●モンゴル帝国の成立:空前絶後の大帝国がユーラシア大陸に出現します。なぜ、モンゴル帝国の征服は成功したのでしょう。
●前史:南宋と対立関係にあった金は、背後を攻められないためにモンゴル諸部族に干渉して、互いに対立するようにし向けていました。そのような分立抗争のなかからチンギス=ハンが現れます。幼名テムジンは1206年クリルタイ(会議)によってハン(遊牧民の指導者)の位につきます。
●征服:モンゴルの征服は5代ハンの時代まで約70年にわたって続きました。
●成功の背景:モンゴル帝国の成功の背景には次のようなことが考えられます。遊牧民の機動力と戦闘力を合理的に組織し、それをきわめて効果的に利用したことです。そのためにはオアシス民のネットワークを利用して情報を集め、恐怖の噂を流して少ない戦力を温存させる情報戦略を活用しました。
●モンゴル帝国の分裂:ハンの位の継承をめぐりオゴタイの一族とトウルイの一族の間には対立がありました。ハイドウの乱を経て、ハン位継承の争いは終わりましたが、モンゴル帝国は大きく二つの勢力が生じました。この対立によって海のルートが活発になりました。
●陸のモンゴル:ロシアを支配したキプチャク=ハン国と中央アジアを支配したチャガタイ=ハン国は互いに結び、陸のルートをおさえていました。また、エジプトのマムルーク朝と手を結び、イル=ハン国と対立しました。
●海のモンゴル:西アジアを支配したイル=ハン国と東アジアを支配した元朝は海のルートでつながり、十字軍でエジプトのマムルークと対立するヨーロッパ勢と手を結びました。
●元朝:南宋を滅ぼし、元朝をおこしたフビライはモンゴル高原と中国を支配することになりました。彼は南宋時代に発達した経済力を活用し、東南アジア、イスラム世界との貿易を活発にすることを考えていました。この元朝の時代は東ユーラシアに新しい動きが始まりました。
●南海経営:フビライはパガン朝を征服し、インドネシアにも遠征しています。また、日本へも二度にわたって軍隊を送るなど、海上貿易に並々ならぬ意欲を持っていました。この海をへて西アジアのイル=ハン国との結びつきを強めていきました。東南アジアにイスラム教が本格的に入ってきたのもこの時代でした。
●人材の活用:元朝の時代は科挙は中断され、モンゴル人→色目人(西アジア・中央アジア人)→漢人(旧金朝)→南人(旧南宋)の順で人材が重用されました。そのため、西方の文化がもたらされました。また、科挙が中断されていたため、士大夫層(知識人)らは大衆文化の創造にエネルギーをむけ、元曲などの戯曲が多く書かれました。
●ユーラシア交通圏:内陸ルートにはモンゴル当初からジャムチと呼ばれる駅が整備され、牌符(はいふ)などのパスポートも利用されました。大都の建設により、陸と海のルートがつながり、文字通りユーラシア交通圏がここに完成しました。
●モンゴル帝国を旅した人びと:
- ・ルブルック
- 仏王ルイ9世の親書を持ち、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国をへてカラコルムにいたる。
- ・プラノ=カルピニ
- 教皇の親書をもち、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国をへてカラコルムにいたる。
- ・モンテ=コルヴィノ
- 海路で大都に至り、中国で初めてカトリックを布教する。
- ・マルコ=ポーロ
- ヴェニスの商人。フビライへの教皇の親書をもち、イル=ハン国、テャガタイ=ハン国を経て、大都へ至たる。フビライに仕え、海路イタリアへ戻る。「世界の記述」(東方見聞録)
- ・イブン=バトウータ
- モロッコの大旅行家。西アジア、地中海、ビザンツ帝国、イル=ハン国を経て海路で泉州までいたる。「三大陸周遊記」執筆
●ユーラシア交通圏の成立により、西アジアや地中海にも東アジアや南アジアのものや情報がさかんにもたらされるようになりました。
●モンゴルの征服が始まったころ、ヨーロッパは十字軍でイスラム勢力に負け続けていました。その結果、ヨーロッパでは新しい変化が始まりました。
●まず、十字軍の失敗により、教皇や騎士は社会的な力を弱めます。反対に国王は商人と手を結び、力をたくわえていきました。また、貨幣で地代を払うようになった農民は経済的な力をたくわえていました。
●このころの各地域の動きがその後のヨーロッパの国々の元となります。
- イベリア半島
- ・レコンキスタが続くイベリア半島では、グラナダに拠点をもつイスラム勢のナスル朝をヨーロッパ勢のポルトガル、カステイリア、アラゴンが押す状況が続いていました。
- ・その過程で、これらの王権が確立していきました。
- イギリス
- ・フランスから王をまねいて始まったイギリスのプランタジネット朝時代、課税問題などで国王と聖職者・貴族・都市市民との間で争いが続きました。
- ・その結果、議会が成立し、後の議会政治の基礎が築かれました。
- フランス
- ・強い国王がつづき、王権の拡大を図りました。異端とされたアルビジョア派の討伐により南フランスにも力をのばした国王は、教会課税問題を発端に教皇と争いました。
- ・国王は教皇を襲撃し(アナーニ事件)、さらに教皇をフランスのアビニョンに幽閉する事態を引き起こしました(教皇のバビロン捕集)。こうして、フランスのカペー朝は国内基盤を強化していきました。
- イタリア・ドイツ
- ・ドイツ王とイタリア王を兼ねた神聖ローマ帝国皇帝は、イタリア政策にそのエネルギーを費やし、ドイツは分裂状態にありました。
- ・イタリア国内も皇帝派(ギベリン党)と教皇派(ゲルフ党)の抗争があちこちに見られ、分裂状態にありました。
- ・そのようななか、北ドイツの都市が団結してハンザ同盟が結成され、一大勢力に成長していきました。
- ・また、北イタリアの都市もロンバルデイア同盟を結成し、皇帝と争いました。皇帝はその影響力を失い「大空位時代」を迎えました。
- ロシア
- ・キプチャク=ハン国の支配にあったロシアでは、「タタールのくびき」と呼ばれた苦しい時代がつづきました。
●鎌倉幕府が成立し、武士の時代が本格的にはじまりますが、二度にわたる元寇により、鎌倉幕府は衰退します。
●守護、地頭など地元の勢力が力を増し、古代の中央集権的な傾向が弱まり、分権社会的な傾向が要素が強まります。
●この時代からアジア各地では遊牧系の民族による征服王朝が主流になります。しかも、モンゴル系、トルコ系、ツングース系の征服王朝が20世紀まで続きました。
●前の時代からはじまった分権社会の傾向がいっそう進んだこと、遊牧民対策の防衛費が不要になることなどが背景として考えられます。
7.チェックポイント