各地域、同時代並行の世界史
速習・世界史・ナビ
home | 速習・世界史・ナビ | 20の時代 | 40の地域
【 F1 :1800 〜 1870 】
17.さまざまな国民国家

●フランス革命で生まれた国民国家という新しい国のかたちとイギリスの産業革命ではじまった市民社会という文化がこの時代にヨーロッパにひろがっていきました。

●しかし、この二つの新しい社会の仕組みは、国や地域によってそれぞれ性格のことなったものとなりました。

●また、ヨーロッパの産業革命は世界を巻き込んで進み、アジアの諸地域は大きく変わりはじめました。

  1. フランス革命とナポレオン
  2. 19世紀の政治力学
  3. さまざまな国民国家
  4. つながった世界
  5. この頃の日本列島
  6. 文明論の視点
  7. チェックポイント

1.フランス革命とナポレオン

●国王対国民:国王の下に中央集権化が進んでいたこの時代には、革命はまず、国王対国民の対立から始まります。イギリスの17世紀の市民革命はこの段階とどまっていました。

●旧勢力対実業家・労働者・農民:フランスでは、免税特権をもっていた貴族や聖職者が新たな課税に反対し、三部会の議決方法をめぐって、旧勢力と実業家・労働者・農民が対立し、彼らは憲法制定をめざして国民議会に結集しました。

●実業家対労働者・農民:国民議会で封建的特権の廃止な基本的人権の確立などを内容とした憲法が制定されますが、国王の地位などをめぐり、実業家と労働者・農民の対立が表面化します。

●革命をめぐる国政関係:フランス革命では、この段階で、国王がオーストリアに逃亡しようとしたり、プロイセンやオーストリアがフランスに宣戦布告をしたりしたため、労働者や農民が立ちあがり、国王は処刑されてしまいます。

●革命のゆくえを決める条件:自分の土地を得た農民は経済的な平等など革命の過激化を望まず、財産権の保障を主張する実業家を支持するようになります。対立だけが深まり、経済的にも政治的にも混乱が続きます。

●革命の収拾:この混乱を収拾するかたちで現れたのは軍人のナポレオンでした。革命の影響を心配する周辺諸国からの干渉に対抗できるのは軍人のナポレオンだけでした。彼はフランス革命の到達点を財産権の保障というところにとどめ、ナポレオン法典をつくりました。

●革命の普及:国内の混乱を収拾したナポレオンに残された課題は、諸外国の干渉を取り除くことでした。つまり、戦争です。軍事の天才ナポレオンの勝利によって、フランス革命の理念はフランス以外にもひろがっていきました。

●革命の独占:しかし、皇帝になった後のナポレオンはヨーロッパの支配者へと変貌し、フランス国民からの支持も失いはじめます。ナポレオンの連戦連勝の戦いは終わり、フランス革命は終結しました。

●ウィーン体制:「フランス革命なんてなかったことにしよう。」ヨーロッパ中の旧勢力がウィーンに集まり、革命の否定と領土の配分を行いました。こうして反動の時代が始まりました。

◆ページのtopstep1

2.19世紀の政治力学

●ウィーン体制への挑戦:革命を取り締まるための検閲がひろく行われました。息苦しいこの時代のヨーロッパで自由を求める人びとが立ちあがりました。特に革命の恩恵に浴さなかったロシアやスペインやイタリアでその動きは顕著でした。

●独立への願い:フランス革命でヨーロッパが混乱しているうちに、アメリカ大陸ではヨーロッパ離れが進みました。スペインの支配下にあった植民地では、植民地で生まれたクリオーリョと呼ばれる人びとが独立を求めて立ちあがり、次々と独立を達成していきました。

●イギリスの実業家:一方、産業革命により力をつけてきたイギリスの実業家たちは、地主が主導権をもつ議会に対して、参政権を求めて立ちあがりました。東インド会社の特権や航海法や穀物法などを廃止し、経営の自由を求めました。

●「ヨーロッパの警察官」:ロシアは自ら「ヨーロッパの警察官」を任じ、ポーランドなどで起きる独立への動きを封じました。

●オーストリアの力:ハプスブルク家が支配するオーストリアは、イタリア・ドイツ・チェコ・ハンガリーなどで未だに影響力をもっていましたので、こうした地域でも独立を求める声がだんだん高まって生きました。

