クリシュナムルティ 私は、今宵、もし宜しければ、瞑想について話したいと思います。私がそれについて話したいと思うのは、私は、それが生の中で最も重要なことであると感じるからです。
“瞑想”を理解するためには、それを非常に深く検討するためには、最初に、人は、言葉と事実を理解するのでなければなりません。と言うのは、ほとんどの我々が言葉の奴隷だからです。“瞑想”という言葉自体が、ほとんどの人たちの中に、ある種の状態を、ある種の感受性を、ある種の静けさを、何かを成就する欲望を思い起こします。しかし、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。なぜなら、言葉は、シンボルは、名称は―もしそれが余すことなく理解されなければ―ひどい何かで、それは障害物として働き、それは精神を奴隷的な何かにしてしまいます。そして、言葉やシンボルに反応することで、ほとんどの我々は行動を起こします、なぜなら、我々は、事実それ自体に気づかないか、あるいは、それを意識しないからです。我々は、事実に、“現にある通りのこと”に、我々の意見、判断、価値評価、我々の記憶で相対します。そして、我々は決して事実―“現にある通りのこと”―を見て取りません。私は、それが明瞭に理解されるのでなければならないと思います。
あらゆる経験、あらゆる精神の状態、“現にある通りのこと”、実際の事実、実状を理解するためには、人は言葉の奴隷であってはなりません―そして、それは最も難しいことの一つです。その言葉のネイミング、その言葉が、様々な記憶を呼び起こします、そして、それらの記憶が事実に何らかの影響をもたらします、それをコントロールします、それを形作ります、そして、“現にある通りのこと”に何らかの方向性を与えます。そのように、人はこのような混乱に途方もなく気づくのでなければなりません、そして、言葉と実状、“現にある通りのこと”との間に争いが生じないようにするのでなければなりません。そして、それは精神にとって非常に骨の折れる作業です、それには精確さと明瞭性を要します。
明瞭性を欠いては、人は物事を現にある通りに見て取ることができません。物事を現にある通りに見て取る中に途方もない美が生じます―あなたの意見、あなたの判断、あなたの記憶の中ではありません。人は樹木を現にある通りに見て取る必要があります、いかなる混乱とも無縁に、そうする必要があります、同じように、人は夕刻の水面の空を見て取る必要があります―ただ、見て取るのです、言葉とは無縁に、何らかのシンボルや観念そして記憶を呼び起こすことなく、そうする必要があります、その中に、途方もない美が生じます。そして、美は極めて重要です。美は人の周りの物事に対する―自然に対する、人々に対する、観念に対する―何らかの感応、感受性です。そして、もし全く感受性を欠くなら、明瞭性は生じないでしょう、その二つは一緒であり、同義語です。この明瞭性は、もし我々が瞑想とは何かを理解しようとするなら、極めて重要です。
混乱している精神は、何らかの観念、何らかの経験に囚われている精神は、何らかの欲望の衝動に駆られている精神は、争いを生むだけです。そして、瞑想状態にある精神は、言葉に気づくだけではなく、何らかの経験や状態を本能的に言葉にする反応にも気づく必要があります。そして、そのように、何らかの状態や経験を言葉にしてしまうことは―その経験が何であれ、それがどれほど残酷であれ、どれほどリアルであれ、どれほど偽りであれ―正に、それで更なる経験を積もうとする我々の記憶を強化するだけです。
どうか、もし私に指摘させてもらうなら、我々が話していることを理解することは非常に重要です、なぜなら、もしあなたがこのことを理解しないなら、あなたは瞑想の全問題に向き合って話し手と共に歩むことができないからです。
前にも言ったように、瞑想は生の中で最も重要なことの一つです―あるいは、生の中の最も重要なことです。もし瞑想が生きて働いていないなら、思考や精神や頭脳の限界を超えていくことが不可能になります。そして、瞑想のこの問題を検討するためには、最初から、人は徳の基礎を設けるのでなければなりません。私の意味する徳は、社会が押し付けるそれでも、恐れての倫理でも、欲望や嫉妬や何らかの賞罰に関わるそれでもありません。
