●国際的文明:この時代を代表する二大帝国は、いずれも周辺民族を積極的に取り込む仕組みを作り出し、巨大な文明圏を形成しました。
●タラス河畔の戦い:751年中央アジアの真ん中タラス河畔で、イスラムと唐王朝の軍隊がぶつかります。結果は唐の敗北に終わりますが、その時、中国の製紙職人が捕虜になり、製紙技術がイスラムに伝わりました。
●紙が支えたイスラム文化:それまで、西ユーラシアでは文字は羊の皮などに書かれていました。高価な羊の皮に書かれた文字は水で消すことができ、記録には不向きな媒体でした。しかし、紙の普及により、以後イスラム社会の官僚化が進み、文化も栄えます。これはイスラム社会にとって大きな変化へのきっかけとなりました。
●イスラム帝国:唯一絶対の神アッラーに帰依し、六信五行を忠実に実行する教えであるイスラム教は、イスラム教を信じる人びと(ムスリム)に共通の法と社会秩序を実現しました。こうしてイベリア半島からインダス川にいたる地域に民族を超えた一大都市文明が出現しました。
●随の失敗:分裂の時代を終わらせた隋は高句麗や突厥など北方民族との戦いに失敗し、短命に終わりました。
●唐の成功:続く唐は、周辺民族に対する中国の優位な立場を確立しました。突厥やウイグルなどの遊牧民とは姻戚関係を結び、新羅や渤海などの隣接する国々には官職を与えて冊封国にしました。
●冊封体制と東アジア:日本やカンボジアなどの国々は唐の皇帝に朝貢し、さまざまな文物を中国から得ました。また、国境には都護符をおいて守りを固めながら、諸民族には自治を許す羈縻政策をとりました。(羈縻とはゆるんだ手綱でつながれながら飼い主に導かれる家畜のさま。許された範囲での自由を許す政策)
●イスラーム:イスラームとは唯一絶対の神アッラーに帰依するという意味です。日常生活のすみずみまで取り決める強烈な宗教により、西アジアでは安定した社会が成立し、イスラム文化が花咲きます。
●メッカの繁栄:ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの対立が続くなか、地中海とインドを結ぶ貿易はアラビア半島や紅海を経て行われるようになり、アラビア半島の商業都市メッカが栄えます。しかし、繁栄は貧富の拡大とモラルの荒廃を生みました。
●ムハンマドとイスラーム:ムハンマドの出身地メッカは多神教の神々が祭られる門前町でもありました。クライシュ部族ハーシム家出身のムハンマドは隊商の旅先で一神教であるユダヤ教やキリスト教を知り、強い影響を受けます。やがて、アッラーの啓示を受けたムハンマドの苦しい布教活動が始まります。
●メデイナでの成功:メッカでの布教活動は弾圧され、ムハンマドは隣町のメデイナに移住します(ヒジュラ622年)。メデイナでのムハンマドは外からやってきた「調停者」として歓迎され、不安定な部族社会に秩序をもたらしたのです。ムハンマドの成功は、多くのアラブ部族の支持を受け、イスラム教徒(ムスリム)の共同体(ウンマ)は強力な集団に成長していきます。
●ムハンマドの死と正統カリフ:メッカの町を取り戻し、アラブ族をほぼ統一した頃、ムハンマドは死去します。ムハンマドのカリスマ性に支えられていたウンマに危機が訪れます。その時、ムハンマドとこれまで苦労をともにしてきた信者らが中心となって、「神の使徒(=ムハンマド)の代理人」という意味のカリフの位を設け、それにアブー=バクルを選んで、結束とジハード(聖戦)を呼びかけます。
●ジハードの成功:その後、ウマル、ウスマーン、アリーがカリフに選ばれ、ジハードによってササン朝ペルシアは滅び、アラブ族は西アジアの支配者に成り上がります。
●ウマイヤ朝(アラブ帝国):四代カリフ、アリーが暗殺され、三代カリフであったウスマーンのウマイヤ家のムアーウィアがカリフの位につきます。ウマイヤ朝はダマスクスに拠点を移し、さらにジハードをつづけ、イベリア半島からインダス川流域にわたる広大な領地を支配します。
