クリシュナムルティ 私には思われます、我々一人ひとりに突き付けられている大きな問題の一つが、強い感情の全くの喪失が我々にはあるということです。我々には、我々の活動についての何らかの情動的で、持続的な高揚感があります―なされるべきことやなすべきではないことです。そして、我々は、本当は重要では全くないことについてかなり熱心です。しかし、私には思われます、我々には熱気の欠如があると―それは何らかの目的の成就のためではない熱気のことです、何かの獲得のためではない熱気のことです。私は、強烈な、強い感情のことを話しています。
ほとんどの我々は取るに足らない精神の持ち主です―それは狭い“蛸壺”の中に閉じこもっている、小さい、狭量な精神です―もし、何らかのアクシデントが起きなければ、それは非常にスムーズにやり過ごします、そして、何らかのトラブルが起こっても、その後に、それはまた別のルーティンに復帰します。取るに足らない精神は問題に向き合うことができません。それは数知れない問題を抱えます、それは生きてゆく上での問題の全てです。そして、それは、生の途方もなく意義深いそれらの問題を、常に、それ自身の取るに足らない、狭い、限られた理解の中で解釈して、その存在の途轍もない流れを、その生の流れを、それ自身の取るに足らない、狭い“蛸壺”の中に封じ込めようとします。そして、それが、我々の、今―恐らく、絶えず―目の当たりにしていることです。そして、それは、益々、我々の今の姿を現しています、というのも、今、我々には難問が山積していて、同じ強度の、同じ強さの、同じ生き生きとした対応が我々に要請されているからです。
この熱気は、あなたが容易に何らかの薬物で、あるいは、何らかの理想などの催眠的な状態に入って培われるものではありません。この熱気は自然に訪れます―そうでなければなりません。私は“熱気”という言葉を意図的に使っています。ほとんどの我々にとって、熱気は一つのことに関してのみ当てはまります、セックスです、あるいは、あなたが激しく苦しんで、その苦しみを解決しようとするときです。しかし、私は“熱気”という言葉を何らかの精神の状態、存在の状態、あなたの内面的な核の状態―もしそういうものがあるなら―という意味で使っていて、それは非常に強く感じる何かのことであり、高度な感受性のことです―汚れに対する、汚穢に対する、貧困に対する、そして、途轍もない富裕や腐敗に対する、樹木や鳥や水流の美に対する、そして、夕空を映している池に対するそれです。それら全てに、強烈に、強く感じる必要性のことを言っています。なぜなら、そのような熱気を欠くと、生は、虚しい、底の浅い、そして、大して意味のない何かになるからです。もしあなたが樹木の美を見て取って、その樹木を愛せないなら、もしあなたがそれに強く気を配ることができないなら、あなたは生きていません。私は“あなたは生きていません”という言い方を意図的にしています、なぜなら、この国では、恐らく、いわゆる宗教が美から全くかけ離れている代物だからです。
この生の途方もない美への感受性を欠くと、顔の、建物の線の、樹木の形の、飛ぶ鳥や朝鳥の囀る美への感受性を欠くと―もし人がそれら全てに気づかないなら、もし人がそれら全てを強く感じないなら、明らかに、生は―それは協同と関係性です―全く意味をなしません、そうすると、人は単に機械的に機能するだけです。そこで、私はそのことを、今宵、話したいと思います。
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国家の巨大歯車に組み込まれて機能する“あなた”と“私”の“肉歯車”とは何でしょうか?