私は徳のことを、自然に、自発的に、難なく、いかなる葛藤や抵抗とも無縁に、自己知の生じるときに生まれる徳のことを話しています。あなた自身を知ることなしに、あなたが何を行おうと、瞑想の状態は恐らく生じえないでしょう。私が自己知というのは、あらゆる思考、あらゆる気分、あらゆる言葉、あらゆる感情を知ることを意味します、あなたの精神の活動を知ることを意味します―至高の自己や大我を知ることではありません、そのようなものは存在しません、高度の自己やアートマンは依然として思考の領域の中です。思考はあなたの条件づけの産物です、思考はあなたの記憶の反応です―それが先祖伝来のそれであろうと、即席のそれであろうと。そして、最初に、深く、不可逆の、自己知を通して生じるそのような徳を備えることなしに、単に瞑想を試みることは、全くの偽善であり、完全に無用の代物です。
どうか、真剣な人たちにとって、このことを理解することは非常に重要です。なぜなら、もしあなたがそうできないなら、あなたの瞑想と実際の生は離反します、隔絶します―ひどく隔絶しているので、そうすると、あなたは瞑想するかもしれないけれども、何らかの姿勢をいつまでも、一生涯、取り続けるかもしれないけれども、あなたはあなたの“蛸壺”から抜けだすことはないでしょう、そうすると、どのような姿勢をあなたが取ろうと、何をあなたが行おうと、それには何の意味もないでしょう。
そのように、瞑想とは何かを検討しようとする精神は―私は“検討する”という言葉を意図的に使っています―その基礎を設けるのでなければなりません、それは、自然に、自発的に、努力とは無縁に、難なく、自己知が生じるときに生まれます。そしてまた、この自己知が何であるのかを理解することが重要です、ただそれに気づくのです、いかなる選択もせずに、記憶の束がその出自である“私”にただ気づくのです―私は我々のいう気づきが何を意味するのかをこれから検討していきます―ただ、解釈せずに、意識するのです、単に、精神の活動を観察するのです。しかし、そのような観察は、あなたが観察を通じて何かを単に収集蓄積しているとき―何をすべきか、何をすべきではないか、何を成し遂げるべきか、何を成就すべきではないか―もしあなたがそのように行うなら、あなたは自己の精神の活動の生きたプロセスに終止符を打っています。つまり、私は観察する必要があります、そして、事実を、実際の何かを、“現にある通りの何か”を見て取る必要があります。もし私が何らかの観念で、何らかの意見を手にして―“私はそうしてはならない”あるいは“私はそうすべきである”などと、それらは記憶の反応です―それに取り組むなら、そうすると、“現にある通り”の何かが歪められ、阻止されます、従って、学ぶことが生じません。
樹木の中の風を観察するためには、あなたはそれについて何もできません。それは荒々しいそれか、あるいは、優美な、美のそれかなどです。あなたは、観察者は、それをコントロールできません。あなたはそれを形作れません、あなたはこう言えません、“私はそれを私の精神の中に保ちます”と。それはそこに存在します。あなたはそれを思い起こすかもしれません。しかし、もしあなたがそれを記憶して、その樹木の中の風を、次にあなたがその樹木を見て、思い起こすなら、あなたは樹木の中の風の自然な流れを見ていなくて、ただ、あなたは過去の風の活動を思い出しているだけです。従って、あなたは学んでいません、あなたはただあなたがすでに知っていることに何かを追加しているだけです。そのように、知識は、ある次元で、未来の何かに対する障害になります。
私は、このことが非常に明瞭であることを願います。なぜなら、我々がこれから検討しようとしていることは、完全に明瞭で、いかなる認識活動とも無縁に見ることが、見て取ることが、耳を傾けることができる精神を必要とするからです。
そのように、人は、最初に、非常に明瞭でなければなりません、混乱していてはなりません。明瞭であることがとても重要です。私が明瞭と言うのは、物事を現にある通りに見て取ることを意味します、“現にある通り”のことを、いかなる意見も持ち出さずに見て取ることです、あなたの精神の活動を見て取ることです、それを非常に間近に、詳細に、精力的に、いかなる目的も持たずに、いかなる方向性も加えずに観察することです。ただ観察するためには、驚くべき明瞭性を必要とします、そうでないと、あなたは観察できません。もしあなたが、動き回っていて、あらゆる活動をしている蟻を観察するなら―もしあなたが、その蟻に関する様々な生物的事実を持ち出して、その蟻に向き合うなら、その知識があなたの見ることを妨げます。そのように、あなたは知識が必要なところと知識が障害になるところを自発的に見て取り始めます。そうすると、混乱が生じません。