●アラブ帝国の矛盾:しかし、ウマヤイ朝はアラブ人が非アラブ人を支配するアラブ帝国であり、イスラムに改宗した非アラブの人びとは不公平な税制に不満を持ちました。(地租のハラージュも人頭税のジズヤも非アラブ人だけが負担しました。)さらにカリフの地位を独占するウマイヤ家にアッバース家やアリー家の人びとも不満を募らせていました。やがて、それは反ウマイヤ朝の動きへと発展していきました。
●イスラム帝国の成立:ウマイヤ朝打倒の革命運動は成功し、ウマイヤ家はイベリア半島まで逃れて後ウマイヤ朝を建てました。新たに成立したアッバース朝はアラブ人による支配をあらため、イスラム教徒による帝国づくりをめざしました。そのため、ムスリムはジズヤ(人頭税)は払わなくてよいが、地租(ハラージュ)はムスリムも非ムスリムも払うようにしました。
●アッバース朝の繁栄:また、アラブ人の影響力を帝国の運営からのぞくため、カリフを中心とする中央集権体制をめざし、官僚としてイラン人を、軍人としてトルコ人を活用しました。新しい都バグダートは国際都市として栄え、アッバース朝はイスラム帝国として繁栄しました。
●西ヨーロッパの成立:この時代、ヨーロッパではローマ教皇とフランク王国が手を結び、西ヨーロッパ世界の核が生まれます。こうして、ビザンツ帝国に対抗する勢力としての西ヨーロッパが成立しました。
●カール=マルテル:カール=マルテルはメロヴィング朝の宮宰として、トウール=ポアテイエ間の戦いでムスリム軍を撃退し、手柄を立てます。
●ピピン3世:カール=マルテルの子ピピン3世は王権を奪い、カロリング朝を始めます。ランゴバルド王国を攻め、ラヴェンナ地方を教皇領として寄進します。
●カール大帝:アヴァール人を撃退し、ランゴヴァルド王国を滅ぼしたカールは教皇レオ3世により、西ローマ帝国の皇帝となります。
●動乱の時代を終わらせ、南北を統一したのは北朝の北周でした。中国全土を統一して隋と改めた北周は、魏晋南北朝時代の遺産を活用しました。
- 大運河
- 開発が進み今や中国を支える穀倉地帯となった「江南」と都を結ぶ大運河を掘ったのはその代表的な政策でした。
- 公地公民の伝統
- また、動乱の時代に諸王朝が国内を安定させるために試みた諸制度を集大成し、均田制・租庸調・府兵制を整備しました。
- 科挙の導入
- さらに、官僚の採用制度を改め、科挙という試験制度を導入します。これらの改革は、その後の中国の発展の基礎となりました。
- 貴族政治
- 導入された科挙制度はすぐにはその成果を発揮できませんでした。南朝を中心に台頭した貴族層は重要な官職を占め、その地位を利用して私有地を広げていきました。唐の時代はよくも悪くも貴族の時代でした。それは文化の面に強く表れています。
●中国の歴代王朝は主に4つの段階を経て興亡を繰り返しています。
●遣隋使・遣唐使の覇権、大化の改新、大仏建立、全国に国分寺建立。あたかも西洋の文明の導入を急いだ明治の日本のようです。新しく生まれた隋・唐帝国、その建国の過程にからんだ朝鮮半島の統一をめぐる戦乱。これもまた、開国を迫られた幕末のころの日本によく似ています。
●20世紀に世界には同じ国際法に基づく世界があり、190余カ国がそこで国際社会を形成していると、信じられていました。しかし、冷戦が終わり、東西の対立により「凍結」させられてきた歴史の遺物が続々と息吹を吹き返しはじめました。世界には、ヨーロッパの国々が世界に押しつけていったヨーロッパ国際法の秩序と、その他にイスラム教にもとづく世界秩序と、中国を中心とした東アジアの伝統的な世界秩序があることがはっきりしてきました。
●イスラムの人びとと中国の人々はこの「入れ子」状態になった二重の国際秩序に少なからず、いらだちを感じながら、「国際社会の一員」を演じているのかも知れません。
●イスラムと東アジアという国際秩序はこの時代に形成されました。
7.チェックポイント