各地域、同時代並行の世界史
速習・世界史・ナビ
home | 速習・世界史・ナビ | 20の時代 | 40の地域
【 E4 : 1650 〜 1800 】
16.ワールド交通圏

●ユーラシア大陸の各地で、大国化の動きが進みました。そのような中、フランスとの戦いに勝ったイギリスが、全世界に積極的に出てきます。その結果、世界はまったく新しい仕組みでつながり始めました。

  1. イギリスとフランスの戦い
  2. アジアの帝国とロシア
  3. 啓蒙思想と消費文化
  4. 北大西洋の三大革命
  5. この頃の日本列島
  6. 文明論の視点
  7. チェックポイント

1.イギリスとフランスの戦い

●アンボイナ事件:インドネシアのアンボイナでイギリス商館員と雇われ日本人がオランダ商館員に拷問をうける事件がおきます。これをきっかけにしてイギリスは東南アジアからインドへとアジア貿易の拠点を移しました。

●英蘭戦争:クロムウェルがはじめたイギリスとオランダの戦争は、オランダ優勢で進みますが、経済的に疲弊したオランダが実質的には敗北しました。

●第二次百年戦争:この時代の骨格は、イギリスとフランスの戦争です。17世紀末から19世紀はじめまでの約100年間イギリスとフランスはヨーロッパの戦争にたびたび関与しながら、世界貿易の覇権を争いました。

●スペイン継承戦争:ウストファリア条約以来、衰退したハプスブルク家に替わってフランスのブルボン家がヨーロッパのリーダーになるべく、ルイ14世の時代に、フランスは積極的に戦争を仕掛けました。ブルボン家からスペインの王を出すことになった時には、多くの国がこれに反対し、スペイン継承戦争に発展しました。結果はフランスの敗北に終わりましたが、ユトレヒト条約でブルボン家のスペイン王を認める代わりに、イギリスはスペインとフランスから多くの植民地を得ました。(スペインからはジブラルタル・ミノルカ島、フランスからはハドソン湾地方・ニューファンドランド・アカデイアをイギリスは得ました。)

●オーストリア継承戦争:オーストリアの王位をめぐる争いではフランスはオーストリアに敵対し、イギリスはオーストリアと手を組みました。この戦争でも、イギリスはアメリカやインドでフランスと戦いつづけました。

●七年戦争:つづく、七年戦争ではオーストリアとフランスが手を結び、イギリスはオーストリアと争ったプロイセンと手を組みました。この時も、イギリスはインドやアメリカでフランス軍を破り、インドでの活動で主導権をとるとともに、ミシシッピーより東側の植民地を得ました。(イギリスはフランスからカナダ、ミシシッピー以東のルイジアナ、ドミニカ、セネガルをスペインからはフロリダを得ました。)

●この結果、イギリスはインド洋周辺と大西洋で植民地活動の主導権を得、フランスを大きく引き離しました。これ動きが、アメリカの独立、イギリスの産業革命、フランス革命へとつながっていきました。

●イギリスの強さの秘密:イギリスがオランダに勝ち、フランスに勝利できたのは、議会の力でした。ピューリタン革命で国王が処刑されましたが、クロムウェルの政治も長続きせず、王政が復活しました。しかし、国王の議会軽視の態度に、再び市民が立ち上がり、国王を追放しました。この名誉革命で、イギリスは議会が中心になって政治を行うようになりました。つまり、イギリスの戦争は議会の意志で行われ、市民が戦争に投資していたのでした。

◆ページのtopstep1

2.アジアの帝国とロシア

●イギリスが大国化していった頃、アジアではオスマン帝国、ムガール帝国、清王朝、ロシアが、それぞれ西・南・東・北で領土を広げて、繁栄の時を迎えていました。

●オスマン帝国:この時代からオスマン帝国はオーストリアやロシアとバルカン半島をめぐって互いに争うようになります。特に、ロシアはピョートル大帝以後、地中海への出口を求めて、黒海に進出するようになりました。

●ムガール帝国:ヒンドウー教徒への寛容な政策によって、イスラム教徒によるインド支配を安定させたムガール帝国は、17世紀アウラングゼーブ帝の時代に最盛期をむかえ、以後、イギリスにより、植民地化が進みました。