●1830年:ウィーン会議以後、イギリス以外の西ヨーロッパでも産業革命がはじまり、経営の自由を求める実業家も現れました。王政が復活していたフランスでは1830年7月革命がおき、実業家たちが推すルイ=フィリップが王位に就きました。フランスの7月革命はヨーロッパの各地で自由化や独立を求める人々を勇気づけましたが、ベルギーの独立以外に大きな成果はあげられませんでした。

●1848年:1848年2月パリから始まった48年革命はヨーロッパの各地に波及し、時代をフランス革命以前に戻そうとしたウィーン体制は崩壊しました。

◆ページのtopstep 2

3.さまざまな国民国家

●ウィーン体制が崩壊した1848年以後、各国で急速に国づくりがはじまりました。各国が歴史的にかかえる問題に応じて、国民国家のかたちはそれぞれ異なりましたが、これがその後のそれぞれの国の歴史に大きく影響することになりました。

●議会政治とイギリス:「世界の工場」となったイギリスでは、選挙権の拡大をとおして国づくりが進められました。地主階級に加え、実業家が、次に都市労働者、次に農民という順で、選挙権が拡大していきました。

●ナポレオン3世とフランス:フランスではもう一度フランス革命をやり直すかのように、革命が進みます。1848年には労働者が一時的に政府をつくりますが、実業家と農民はナポレオンの甥のサポレオン3世を選びました。皇帝となったナポレオン3世は、旧勢力と労働者の勢力を抑えて、イギリスに対抗し戦争など積極的な外交により植民地の拡大に努めました。

●ドイツの統一:プロイセンのビスマルクはオーストリアを排除してドイツの統一をめざしました。巧みな外交と綿密な準備で、オーストリアとフランスを破り、1871年、パリのヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国が成立しました。

●イタリアの統一:イタリアの統一はサルデイニア王国が中心になりました。宰相のカヴールは巧みな外交でフランスとドイツの力を利用しながら、イタリアからオーストリアの影響力を排除し、イタリアの統一を実現しました。

●オーストリア:イタリアを失い、ドイツからは完全に閉め出されたオーストリアはハンガリーを支配し、オーストリア=ハンガリー帝国としてバルカン半島へ力を伸ばしはじめました。

●遅れたロシア:クリミア戦争に敗北したロシアは近代化の遅れを痛感し、農奴解放令を出して皇帝自ら上からの近代化を進めますが、大きな成果は得られませんでした。この閉塞状態からテロリズムに走る若者も出ました。

●分裂の米国:ヨーロッパの政治からは独立して国づくりを進めてきた米国は奴隷制をめぐり危機をむかえました。工業化を進める北部の州は奴隷制の廃止を求め、綿花栽培などでイギリス経済と密接な結びつきのある南部は奴隷制の継続を主張しました。対立は南北戦争へと発展し、北部が勝ちました。

◆ページのtopstep3

4.つながった世界

●この時代にアジアの各地で、植民地化への動きが急速に始まりました。イギリスはインドを中心に海から、ロシアはそれに対抗して陸から進出しました。中国では、ベトナムを拠点にフランスが進出してきました。

