●この時代のユーラシアは東の明と西のテイムールに象徴されます。いずれの国もそれぞれの意味でモンゴル帝国をひきずっていました。
●明(前半):元は紅巾の乱によって滅びます。この乱に身を投じた貧農出身の朱元璋(洪武帝)が明をおこし南京に都を開きます。金と元という北方民族の支配がつづいたため、明では北方の守りを固め、海禁政策をとって民間の海洋貿易も禁じました。
●永楽帝の親政:北方の守りについていた燕王は洪武帝の死後、クーデターをおこし、永楽帝として皇帝の位につき、都を北京に移し、積極的な対外施策をとりました。モンゴル高原に自ら遠征し、宦官の鄭和をインド洋からアフリカ沿岸まで数回にわたって派遣しました。
●北虜南倭:永楽帝の死後、宣統帝はオイラト(モンゴル系)のエセンに捕虜にされるなど(土木の変)、再び北方民族の脅威にさらされました。やがて、東南海岸では倭寇の活動が激しくなり、明王朝は北虜南倭に苦しみ続けました。
●テイムール帝国:テイムール帝国を築いたテイムールはモンゴル帝国の再興をめざして、西アジアをおさえると東へ向かいまが、途中で病没し、テイムール帝国は弱体化します。
●トルコ=イスラム文化:イル=ハン国時代に成熟したイラン=イスラム文化がテイムール帝国の都サマルカンドでさかえ、トルコ=イスラム文化として発展し、やがてトルコ(オスマン帝国)、インド(ムガール帝国)、イラン(サファヴィー朝)の3大帝国に引き継がれていきました。
●東シナ海:明の海禁政策は東シナ海と南シナ海の接点に位置する琉球王国に有利に働き、この時代に中継貿易によって繁栄しました。ジャンク船と陶磁の道に象徴される海上貿易にも中国は伝統的な朝貢貿易の枠組みを超えて関わることはありませんでした。琉球王国や日本の勘合貿易や倭寇の活動はそうした東アジアの海上貿易の隙間に活躍の道を見つけたものでした。
●南シナ海:東南アジアにイスラム教が浸透する過程で活躍したのはムスリム商人とイスラム神秘主義者(スーフィー)でした。14世紀末、マレー半島におきたマラッカ王国はジャワのマジャパヒト王国をおさえて南シナ海とインド洋を結ぶ中継貿易で栄えました。
●インド洋:中国の絹や陶磁器、東南アジアやインドの香料は、ムスリム商人により、ダウ船に積まれて、インド洋を越えて紅海、ナイル川を経て地中海に運ばれました。
●マムルーク:アッバース朝の衰退、滅亡など政治的な混乱が続いたバグダードに代わり、紅海、ナイル川、地中海のルートに物資が流れるようになると、カイロやアレクサンドリアが交易の中心にとして栄えるようになりました。
●地中海:東方からもたらされた商品はコンスタンテイノープル、ヴェネチア、イベリア半島など地中海各地に運ばれました。これらの商品以外に、製紙法、羅針盤、火薬はじめ、サトウキビ、綿などの栽培がシチリアやイベリア半島を経てヨーロッパにもたらされました。
●都市の発達、交易の活発化にともない農村にも貨幣経済が浸透し、封建社会が崩壊がいっそう進みました。
●ペスト大流行:1347年頃から、ヨーロッパではペストが大流行し、人口の三分の一が失われるという惨事がおきます。農民の人口が激減した農村では、領主がこれまで以上に地代を取り立てるようになると、各地で農民の反乱が起きました。(ジャックリーの乱、ワットタイラーの乱)
●百年戦争(1339〜1453):フランスでカペー朝からヴァロア朝に替わると、イギリスは王位継承権を主張し、百年戦争が始まりました。一時、フランスは負けそうになりますが、ジャンヌ=ダルクの活躍で形勢は逆転し、イギリスはフランス国内のほとんどの領地を失いました。この戦争の背景には毛織物産業で栄えるフランドル地方の領有争いがありました。
●この戦争で、イギリスでもフランスでも騎士階級が衰退し、封建社会の崩壊がさらに進みました。特に、イギリスではさらに、王位継承権をめぐりバラ戦争が続き、騎士階級の没落は決定的になりました。
●教会批判の動き:1378年、イギリスのウィクリフは聖書の英訳を企てるなど聖書主義にもとづき教会を批判しました。ボヘミアのフスはウィクリフの思想に影響を受け、教会改革を提唱しました。彼はコンスタンツの教会会議に召喚され、火あぶりの刑を処せられました。
