クリシュナムルティ もし宜しければ、我々は、先日、話していたことを続けます。我々は言っていました、もし我々が、人間として、欲望のこの全問題を理解するのでなければ、社会には秩序がもたらされないと。我々が“秩序”と言うのは“協同”という意味です。そして、協同なしには、順応のみが生じるでしょう、そして、そのような順応は様々な形の“反抗”をもたらします―それは“革命”ではありません。そして、欲望の非常に複雑な問題を理解することなしには、人の自由は生じえません、そして、人の存在のあらゆる次元での自由なしには、生は一連の癒しようのない、解決しようのない問題を抱えます。この欲望の問題を理解するためには、我々は他の複雑な問題である愛をも理解する必要があります。
というのは、愛なしには、我々が、先日、言っていたように、協同は生じえないからです、そして、協同することのない社会は瓦解する社会に違いありません。協同することはこの上なく難しい問題の一つです―言葉で理解するだけではなく、実際に協同する状態を生きるということです。我々は何らかの権威の下で、我々は何らかの観念を抱いて、何らかの観念で人々を支配する人の下で協同作業します、従って、そのような協同作業は何らかの権威の下で作り出されたそれです、そして、何らかの権威が生じるときには、自由はありえません。人々が協同するためには―人々の何らかの動機に基づくのではなく、何らかの強迫的な必要性からではなく、何らかの利潤目的の生のためではなく―人々は愛と欲望のこの問題を理解するのでなければなりません。
我々は、先日、欲望の始まりについて検討しました、欲望の生じる様子です―つまり、何らかの知覚を通して、何かを感じ、それに触れ、そして、その感じに、その特殊な感じについて絶えず思考を巡らすことによって、それに持続性を与える、ということです―それは何らかの快感であったり、あるいは、苦痛であったりします。我々はそのことを検討しました、そして、その場にいた人たちは、そうすると、それを更に検討することができます。我々はそのことを何回も繰り返すことはしません、なぜなら、我々はそのことを更に深く検討したいからです。我々は自分自身で欲望の生じる様子を見て取ります。社会は、それが作り出した聖者たちを使って、それらが喧伝する宗教的賞罰で、人間はそれらの欲望を抑制するように、それらをコントロールするように、それらを高尚にするように、あるいは、それらをやり過ごして様々な形の逃亡を勧めたりします。しかし、欲望を理解することなしに、ただ何らかの規律に従うことのみが生じるときには、そうすると、何らかの効率性、秩序、協同形態は断たれます。
そのように、我々は、今宵、欲望の有様やそれらの矛盾、そして、規律と愛の問題も検討することに関心があります。我々は、先日、我々が会ったとき、こうも言いました、我々は考えることと時間のメカニズムを検討すると。なぜなら、それらは全て関連しているからです―欲望、愛、思考そして時間です。そして、それらを理解することなしに、人は付いていけません、あるいは、人は思考、時間、愛そして欲望の全領域の中を生きることができません。
理解することは、単に、知的に、言葉で同意することではありません。理解するとは、何らかの言葉、それらの意味の理解と認識であり、知的にだけではなく、大いなる感情でも理解することです、知的な理解だけではなく、神経組織的に、あなたの神経で、あなたの目で、あなたの嗅覚で理解することでもあります。理解は、あなたの全存在で余すことなく理解するときにのみ起こりえます。理解とは、部分的な、断片的な何かではありません。“私はあなたの言っていることを、知的に理解します”―そのような発言には何の意味もありません、それは、単に、私はあなたの使っている言葉を理解するという意味です、なぜなら、あなたと私は共に英語を話すからです、我々はそれらの言葉の意味を理解するからです。しかし、理解するということは、単に言葉を理解することよりも、もっと深遠で、もっとリアルな何かです。我々がこう言うとき、“私は理解します”、それは余すことなく理解することを意味していて、従って、それは何らかの行為であることを意味します。
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言の葉の大地に根づく丹田かな
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理解するとは行うことです、理解して、そうして、何かを行うのではありません―そうすると、その理解は単に観念に留まってしまいます、それは理解ではありません。その観念は行為から分離しています。そうすると、全ての問題が生じます、つまり、何らかの行為をいかに何かに順応させるのか、あるいは、それをいかに何かに、いかに何らかの観念に近づけたそれにするのか、という問題が生じます。そのように、いつも、何らかの矛盾が生じます、もしあなたが言葉の使い方を理解しないなら、そうすると、それは、それらの言葉から何らかの観念を作り出す作業ということであり、それらの言葉に同意するのか、あるいは拒絶するのか、ということになります、そして、もしあなたが何らかの観念を受け入れて、それに順応しようとするなら、あるいは、あなたの行為をそれらの観念に近づけようとするなら、それら全てのプロセスは、そうすると、理解する状態ではなくなります。理解するとは、余すことなく理解する状態であり、あなたの全存在で、あなたの全神経組織で、情動的に、知的に、感情的に、人に備わるあらゆる何かで理解する状態です。そして、そのような理解が生じるときには、何らかの行為が発生します。