●清朝:1644年、明代、毛皮や朝鮮ニンジンの交易で力を蓄えてきた女真族(満州)が台頭し、明を滅ぼしました。やがて、清は全中国を征服し、満州族による中国支配が始まりました。17、18世紀は康熙帝・雍正帝・乾隆帝と優れた皇帝がつづき、清王朝は最盛期をむかえました。このころ、シベリアへと進出してきたロシアと国境を接するようになり、ネルチンスク条約とキャフタ条約により、国境が決められました。

●ピョートル大帝:17世紀から18世紀にかけてロシアでは、ピョートル大帝が積極的に近代化を図り、ロシアを大国へと育てました。バルト海ではスウェーデンと、バルカンではオスマン帝国と争い、中央アジアやシベリアへも進出しました。やがて19世紀、ロシアはユーラシア大陸各地でイギリスと対立することになりました。

●門戸を閉ざす東アジア:明も清も中国はヨーロッパの文化を学びました。しかし、皇帝崇拝の理念を受け入れない宣教師のトラブルが相次ぎ、キリスト教の布教は制限されるようになっていきました。また、朝貢貿易を基本とする中国の伝統と対等を原則とするイギリスのビジネスの要求も相容れず、中国はヨーロッパとの門戸を閉ざすようになっていきました。この動きは、日本や朝鮮でも同様でした。

◆ページのtopstep 2

3.啓蒙思想と消費文化

●科学革命:17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパでは科学についてめざましい発展がありました。自然現象の背後にある神の意志を探ろうとする人びとの営みは、結果として自然科学を発達させました。

●啓蒙思想:自然科学での進歩が影響して、政治や経済など社会の仕組みについても合理的に説明しようとする啓蒙思想が18世紀のヨーロッパで流行しました。特にロックやルソーの社会契約説は国王と戦う市民に大きな影響を与えました。

●イギリスの市民文化:この時代、イギリスでは紅茶を飲むことが流行し、それが習慣となって日常生活に定着しました。砂糖、綿織物などはイギリスの市民にとって欠かせないものとなっていきました。一般市民の日常生活でうまれた流行が貿易と結びつくという現象が成立したのはこの時代からです。

●啓蒙専制君主:イギリスの政治や産業、科学、市民文化はイギリスの強さの象徴でした。ドイツやオーストリア、ロシアなど近代化が遅れている国々では、啓蒙専制君主と呼ばれる国王が自ら自国の近代化を図りましたが、それが、社会に広く定着したとは言えませんでした。

◆ページのtopstep3

4.北大西洋の三大革命

●アメリカ独立革命:フランスとの戦争により財政が厳しくなったイギリスは、植民地アメリカ13州への課税を増やしました。これに対して植民地の人々は反発します。ボストンの港に停泊する船の荷物の紅茶を海に投げ捨てる「ボストン・テイーーパーテイ事件」から始まった騒動は、やがてイギリスからの独立戦争へと発展し、1776年、植民地の人々は独立を宣言しました。

●イギリスとインド:1757年のプラッシーの戦いでフランスを破ったイギリスは本格的にインドの植民地経営にのりだしました。

●イギリス産業革命:インドから輸入された綿製品はイギリスの人々の日常生活に浸透していました。毛織物業者らはこのライバル商品を閉め出すために、インドの綿織物の輸入を禁じます。人気商品の綿織物が輸入されなくなったため、綿花から綿織物をイギリスで生産しようとする人が現れました。このことがきっかけになって、イギリスでは相次いで紡績機や織機が発明され、蒸気機関の開発と結びついて産業革命へと発展していきました。

●フランス革命:イギリスに敗れたフランスでは、不作やイギリス製品の流入などにより、経済不振が続いていました。さらに、戦争による財政の不足を補うため、国王ルイ16世は国民に増税を求めました。これに反対する国民は立ち上がり、国王の権力や貴族や聖職者の特権を制限する憲法を作ろうという動きに発展していきました。

●国民国家の出現:革命の過激化を懸念したルイ16世はオーストリアへ逃亡しようとして失敗します。革命が自国に及ぶことを懸念するオーストリアなどの国々はついにフランスに宣戦布告します。この時、フランス各地から「祖国を救え」と叫びながら人々が起ちあがり、この義勇兵らの活躍により、フランス軍は勝利します。この瞬間に、国民国家が世界史に誕生したのでした。

◆ページのtopstep4

5.この頃の日本列島

●1650年頃は、徳川幕府が国内をやっと統一し、鎖国をして幕藩体制が安定しました。1800年頃は、外国船が日本近海に出現するようになり、武士政権が経済的に追いつめられていました。この間、日本は江戸時代というユニークな時代を体験していました。

