各地域、同時代並行の世界史
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●15世紀末から始まった”新航路の発見”により世界貿易の流れが変わり、その結果、世界は大きく変化しはじめました。

【 E3 : 1500〜1650 】
15.アトランテック交通圏
  1. 新航路の発見
  2. 世界を変えた商業革命
  3. カール5世の戦い
  4. フェリペ2世の戦い
  5. 30年戦争
  6. イギリスの革命
  7. この頃の日本列島
  8. 文明論の視点
  9. チェックポイント

1.新航路の発見

●間違いだらけの世界像:「怪物の国」や「黄金の国」や「アマゾネス(女性だけの伝説の国)」など奇怪な世界が待っている、世界へ出て行った頃のヨーロッパ人はそう考えていました。その頃のヨーロッパではそのような書物がまともな学術書として読まれていました。コロンブスもそんな本を読んで航海にでました。

●プレスタージョン伝説:一方で、ヨーロッパ以外にもキリスト教徒が住んでいるという伝説もありました。「プレスター・ジョン伝説」も、大航海時代の航海者たちの船出の動機になっていました。

●世界中をキリスト教徒の国に:ローマ教皇はキリスト教の布教を名目に、キリスト教徒以外の国に対する支配権をスペインとポルトガルに与えました。その結果、ポルトガルはブラジルとアフリカとアジアを担当し、スペインはアメリカ大陸からフィリピンまでの支配を許可されました。

●ポルトガルの成功:インドに到達したヴァスコ=ダ=ガマは、貴重な香料を積んで帰ってきました。莫大な利益を得たポルトガルは、インドから東南アジア、中国、日本へと布教と交易の範囲を拡大していきました。その過程で、マムルーク、マラッカなどの国々は衰退し、インド洋から東アジアにはポルトガルの要塞や商館が建てられていきました。

●さまよえるコンキスタドール:コロンブスが到達した地はアジアではなく、巨大な大陸であることが分かり、さらにマゼラン等の世界周航によって太平洋の存在があきらかになったころ、アメリカ大陸の各地では征服者(コンキスタドール)たちが「黄金の国」や「アマゾネス」を求めて、ジャングルや山岳地帯を荒らし回っていました。

●インカ帝国・アステカ帝国の滅亡:メキシコに入ったコルテスはアステカ帝国を滅ぼし、黄金を略奪しました。ペルーにはいったピサロはインカ帝国の皇帝を殺害し、アンデスの山岳地帯に広がるインカ帝国を滅ぼした。

●銀の発見:1545年、アンデス山中のポトシで銀山が発見され、続いてメキシコでも銀がみつかり、スペインは莫大な利益を得ることになりました。

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2.世界を変えた商業革命

●三角貿易:アメリカの銀はヨーロッパとアジアに渡りました。中国の茶・陶磁器・絹やインドの香料と交換され、それらはヨーロッパへ運ばれました。ヨーロッパへ渡った銀は毛織物と交換され、毛織物はアメリカへと運ばれました。

●アメリカ:アメリカ大陸では、サトウキビが栽培されるようになり、それから作られたサトウはヨーロッパへと運ばれました。このサトウの生産にアメリカの先住民が使われました。彼らは過酷な労働とヨーロッパ人がもたらした伝染病により、その人口をどんどんと減らしていきました。

●アフリカ:銀山の労働とサトウの生産に必要な労働力は、アフリカから補給されました。酒や毛織物や雑貨と交換されたアフリカ人は、劣悪な環境下でアメリカ大陸へ奴隷として運ばれ、その地で人生を終えていきました。

●中国:明代の後半から、中国にはアメリカと日本から大量の銀がもたらされました。農民たちは、絹や茶などの換金作物を生産するようになっていましたので、海外からもたらされた銀は中国の社会を大きく変えていくことになりました。

●日本:ポルトガル人がもたらした鉄砲やキリスト教などの新しい文化や情報、さらに銀などの交易により生まれた新しいビジネスチャンスは日本の社会を大きく変え、戦国の時代は統一へと動き始めます。また、琉球や博多や堺の商人は積極的に東南アジアに進出し、南蛮貿易に活躍しました。

●価格革命:ヨーロッパにもたらされた大量の銀により、ヨーロッパでは物価が高騰しました。このような状況では、物を生産する人が有利になります。地代を貨幣で納めていた農民は高騰する穀物により、利益を得ます。また、ヨーロッパからの輸出品であった毛織物産業の業者や地主も経済的に優位な立場にたちました。