精神が明瞭で、精確で、深く、根本的に、論理的にとらえることができると、それは否定の状態の中にいます。ほとんどの我々は物事を安易に受け入れます、我々はとても騙されやすいのです、なぜなら、我々は慰安を願うからです、我々は安心を欲するからです、我々は希望をもたらす感覚を追い求めるからです、我々は誰かが我々を救うのを願うからです―何らかの達人、救世主、グル、賢者、あなたはそれら全てのドタバタ劇を知っています! 我々は容易く、安易に受け入れます、そして、同様に、安易に、我々は、我々の精神の風向き次第で否定します。
そのように、“明瞭性”は、物事を、人自身を介さずに、現にある通りに見て取るという意味です。なぜなら、人自身が世界の一部だからです。人自身が世界の活動です。人自身は人の内面的な働きの外面的な表現です―それは潮の満ち引きと同じです。単に、世界とは別のこととして、あなた自身に精神集中することは、あるいは、あなた自身を観察することは、あなたを孤立させます、そして、それは様々な形の特異性、神経症、孤立する恐れなどに行き着きます。しかし、もしあなたが世界を観察して、世界の動きに付いて行き、そして、その内面の働きの波に乗るなら、そうすると、あなたと世界との間の分断は無くなります、そうすると、あなたは何らかの集団と対立している個人ではなくなります。
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欧米=中東的知性及びその東洋的亜流の凄惨な終焉とは何でしょうか?
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そして、そのように観察する感覚が生じるのでなければなりません、それは探究的―それは探究です―であるとともに、観察しています、耳を傾けています、そして、気づいています。私は“観察している”という言葉をそのような意味で使っています。観察という行為が正に探究する行為です。あなたはあなたが自由でないなら探究できません。従って、探究するためには、観察するためには、明瞭性が生じるのでなければなりません、あなた自身の中を深く探究するためには、あなたはそのことにいつでも新鮮に向き合うのでなければなりません。つまり、その探究の中で、あなたは決して何らかの結果を手にしていません、あなたは決して階段を上ってきてはいません、そして、あなたは決してこう言いません、“はい、私は分かりました”と。階段というものはありません。もしあなたがそれを上ろうとしているなら、あなたは直ぐにそれを降りるのでなければなりません、そうすると、あなたの精神は、観察することに、見守ることに、耳を傾けることに途轍もなく鋭敏になります。
そして、この観察することから、耳を傾けることから、見て取ることから、あの徳の途方もない美が生まれます。自己知による以外にいかなる他の徳もありません。そうすると、そのような徳は生き生きとしていて、精力的であり、活動的です―あなたが培う死んだ何かではありません。そして、それが基礎でなければなりません。つまり、瞑想の基礎は、観察、明瞭性そして徳です、我々の言う意味の徳です―あなたが、毎日毎日、育てられている何かを、徳と称してきているそれではありません、それは単なる何らかの抵抗です。
そうすると、我々は、そこから、いわゆる祈り、何らかの言葉やマントラの読誦、部屋の片隅に座ること、そして、あなたの精神を何らかの対象に、何らかの言葉に、何らかのシンボルに釘付けにすること―それは意図的な瞑想です―の意味することを見て取ることができます。どうか、注意深く耳を傾けてください。意図的に何らかの姿勢を取ること、あるいは、瞑想するために何かを意図的に、意識的に実践することは、あなたがあなた自身の欲望やあなた自身の条件づけの領域で弄んでいることを意味するだけです、従って、それは瞑想ではありません。人は、もし人が観察するなら、非常によく見て取ることができます、瞑想するそれらの人々はあらゆる種類のイメージを手にしていると、その人たちは、クリシュナ、キリスト、ブッダを見て考えます、自分たちは何かを手にしていると―キリスト教徒がキリストを見るように―そのような現象は非常にシンプルです、非常に明瞭です、それは、その人自身の条件づけの、その人自身の恐れの、その人自身の希望の、その人自身の安心願望の表出です。キリスト教徒は、あなたがラマやあなたのお気に入りの神を―それが何であれ―見るように、キリストを見ます。