生は何らかの行為です。それら二つは分離していません。生は行動を起こす何らかの観念ではありません、それはちょうど、あなたが何らかの観念として愛を抱くことができないことと同じです。愛は育まれえない何かです、それは育てられません、生み出されません、愛が存在するのか、しないのか、のいずれかです。同様に、理解することが生じるのか、理解が生じないのか、のいずれかです。何かを理解するためには、人は耳を傾ける必要があります、そして、耳を傾けるのは霊妙な働きです。何かに耳を傾けるのは、あなたが完全に気を付けることを意味します、話し手の言っていることだけではなく、それらのカラスに、夕日に、葉群れの風に、それらの様々な色彩に耳を傾けることを意味します、そうすると、あなたの全神経組織が頭脳細胞と共に余すことなく理解します。そのような余すことのない理解のみから、矛盾を生じさせない、従って、争いや尽きることのない苦痛や悲惨を生じさせない行為が生まれます。そのように、そういう意味で、我々は“理解する”という言葉を使っています。
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“耳に見つ目に聴くときは何事も誠の法の旨にかなはむ”(盤珪永琢)
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宜しいでしょうか、我々は欲望の有様を理解しようとしています―つまり、それについて学ぶことです、それを抑圧することではありません、それを否定することではありません、それを高尚にすることではありません。何かを理解するためには、あなたはそれに気を付けるのでなければなりません、あなたはそれについて学ぶのでなければなりません、あなたはそれを究明するのでなければなりません、あなたはそれを探究するのでなければなりません、あなたはそれを検討するのでなければなりません―それは、あなたが何かに屈することを、あるいは、あなた自身を抑制することを意味しません。あなたがそれを理解するとき、あなたはそれについて学びます。
我々は、先日、言いました、欲望は人間の有様であると。それは我々一人ひとりの中に存在します―それは存在するに違いありません、それは生の一部です。我々は欲望の生じる様子を見てきました。そして、世界中で、人々は、とりわけ、宗教的な事柄に関心をもつ人々は、欲望を抑制するように教えられてきました、欲望とは無縁にいることを―それは絶対に不可能です、人が欲望とは無縁でいるのは、人が死んでいるときのみです! しかし、欲望を理解するためには、大いに気を付けることを、大いなる辛抱、探究を要します。
欲望は、違うでしょうか、満たされない欲求を意味します。どうか、もし私に指摘させてもらうなら、あなたは単に話を聞いているだけではなく、あなたはそれに参加しています、それを共有しています。あなたは話し手と同様に活動しています、あなたは単に幾らかの言葉や幾らかの観念、幾らかの文句を聞いて、そうして、それらに同意したり、同意しなかったりして、そして、立ち去るのではありません。我々は欲望の問題を一緒に究明しようとしています。そして、究明するためには、あなたは自由にそれを明らかにするのでなければなりません。それは、あなたが同意する、あるいは、不同意であることを意味しません。あなたはこう言いません、“我々は偉大な聖者たちに言われてきました―それらが誰であろうと―我々はそれを抑圧しなければならない、我々はそれをコントロールしなければならない、我々はそれを否定しなければならない、我々はそれを高尚にする方法を見つけねばならない”と―そのようにすることで、あなたは探究していません、あなたは学んでいません、あなたは明らかにしていません。明らかにするためには、伝統から自由でなければなりません、人々の言ってきたことから自由でなければなりません―それはあなたが欲望に耽なければならないことを意味しません。
