あなたはその足のあらゆる動きを見て取ります、あなたはあらゆるものを見て取ります。しかし、もしあなたがその動物あるいは昆虫について何らかの観念を抱いているなら、あなたはすでに気づく機会を手放しています、あなたは見て取っていません。そのように、人は恐れに直に触れる必要があります、そして、それが行うのに最も難しいことの一つです―つまり、恐れを、言葉とは無縁に、思考を介さずに、見て取ることです。なぜなら、思考が恐れを作り出すからです、つまり、“私の隣人が悪さをしようとしている”、このような思考がすでに恐れを私の中に生み出しています。そして、原因を発見する思考は、その恐れを取り除くことをしません。恐れを消滅させるのは、それに直に触れることです、そして、あなたはそれに直に触れることができません、もしあなたが逃げ去っているなら。あなたはそれと共に生きるのでなければなりません。あなたはそれについて全て知るのでなければなりません、あなたはそれを絶え間なく見守るのでなければなりません―見守って、見守って、見守って、決して逃げないことです、決してそれに防御壁を築かないことです、決して勇ましくならないことです。人が恐れているとき、勇ましくなろうと努める人―その人はすでに恐れています! 恐れはそこにあります。そのように、あなたはそれを見守る必要があります、あなたが夕刻の窓の上の蜘蛛を見守るように―その蜘蛛の巣作りです、それはとても効率的で、とても奇麗で、とてもシンメトリックです。同じように、ただあなたの恐れを見守るのです、つまり、それは、いかなる歪みとも無縁に見守ることができる精神を意味します―それから何かを得ようとするのではありません、それは何らかの歪みになります、しかし、ただ明瞭に見て取ることです。そして、その明瞭さは生じません、もしあなたが恐れから逃げようとするなら、もしあなたがそれを覆い隠すために言葉を使おうとするなら、もしあなたがそれを乗り越えようとするなら。あなたはただそれを見守る、観察する必要があります、一日を通して、あらゆるその働きに、恐れがそれ自体どのように表現するのかに気づく必要があります。そうすると、次の機会には、恐れが様々な理由で生じていて、あなたはそれに向き合うことができます、言葉の偽装は生じません、あなたはそれに向き合います。従って、あなたは恐れに向き合うことを学び始めます。そして、あなたが、思考が恐れを作り出していることに気づいたとき、あなたは、恐れを作り出す思考を脇へ除けます、従って、あなたは、隣人が何かを言うとき、今と明日との間にある時間的な間隙も葬り去ります、そのように、あなたは恐れに向き合います。
 恐れは安全であるための欲望としてもそれ自身を生じさせます。人は物理的に安全でなければなりません―衣食住です―それは明らかです。そうでなければ、あなたは速やかに考えたり感じたりできません。あなたは物質的な安全性を手にしていなければなりません。東洋の大多数はそのような物質的な安全性を手にしていません。しかし、その問題を解決するのは教育者、文化人の機能です。一万年前に遡って、何か愚かなことを繰り返す反復者の機能ではなく、教育者のそれです、世界の情勢に気づく人です、繊細で、それを解決しようと思う人です、この恐ろしい貧困の問題を解決しようと熱くなる人です―そのような人のみがそれを解決できます、恐れずに、状況に向き合う仕方を知っている人のみが解決できます。
 安全性への欲求があります。そして、人は、あなたが野生動物に出くわすとき、蛇に出くわすとき、この安全性への欲求を理解できます、あるいは、あなたが道路を横切るとき、あなたは気を付けます。しかし、それ以外の安全性の形はありません。実際に、もしあなたがそのことに気づくなら、それ以外の形はありません。あなたは、あなたの妻、子供たち、隣人との間に、あなたの様々な関係性の中に、もしあなたがそれなりの関係性を手にしているなら、何らかの安全性を手にしたいと思います、しかし、あなたはそれを手にしていません。