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この熱気は何かへの献身や感傷ではありません、それは何らかの感覚とは何の関係もありません。熱気に何らかの動機があるや否や、あるいは、何らかの動機から生じたものなら、あるいは、何かのためのものなら、それは快楽と苦痛になります。どうか、このことを見て取ってください、私はそれを事細かく検討する必要はありません、なぜなら、私はこのことを更に検討したいと思うからです。もし熱気が性的に引き起こされるなら、あるいは、何らかの目的で生じるなら、もし熱気に何らかの原因があるなら、もしそれに目的があるなら、そうすると、そのいわゆる熱気の中にフラストレーションが生じます、苦痛が生じます、あるいは、快楽の持続が求められます、従って、それを維持できない恐れが生じて、苦痛から逃れようとする欲求が生じます。そのように、何らかの動機をもつ熱気は、あるいは、何かによって引き起こされる熱気は、常に、絶望、苦痛、フラストレーション、不安などに行き着きます。
我々は動機をもたない熱気について話しています―それは全く異なる何かです。それが存在するのかしないのかはあなたが明らかにすることです、しかし、我々は引き起こされた熱気が、絶望に、不安に、苦痛に行き着くのを知っています、あるいは、何らかの形の快楽の追求に向かうのを知っています。そして、その中には、何らかの争いが生じます、矛盾が生じます、何らかの絶え間のない追求が生じます。我々は動機とは無縁の熱気のことを話しています。そのような熱気があります。それは個人的な得失とは何の関係もありません、あるいは、何らかの快楽の取るに足らない追求や苦痛の回避とは何の関係もありません。そのような熱気なしに、あなたは、恐らく、協同して働くことはできません、そして、協同することは生であり、正に関係性です。そのような協同は何らかの観念のためではありません、あなたは、国家があなたを促すから協同するのではありません、あなたは、何らかの報酬のために、何らかの罰を避けるために、何らかの経済的な理想やユートピアの達成のために協同するのではありません、あなたは何らかの理想を目指して一緒に働こうと協同しているのではありません―それら全ては、我々にとって、協同に値するものではありません。
私は協同する精神のことを話しています。もし我々が協同しないなら、関係性はありえません。生は、あなたと私が協同することを、一緒にことをなすことを、一緒に働くことを、一緒に感じることを、一緒に生きることを、一緒にものを見て取ることを要請します。そして、この“一緒”というのは、同じ時間を共有して、同じ強度で、同じ次元でなければなりません、そうでなければ、一緒ということはありえません。そして、もし人がこのひどく悲しい、破壊的な世界を、愈々、観察すると、精神が機械的になっています、ルーティンで縛られています、技術的に、機械的に、狭い“蛸壺”の中に“肉歯車”として閉じ込められています。従って、徐々に、感受性が、あらゆるものに強く感じることが希薄になっていきます。そして、もしあなたが強く感じることができないなら、明らかに、精神は鈍感になります、鈍くなります、恐れを抱くなどその他の全てになります。
そのように、我々が話している熱気は何らかの存在の状態です。それは本当に途方もない何かです、もしあなたがそれを検討するなら、それには苦しみの影は微塵も射しません、それは自己憐憫とは無縁です、それには恐れの感覚はありません。そして、そのことを理解するためには、我々は欲望を理解するのでなければなりません。とりわけ、何らかの宗教的観念に基づいて育てられてきた全ての人たちは、あるいは、一見して、いわゆる宗教が重要な部分を担っている社会の賞罰に基づいて育てられてきた全ての人たちは、こう考えます、つまり、その人たちが神と称するものに気づくためには、精神は欲望とは無縁でなければならないと、その人たちは、そうして、そのように欲望を切り離すことが、欲望とは無縁でいることが、何よりも重要なことの一つであると考えます。恐らく、あなたはそのことについて語る全ての書物を知っています、つまり、全ての二行連句などその他の全ての類です。我々はあらゆる熱気を首尾よく死んでやり過ごしてきました、一つの方向を除いて―性的なそれです。そして、我々は欲望を手なずけてきました。社会、宗教、一緒に生きること―我々は、それら全てから、活力のないものを作り出しました、なぜなら、我々はこういう考えを抱くからです、つまり、人は、存在は、当の人間は、それが強烈な欲望が煮えたぎっている強い感情を抱えると、恐らく、いわゆる神と称されるものを理解できないと。