そのように、我々は究明します、明かにします、欲望の有様を。そして、欲望を理解するとき、律することが生じます―それは、何かを課す規律のことではありません、何かに順応することではありません、何らかの抑圧ではありません、そうではなく、欲望を理解する正にプロセスの中で律する何かが生じます。我々が言ったように、欲望は満たされない欲求であり、希求であり、願望です。そして、我々は、その願望に、その欲望に屈するか、あるいは、我々はそれを抑圧するかします、なぜなら、社会が言うからです、我々はそれを抑圧しなければならないと、なぜなら、いわゆる宗教組織が言うからです、我々はそれを変質させなければならないなどと。そして、そのプロセスのなかで、絶えず何らかの戦いが生じます、欲望を理解しようとする、あるいは、その欲望に囚われている人間と、何らかの基準を確立した社会や何らかのパターンに従順でなければならないとあなたが告げられる何らかの信仰を固持する宗教組織との間で。
欲望それ自体は矛盾していません。それが我々の理解しなければならない最初のことです、つまり、欲望はそれ自体では矛盾していない、ということです。欲望はそれが成就しようとする対象と矛盾しています。お分かりでしょうか? 私は私の欲望をある方向で成就します、そして、あとから、私はそれを別の方向で成就したいと思います、その二つの方向、あるいは、その二つの状態は互いに反します。私は非常に金持ちになりたいと思います、そして、私は聖者的な生を送りたいとも思います―それは聖者の生ではなくて、いわゆる宗教的な生です。この世で聖者になることは最も容易なことの一つです! つまり、あなたが行わなければならないことの全ては、社会的に認められた何らかのパターンに順応することです、即ち、粗末な身なりで、正に、いわゆる外面的なシンプルライフをこれ見よがしにすることです、あなたは本当にシンプルですと、これ見よがしに装うことです。そして、社会は言います、何とも、おやまあ、あなたは驚嘆すべき人間だ!と。それはシンプル性の外面的なひけらかしです、内面的には、あなたは煮えたぎっています、あなたは苛まれています、あなたはあなたの劣情で、野望で、情欲で、強欲で、特定の社会との一体感が引き起こす拷問を受けています。そのように、我々は聖者がどのような類の生を内面的に送るのかには関心がありません、我々の関心の全ては、あれこれの聖者のパターンにその人が正に順応しているということです。そのように、聖者でいることは比較的簡単です。しかし、欲望の問題と欲望の対象が作り出す争いから自由になることを検討するのは遥かに難しくて、それには途轍もない叡智、理解を要します。欲望の全プロセスを理解するためには、あなたは叡智を要します。
叡智は経験や知識の集積ではありません、叡智は感受性のこの上なく高度の形です。あらゆるものに鋭敏であること、鳥たちに、汚穢に、貧困に、樹木の美に、顔の美に、夕日に、色彩に、反射光に、木の葉の揺れに、飛ぶ鳥に、子供の笑顔に、涙に、笑い声に、痛みに、苦悶に、苦悩に、人間の悲惨に鋭敏であること―あらゆるものに余すことなく鋭敏であること、それは叡智を意味します。そして、あなたは叡智的ではありえません、もしあなたが単に何かを抑圧したり何かに耽ったりするなら。あなたは、理解が生じているときにのみ鋭敏でいられます。
我々には欲望があります、それは、実際に、何らかの欲求の反応です。私は何かを欲します、そして、私は反応します。その反応は私の感情の強さによります。もしその感情が強いなら、もしその情動が差し迫っているなら、そうすると、ほとんど、間髪を入れずに、それを成就することが、思考でも、行動でも生じます。どうか、あなたはこのことに極めて明瞭に付いていく必要があります、なぜなら、我々は、時間の問題を、思考と愛の問題を検討しようとしているからです、そして、あなたはこのことに付いていく必要があります、一歩一歩です、何らかの権威とは無縁に、そうする必要があります。我々は“付いていく”という言葉を、言われていることに付いていくという意味で使っています。我々が興味を抱いている限り、権威の這い入る余地はありません。権威は感受性のあらゆる状態に反します、そして、リリジャスな精神には権威の這い入る余地はありません。リリジャスな精神は、絶えず、学んでいる状態の精神であり、従って、鋭敏です。そして、何らかの権威が這い入ると、学ぶのを止めてしまいます。誰の権威であろうと問題ではありません―政府の権威、あなたの聖職者の権威、あなたのグルあるいは先覚者の権威―権威はあなたの学びを阻害します。権威は、ただ、あなたを恐れさせて順応させるだけです。そして、いかなる次元でも、恐れている精神はリリジャスな精神でいることを止めてしまいます。我々が関心を抱いている限り、権威の這い入る余地はありません。
欲望は―それは思考によって継続性を与えられた何らかの感じ方の反応です―その成就を追求します、そして、様々な形の成就の中に矛盾が生じます。そして、その矛盾から、争いが生じます、そして、争いが生じるところに、何らかの努力が生じます。そのように、欲望は、もし我々が欲望の全プロセスを理解しないと、何らかの努力を生じさせます。