あなたにはあなたの母親がいるかもしれません、あなたにはあなたの父親がいるかもしれません、しかし、あなたは何らかの関係性を手にしていません、あなたは完全に孤立しています―我々はそのことを検討します。安全性が存在しません、いかなるときでも、いかなる次元でも、誰とでも、心理的な安全性が存在しません―これは認めるのに最も困難なことです。誰とも心理的な安全性が存在しません、なぜなら、その人は人間であり、そして、また、あなたもそうだからです、その人は自由です、そして、また、私もそうです。しかし、我々は我々の関係性の中に安全性を欲します、結婚を通じて、誓いを立ててそうします―あなたは我々が我々自身と他の人たちに仕掛けるトリックを知っています。それは明らかな事実です、それには手の込んだ分析は必要ありません。
 我々はその安全性の欠如に決して触れません。我々は完全に安全性を欠くことを恐れます。その安全性の欠如を理解するには大いなる叡智を要します。人が完全に安全性を欠くのを感じると、人は逃げ出します。あるいは、何事の中にも安全性を見出せないと、人はバランスを欠きます、自殺を思いつきます、精神科へ行きます、あるいは、人はこの上なく敬虔な宗教的な人間になります―それらは全て同じです、バランスを欠いた形です。安全性は存在しないという事実を―知的にではなく、言葉でではなく、決然と決意するのではなく、そのように意を決するのではなく―認めるには、途方もなくシンプルで、明晰な、調和のとれた生き方が求められます。
 そして、これは―安全性を見つけないと―悲しみを生みます。あなたは知っています、人が、長い間、悲しみと共に生きてきたことを。あなたは悲しみが何かを知っています―あなたの愛する人を失うことです、名声、地位を失うことです、世界の中で何らかの地位、身分を決して手にしないことです、そして、他の誰もがそれを手にしています、顔が決して美しくないことです、あるいは、振舞い、あるいは、言葉が決して美しくないことです、夕日や夕焼け雲の美を決して見て取らないことです、決して風を感じないことです、あなたの顔に触れる夜の冷気を決して感じないことです。我々は感覚が鋭敏ではありません、そのように、我々は生きていて、悲しみを追究します。そして、我々はそれに決して触れません。我々は何らかの観念を抱いています―それは過去の業であると、それはこれやあれの結果であると。あなたは知っています、業について語る人がこの上なく愚かな人であると。なぜなら、あらゆる原因は即座に変えられるからです、あらゆる原因とその原因の結果は粉砕されうるからです。こう言い続けることは、“それは私の不幸です、私は過去にそうしました、従って、私はこうです”と―それはとても子供じみています! なぜなら、因果関係は密接に関連していて、原因であったことが結果になり、そして、結果であったことが原因になるからです、そして、それは破壊しうるからです。そして、それを破壊するためには、あなたはそれに触れるのでなければなりません、単に言葉で生きるのではありません。
 悲しみの消滅は可能です。言わないでください、“あなたは悲しみを葬り去りましたか?”と。それは重要ではありません。誰がそうしているのか、そうしていないのかは問題ではありません。重要なのは、あなたが悲しみの中にいる、ということです。どのような理由であろうと、どのような原因であろうと、何らかの悲惨、不運、不安、絶望の中にあなたはいます―あなたは正にそれです。あなたがそれを葬り去れるのかどうかを明らかにすることが、誰か他の人がそうしているのかどうかを明らかにすることよりも重要です。もし私が“はい”と言うなら、それは重要なことではありません、もし私が“いいえ”と言うなら、それも重要ではありません。重要なのはあなたの生です、あなたがどう生きるのかです。そして、奥深い悲しみがあります―人種のそれだけではありません、家族のそれであり、二百万年、悲しみと苦悶と絶望を生きてきた人のそれでもあります。