欲望のどこが悪いのでしょうか? あなた方はみなそれをもっています、非常に強いそれであろうと、あるいは、弱い、鈍いそれであろうと、誰もが何らかの欲望をもっています。それのどこが悪いのでしょうか? なぜ我々はそれほど安易に欲望を従属させたり、破壊したり、捻じ曲げたり、抑圧したりすることに同意するのでしょうか? なぜなら、見たところ、欲望は争いをもたらすからです―富を得る欲望、何らかの立場に就く欲望、名をはせる欲望などその他の全てです。そして、名をはせること、財産を得ること、非常に強く感じることは、争いや騒動を意味します、そして、我々は掻き乱されたくはないのです。それが我々の、本質的に、深く追い求めている全てです―掻き乱されないことです。しかし、我々が掻き乱されるとき、我々はその出口を見つけようとします、そして、何ものも我々を掻き乱さない安楽な状態にいようと努めます。
そのように、我々にとって、欲望は心乱すものです。どうか、このことに付いてきてください。それらは全て心理的な事実です―それはあなたがそれを受け入れるのか、それとも、それを受け入れないのか、あなたが同意するのか、それとも、同意しないのかの問題ではありません。それらは事実です、私の事実ではありません。欲望は、そうすると、コントロールされなければならないものに、抑えられなければならないものになります、そうして、我々の努力は全てそこに向かいます、つまり、何としても、我々は心乱されないことです、そして、我々を掻き乱すものは何でも抑圧されるのでなければなりません、骨抜きにされるのでなければなりません、あるいは、脇へ除けられねばなりません。
どうか、我々が、先日、言ったように、我々がいつもトークで繰り返して言うように、重要なことは、言葉を聞くことではなく、実際に、耳を傾けることです。耳を傾けることの中に大いなる美があります。夕方、窓の外に、一羽の鳥がいました、カワセミです。それは大きな嘴をしていて、羽が鮮やかな青色でした。それは鳴いていて、同じ別のカワセミが、遠くで応えていました。ただそれに耳を傾けるのです、こう言わないのです、“あれはカワセミだ”、“何て美しいのか!”と、あるいは、“何て醜いのか!”“あのカラスは鳴くのを止めてほしい!”と―私は知りません、あなたがそのような精神の状態で耳を傾けたことがあるのかどうかを。ただ耳を傾けています、そこには何の得るものもありません、そこにはいかなる有益な目的もありません、そのときあなたは何も獲得していません、そのときあなたは何も避けていません。ただ、夕日を見ています、あの夕刻の輝かしい茜色を、あの明瞭な金星を、そして、若い月の曲片を―ただそれを見ています、そして、それを非常に強く感じています。
そして、もしあなたがそのような気持ちで、楽に、いかなる緊張もしないで、耳を傾けるなら、そうすると、その正に耳を傾けることが奇跡です。それは奇跡です、なぜなら、そのような行為の中に、そのような瞬間に、あなたは耳を傾けること、理解すること、見て取ることの全ての行為を理解するからです、そして、あなたは様々な壁を打ち破っています、そして、あなたと世界とあなたが耳を傾けているものとの間に空間が生まれます。そして、あなたは、この空間を、観察するために、見て取るために、耳を傾けるために、手にするのでなければなりません、その空間が広ければ広いほど、深ければ深いほど、美がより強く、より深くなります。あなたとあなたが耳を傾けているものとの間にこの空間が生まれるとき、異なる質が生じます。
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死者とは何でしょうか?
死者を弔うとは何でしょうか?
死霊=生霊の意識に水を遣り、香を焚き、花を生け、鉦を響かせるのは何でしょうか?
空間の美と愛とは何でしょうか?