そして、それらのビジョンには特筆すべき何ものもありません。それらはあなたの無意識の産物であり、それは恐れの中で条件づけられてきた、仕込まれてきた何かです。あなたが少し鎮まると、それは、そのイメージ、シンボル、観念で、ひょいと顔を出します。そのように、ビジョン、トランス、イメージそして観念には全く何の価値もありません。それは人が何らかのマントラや文句や名前を繰り返し、繰り返し唱えるようなものです。あなたが何らかの名前を繰り返し、繰り返し唱えると、何が起こるのかは明らかです、つまり、あなたは精神を怠惰なそれにしてしまいます、愚かなそれにしてしまいます、そして、その愚行の中で、それは鎮まります。あなたには何らかの薬物を使って精神を鎮めることも同様に可能です―そして、そのような薬物が存在します―そして、そのような鎮まった状態の中で、そのように薬物を使った状態の中で、あなたは何らかのビジョンを手にします。それらは明らかにあなたの社会の産物です、あなた自身の文化の、あなた自身の希望や恐れの産物です、それらは真実とは何の関係性もありません。
祈りというのも同様です。祈る人は自分の手を他の人のポケットに入れているようなものです。ビジネスマン、政治家そして競争社会の全てが平和を祈ります、しかし、それらは戦争を引き起こすために、憎悪や敵対意識を引き出すためにあらゆることを行っています―それには全く意味がありません、それには全く合理性がありません。あなたの祈りは何らかの懇願であり、請うに値しないあなたが何かを請うことです―なぜなら、あなたは生きていないからです、あなたは徳の人ではないからです。そして、あなたは平和的な何かを、偉大な何かを、あなたの生を豊かにするために願います、しかし、あなたは破壊するその反対のあらゆることを行います、つまり、あなたは卑しい、取るに足らない、愚かな何かになります。
そのように、祈りやビジョン、あるいは、部屋の隅に背筋を伸ばして座り、いわゆる正しい呼吸などをして、そのような精神で事に当たるというのは、とても未熟な何かで、それはままごとの類です、それらは、本当に瞑想とは何かの全き意義を理解したいと思う人にとっては、全く意味をなしません。そのように、瞑想とは何かを理解しようとする人は、それら全てを完全に脇へ除けます、その人がたとえそれで職を失っても、その人は職を得るために取るに足らない神に即座にすがったりはしません―しかし、それがあなたがた全ての弄ぶゲームです。何らかの悲しみ、混乱が生じるとき、あなたは寺院に足を運びます、そうして、あなたは自分自身を宗教的であると称します! それら全てが、完全に、余すことなく、脇へ除けられるのでなければなりません、そうすると、それらはあなたに接触しまません。もしあなたがそのようにしているなら、そうすると、我々は瞑想とは何かというこの全き問いに進むことができます。
あなたは観察するのでなければなりません、明瞭でなければなりません、自己知の状態にあるのでなければなりません、それゆえに、徳の人であるのでなければなりません。徳はいつでも善き何かの中に開花している何かです、あなたは間違いを犯すかもしれません、何か醜いことを行うかもしれません、しかし、それらは済んだことです、あなたは活動しています、善き何かの中で開花しています、なぜなら、あなたは自分自身を知っているからです。そのような基礎を敷いているので、そうすると、あなたは、祈り、言葉のつぶやき、そして、何らかの姿勢を取ることなどを脇へ除けることができます。そうすると、あなたは経験とは何かを探究し始めることができます。