 そして、孤独の悲しみがあります。私は知りません、あなたがこれまで孤独であったのかどうかを、つまり、あなたは、突然、気づきます、あなたは誰ともいかなる関係性も持ち合わせていないと―知的な認識ではなく、実際にそう気づきます、このマイクロホンのように具体的に―あなたは完全に孤立しています。あらゆる形の思考と情動が壁にぶち当たります、あなたはどこへも行けません、頼れる人がいません、神々、天使たちはみな雲の彼方に遠ざかりました、そして、雲が消え去ると、それらもまた消え去りました、あなたは完全に孤立しています―私は“独存”という言葉を使いません。
 “独存”という言葉には全く異なる意味があります、独存には美があります。独存するということには全く異なる意味があります。そして、あなたは独存するのでなくてはなりません。人が自分自身を社会的な欲望、嫉妬、野望、傲慢、成就、身分などの構造から自由にするとき―その人が自分自身をそれらから解放するとき、そうすると、その人は完全に独存しています。それは全く異なる何かです。そうすると、大いなる美が生じます、大いなるエネルギーを感じます。
 しかし、孤独はそうではありません。孤独はあらゆるものから完全に孤立している感覚です。私は知りません、あなたがそれを感じたことがあるのかどうかを。あなたが気づけば気づくほど、あなたが問えば問うほど、目を向ければ向けるほど、尋ねれば尋ねるほど、追い求めれば追い求めるほど、あなたがそれに気づけば気づくほど、つまり、あなたの深い意識の中で、あらゆる次元で、あなたが完全に切り離されているのを感じます。そして、それが大いなる悲しみの一つです、つまり、それを超えることができないことです、そして、それは、その大いなるエネルギーのその途轍もない孤独の感情に囚われていることです。それには何らかの活力、動因、主張、醜悪さがあります、そして、我々はあらゆる形でそれから逃亡します。我々は酷く如才ないか、その孤独について書物をものにするか、その孤独を脇へ除くかします、あるいは、我々は逃げます、様々なエンターテインメントに興じます、そして、それに触れません。そして、それはそこにあります、隠れています、しかし、癌のように、それはそこに潜んでいて、待ち構えています。人はそれに触れる必要があります、言葉によるのではなく、実際にそうする必要があります。
 そして、その孤独は死の形です。我々が言ったように、生命が尽きるときだけではなく、答えが存在しないとき、出口が存在しないときにも死が生じます。それもまた死の形です、つまり、あなたは牢獄の中にいます、あなた自身の自己中心的な活動をその中で絶え間なく行う蛸壺のような牢獄です。あなたが、あなた自身の思考、あなた自身の苦悶、あなた自身の迷信、あなたの習慣や浅はかな思慮の日常的な死の決まり事に囚われているとき、それもまた死です―それは単なる身体の消滅ではありません。
 そして、それをいかに消滅させるのかも、人は明らかにするのでなければなりません。輪廻転生ではありません、つまり、私は次の世に生まれ変わる、ということです。宜しいでしょうか、あなたが次の世に生まれ変わるかどうかは、どうでもよいことです。あなたは生とは何かを知っているでしょうか、この生のことです。悲惨、絶望、不安、多少の快楽、多少の愛情、性的嗜好、混乱、絶え間ない戦い、争い―それが我々の日常生活です。そして、あなたはこう言います、“私はこの生を次の世に引き継ぎます”と、そして、あなたは死を待っているのです。あなたはそれら全てを信じます、そうして、あなたは魂の心理的進化を発明します、つまり、ゆっくりと、絶え間なく、徐々に、あなたは悲しみ、苦痛、労苦、不安を取り除きます。あなたは悲しみを取り除くために時間を発明します、あるいは、あなたは悲しみを教会の中で礼拝します! そして、人は気づきます、あなたは死と向き合う必要があると、あなたはそれに触れる必要があると、あなたがその樹木に、夕日に、顔の美に触れるように、人間のみすぼらしさ、虚飾や見掛け倒しに触れる必要があると。あなたは死に触れる必要があります―身体の消滅だけではなく、身体組織が朽ち果てるそれだけではなく、それは理解しえます。身体組織を長く維持させることは可能です、科学者たちはそれが更に五十年維持されうるのかどうかを研究しています。我々はそれを更に五十年以上維持させるでしょう―それは同じ自己中心的な、残虐な活動です、野望、競争、名声、地位、権力、欲望、嫉妬の追求です。しかし、我々は死に決して触れようとしません。
