各地域、同時代並行の世界史
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【 D1 : 300 〜 600 】
10.古代文化のともしび

●古代帝国がユーラシア大陸の各地で分裂したり、滅亡したりし、周辺民族が古代帝国の領内や周辺で活発に活動し始めます。周辺の諸民族は古代文化を積極的にとりいれ、各地で古代王権が生まれました。また、それらの地域では古代帝国の時代に育った宗教が広がっていきました。周辺民族と古代帝国の関係はどのようになっていったでしょう。

  1. 遊牧民族の台頭
  2. 東ユーラシアの情勢
  3. ローマ帝国とゲルマン人
  4. 西ユーラシアの情勢
  5. この頃の日本列島
  6. 文明論の視点
  7. チェックポイント

1.遊牧民族の台頭

●匈奴の分裂:漢との長い戦いの末、匈奴は分裂し、一部は中国文化を受けいれ、中国人化していきました。また、一部は中央アジアへと向かいました。

●謎のフン族:西へ向かった匈奴の一部は、同じ頃黒海北岸にあらわれ、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族ではないかと言われています。

●エフタル族:イラン系とも匈奴とも言われているエフタル族はアフガニスタンを拠点に、ササン朝やインドのグプタ朝を脅かしていました。

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2.東ユーラシアの情勢

●魏晋南北朝と呼ばれたこの時代は、動乱の時代でした。北には遊牧民が流入し、南では江南開発が進み、中国文化に新しい要素が付け加わりました。

●三国時代:漢(後漢)が滅ぶと、中国は魏・呉・蜀の三国に分かれ、互いに覇権を争います。その中から晋(西晋)が現れ、統一を実現しますが、国内の紛争に北方の遊牧民族の力をかりるなどし、次第に遊牧民族が中国国内に流入します。

●北朝:華北に流入した五胡と呼ばれた遊牧民族(匈奴・鮮卑・羌・羯・てい)は次々に建国しました。五胡十六国時代と呼ばれた華北を統一したのは北魏でした。遊牧民の文化を捨て、中国化したこの時代、雲崗の石窟がつくられるなど仏教も伝えられ、質実剛健な文化が栄えました。

●南朝:北から逃げてきた人びとは西晋を建国するとともに、長江流域の開発を行い、豊かな貴族文化が生まれました。

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3.ローマ帝国とゲルマン人

●ゲルマン民族の移動:分裂した匈奴の一部は西へと進み、フン族と呼ばれる人びとがヨーロッパへ侵入する原因となります。これが引き金となり、ローマ帝国の周辺にいたゲルマン民族の大移動が始まります(375)。

●ローマ帝国の衰退と分裂:4世紀に入りローマ帝国ははっきりと衰退の道をたどり始めました。この時代を象徴する三人の皇帝がいます。キリスト教徒への最後の大弾圧を行ったデイオクレテイアヌスは専制君主政を始めました。キリスト教を公認したコンスタンテイヌス帝は都を遷しました。そしてキリスト教を国教にしたテオドシウス帝の時代にローマ帝国は東西に分裂しました。

●東ローマ帝国:大移動してきたゲルマン民族は滅亡した西ローマ帝国の各地に王国を建国します。一方、東ローマはゲルマン諸王朝と戦いながら、ローマ帝国の復興をめざし、コンスタンテイノープル教会を中心に、スラブ人にギリシア正教を広めていきました。

●ローマ教会:コンスタンテイノープルの教会と主導権を争うローマ教会のグレゴリウス1世は、その頃イタリアのモンテ=カッシノに修道院を開き活動を開始したベネデイクトウスの活動を支持し、急速に影響力を強めていきました。

●ローマ教会とゲルマン人:滅亡した西ローマ帝国の後、ゲルマン諸王朝の興亡が続きます。その中からフランク族が力をつけて台頭します。フランク族のクローヴィスはいち早く、正統派のアタナシウス派に改宗し、教会との結びつきを強めていきました。(ニケーアの公会議において三位一体説をとるアタナシウス派が正統とされ、キリストの人性を強調するアリウス派は異端とされました。)

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4.西ユーラシアの情勢

●ビザンツ帝国:ゲルマン民族の諸国家が続々と建国されるなか、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝ユステイニアヌス帝は北アフリカのヴァンダル王国やイタリア半島の東ゴート王国を滅ぼし、ローマ帝国の再興を図りました。

●ササン朝ペルシア:イラン高原のササン朝ペルシアはメソポタミアの領有をめぐって、ビザンツ帝国と争いを続けていました。ササン朝ではペルシア語が公用語とされ、ゾロアスター教が国教として信仰されるなど、ペルシア文化が栄えました。