欲望とは何でしょうか、そして、その欲望はどのようにして継続するのでしょうか? 我々は欲望の生じる様子を見て取ります―知覚です、見ます、触れます、感じます。それでは、何が欲望に継続性を与えるのでしょうか? それが問題です、それが、先日、我々のやり残したことです。間違いなく、思考が欲望に継続性を与えます。つまり、私は何かを好みます、夕日を見ることが私に大いに快楽をもたらします、あるいは、美しい顔を見ること、あるいは、何らかの地位、名声、権力、財力、何らかの立場などその他の全ての中にいる人を見ることです。その人のような地位を手にすることが私に快楽をもたらします、そして、私はその快楽のことを考えます、その快楽が性的な快楽であろうと、あるいは、主観的な快楽であろうと、あるいは、外面的な対象物によって引き起こされた快楽であろうと。私はそのことを考えます。私はあなたの顔が好きです、あなたは素敵な笑顔をしています、そして、あなたの笑顔、あなたの顔は魅力的です。私はそれが好きです、私はそのことを考えます、私がそのことを考えれば考えるほど、私はその欲望を強めます、それは、その人に関わる、あるいは、その観念に関わる、あるいは、その対象に関わる、何らかの成就の追求です。
そのように、思考が欲望に継続性を与えます。もし欲望に継続性がないなら、その成就はありえないでしょう。それは発生して、消え去ります。それは何らかの反応として生じます―そして、あなたは何らかの反応を生じさせるに違いありません、そうでなければ、あなたは死んだ人間です。それは何らかの反応として生じます、そして、もし思考がもたらす継続性が途絶えると、その反応の継続性は失われるでしょう。あなたはそれをあなた自身の生の中で観察します。
あなたは快楽を享受します、性的な快楽や通常の快楽です、あなたはそのことを考えます、あなたは作り出します、あなたの精神の中に、何らかのイメージ、シンボル、言葉を。そして、あなたがそのことを考えれば考えるほど、その快楽の強度が増します。そして、その強度はその成就を要求します。そして、その成就の中に、矛盾が生じます、なぜなら、あなたは別の方向性でもそれを成就したいと思うからです。そのように、欲望の成就が生じるとき、矛盾が生じます。従って、その矛盾から逃れるために、その争いの苦痛から逃れるために、あなたは言います、あなたは欲望を抑えなければならないと。しかし、重要なことは―欲望を抑えることではなく、それを何らかの形にすることではなく、それを高尚にすることではなく―何がそれに何らかの実質を与えるのか、何がそれにその強度をもたらすのか、何がそれを切迫した何かにするのかを理解することです。もしそれが理解されるなら、そうすると、欲望は全く異なる意義をもちます。
あなたは自分自身を観察します、つまり、あなたが何らかの快楽を享受するとき、あなたはそのことを考えます。あなたが苦痛を受けるとき、あなたはそのことについても考えます。そのことを考えることが、それに何らかの活力、何らかの力、何らかの継続性を与えます。そこで、人は考えるという問題を検討する必要があります、もし人が欲望を理解しようとするなら。
考えるということはどういうことでしょうか? これは学術的な問いではありません。私はあなたに問うています、考えるということはどういうことでしょうかと。何らかの問題が生じます、つまり、考えるということはどういうことでしょうか? そして、あなたは何らかの反応を期待しています、違いますか? あなたは何らかの話し手の反応を期待しています。あなたは何かを言われたいのです。もし彼がそれを告げないなら、あなたはあなた自身の知識から、あるいは、他の人たちがあなたに与えてきた知識から明らかにしようとします、あるいは、あなたは考えるということを明らかにするために、あなたの記憶の中を見ていきます、探し回ります。そのように、何か問題があなたに起こると、あなたの記憶が反応します。どうか、このことに注意深く付いてきてください、なぜなら、もしあなたがこのことを非常に注意深く検討しないなら、一歩一歩、そうしないなら、あなたは、言われようとしていることの全てに付いていけないでしょう。生は何らかの挑戦です、それは一連の継続する挑戦です。生は何らかの活動です、絶えず変化しています、絶えず活動しています、決して同じではありません、そして、それが生の美です。それは生きています、死んでいません、従って、それは、いつも、我々に、一瞬一瞬、挑戦しています、意識的にも無意識的にも、我々がそれに気づこうが気づくまいが。そして、何らかの問題が生じるとき、我々は我々の条件づけに従って、我々の記憶に従って反応します、そうして、我々の記憶が反応します。そのような挑戦と反応のプロセスの中で、その反応は、瞬時であるか、あるいは、時間的な間隙を挟むかします、そして、その時間的な間隙の中で、考えるというプロセスが生じます。