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私は、詩的に、感傷的あるいはロマンチックになっているのではありません。しかし、我々はどのように耳を傾けるのかを知りません、ただ耳を傾けるのです―あなたの妻に、あるいは、あなたの夫に、小言を言っている、あるいは、喧嘩をしている、あるいは、怒っている、何らかのいじめをしている人です。もしあなたがただ耳を傾けるなら、あなたは多くを理解します、そうすると、天地が大きく開きます。時々、そうしてください、それを試みるのではありません、そうではなく、そうするのです、そうすると、あなたは自分自身で明らかにするでしょう。
同じように、私はあなたが耳を傾けていることを願います。なぜなら、我々が話していることは単なる言葉を超えている何かだからです。言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。“熱気”という言葉は熱気ではありません。それを感じることです、いかなる意志や方向性や目的とも無縁にそう感じることです、その欲望と称されるものに耳を傾けることです、あなたがもつあなた自身の欲望に、多くのそれらに、弱かろうと強かろうと、それらに耳を傾けることです―あなたがそうするとき、あなたは、あなたが欲望を抑圧するとき、あなたがそれを歪めるとき、あなたがそれを成し遂げたいと思うとき、あなたがそれについて何かを行いたいと思うとき、あなたがそれについて何らかの意見をもつとき、あなたが途轍もないダメージをもたらすのを見て取るでしょう。
多くの人々がこの熱気を失っています。恐らく、人は青年期にそれをかつて手にしたことがあります、金持ちになること、有名になることやブルジョア生活、あるいは、期待される人間像です、恐らく、そのように何となくつぶやきました。そして、社会が―それは現にある通りのあなたです―それを抑圧します。そのように、人は自分自身を死んでいるあなたに、期待される人間像のあなたに、熱気のかけらも生じないあなたに順応する必要があります、そうすることで、人はそういうあなたの一部になります、従って、この熱気を失います。
この欲望の全問題を理解するために、我々は努力するということを理解するのでなければなりません。なぜなら、我々が学校に上がってから我々が死ぬまで、我々は努力しているからです、我々の精神、我々のハートは戦場だからです。決して、休まる、楽になる、自由になる瞬間がありません、我々はいつも戦っています、励んでいます、何かを押し進めています、収集しています、避けています、収集蓄積しています―それが我々の生です! 私は起こっていない何かを表現していません。我々の生は絶え間ない努力の連続です。私は知りません、あなたが気づいていないかどうかを、あなたが努力をしないとき―それはあなたが沈滞することを意味しません、それはあなたが寝入ることを意味しません―あなたの全存在が努力とは無縁のとき、そうすると、あなたは、物事を非常に明瞭に、非常に鋭く、何らかの活気をもって、何らかのエネルギーで、何らかの熱気で見て取ります。
そして、我々は、我々が二つかそれ以上の相反する欲望によって駆り立てられるので何らかの努力をします。我々は一つの欲望を別の欲望によって対立させます、欲望をもつことと持たないこと―もしあなたがそのようなことに囚われるなら! しかし、もしあなたが一つの欲望だけを持つなら、そうすると、問題はなくなります。あなたはその一つの欲望を、情け容赦なく、あるいは、論理的に、あるいは、非論理的に追求します、そして、あらゆることがそれに付きまといます―苦痛、快楽などです。そして、ほとんどの我々は、多少なりとも文明化しているので―大して文明化していないので―それら相対立する欲望を持っていて、そうして、それらの戦いが起こります。
宗教的な次のような賞罰があります、つまり、あなたは欲望とは無縁でいなければならないと―それは、この教師やあの教師によって、このグルやあのグルによってもたらされた何らかのパターンであり、何らかの理想です、それが繰り返し唱導されます。あなたが宗教と思う幾世紀ものプロパガンダによって、そのようなパターンが意識の中に確立されます。そしてまた、あなた自身の本能的な欲望があります、毎日の欲求、プレッシャー、ストレスなどによるそれです。そのように、その二つの間には矛盾があります。そして、あなたはその一つを抑えて、他方を受け入れる必要があります、あるいは、他方を否定して、あなたの手にする一方を追求する必要があります―それら全てが努力を意味します。