 あなたは知っているでしょうか、死に触れることが何を意味するのかを、いかなる議論とも無縁に死んでやり過ごすのです。なぜなら、死は、それが生じるとき、あなたとは議論しないからです。それと向き合うためには、あなたは、毎日、死んでやり過ごす必要があります、あらゆるものを、あなたの苦悶、あなたの孤独、あなたが固執する関係性です、あなたはあなたの思考を、あなたの習慣を、あなたの妻を死んでやり過ごす必要があります、そうすると、あなたはあなたの妻を新しく見ることができます、あなたはあなたの社会を死んでやり過ごす必要があります、そうすると、あなたは、新しく、新鮮で、若々しい人間として、それを見守ることができます。しかし、あなたは死と向き合えません、もしあなたが毎日死んでやり過ごさないなら。あなたが死んでやり過ごすときにのみ、愛が生じます。恐れている精神には愛は生じません―それは何らかの習慣を抱えています、それには共感する何かがあります、それはそれ自身を強いて親切な精神に仕立てます、表面的な思いやりを装います。しかし、恐れは悲しみを生みます、そして、悲しみは思考としての時間です。
 そのように、悲しみを終わらせることは、生きているとき死に触れることです、あなたの名前を死んでやり過ごすことです、あなたの家を死んでやり過ごすことです、あなたの財産を死んでやり過ごすことです、あなたの動機を死んでやり過ごすことです、そうすると、あなたは新鮮です、若いです、明晰です、そして、あなたは物事をいかなる歪みとも無縁に現にある通りに見て取ることができます。それがあなたの死んでやり過ごすときに生じることです。しかし、あなたには身体的に限りのある死があります。我々は、論理的に、健全によく知っています、身体組織が消滅することを。そこで、我々は何らかの生を発明します、つまり、我々は、日常的に、苦悶の、鈍感な生を送ってきていて、様々な問題を、その愚かしさを作り出してきました、それでも我々はそのような生を継続したいと思い、それを我々は“魂”と呼びます―それを我々はこの上なく聖なるもの、神聖な何かの一部であると言います、しかし、それは依然としてあなたの思考の一部であり、従って、それは聖性とは何の関係もありません。それはあなたの生です!
 そこで、あなたは毎日を死んでやり過ごして生きる必要があります―死んでやり過ごすのです、なぜなら、あなたは、そうすると、生に触れるからです。あなたはあなたの毎日の生に触れる必要があります―何か崇高な生ではありません、それは全てナンセンスです―思考のあらゆる活動に触れる必要があります、あらゆる言葉に触れる必要があります、あらゆる感情、苦悶、絶望、孤独、恐れ、悲しみに触れる必要があります、そうすると、あなたの精神は高度に鋭敏になります。しかし、精神が過去を背負っているとき、その感覚は鋭敏になりえません。
 精神がそれ自身を死んでやり過ごすことを知っているときにのみ、愛が生じます。そして、愛は非常にシンプルです。それのみが生の中にハーモニーをもたらします―あなたのあらゆる知的な議論ではありません、あらゆる哲学の類ではありません、神聖な書物あるいは聖なる書物ではありません。それら全てを理解した精神、それを経てきて、一日の一瞬一瞬、それと向き合う精神―そのような精神のみが愛の何であるのかを知ることができます。そして、愛が生じるとき、あなたが何を行おうと、徳が、善きことが、美が生じます。
                ―1964年 12月30日 マドラス
                 1964年 1月22日 マドラス
                 1964年 1月26日 マドラス
                 1964年 1月29日 マドラス
                 1964年 2月2日  マドラス
                 1964年 12月27日 マドラス