経験とは何かを理解することは非常に重要です、なぜなら、我々はみな何らかの経験を欲するからです。我々は毎日何かを経験しています―会社へ行きます、喧嘩をします、嫉妬します、妬みます、残酷になります、競います、性的になります。生の中で、我々はあらゆる種類の経験をします、毎日毎日、意識的にも無意識的にも。そして、我々は我々の生の上っ面を生きています、美を欠き、何の深みもなく、オリジナルな、稚き無垢の、明瞭な我々自身の何ものもなく、我々はみな二番煎じの人間です、他の人たちの言葉を引き合いに出して、他の人たちに従っている、空疎な“蛸壺”です。そして、当然にも、我々は日常の経験の他にもっと経験を欲します。そのように、我々はそのような経験を、瞑想を通じて、あるいは、何らかの最新の薬物を通じて追い求めます。LSD25はそれら最新の薬物の一つです、あなたがそれを試みるや否や、あなたはあなたが“即席の神秘体験”を経験していると感じます―私がそれを試したということではありません。(笑)
我々は真剣に話しています。あなたは少しの挑発でも単に笑うだけです、従って、あなたは真剣ではありません、あなたは一歩一歩それを検討していません、あなた自身を見守っていません、あなたはただ言葉に耳を傾けているだけです、言葉に運ばれているだけです―そのことを私はトークの始めにあなたに警告しました。
そのように、それらの薬物があり、それらがあなたに意識の拡大をもたらします、あなたを、一時、高度に敏感にします。そして、そのように感受性が高まった状態の中で、あなたは物事を見ます、つまり、樹木が、殊の外、驚くほど生き生きとなります、輝いて、計り知れなく明瞭になります、あるいは、もしあなたが宗教的な何かに傾いている人なら、あなたは、そのような感受性の高まった状態の中で、途方もなく平和な光の感覚を手にします、あなたと観察されているその当のものとの間にはいかなる違いもありません、あなたがそれです、そして、全宇宙はあなたの一部です。そして、あなたはそれらの薬物を渇望します、なぜなら、あなたは更なる経験を、より広い、より深い経験を欲するからです、何らかの経験があなたに何らかの生の意義をもたらすことを願うからです、そのように、あなたは何かに依存し始めます。それでも、あなたがそれらの経験を手にするとき、あなたは依然として思考の領域の中です、既知の領域の中です。
そのように、あなたは経験を理解する必要があります―つまり、何らかの挑戦に対する反応です、それが何らかの反応になります、そして、その反応があなたの思考を、あなたの感情を、あなたの存在を形成します。そして、あなたは更に更に経験を加えます、あなたは更に更に経験を積んでいると考えます。それらの経験の記憶が明瞭になればなるほど、あなたは前にも増して知っていると考えます。しかし、もしあなたが観察するなら、あなたは分かるでしょう、あなたが更に知れば知るほど、あなたが更に浅薄になることを、更に空疎になることを。より空疎になると、あなたは更なる経験を、より広く欲します。そのように、あなたは、私がこれまで言ってきたことの全てだけではなく、経験へのその途方もない欲求をも理解する必要があります。そうすると、我々は歩を進めることができます。
何らかの経験を追い求める精神は、依然として、時間の領域の中です、既知の領域の中です、自分自身が思い描いた欲望の領域の中です。私がトークの最初に言ったように、意図的な瞑想は幻想に行き着くだけです。しかし、それでも、何らかの“瞑想”が働いているのでなければなりません。意図的に瞑想することは、様々な形の自己催眠に、あなた自身の欲望によって、あなた自身の条件づけから思い描かれた様々な形の経験にあなたを導くだけです、そして、それらの条件づけ、それらの欲望が、あなたの精神を形成します、あなたの思考をコントロールします。そのように、瞑想の深い意義を本当に理解しようとする人は、経験の意義を理解するのでなければなりません、そしてまた、その人の精神は、何かを追い求めることから解放されていなければなりません。それは非常に難しいことです。そのことをこれから検討していこうと思います。
それら全てを、自然に、自発的に、難なく、基礎として敷くと、そうすると、我々は思考をコントロールすることが何を意味するのかを明らかにするのでなければなりません。なぜなら、それがあなたの追い求めていることだからです、あなたが更に思考をコントロールできればできるほど、あなたは、あなたの瞑想が更に進化してきていると考えるからです。私には、あらゆる形の―身体的、心理的、知的、情動的―コントロールも障害になります。どうか、注意深く耳を傾けてください。言わないでください、“それでは、私は好き勝手に行う”と、私はそう言っていません。コントロールは、従属、抑圧、順応を意味します、思考を何らかのパターンに沿って形成することを意味します―それは、そのパターンが、真実の何であるのかの発見よりも重要であることを意味しています。そのように、コントロールは、どのような形であれ―それは何らかの抵抗、抑圧、あるいは、何らかの形の純化であり―精神を、益々、過去に従って、あなたが育てられてきた条件づけに沿って、何らかの社会集団に従うなどして形成します。