●西欧の領主と東欧の領主:貨幣で地代を得ていた西欧の領主にとって、価格革命は悪夢でした。地代は変わらないのに、物価はどんどん高騰していき、没落する領主も出てきました。一方、現物経済が残る東欧の領主は、農民が納める穀物を、価格の高い西欧に売り、利益をあげることができました。こうして、東欧では領主の力が強まり、西欧とは逆に領主と農民の関係が強化されることになりました。

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3.カール5世の戦い

●成功した政略結婚:ハプスブルク家は幸運な政略結婚で広大な領地を手に入れました。その結果、この時代にはオーストリア、チェコ、ネーデルランド、スペイン、イタリアの一部はハプスブルク家の支配下にありました。まさにハプスブルク家はヨーロッパ帝国になりかけていました。

●皇帝カール5世:1519年、カール5世はフランスのフランソワ1世との激しい競争に勝ち、晴れて皇帝に選出されました。

●イタリア戦争:フランソワ1世はイタリアへ出兵の口実を見つけ、皇帝カール5世と戦いました。この戦争は、イタリアのルネサンスがヨーロッパ各地に伝えられるきっかけとなったり、その後の国王らの戦争の先例となるなど歴史的にも重要な戦争になりました。

●ルターの宗教改革:1517年、ヴィッテンベルク大学の教授ルターはカトリック教会の教えに対して95箇条の質問状を出して、教会批判を始めました。

●ドイツの宗教改革:皇帝に反対する諸侯や農民たちもルターを支持し、皇帝カール5世は難しい問題を抱えることになります。

●イギリスの宗教改革:1534年、イギリスのヘンリー8世は、自分の離婚問題をきっかけに、カトリック教会をやめ、イギリス国教会を発足させます。

●ウィーン包囲:1529年、オスマン帝国のスレイマン1世はフランスと手を組み、オーストリアを攻め、一時はウィーンを包囲します。

●カール5世の引退:あまりに多くの問題を抱えたカール5世は、息子のフェリペ2世にスペイン、弟のフェルデイナント1世にオーストリアを分与し、引退してしましまします。

●アウグスブルクの和議:1555年、新しく皇帝になったフェルデイナント1世は、諸侯にルター派の信仰を認めました。(個人の信仰の自由ではない。)

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4.フェリペ2世の戦い

●フィリピン?:新しくスペイン国王になったフェリペ2世の時代、スペインはポルトガルの王も兼ね(1580〜1640年)、文字どおり「太陽の没することなき帝国」でした。フィリピンの国名もフェリペ2世の名からとられました。

●イギリスの王女を口説いた?:フェリペ2世はイギリスの王女メアリー1世と結婚しています。メアリーの死後、妹のエリザベス1世に求婚し、拒絶されています。エリザベス1世はフェリペ2世の強力なライバルとなりました。

●レパントの海戦:1571年、オスマン帝国の艦隊をスペイン・教皇・ヴェネテイアの連合軍が打ち破りました。この頃のスペインは絶頂期でした。

●カルヴァン派:スイスで宗教改革を主導した思想家カルヴァンは、ドイツのルターと同じように教会によらない信仰のあり方を追求しました。特に、職業を天職とし、職業による利益の蓄財を認めたことから、当時台頭してきた商工業者に多くの支持をえました。

●カルヴァン派の弾圧:カルヴァン派はネーデルランドではゴイセン、イングランドではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン、フランスではユグノーと呼ばれました。そのうち、カトリックの国であるスペインとフランスのカルヴァン派は弾圧されました。

●ネーデルランド独立運動:フェリペ2世に弾圧されたカフヴァン派の商工業者はネーデルランドに亡命しました。ネーデルランドを父カール5世から引き継いだフェリペ2世はネーデルランドに重税をかけたりしたため、ネーデルランドの市民は立ち上がり、反スペインの戦いが始まりました。

●ライバル・エリザベス1世:そこに、ネーデルランドを応援して、ファリペ2世の前に立ちはだかったのがイギリスのエリザベス1世でした。イギリスの海賊ジョン=ドレークの艦隊は無敵艦隊アルマダを破り、ネーデルランドの独立運動を助けました。