私にとっては、意志によるあらゆる行為は、つまり、欲望のあらゆる行為は―欲望は何らかの反応です―努力や矛盾に行き着くに違いなく、従って、心が折れることを、数知れない欲望の間で精神が引き裂かれることを意味します。例えば、あなたが何かを見ます、車です、美しい車です、あなたはそれに感動してそれに触れます、そうすると、あなたにはそれを所有したいという欲望が生じます。あるいは、あなたには他の形の欲望が生じるかもしれません―あなたは自分自身でいかに欲望が生じるのかを観察できます。何らかの欲望があなたの中に生じるとき、あなたはそれを抑えようとする伝統的な欲望にも気づきます―それは全ての人々の中に深く根を下ろしています。しかし、何らかの欲望が生じるとき、あなたはそれに気づく必要があります、それを理解する必要があります、それら全ての衝動に耳を傾ける必要があります―耳を傾けるのです、それを否定するのではありません、それを抑圧するのではありません、それを脇へ除けるのではありません、それから逃れるのではありません。あなたは欲望から逃れることはできません。
すべての聖者たちやヨガ行者たちは欲望に突き動かされています、引き裂かれています。その人たちが彼らの単衣や様々な灰のごときを身に纏うとき、その人たちは彼らが非常にシンプルな生を送っていると考えます。少しもそうでありません―その人たちの内面は煮えたぎっています、彼らがそれを意識しようとしまいと、そして、その人たちは何をしたら良いのか知りません。そのように、その人たちは彼らの生や彼らが抱える社会を、醜い、残虐な、憎悪に満ちた有害な何かにしています。なぜなら、もしあなたが欲望を理解しないなら、あなたは憎しみを作り出すからです、あなたは敵愾心を抱くからです。そして、友愛をいくら説いても何の意味もありません、もしあなたがこの欲望という途方もなくシンプルなことを理解しないなら、もしあなたが欲望を否定するなら、もしあなたがこう言うなら、“私はそのような欲望を経験してきました、そして、私はもはやそれをもつべきではありません”と、そうすると、あなたは、単に、それを、生きている欲望を、あなたがすでにもっていた何かと―それは何らかの記憶になっていて、それがコントロールしようとします―比較しています、そして、あなたは再びその戦いに囚われます。
しかし、それぞれの欲望が生じるとき―それは、それが極めてシンプルなものであろうと、問題ではありません―あなたはその起こるさまを、生きて開花するさまを、新しい活力を得ているさまを見守る必要があります。そして、もしあなたがそれを抑制しないなら、もしあなたがそれを何かと比較しないなら、もし経験という馬鹿げたあなたの過去の記憶がそれを支配しないなら、そして、もしあなたがそれをそのような空間で見ることができるなら、そうすると、あなたは、その特定の欲望が、いかなる対象とも無縁な、強烈な感情に、何らかの感情に変質させられていることを見て取るでしょう。しかし、ほとんどの我々にとって、意志は必要です、あるいは、少なくとも、我々は、意志は必要であると考えます。意志は多くの欲望によって編まれた帯です。そして、あなたが何かを行う、あるいは、否定する意志をもつや否や、あなたは何らかの抵抗を受ける状態の中にいます。従って、あなたは、再び、争いの状態の中に戻ります。
我々が話しているのは成熟している精神です、争いを理解している精神です。争いを理解している精神、その全ての問題を抱えた欲望の全問題を理解している精神、成熟している精神―そのような精神のみが、リアルなこととは何か、真実とは何かを理解できます。その他の精神は、欲望を抑圧している精神は、リアルなこととは何かを理解できません。なぜなら、真実とは何かを理解するためには、あなたは熱気を帯びるのでなければならないからです。熱気は、あなたを駆り立てるその途方もない何かであり、それは何らかの欲望によって引き起こされる、突き動かされるものではありません。それは炎です、そして、それなしに、あなたは世界の中に何らかの変化をもたらすことはできません、なぜなら、世界には問題が山積しているからです。