考えるとはどういうことでしょうか? 恐らく、あなた方のほとんどはそのことを考えたことが全くありません、そして、あなたは何かを言われるのを待っているのです! あなたが何かを言われると、あなたは同意するか同意しないかのいずれかです、あるいは、あなたの記憶がこう言います、“それで十分です、それはその一部にすぎません、この思考のメカニズムにはさらに多くの何かがあるに違いありません”と。そこで、我々はそのことを検討しようと思います。何らかの挑戦と何らかの反応が生じるところに、もしその反応が瞬時なら、考えるプロセスは生じません。もしあなたがあなたの名前を尋ねられたら、あなたは非常に素早く答えます、なぜなら、あなたはあなたの名前に非常によく馴染んでいるので、あなたは瞬時に反応します。あなたはそのことを、以前、考えたことがあるかもしれませんが、その瞬時の反応は間髪を入れません、しかし、もしあなたがもっと複雑なことを問われるなら、あなたは時間を要します、そして、その挑戦と反応との間に時間的な間隙が生じます。その時間的な間隙の中で、精神は答えを探します、追い求めます、待ちます、問いかけます。そのような間隙が我々の思考と称するものです。そして、そのような思考は、あなたの人種、あなたの家族、知識、記憶、時間の刷り込み、あなたの経験、苦痛、悲しみ、生の数え切れないプレッシャーや苦悶などに依存します―それが背景にあるものです、そして、その背景から、あなたは反応します。そのように、その挑戦に対するその反応はいつも不適切な何かです。私は願います、私がこのことを明瞭にしていることを。そして、何らかの反応の不適切さが矛盾を生みます。
そのように、人は思考のメカニズムを理解するだけではなく、いつも新しい何らかの挑戦に対する反応の手段としての知識の蓄積についても理解する必要があります。そのように、あなたは、いつも、新しい何かに古い何かで反応します、あなたの伝統でそうします、もしあなたがヒンズー教徒なら、もしあなたがキリスト教徒なら、あなたの伝統でそうします、もしあなたが科学者なら、あなたの特殊な知識などでそうします。あなたの反応は決して余すことのない何かではありません、それはいつも断片的です、従って、何らかの矛盾、争い、苦痛が生じます、あるいは、あなたが継続したいと思う何らかの快楽が生じます―それが再び争いを生みます。そのように、我々はそのプロセスの中を生きています、つまり、挑戦、不適切な反応、矛盾、争い、苦痛あるいは快楽、そして、その苦痛が止むことと快楽の継続が要請されます。それが我々の生のサイクルです。
もしあなたが思考の問題を更に進めるなら、あなたは、あなたが実際に“私は知りません” と言うとき、精神の何らかの状態に至ります。お分かりでしょうか? それがコンピューターの電子頭脳と人間の精神との間の違いです。人間の精神はこう言うことができます、“私は知りません”と、そして、それは、“私は知りません”ということであり、私はいかなる見せかけとも無縁であり、私は何らかの答えを待っているのでもないことを意味します。“私は知りません”とは、この上なく途方もない精神の状態です、もしあなたが本当にその状態を理解することができるなら。なぜなら、ほとんどの我々はあらゆることについて過剰な知識を手にしているからです! 我々は神について知っています、なぜなら、我々は、五千年、七百年、あるいは、二百万年、言われてきているからです。我々は知識を背負っています、我々の経験を背負っています―それは過去です。我々は我々が神と称するものについて知っています、愛、セックス、人間の精神が発明してきた、あるいは、考えてきたほとんどあらゆるものについて知っています! そして、我々はいつも更にもっと見つけようと探し求めています、つまり、我々の知識に更に付け加えています、そして、我々は決してこう言いません、“私は知りません”と。そして、“私は知りません”といつも言うことが必要なことではないでしょうか、そうすることで、精神はいつも学んでいて、いつも新鮮で、無垢で、若いのでしょうか? 若い精神のみがこう言います、“私は知りません”と、そして、それは“私は知りません”を意味していて、知らされることを待ってはいません。あなたが知るや否や、それはすでに古い何かになります。しかし、精神がそれ自身にいつも“私は知りません”と言っている精神は何かを疑っているそれではありません。あなたが疑うとき、あなたはすでに何らかの確認あるいは拒否を受け入れています。しかし、あなたがこう言うとき、“私は知りません”、あなたの精神はすでに若く、新鮮で、熱気を帯びていて、明かにする用意ができています。
思考の仕方があります。思考は時間の中でのみ存在します。我々の意味する時間は心理的に引き伸ばす状態のことです、それは、発展の、進化の、何らかの高みに達する、収集蓄積する、そして、現にある通りのこととあるべきこととの間の隔たりを取り除こうとする心理的な観念を意味します、それらは全て空間の中の時間的な間隙です。どうか、これら全てに少しだけ付いてきてください。空間のない精神は死んだ精神です。精神には空間がなければなりません、それは空虚のことです。そして、そのような空間の中にのみ、正に、新しい状態が存在しえます、そのような空間の中にのみ、正に、何らかの変質、何らかの完全な革命が起こりえます。
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死者とは何でしょうか?