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5.30年戦争

●ユグノー戦争:フランスでもカトリック(旧教)とカルヴァン派(新教)の対立が激しくなり、1562年には武力抗争に発展しました。1572年に起きた虐殺事件をきっかけに、両派の対立は激しくなり、新教側にはネーデルランドやイギリスやドイツの新教諸侯が支援し、旧教側にはスペインや教皇が援助しました。

●ナントの勅令:1598年、新教徒のアンリ4世が旧教に改宗して国王になり、新教徒の信仰を認めるナントの勅令により、30年におよぶフランスのユグノー戦争は終わりました。

●チェコの反乱:アウグスブルクの和議のあと、ドイツでも新教徒と旧教徒の争いが続いていました。1618年皇帝フェルデイナント2世がチェコ(ボヘミア)の王に就くと、チェコの新教徒が立ちあがりました。この動きを支持するドイツの有力諸侯(ファルツ)がチェコの国王に選びました。ここにチェコの2人の国王をめぐる争いが始まりました。

●三十年戦争:チェコで始まった新旧の対立は、その後、デンマーク、スウェーデン、フランス、イギリスを巻き込み、30年続きました。その間、戦場となったドイツは荒らされ、民衆は疲弊してしまいました。

●ウェストファリア条約:1648年、ドイツのウェストファリアでヨーロッパ初の国際会議が開かれ、ドイツの諸侯の実質的な独立承認、オランダ、スイスの独立などが承認されるとともに、カルヴァン派の信仰が認められました。

●消えたローマ帝国再建の夢:ヨーロッパ初の国際会議となったこの会議で合意された条約は、神聖ローマ帝国の「死亡証明書」と言われます。これにより、神聖ローマ帝国皇帝の地位が名目的なものになり、ヨーロッパは個々の主権国家が相争い合う勢力均衡の国際社会が始まりました。

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6.イギリスの革命

●スチュアート朝:エリザベル1世の死後、後継者がなかったチューダ朝に代わり、血縁により王位を継いだのはスコットランドのスチュアート朝の時代、イギリスは国王と議会の戦いが展開され、市民革命が成立します。

ジエームズ1世
・スコットランドの王とイングランドの王を兼ねることになったジェームズ1世はイギリス国教会により国王の支配権を確立しようと、カルヴァン派を弾圧しました。
・また、イギリス議会の伝統を軽視し国政を進めたので、国王と議会は対立するようになりました。
チャールズ1世
・外交の失敗、非国教徒の弾圧、増税など、議会無視の政治を続けたチャールズ1世に対し、議会は「権利の請願」を提出して国民の権利を守るように要求しました。
・また、イギリス国教会の儀式をスコットランドのカルヴァン派(長老派=プレスビテリアン)に強制したため、スコットランドと対立してしまいました。

●ピューリタン革命:チャールズ1世はスコットランドでの失政をイギリス国民に対する課税で乗り切ろうとしました。国王に対する反発はとどまるところを知らず、国王派と議会派の対立は内戦へと発展してしまい、国王は国家への反逆の罪に問われて処刑されてしまいました。

クロムウェル
・この革命の中心にあったのが、クロムウェルでした。彼は、16世紀以来、毛織物産業などで経済力をつけてきた新興貴族階層(ジェントリー)の出身でした。
・議会で主流派となったクロムウェルは、農民による鉄騎軍を組織して、国政の主導権を掌握しました。
クロムウェルの政策
・クロムウェルは、アイルランドを占領し、アイルランドの農民から土地を奪い、オランダの船を閉め出し、イギリスの貿易を保護しました。
・この重商主義政策は18世紀以後、ヨーロッパの各国が競うように実施した政策の原形でした。

●毛織物産業:新航路の「発見」によって開かれた新しい貿易によって、毛織物産業が盛んになり、ネーデルランドやイギリスの毛織物産業の業者は活況を呈しました。

ネーデルランドやイギリスでカルヴァン派の信仰が受け入れられていった背景にはこのような事情があったのでした。

●エンクロージャー(囲い込み):イギリスでは16世紀以来、畑を囲い込んで牧羊地にする現象が見られました。

その結果、これまで農業をしていた農民たちは村から追い出され、都市で浮浪者になったり、毛織物産業の工場で雇われたりしました。

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7.この頃の日本列島

●1543年種子島に鉄砲が伝えられ、戦国時代は統一へと向かい始めました。

●この頃の日本は、積極的に海外にのりだし、東南アジアまで出かける商人が多くいました。南蛮貿易が盛んになり、ヨーロッパの宣教師や商人をとおして、世界の情勢が知られるようになりました。