そして、あなたは世界の一部であるので、あなたには問題が山積しています―あなたの妻やあなたの夫との些細な喧嘩、この国の、東洋での、アジアでの、残虐性、飢餓の問題、戦争の問題、平和と称されるもの、協同の問題です。様々な問題があります、つまり、あなたはそれらを避けることはできません。それらは毎分ごとに生じます、意識的にも無意識的にも、それらはあなたの精神に影を落としています。あなたは、それらが生じるとき、あなたがそれらを意識するとき、それらを理解するのか―つまり、あなたはそれらを瞬時に解決するのか―それとも、あなたはそれらを次の日にまで持ち越すのかのいずれかです。次の日にまで持ち越すことが本当の問題です―あなたがその問題を解決するのかしないのかではありません。なぜなら、あなたがそれらを次の日にまで持ち越すと、それが精神を怠惰に、愚かにするからです、あなたは、問題があなたの精神にまで根を下ろすのに時間を要します。従って、あなたは頭脳細胞に緊張を強いて、ストレスをもたらします、そうすると、頭脳細胞は疲弊します。疲弊している頭脳は、恐らく、理解できません。あなたには、毎日、新鮮な精神が必要です。あなたはそのように様々な問題を理解する必要があります―それらを持ち越さないことです。
そして、問題を理解するためには、最初に、こう言わないことです、“私はそれを解決しなければならない、私は答えを見つけなければならない、私は出口を見つけなければならない、どのように私はその正しい答えを見つけたらよいのか”と、執拗にそう悶々としないことです。それがあなたの行う全てです、そして、あなたが悶々とすればするほど、あなたはあなたが真剣であると考えます! どうか、あなた自身の精神を、あなた自身の生を観察してください、話し手の言っていることではありません。そして、様々な問題を解決するためには―それらを解決するためには、それらを持ち越すのではなく―あなたはそれらを見て取る必要があります、あなたは十分に真剣になって、問題の暗示すること、意味すること、その内面性を観察する必要があります。それはあなたがそれに耳を傾ける必要のあることを意味します―それら全ての囁きに、問題のあらゆる意義に耳を傾けるのです、単に、言葉でではなく、見て取るのです、感じ取るのです、あなたの目で、あなたの鼻で、あなたの耳で、あなたの全存在で、その問題に触れるのです。それは、その問題を指し示す言葉に囚われないことを意味します。私は知りません、あなたが、その言葉がその問題ではないことを理解するのかどうかを。“樹木”という言葉はその当の樹木ではありません。しかし、ほとんどの我々にとって、その言葉が重要であり、その言葉の背後にある何かではありません、そのシンボルがその事実よりもずっと意義深くなります。
......
現在、我々が目の当たりにしているのは、欧米=中東的知性及びその東洋的亜流の凄惨な終焉でしょうか?
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そのように、精神は、気を抜かないで、生き生きと、見守っていて、あらゆる問題に耳を傾ける必要があります。問題はそこにあります、そして、あなたは問題を否定することはできません。問題は何らかの難題に対する反応を意味します、そして、あなたは余すことなく、完全に反応するのか、それとも、不適切に反応するのかのいずれかです。難題に対する不適切な反応は問題を作り出します。あなたは、いつも、目覚めてはいません、あなたは気づくことはできません、あなたは、一日の二十四時間、ずっと、感受性を研ぎ澄ますことはできません、そのように、あなたの反応は不適切です、そうして、それが問題を作り出します、そうすると、あなたはその問題と即座に向き合いません。瞬時の問題―その思考、その感情―に完全に向き合うためには、それを解決しようと努めないことです、それから逃げ去らないことです、それを何かと比較しないことです、こう言わないことです、“これがその解決法である”と―それらが、問題を理解することを願って、精神と頭脳が経験するあらゆるつぶやきの、愚かな類の全てです。それに完全に向き合うことは、それに耳を傾けることです、感受性豊かになることです。そして、あなたは感受性豊かにはなれません、もしあなたが逃げ去っているなら、もしあなたが抑圧しているなら、もしあなたがその問題の答えを手にしているなら。
そのように、我々は、精神は気を抜かずに感受性豊かである必要があると見て取り始めます。私は“精神”という言葉を頭脳と頭脳をコントロールするものとの相互作用として使っています、精神は神経組織や頭脳細胞だけではなく、それらを超えるものや細胞を構成するものでもあります―それらの全体です。ほとんどの我々の精神は酷く重荷を背負っています、数知れない問題を抱えています、そして、毎日、我々は更にそれらに何かを付け加えます。そうして、我々の全存在は鈍くなります、そして、我々はあらゆる感受性を失います。そして、我々が感受性をなくすとき、我々は何らかの努力をします。どうか、我々の囚われているその悪循環を見て取ってください。