●江戸時代、支配者の武士は成長おさえ、できるだけ変化のない社会を政治の力で人為的に維持しようとしました。人びとは互いに干渉し合い窮屈な想いをしながらも、戦争のない平和な時代を生きました。

●特に、都市の人びとは、遊び心があふれた庶民文化を味わい、その後の日本の文化の基礎を形づくりました。

◆ページのtopへ

6.文明論の視点

●フランス革命の新しさ:イギリスの議会は地主階級のため議会でした。アメリカ合衆国の憲法は白人のための憲法でした。しかし、フランス革命はすべての人の権利を宣言していました。そして、そのような国作りを追求しようとしていました。ここにフランス革命の新しさがありました。

●take off:イギリスの産業革命は人びとを土地から切り離し、「労働を売って、必要なものは買って生活する」人びとを大量に産みだしました。これを離陸という意味で「take off」と言っています。

●新しい国アメリカ:「国王がいない大国を市民がつくった。」米国合衆国はこれまでにない国のあり方を世界に示しました。

●北大西洋の三大革命:18世紀末、大西洋をはさんでおきた三つの革命は、新しい社会像をつくり出しました。ひと言で言うと、社会の原理が「身分から契約」へと変わったのでした。このような国家のあり方を「国民国家」、このような社会を「市民社会」と言います。

●血縁社会に代わる新しい社会の仕組みは、ヨーロッパが中心となって世界がつながることで生みだされました。しかし、競争を原理とするこの仕組みは世界中を自分の仕組みに変えてしまうことで成り立っていました。それは次の「F」の時代のテーマです。

◆ページのtopへ

7.チェックポイント

step1:16世紀以来、スペイン、オランダ、フランスをやぶったイギリスの強さの背景は何でしょうか。
hint1:この時代、イギリスが行う戦争の経費は誰が負担し、それは誰が決めていましたか。
もう一度読む
step2:この時代にイギリスとロシアは積極的に国外進出を図るようになりました。その背景には何があったのでしょう。
hint2:ロシアが進出したのはどこですか。イギリスが進出したのはどこですか。
もう一度読む
step3:合理主義的な考え方が、もっとも生活や社会に浸透していたのはどこの国ですか。
hint3:ドイツ、ロシア、オーストリアではなぜ啓蒙専制君主が国の近代化を図ったのですか。
もう一度読む
step4:なぜ、18世紀の後半、北大西洋をはさんで三つの革命がおきたのはなぜですか。
hint4::七年戦争はこの三つの革命とどのような関係にありますか。
もう一度読む

point1:インドとイギリス

最盛期を過ぎたころのインドは、分権化がすすみ、ムガール帝國の支配はインドの隅々までに届いていませんでした。イギリスはこうしたインドの状況につけこんで、インドでの利権を拡大していきました。それに対して、中国は清王朝の支配が官僚制によって確立していました。植民地化の過程においてインドと中国が異なるのは、単にヨーロッパからの距離という地理的な違いだけでなく、歴史的な違いがありました。

point2:遅れた東ヨーロッパ

ドイツ(プロイセン)、オーストリア、ロシアなどヨーロッパの東に位置する地域は、16世紀におきた価格革命の結果、値段の高い西ヨーロッパに穀物を輸出する農業国になりました。その結果、農民はますます地主・貴族に隷属し、貴族の力は強まっていきました。18世紀になると、そのような国内の状態に国王が危機感をもつようになってきます。彼らには、イギリスのめざましい発展が驚異=脅威として映ったのでしょう。

point3:フランスのライバル意識

フランス革命は、イギリスに追い詰められたフランス国王の統治能力を見限り、実業家(ブルジョアジー)自身の手でフランスの近代化を図り、イギリスと対抗しようとした政治革命と見ることもできます。しかし、それはフランスの大衆を目覚めさせ、ヨーロッパ全体を巻き込むドラマへと発展してしまいました。

point4:三大革命の芽は14世紀から

イギリス、フランスは14世紀、毛織物産業で栄えるフランドル地方の支配をめぐって争いました。争いの原因となったフランドル地方は経済の中心地となり、やがてオランダが台頭してきます。また、これらの地域は利潤の追求を認めたカルヴァン派のキリスト教信仰が広まった地域でもありました。北大西洋の三大革命はその頃から準備されていたのかもしれません。

◆ページのtop