瞑想が何であるのかを理解することが重要です。宜しいでしょうか、どうか、注意深く耳を傾けてください。私は知りません、あなたがこれまでこの種の瞑想を行ってきているのかどうかを、恐らく、あなたはそうしてきていません。しかし、あなたは、今、私とそれを行おうとしています。我々は一緒に歩もうとしています、言葉でではなく、実際に、です、言葉によるコミュニケーションが潰えるその正に先にまで行くのです。つまり、それはその扉の前まで一緒に行くようなものです、そうして、あなたはその扉を通り抜けるのか、それとも、あなたはその扉の手前で立ち止まるのか、ということです。あなたはその扉の前で立ち止まります、もしあなたが、指摘されているあらゆることを、実際に、事実として、行っていないなら―話し手がそう言うからではなく、それが、健全で、健康的で、合理的で、それがあらゆるテストに、あらゆる検討に耐えるからです。
そのように、今、一緒に、我々は瞑想しようと思います―意図的に瞑想するのではありません、なぜなら、それはすでに消滅しているからです。それは窓を開けておくようなものです、そうすると、空気が自由に入って来ます―その空気が何であれ、そのそよ風が何であれ。しかし、もしあなたが何かを期待して、あなたがわざわざ窓を開け、そのそよ風の入ってくるのを待つなら、それは決して入って来ません。そのように、それは、愛から、愛情から、自由から、開け放たれるのでなければなりません―あなたが何かを願うからではありません。そして、それが美の状態です、それが、見て取って要求しない精神の状態です。
気づくことは途方もない精神の状態です―あなたの周りに、樹木たちに、囀っている鳥に、あなたの背後の夕日に気づくことです、人々の表情、笑顔に気づくことです、路上の汚れに気づくことです、大地の美に、赤い夕陽を背にしたヤシの木に、川のさざ波に気づくことです―ただ気づくのです、いかなる選択もせずにそうすることです。どうか、あなたが通りを歩くとき、そうしてください。それらの鳥たちに耳を傾けてください、鳥の名を言わないでください、それらがどの種に属するのかを考えたりしないで、ただ耳を傾けてください、ただその鳴き声に耳を傾けてください。あなた自身の思考の働きに耳を傾けてください、それらをコントロールしないでください、それらを形成しないでください、こう言わないでください、“これは正しい、それは間違っている”と、ただそれらの働きに付いていってください。それが気づきです、その中にはいかなる選択も、いかなる非難も、いかなる判断も、いかなる比較あるいは解釈も生じません、ただ観察しているだけです。それがあなたの精神を高度に鋭敏にします。あなたが鳥の名前を言うや否や、あなたは後退しています、あなたの精神は鈍くなります、なぜなら、それがあなたの習い性だからです。
そのような気づきの中に、気を付けることが生じます―コントロールではありません、精神集中ではありません。気を付けることが生じます―つまり、あなたは鳥たちに耳を傾けています、あなたは夕日を見ています、あなたは樹木たちの静けさを見ています、あなたは通り過ぎる車の音を聞いています、あなたは話し手の言うことを聴いていて、あなたはそれらの言葉の意味に気を付けています、あなたはあなた自身の思考や感情に気を付けています、そして、そのように気を付けている中のその活動に気を付けています。あなたは包括的に気を付けています、何らかの境界を設けずに、意識的にも無意識的もそうしています。無意識的なものが更に重要です、従って、あなたは無意識的なものを検討する必要があります。