死者を弔うとは何でしょうか?
死霊=生霊の意識に水を遣り、香を焚き、花を生け、鉦を響かせるのは何でしょうか?
空間の美と愛とは何でしょうか?
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現在、我々が目の当たりにしているのは、欧米=中東的知性及びその東洋的亜流の凄惨な終焉でしょうか?
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“日本人”という虚偽を葬る 吸うて見て見て吐く叡智の 一千一秒の “革命的瞑想”とは何でしょうか?
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我々には何らかの革命がこの世界に必要です、心理的な革命です―経済的あるいは社会的な革命ではありません―本当の深いリリジャスな革命です。そのような革命は、そのような変質は、もし精神が余すことなく空虚でないなら、もし精神の中に空間が存在しないなら、起こりえません。そして、欲望の理解、時間の理解が、この途方もない空間を、探究するのではなく、生み出します。空間は、空間の中の何らかの対象物によって作り出されるのではありません。あの樹木は―それは空間の中の対象物です―空間を作り出します、その樹木故に、その周りに何らかの空間が存在します。我々は空間をその対象物やその非対象物との関連で知るのみです。そして、何らかの対象が作り出す空間の中に囚われている人は終生の奴隷です。対象とは無縁の空間に触れる人のみが、正に、自由な精神です。
宜しいでしょうか、我々人間は、人類学者たちによると、二百万年以上生きてきて、時間の中で発達してきました、発展してきました、進化してきました。現にある通りの我々でいるのに二百万年費やしました―動物から人間になるのに二百万年費やしました―そして、我々は言います、“我々は、発達するために、進化するために、もっと時間を、更に二百万年以上の時間を手にするでしょう”と。それら二百万年の中で、我々は苦しんできました、我々は途轍もない不安の中を生きてきました、ぞっとするような孤独を抱えてそうしてきました。あなたは孤独がどういうことなのか知っていますか? ほとんどの我々は不安が何なのか知っています。ほとんどの我々は悲しみが何なのか知っています。ほとんどの我々は苦痛を知悉しています、物理的な苦痛やそれ以外の苦痛をよく知っています。ほとんどの我々は、不確かさの苦悩や痛み、腐敗、嫌悪、人自身の考えることやその生の不純さを知っています。しかし、我々の中の非常に少数の人しか、完全な孤独の苦痛や苦悩を知りません。人はその孤独を二百万年生きてきました、それが何なのかを知らないで、そして、人がそれを知るとき、人はそれから逃げてきました、そして、人は神を、天国を、地獄を発明してきました、その途方もない、完全な孤立、完全な孤独の強烈な感覚から逃げるためのあらゆる成就の形を発明してきました。
我々は二百万年生きてきました、そして、我々は時間を発明してきました、なぜなら、我々が時間の産物だからです。我々の脳細胞、我々の全構造、細胞組織、頭脳、あらゆるものが時間の産物です―時間はその観念です、つまり、私は何かになります、私は何々でしょう、私は成し遂げるでしょう、私は発達するでしょう、私は変わるでしょう、今から明日までの間に、今から次の瞬間までに。それが我々の意味する時間です。我々は時計的な時間のことを話しているのではありません、我々は徐々に事をなすと考える精神の時間のことを話しています―それは何らかの発明です。明日という時計的な時間があります、そうでないなら、明日は存在しません、我々は明日を発明してきました。実際に、あなたがそれを検討すると、あなたは思考が正に明日を作り出してきたことが分かるでしょう。明日は不確かです、明日、あなたは会社へ行く必要があります、明日、あなたは何らかのことを行う必要があります―あなたはそのことを、今、考えています。思考は、実際に、明日という時間を作り出します、そのように、あなたは時間を手にします。そして、我々は何らかの変化の手段として時間を使います。“私は怒っている、醜い、野蛮だ、しかし、私は他の何かになります”―それは時間を何かになる手段として使っています、そのように、いつも、何らかの引き延ばしが生じます、いつも、避けています。