●オアシスの民ソグド人:イラン系のソグド人は西トルキスタンを根拠地として、中央アジアの交易で活躍し、その活動範囲は中国にまでおよびました。

●グプタ朝:インドでは、ガンジス川流域から興ったグプタ朝が北インドを統一し、古代インドの文化が栄えました。特に、サンスクリット語が公用語とされ、ヒンドウー教がバラモン教と民間信仰が融合して生まれたヒンドウー教が広く信仰されるようになりました。バラモンが中心となった社会が形成されたのもこの時代でした。

●パラッヴァ朝:沿岸インド・デカン高原ではパッラバ朝が海上貿易でさかえ、東南アジアへと進出してヒンドウー教や大衆部仏教を伝えました。

●東西・南北の交易ルート:地中海と中国を結ぶ東西の交易ルートの他に、中央アジアからアフガニスタン、南インドへと至る東西の交易ルートがありました。アフガニスタンやイラン高原はこの東西・南北につながる交易ルートの交差点に位置していました。

●アラビア半島の繁栄:ビザンツ帝国とササン朝の対立が続いたこの時代、新たにアラビア半島や紅海をへてインドへ至る海のルートが利用されるようになりました。イスラム教をかかげたアラブ人の躍進はこのような時代を背景にはじまりました。

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5.この頃の日本列島

●朝鮮半島から渡来人が伝来し、大陸の古代文化を日本に伝えます。仏教が伝わったのもこの時代のことでした。

●大和朝廷:大和朝廷が各地の諸王権を平定し、関東から九州までを統一します。

●この時代の日本人はどんな動機から仏教を受け入れたのでしょうか。伝来した仏教に関わりを持ったのは渡来人や大和朝廷の権力の中枢にいた人びとでした。仏教は新たにもたらされた新知識のひとつでした。当時の民衆にとっては新しい呪術のひとつのようなものだったかもしれません。

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6.文明論の視点

●ツリーを飾り、イエスの誕生日を祝うクリスマスの風習はどう考えても、砂漠で生まれた習慣とは考えられません。ヨーロッパのキリスト教にはゲルマン人の習慣や自然観がたくさん交じっています。キリスト教がゲルマン人に伝わる過程で、キリスト教はリメイクされたのでした。

●同じようなことが、日本の仏教についても言えます。伝統社会の秩序が崩壊し、新しい社会の秩序が求められている中で生まれた古典思想が、伝統社会の秩序が色濃く残る地域に入っていったとき、それはその地域のその時代の人によって読み替えられてしまいます。このことは、宗教以外の文化についても言えることです。周辺民族の古代文化には、その民族固有の呪術性や神話的世界観が残り続けました。

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7.チェックポイント

step1:この時代、ユーラシア大陸の各地ではどのような遊牧民族の動きがありましたか。
hint1:東アジア、ヨーロッパ、南アジアや西アジアではそれぞれどのような遊牧民が活動しましたか。
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step2:遊牧民族は中国の政治や文化にどのような影響を与えましたか。
hint2:この時代の中国の北部と南部ではどのような文化が栄えましたか。
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step3:キリスト教はローマ帝国の分裂と滅亡の時代をどのように生きのびましたか。
hint3:ゲルマン民族はキリスト教とはどのようなかかわりがありましたか。
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step4:この時代、西ユーラシアの交易はどのような状況にありましたか。
hint4:地中海、西アジア、インドにおける交易活動はどこの国が支配していましたか。
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point1:その後の漢とローマ
東西の二つの古代帝国は、この時代によく似た歴史を展開します。中国は南北に分かれ、南の開発が進むと同時に、北では新しい文化が育ちました。ローマは東西に分裂し、西にはゲルマン人らが古代文化を吸収していきました。
分裂の時代を経て、この二つの地域では次の時代には新しい文化が芽生えます。
point2:遊牧民族の台頭
この時代には、ユーラシア大陸の各地では遊牧民族が活発な動きを示すようになりました。やがて、ユーラシアの歴史の大きな流れは、これらの遊牧民族の動向によって決まっていくことになります。
point3:分権化への傾向
ローマや漢が小農民に依拠した中央集権的な国家をめざしたのに対し、この時代からは台頭する地方の実力者の下に土地が集中し、これらの大土地所有者の権力に基づく国づくりがめざされました。特にこれらの大土地所有者は軍人や武人の地位を得て、配下の人々を保護し、支配しました。

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