そのように、欲望を理解することが重要です。あなたは“欲望を理解する”必要があります、“欲望とは無縁でいる”ことではありません。もしあなたが欲望を絶つなら、あなたは神経麻痺を起こしています。あなたがあなたの目の前のあの夕日を見るとき、その正に見ることが喜びです、もしあなたが余すことなく感受性豊かであるなら。それもまた欲望です―その喜びです。そして、もしあなたがあの夕日を見て、その中にある喜びを見て取ることができないなら、あなたは感受性を失っています。もしあなたが大きな車の中の金持ちを見て、その人の喜びを見て取ってないなら―あなたがその車を所有したいということではなく、あなたはただ大きな車の中にいるその人を見て喜んでいるだけです―あるいは、もしあなたが、貧しくて、不潔で、汚れていて、無教育の、絶望している人間を見て取ることができないなら、そして、途轍もない憐れみ、愛情、愛を感じないなら、あなたは感受性を失っています。そうすると、どのようにしてあなたは真実を見つけることができるのでしょうか、もしあなたがそのような感受性と感情をもっていないなら。
そのように、あなたは欲望を理解する必要があります。そして、欲望のあらゆる衝動を理解するためには、あなたは空間を手にするのでなければなりません、あなた自身の思考や記憶でその空間を満たそうとすることではなく、あるいは、どのようにそれを成し遂げるのか、あるいは、どのようにその欲望を破壊するのか、ということではありません。そうすると、そのような理解から愛が生まれます。ほとんどの我々は愛を手にしていません、我々はそれが意味することを知りません。我々は快楽を知っています、我々は苦痛を知っています。我々は快楽の一貫性の欠如を知っています、そして、恐らく、継続する苦痛を知っています。そして、我々はセックスの快楽や有名になる、地位、特権を手にする快楽を知っています、そして、苦行者たちが行う、何らかの記録を維持するような、人の身体を途轍もなくコントロールする快楽を知っています、つまり、我々はそれら全てを知っています。我々は愛について果てしなく語っています、しかし、我々はそれが意味することを知りません、なぜなら、我々は愛の始まりである欲望を理解していないからです。
愛なしに、倫理は存在しません―何らかのパターンへの、社会的、あるいは、いわゆる宗教的パターンへの順応は存在します。愛なしに、徳は存在しません。愛は、内発的な、リアルな、生き生きとした何かです。そして、徳は、絶え間ない実践によってあなたが生み出すものではありません、それは内発的な何かであり、愛に似ています。徳は、それによってあなたが徳のある人間として機能するような記憶ではありません。もしあなたに愛がないなら、あなたには徳はありません。あなたは寺院に赴くかもしれません、あなたはこの上なく期待される人間像としての家庭生活を送るかもしれません、あなたは社会的な倫理の持ち主かもしれません、しかし、あなたに徳はありません。なぜなら、あなたのハートは不毛で、虚しく、鈍く、愚かだからです、なぜなら、あなたは欲望を理解していないからです。従って、生が果てしない戦場になります、そして、努力はいつも死の中で終了します。努力はいつも死の中で終了します、なぜなら、それがあなたの知る全てだからです。
そのように、欲望を理解しようとする人は理解する必要があります、精神とハートのあらゆる衝動に耳を傾ける必要があります、あらゆる気分に、あらゆる思考と感情の変化に耳を傾ける必要があります、それを見守る必要があります、その人はそれに対して感受性豊かに、生き生きとなる必要があります。あなたは欲望に生き生きとなりえません、もしあなたがそれを非難したり、あるいは、それを何かと比較したりするなら。あなたは欲望に気を配るのでなければなりません、なぜなら、それがあなたに途轍もない理解をもたらすからです。そして、そのような理解から感受性が生じます。そうすると、あなたは、美に対して、汚れに対して、星々に対して、笑顔や涙に対して、物理的に感受性豊かであるだけではなく、あなたの精神の中のあらゆるつぶやき、囁き、密かな希望や恐れにも感受性豊かです。
そして、このように耳を傾けることから、見守ることから、熱気が生じます、この熱気は愛と似ています。そして、このような状態のみが正に協同を可能にします。そしてまた、このような状態のみが正に―それが協同を可能にするので―協同すべきではないときも知るのです。従って、このような理解の、見守ることの深みから、精神は、効率よく、明瞭に、活力に溢れて、活気づきます、そして、そのような精神のみが正に非常に遠くまで歩を進めることができます。
―1964年 1月22日 マドラス
1964年 1月26日 マドラス
1964年 1月29日 マドラス
1964年 2月2日 マドラス
1964年 12月27日 マドラス
1964年 12月30日 マドラス