ほとんどの人間は暴力的です。ほとんどの人が決して優しくはありません。ほとんどの人は愛が何であるのかを知りません。ほとんどの人はセックスが何であるのかを、欲望が何であるのかを知っています。ほとんどの人は苦悶の有様を知っています。そして、苦悶に囚われて、ほとんどの人は言います、“私はそれを乗り越えるためには時間が必要です、私には明日が必要です、あるいは、次の世が必要です、あるいは、私はそれを徐々に取り除いていくでしょう”と。そのように、思考は時間を発明します、思考は時間です。そして、欲望、思考そして時間のこのプロセスを理解する人は、現在を完全に生きている人間です。その人は、何かを成就するための手段として、時間を手にしていません。
あなたが時間を手にするや否や、実際に、何が起こりますか? あなたは向き合っていません、あなたは相対していません、実際の何かに、事実としての何らかの挑戦に、待ったなしの何かに。あなたは即座に行動を起こします、あなたが何らかの痛みを感じるとき、あるいは、何らかの強烈な快感を覚えるとき。あなたが強烈に性的なとき、あるいは、あなたが強烈な痛みを感じるとき、あなたは何らかの行動を起こさずにはいられません。そして、我々のほとんどは事実を現にある通りに見ることができません、物事をその通りに、現にある通りに見て取ることができません。現にある通りなのが事実です、そして、我々はそのことに様々な意見や観念や何らかの判断を抱えて相対します。つまり、何らかの過去を抱えて、我々は事実に相対します、従って、矛盾を作り出します、あるいは、その事実の理解を不可能にします。
そのように、精神は、それが事実に向き合えるときにのみ、現にある通りのことに、貧困に向き合えるときにのみ、自由な精神です、それは何か至高の挑戦ではありません―至高の挑戦などはありません。生は毎秒ごとに何らかの挑戦です―貧困に相対すること、あなたの上司に会社で相対すること、あなたの妻に、子供たちに相対すること、バスの車掌に相対すること、汚穢に相対すること、夕日の美に相対すること、あなた自身の怒りに、嫉妬に、愚かさに相対すること―それら全てが事実です。重要なのは、あなたがその事実にどう相対するのか、ということです、あなたがそれについてどう考えるのか、ではありません、あなたはそのことについて何をすべきか、ではありません。あなたが、事実に、いかなる意見、判断、価値評価とも無縁に、向き合うとき、そうすると、あなたは完全に現在を生きています。そうすると、そのような精神には、時間は存在しません、従って、それは行為しうるのです。なぜなら、事実のみが行為の逼迫さを備えているからです―あなたの意見、欲望そして理想ではありません。
宜しいでしょうか、あなたは、この上なく不幸にも、何らかの理想の下に育てられてきました。理想はただの言葉です。それらには全く意味がありません、それらには実質的な何かがありません。それらは自惚れた、思慮を欠く精神の不毛の子供たちです! あなたは非暴力の理想の下に育てられてきました。あなたは世界中に非暴力を説いて回ります。非暴力は理想です。しかし、事実は、あなたが、あなたの態度で、あなたの上司や部下に対するあなたの話し方で、暴力的であることです。どうか、あなた自身に耳を傾けてください。私はただそのことを指摘しているだけです。あなたは暴力的です―あなたの態度、あなたの思考、あなたの感情、あなたの行動で。なぜあなたはその暴力を見ることができないのでしょうか? なぜあなたは非暴力という理想を掲げる必要があるのでしょうか? 事実はあなたが暴力的であることです、そして、その理想は事実とは無縁です、そのように、あなたはあなた自身の中に矛盾を作り出します、従って、それが暴力的というあなたの事実を見るのを妨げます。あなたが事実を見るとき、あなたはそれに対処できます、つまり、あなたは言います、あなたは暴力的であり、それを受け入れると、あなたはそれを受け入れて、言います、私は暴力的です、私は偽善者にはならないと、あるいは、あなたは言います、あなたは暴力的です、そして、それを享受すると、あるいは、あなたはそれをその理想とは無縁に見ます。あなたは、何らかの対象あるいは事実あるいは現にある通りのことを、いかなる理想も、いかなる意見も、いかなる判断も生じないときに見ることができるだけです。そうすると、事実が即座に強烈な行為を促します。あなたが事実について何らかの観念を抱いているときにのみ、正に、あなたは行動を引き延ばします。あなたが、事実として、あなたが暴力的であることに気づくとき、そうすると、あなたはそれを見て取ることができます、あなたはそれを検討することができます、そうすると、あなたはそれについてあらゆることを学べます、暴力の性質です、それから自由になりうるのかなりえないのか―何らかの観念としてではなく、事実として。