●ハプスブルク家の台頭:皇帝のカール4世は金印勅書を発表し、3人の大司教と4人の諸侯に皇帝選出の選挙権とともに自治権を与えて、ドイツの領封分立状態は決定的になりました。そのような中、皇帝の位についたハプスブルク家は皇帝の位を世襲化し、次第に力を持ち始めました。
●カルマル同盟:10世紀ごろキリスト教を受け入れて王国となった北欧の三国では14世紀末、デンマーク女王マグレーテが中心となってカルマル同盟が成立し同君連合の王国が成立しました。
●アンカラの戦いでテイムール帝国に負けたオスマン帝国はバルカン半島に侵入し、ビザンツ帝国は難攻不落のコンスタンテイノープルを残すだけとなりました。
●バルカン半島:難攻不落のコンスタンテイノープルを陥落させたのは、オスマン帝国のメフメト2世でした。4.8キロの道のりを丘を超えて50隻の軍艦を運び、防備の手薄な金角湾から攻めたのでした。ここに1000年続いたビザンツ帝国が滅亡しました。
●ロシア:ビザンツ帝国の最後の皇帝の姪ゾエは戦乱を逃れて、モスクワ大公国のイヴァン3世に嫁いでいました。そのため、モスクワ大公国がツアーリ(皇帝)の称号と紋章を引き継ぎました。ローマ帝国はロシアの地で生き延びたのでした。ロシアはこの後、帝国への道を歩き始めます。
●ルネサンス:一方、コンスタンテイノープルから多くの学者や古代ギリシアの書籍がイタリアへ逃れました。そのため、イタリアでは14世紀から続いていた文芸復興(ルレサンス)の機運がさらに高まり、イタリア=ルネサンスが華開くことになります。
●大西洋時代へ:コンスタンテイノープルの陥落により、東地中海の交易の秩序が変わりはじめます。商業の中心が大西洋へと基軸を移し始めます。15世紀の中頃より、ポルトガルのエンリケ航海王子はアフリカ沿岸を南下する探検を続けていました。そして、1489年バルトロメウ=デイアスはアフリカ最南端の喜望峰へ到達します。
●1479年、カステイリアのイザベルとアラゴンのフェルナンドが結婚し、両国は合併してスペインになりました。
●そんな折り、500年間に渡って続いてきたレコンキスタが完了します。グレナダが陥落した1492年ジェノヴァの商人コロンブスはスペインの女王イザベルの援助で西回り航路により、アメリカ大陸に到達します。さらに1498年ヴァスコ=ダ=ガマはインド洋を渡り、インドへと到達しました。新しい時代が始まっていました。
●南北朝の動乱を経て成立した室町幕府の時代に、地方の勢力がいっそう力を増し、やがて、戦国時代に突入します。
●この時代、日本の海洋民が中国をはじめ、東南アジアに進出し、盛んに交易を行います。
●宋や元の時代に発明された火薬、活版印刷術、羅針盤がイスラムを経て、ヨーロッパに伝えられます。これらの技術は騎士の時代を終わらせ、教会の権威を失墜させ、大航海時代を導きました。
●陸のルートで運ばれたのは絹や香料などの奢侈品でした。それらは王族や貴族が主に消費しました。しかし、中国の陶磁器などは馬やラクダをつあkった陸上貿易にはむきません。やはり、船による交易が必要になります。さらに、つぎの時代、日常消費財が交易の対象になると、運搬の量も多くなります。船による交易は庶民の生活を変える力をもっていました。
7.チェックポイント
point1:モンゴル後のユーラシア大陸
現在残っている万里の長城の多くは、明の時代に修復されたものです。明がいかにモンゴルの再興をおそれていたか、それからもよく分かります。
point2:海の時代が本格的に始まった
明の万暦帝は、元の時代に始まった海上貿易をひきついて、積極的にその経営に乗り出しました。しかし、それは後の皇帝たちにひきつかれることはありませんでした。
point3:封建社会の崩壊が始まった
ペストの大流行によって、農民の人口が激減したため、領主たちは追い詰められていきました。ヨーロッパでも新しい時代が始まっていました。
point4:コンスタンチノープルの陥落が象徴すること
千年以上続いてきた東ローマ(ビザンツ)帝国が滅び、地中海を追われたヨーロッパの商人たちは、やがて、大西洋へと目を向け始めます。ここでも新しい時代が始まっていました。