私は“無意識”という言葉を技術的な用語あるいは何らかのテクニックとして使っていません。私はそれを心理学者がそれを使う意味で使っていません、そうではなく、あなたが意識していないそれとして使っています。なぜなら、ほとんどの我々は精神の上っ面を生きているからです、つまり、会社へ行きます、知識や何らかの技術を獲得します、喧嘩をすることなどです。我々は決して我々の存在の深みに気を付けません、そのことは我々の社会の産物です、我々の人種的残滓の産物です、あらゆる過去の産物です―人間としてのあなたのそれだけではなく、人間自体のそれでもあります、人間自体の不安のそれでもあります。あなたが寝入るとき、それら全てが夢としてそれら自身を描出します、そうすると、それらの夢の解釈が生じます。それらの夢は、目覚めている人にとっては、気を抜かずにいる人にとっては、見守っている人にとっては、耳を傾けている人にとっては、気づく人にとっては、気を付けている人にとっては、全く必要ではありません。
宜しいでしょうか、そのように気を付けるには途轍もないエネルギーを要します、つまり、それは、あなたが何らかの実践を通して収集してきているエネルギーではありません、独身でいることなどその他の全ての類です―それらは全て欲望のエネルギーです。私は自己知のエネルギーのことを話しています。なぜなら、あなたは正しい基礎を敷いているので、そこから気を付けるエネルギーが生じます、その中には、精神集中の感覚はありません。
精神集中は排除です―あなたはあの音楽に耳を傾けていたいと思います、そして、あなたは話し手の言っていることも聞きたいと思います、そうすると、あなたはあの音楽に抵抗して、話し手に耳を傾けようとします、そうすると、あなたは、本当は、完全に気を付けていません。あなたのエネルギーの一部があの音楽に抵抗していて、そして、その他の一部が耳を傾けようとしています、従って、あなたは余すことなく耳を傾けていません、従って、あなたは気を付けていません。そのように、もしあなたが精神集中するなら、あなたは単に抵抗していて、排除しています。しかし、気を付けている精神は精神集中できて、そして、排除的ではありません。
そのように、この気を付けていることから穏やかな頭脳が生じます、頭脳細胞それ自身が穏やかです―穏やかにされるのではありません、そのように律せられるのではありません、強いられるのではありません、無理やりそのように条件づけられるのではありません。しかし、そのように余すことなく気を付けることが生じるので、自然に、自発的に、努力とは無縁に、難なく、生じるので、頭脳細胞は歪められません、頑なになりません、粗野になりません、暴虐になりません。私はあなたが付いてきていることを願います。もし頭脳細胞自身が驚くほど鋭敏でないなら、気を抜いているなら、活力的でないなら―頭脳細胞自身が頑なになっているなら、打ちのめされているなら、オーバーワークになっているなら、何らかの知識分野に特化しているなら―それらが途方もなく鋭敏でないなら、それらは穏やかになりえません。そのように、頭脳は穏やかでなければなりません、それでも、それはあらゆる反応に鋭敏でなければなりません、あらゆる音楽に、ノイズに、鳥たちに気づくのでなければなりません、それらの言葉を聴くのでなければなりません、夕日を、いかなるプレッシャー、いかなるストレス、いかなる影響とも無縁に見守るのでなければなりません。頭脳は非常に穏やかでなければなりません、なぜなら、穏やかさを欠くと―それはそのように誘導されるのではありません、技巧的にもたらされるのではありません―明瞭性を全く欠きます。
そして、明瞭性は空間が存在するときにのみ生じえます。そして、あなたは、頭脳が絶対的な穏やかさで、それでも、高度に鋭敏で、死んでいない瞬間に、正に空間に触れます。そして、それが、それを、あなたが、一日を通して行うことの非常に重要な理由です。頭脳は、環境によって、社会によって、あなたの仕事やその専門性によって、あなたの三十年あるいは四十年の会社勤めの身を粉にしてきた残虐性によって、蹂躙されています―それら全てが頭脳の途方もない感受性を破壊します。そして、頭脳は鎮まるのでなければなりません。そうすると、そこから、全精神が―頭脳を含みます―完全に鎮まることができます。そのような鎮まった精神はもはや探し求めたりしません、それは何らかの経験を期待したりしません、それはいかなることも全く経験していません。
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死者とは何でしょうか?