そのように、リリジャスな精神はいかなる理想とも、いかなる例とも、いかなる権威とも無縁です、なぜなら、事実のみが重要な何かだからです、そして、その事実は行為の逼迫さを要請します。あなたは即座に行為せずにはいられません、何らかの観念とは無縁に、精神が欲望、思考、時間の全問題を―それは精神が事実を見るのを妨げます―理解したときにのみそうします。あなたはそうします、宜しいでしょうか。あなたの貪欲を、あなたの怒りを、あなたの好きなことを、あなたの性的欲求を手に取って見てください―それが何であろうと問題ではありません。それを見てください―それを非難するのではなく、何らかの判断、価値評価とは無縁にそうしてください、それは良いとか悪いとか言わないでそうしてください。あなたは知っています、事実を避けるために人が発明する知的な全ての類を、つまり、この国の貧困を取り上げてください、それは事実です、そして、ナショナリズムに囚われることが、事実の遂行を妨げることを。我々はそのことを別の機会に議論します。
そのように、時間―それは思考です、それは欲望です―から自由な精神は愛に気づいている精神です。ほとんどの我々にとって、愛は性的なものです。そのことをあなた自身の中で観察してください。ほとんどの我々にとって、愛は嫉妬です。ほとんどの我々にとって、愛は愛憎の矛盾です。我々は、本当に、愛が何であるのかを知りません。我々は、共感、憐れみを知っています、恐らく、多少の寛大さも知っています、それが大きな負担にならないとき。笑わないでください! あなたはそれら全てを目の当たりにしています―それはあなた自身です。あなたは笑えません。もしあなたがあなた自身を笑えるなら、そうすると、それには多少の意味があります。しかし、事実をただ笑わないでください、つまり、それはあなたが避けていることを意味します。我々は、愛が何かを、何らかの矛盾する観点からのみ知ります、痛みと快楽、苦悶と嫉妬、苦痛、嫉妬の残虐性、嫉妬の暴力性などです。しかし、あなたは愛が何であるのかを知りません、なぜなら、あなたは美が何であるのかを知らないからです。もしあなたが美の何であるのかを知らないなら、あなたは愛が何であるのかを決して知らないでしょう―女あるいは男の美ではなく、セックスのそれではなく、美です。
あなたは美を否定するように躾けられてきました、なぜなら、美はいつも快楽と関連してきているからです―男あるいは女である快楽です。そして、人々はあなたに告げてきました、とりわけ、聖者たちです、もしあなたが神を見つけようとするなら、あなたは女性とは、快楽とは無縁でいなければならないと、従って、あなたは否定します。しかし、美を否定することによって、あなたは愛をも否定してきました。美は快楽ではありません、美はあらゆるものの中にあります。宜しいでしょうか、あなた自身を見守ってください、その木の葉を見守ってください、夕日の美を見守ってください、大地、丘、丘の曲線、水の流れの美を見守ってください、霊妙な純化された精神、善き精神の美を見守ってください、顔の美、笑顔の美を見守ってください。あなたはそれら全てを否定してきました、なぜなら、あなたは美を快楽と関連させてきたからです、そして、快楽をセックスやいわゆる愛と関連させてきたからです。
美はそれら全てではありません。美は単に快楽と関連する何かではありません。
美を理解するためには、人は途方もなくシンプルな精神をもつのでなければなりません―つまり、思考で曇らされていない精神です、現にある通りにものを見ることができるそれです、夕日に、それら全ての色彩に、光とその素晴らしさに触れて見ることのできるそれです、それをシンプルに、言葉にしないで、それに触れて、それと通じ合って、言葉とは無縁に、何らかの態度をやり過ごして、記憶をやり過ごして、見ることのできるそれです、そうすると、“あなた”と“あなた”が見ている対象が存在していません。
そのような、対象とは無縁の、思考者や思考や対象や経験とは無縁の、途方もなく通じ合う何か、そのような計り知れない空間の感覚―それが美です。
そして、それもまた愛です。愛なしには、あなたが何を行おうと―あなたは社会活動、社会改革、国家の政治活動を行うかもしれません、あなたは結婚するかもしれません、子供たちを儲けるかもしれません―あなたは生のいかなる問題の答えも見つけないでしょう。愛であなたはあなたの何かができます、つまり、愛で徳が生まれて、謙虚になります。
―1964年 12月27日 マドラス
1964年 1月22日 マドラス
1964年 1月26日 マドラス
1964年 1月29日 マドラス
1964年 2月2日 マドラス
1964年 12月30日 マドラス