オスマン帝国をめぐる動向
・1820年代の独立戦争の結果、ギリシアはオスマン帝国から独立します。イギリスやフランスはこのギリシアを応援しました。
・総督ムハンマド=アリーの巧みな外交や国内の近代化政策により国力を強めたエジプトは、オスマン帝国から独立を達成します。
・劣勢続きのオスマン帝国は国力の充実を図るためにタンジマートと呼ばれる改革をはじめました。
・地中海への進出を図るロシアとそれを阻止しようとするオスマン帝国やイギリス・フランスとの間で1853年クリミア戦争が起き、ロシアは敗戦しました。
・1869年、フランスのレセップスによりスエズ運河が開通し、インド洋への近道となった地中海はいっそう重要な海域となりました。
イラン高原・中央アジアの動向
・18世紀末にイラン高原に成立したカジャール朝はイギリスやロシアにさまざまな利権を与え、イラン高原にも列強の影響力が増してきました。
・混乱した政治・社会状況の改革を訴えたバーブ教が民衆に急速に広まり、1848年バーブ教徒の反乱が起きますが、政府によって弾圧されました。
・アフガニスタンでは南下政策を進めるロシアを警戒するイギリスが、アフガン戦争を経てアフガニスタンを保護国にしました。
南アジア
・プラッシーの戦いでフランスをインドから追い出したイギリスは、次々にインドに戦争をしかけ、1850年の頃にはほぼ全インドを制圧していました。
・インドでは「銃弾の包み紙に牛の脂が使ってある。」という噂から広まり、ヒンドウー教徒の傭兵たちは反乱をおこしました。このシパーシーの乱の後、イギリスは東インド会社によるインド統治を止め、英国政府が直接統治するようになりました。
・1877年、インド帝国が成立し、インドはイギリスの最大の植民地となりました。
東南アジアの動向
・オランダは、インドネシアを中心に植民地経営を確立し、コーヒー・サトウキビ・藍の強制栽培制度を導入し、農民たちから利益を搾り取っていました。
・インドの支配を確かなものにしつつあったイギリスは、ビルマやマレー半島に進出し、海峡植民地を成立させました。
・フランスのナポレオン3世はベトナムの植民地化に着手し、次にはカンボジアを保護国化しました。
東アジアの動向
・イギリスは輸入超過の中国との貿易を解決するために、対等の貿易を要求しますが、清王朝はこれを拒み続けました。
・そのため、イギリスはインドでつくったアヘンを中国に密輸します。これを取り締まった中国との間でアヘン戦争が勃発します。
・アヘン戦争に敗れた中国は南京条約で5港を開港し、イギリスとの貿易をはじめました。
・南京条約の内容に不満なイギリスは、フランスとともにアロー戦争を仕掛け、天津条約・北京条約で徹底した開国を中国に認めさせました。清朝政府はアメリカ、ロシアとも同様の条約を結びました。
・開国による経済的な混乱などから、男女平等、均等な土地の配分などの実現をかかげた太平天国の乱が起きます。清朝政府はイギリス軍に頼んでこれを収拾しました。
・清朝政府の力不足を痛感して、国のあり方を改革して近代化を図る必要性を訴える官僚も現れましたが、大きな成果はありませんでした。
アフリカ・大西洋の動向
・イギリスはインドへの中継点である南アフリカのケープタウンを占領し、ケープ領として列強に承認させました。
・フランスは西アフリカの探検をはじめました。イギリスのリビングストンのアフリカ探検もこのころより始まりました。
アメリカ大陸・太平洋の動向
・ニュージーランドはこの時代に英領になりました。また、フランスはタヒチの仏領を宣言しました。
・西部の土地をスペインやメキシコなどから買収し国土を広げた米国はインデイアンを強制移住させ、西部の開拓を進めました。
・1848年、カリフォルニアで金鉱が発見され、多くの人々が米国の西部へ殺到しました。ここに、米国のフロンテイアが消滅します。以後、米国は積極的に太平洋に進出するようになり、全世界がひとつにつながりました。

◆ページのtopstep 4

5.この頃の日本列島

●18世紀末から外国船が日本の近海に現れるようになり、幕府は「外国船打ち払い令」を出しますが、アヘン戦争の事情などを知った幕府はこれを撤廃しました。

●天保の大飢饉などで農民は疲弊し、幕府や諸藩の財政が厳しくなっていました。この時代、抜本的な改革が求められていました。

●オランダの国王から開国を勧められた幕府は、基本政策が決められず、動揺するばかりでした。そこへ、米国の提督ペリーが現れ、開国を強く求めました。

●1850・60年代は欧米の列強は自国の問題で余裕がありませんでした。開国をめぐって国内で深刻な対立を体験していた日本はこれに救われました。

●しかし、明治維新の1870年代、列強の植民地政策はいよいよ厳しくなり、日本では富国強兵をめざす「上からの近代化」が進められることになりました。

◆ページのtopへ

6.文明論の視点

●19世紀の初め、アジアの諸地域はオスマン帝国とムガール帝国と清朝の征服王朝に支配される体制にありました。したがって、当初、アジアの民衆にとって、ヨーロッパの侵略は征服者が攻撃される姿でもありました。しかし、侵略が進むにつれて、民衆が立ち上がることになっていきました。この時代、民衆は宗教に結集して蜂起しました。