●しかし、全国を統一した徳川家は、鎖国政策をとり、貿易の利益を独占します。日本の鎖国の間、このあとの150年で世界は大きく変わることになりました。

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8.文明論の視点  

●この時代から次の時代にかけて、ヨーロッパでもアジアでも諸王朝の繁栄がピークに達し、豪華な宮廷生活が展開されます。また、各地域の歴史において代表的な人物とされるような為政者が続出しています。

●日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、清の康熙帝・雍正帝・乾隆帝、インドのアクバル大帝、サファヴィー朝のアッバース1世、オスマン帝国のスレイマン1世、ロシアのピョートル大帝、カール5世、フェリペ2世、イギリスのエリザベス1世、フランスのアンリ4世・ルイ14世等々です。

●この背景には、分権社会が終わり、中央集権化が進んだ時代の流れがあります。さらに、世界規模で交易の規模や品目や目的が根底的に変わりはじめていました。各国の為政者たちは中央集権化や富国強兵に専念しました。

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9.チェックポイント

step1:いち早く世界へと出ていったスペインとポルトガルはそれぞれ何を得ましたか。
hint1:スペインとポルトガルはそれぞれ、世界のどの地域に進出しましたか。
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step2:三角貿易で取引された商品は、それぞれの地域でどのような影響を与えましたか。
hint2:銀、サトウ、絹や茶、鉄砲、毛織物はそれぞれどこからどこへ運ばれましたか。
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step3:皇帝の位についたハプスブルク家のカール5世はなぜ多くの敵と戦わなければならなかったのですか。
hint3:カール5世はフランスのフランソワ1世、ドイツのルター、イギリスのヘンリー8世、オスマン帝国のスレイマン1世とそれぞれ何が原因で争ったのでしょう。
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step4:イギリスのエリザベス1世はなぜスペインのフェリペ2世と争ったのですか。
hint4::エリザベス1世はなぜオランダの独立を応援したのでしょうか。
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step5:信仰をめぐる戦いの結着がつけられたウェストファリア条約が神聖ローマ帝国の「死亡証明書」と言われるのはなぜですか。
hint5:ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝とキリスト教とはどのような関係にありましたか。
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step6:イギリスで国王を倒すほどの力をもったのは主にどんな人びとでしたか。
hint6::イギリスで羊を飼うためどのようなことが行われていましたか。
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point

「新航路の発見」の時代、ヨーロッパは各国の国王たちが争って自国の強化に努めていました。役人、裁判官、兵隊などすべて自前で準備しなければならなかった国王等はお金が必要でした。大航海は勿論、宗教改革もお金の問題がからんでいました。イギリスのヘンリー8世は修道院の土地を没収しています。カトリック教会を否定しなければこの政策はできません。

point

アウグスブルクの和議で認められたのは、諸侯単位でのルター派の信仰です。

point

ナントの勅令では、フランスにおけるカルヴァン派の個人単位での信仰です。この時代としては画期的なことですが、ルイ14世によりこれは撤回されます。

point

ウェストファリア条約で、カルヴァン派の信仰が認められます。しかし、これも国や諸侯単位での信仰で、個人の信仰の自由が認められたわけではありません。キリスト教の理念によってヨーロッパの秩序を維持する時代が終わっただけです。ウェストファリア条約の意義はここにあります。

だからこそ「キリスト教文明の守護者」である「皇帝」は不要になったわけです。ウェストファリア条約が「神聖ローマ帝国の死亡証明書」といわれるわけです。新しいヨーロッパは主権国家が相争う世界となりました。

point

この時代、オランダとイギリスだけが突出して、近代的な市民社会をつくりあげているように感じられます。この二つの国に共通するのは、毛織物産業が盛んであったこととカルヴァン派の信仰が普及したことです。このことはきわめて重要です。しかし、毛織物産業はあくまでも農村の牧羊と結びついた産業であり、イギリスの市民革命も地主階級の革命でり、18・19世紀の市民革命とは異なります。

point

近代社会に移行する過程で、農民が経済的に没落し、貧しくなる現象が必ずおきます。これを「本源的蓄積」といいます。これにより、工業化の資本が準備されると考えられています。毛織物産業により栄えたイギリスでは商業革命の影響がこのように現れたわけです。

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