死者を弔うとは何でしょうか?
死霊=生霊の意識に水を遣り、香を焚き、花を生け、鉦を響かせるのは何でしょうか?
空間の美と愛とは何でしょうか?
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私はあなたがこれら全てを理解していることを願います。恐らく、あなたはそうしていません―それは問題ではありません! ただ耳を傾けてください。私に催眠を掛けられないでください、そうではなく、このことの真理に耳を傾けてください。そして、恐らく、そうすると、あなたが通りを歩いているとき、バスの座席に座っているとき、川の流れや稲の豊かな緑を見守っているとき、このことが知らず知らずのうちに訪れるでしょう、大地の遠くからの吐息のように。
そうすると、精神は完全に鎮まります、いかなる形のプレッシャー、強制とも無縁に。この静けさは思考によってもたらされたものではありません、なぜなら、思考は終了していて、思考の全装置が止んでいるからです。思考は止むのでなければなりません、そうでないと、思考は更なるイメージ、更なる観念、更なる幻想を作り出すからです―更に、更に、更に。従って、あなたは思考の全メカニズムを理解する必要があります―思考を止める方法ではありません。もしあなたが思考の全メカニズムを理解するなら―それは、記憶、連想そして認識、ネイミング、比較すること、判断することです―もしあなたがそれを理解するなら、自然に、それは止みます。精神が完全に鎮まるとき、そうすると、その鎮まりから、その静けさの中に、全く異なる働きが生じます。
そのような働きは、思考によって、社会によって、あなたが読んできた、あるいは、読んでこなかった書物によって作り出されたそれではありません。そのような働きは時間を出自としていません、経験を出自としていません、なぜなら、そのような働きは経験とは無縁だからです。鎮まった精神は経験とは無縁です。赤々と輝いている、強烈な光は、それ以上の何かを要求しません、それはそれ自体にとっての光です。そのような働きは何らかの方向性をもつ活動ではありません、なぜなら、方向性は時間を意味するからです。そのような働きには原因はありません、なぜなら、何らかの原因で生じるいかなるものも何らかの結果をもたらすからです、そして、その結果が新たな原因となるなどです―因果関係の尽きない連鎖です、結果が原因となります。そのように、いかなる結果も、いかなる原因も、いかなる動機も、いかなる経験する感覚も全く生じません。そのように、精神が完全に鎮まっているので、自然に鎮まっているので、あなたがその基礎を敷いているので、それは直に生と関わります、それは日常の生と断絶していません。
そうすると、もし精神がそこまで歩を進めているなら、その働きは創造です。そうすると、表現する不安は全く生じません、なぜなら、創造する状態の精神は表現するかもしれないし、表現しないかもしれないからです。そのような完全な沈黙の中の精神の状態は―それは働きます、それはそれ自身不可知の中で、名付けようのない何かの中で働きます。
そのように、あなたが行う瞑想は我々が話している瞑想ではありません。この瞑想は永遠から永遠へのそれです、なぜなら、あなたはその基礎を、時間の上にではなく、真実の上に敷いたからです。
―1964年 1月29日 マドラス
1964年 1月22日 マドラス
1964年 1月26日 マドラス
1964年 2月2日 マドラス
1964年 12月27日 マドラス
1964年 12月30日 マドラス