●列強にとって、植民地化は合法的な政策でした。それは、国際法というヨーロッパ世界がつくった世界秩序の原則に則って行われたからです。しかし、ヨーロッパ諸国からみたアジアの国々では「文明的な社会秩序」が確立されておらず、列強との条約では対等な立場に立つことはできませんでした。

●つまり、植民地化とは、ヨーロッパがつくった国際秩序に世界を組み込んでいくことを意味していました。ヨーロッパがつくった国際秩序とは「バランス=オブ=パワー」の国際関係でした。

●しかし、20世紀の初め、世界の帝国はすべて解体され、世界の枠組み作りは根底から組み立て直されることになります。

◆ページのtopへ

7.チェックポイント

step1:フランス革命の過程で、一貫して追従された政策は何ですか。
hint1:国王・貴族・聖職者の特権の否定、有産者の財産権の保障、国民の政治的平等のうち、何が最終的に実現されましたか。
もう一度読む
step2:ヨーロッパの秩序をフランス革命以前の状態にもどそうとするウィーン体制はどんな順で崩れて行きましたか。
hint2:ウィーン体制の維持に積極的だった国はどこですか。ウィーン体制が早くから崩れだしたのはどこですか。ウィーン体制は産業革命の推進には都合がよい環境でしたか。
もう一度読む
step3:この時代の欧米の国々はさまざまな課題をかかえていました。近代化の進め方が争われていた国、統一や独立が課題になっていた国、古い時代の制度の廃止が課題となっていた国を二カ国ずつあげなさい。
hint3::イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、アメリカではどんなことがおきていましたか。
もう一度読む
step4:この時代、積極的に世界への進出を進めたのはどこの国ですか。4カ国あげなさい。
hint4:次の各地域では、欧米のどの国が影響力を強めていましたか。地中海、西アジア、インド、東南アジア、中国、太平洋、アフリカ。
もう一度読む

point1:市民革命の4つの勢力

市民革命では主に4つの勢力が政治的な主導権をめぐり争いました。1つは国王、貴族・地主、聖職者らの旧勢力で彼らは特権を維持しようとしました。2つめは実業家たちです。彼らは自由な経営や財産権の保障を求めました。労働者や市民(狭義の市民で、下層の役人、商店主、知識人など)は平等や生活の安定を求めました。農民は自分の土地を耕すことが願いでした。これらの4つのグループが、時々の状況に応じてさまざまな勢力と手を組み、それぞれの利害を争いました。その組み合わせは、それぞれの国の歴史的背景によりことなっており、そのため市民革命の過程は複雑で、多様なものとなりました。

point2:フランス革命の記憶

ナポレオンによって全ヨーロッパに広められたフランス革命の熱気は人びとの心のなかに自由への火をともしました。いくらそれらを弾圧しても、時代の流れは止められません。しかし、19世紀の初めの段階では、まだ国王や貴族等の旧勢力が力をもっていましたから、反ウィーン体制の戦いは厳しいものになりました。特に、ロシアでは将校等が強い軍隊をつくるために近代化を訴えました。しかし、フランスやベルギードイツなどでは産業革命が進み、19世紀の半ば頃には実業家や労働者が自由を求めて立ちあがりました。

point3:国それぞれの課題

この時代、欧米の各国はそれぞれの課題を抱えながら、近代国家づくりを急いでいました。イギリスとフランスは国の政治の主導権を誰がとるべきか国内で争いが続いていました。ドイツとイタリアは隣国の大国フランスとオーストリアにはさまれたドイツとイタリアはこれらの大国の影響下かだ脱し、自国の統一をめざしていました。また、ロシアとアメリカは国内に残る旧弊である農奴制と奴隷制が近代化の足かせとなっていたため、その廃絶をめぐって国内が不安定になっていました。

point4:19世紀の国際情勢

19世紀の世界では近代化が進んだイギリスと遅れたロシアがユーラシア大陸の各地で覇権争いをしてることです。そこへ、イギリスを追うフランスとアメリカが加わります。さらに遅れて近代化を始めたドイツと日本がその競争に加わり、時代は19世紀末となります。

◆ページのtop