●ローマ帝国の拡大:強いローマは軍隊を派遣し他民族を征服し、つぎつぎに属州をひろげていきました。地中海沿岸からブリタニア(イギリス南部)、ライン側西岸を支配下にいれたローマは2世紀最盛期をむかえました。
●パンとサーカス:属州からは奴隷と税として穀物などがローマ帝国に送られ、皇帝はその財力で都市を飾り立て、コロセウム(競技場)では見せ物が催され、市民には食事や浴場などの快適な都市生活が保証されました。「ローマの平和」とはこのよううに、属州民と奴隷の犠牲のうえになりたっていました。
●属州のユダヤ人:一方、「ローマの平和」のかげで苦しむ人々がいました。パレスチナのユダヤ人もそうした人々のひとつでした。過酷な税をとりたてられ、苦しい生活のなかで、いっそう厳しい信仰の道を説く人々がいました。しかし、生活の細々したことまで定めたこのユダヤの律法を守ることのできた人は宗教家やお金持ちなど限られた人々だけでした。
●メシア信仰:ユダヤの大衆はローマから税をとられ、ユダヤのエリートには心を支配されました。この二重の苦しみから、人々の間にメシア信仰がひろまっていきました。いつか「メシア(救世主)」があらわれ、自分たちを救ってくださる、と信じてユダヤの大衆は厳しい生活に耐えていました。
●イエスの出現:このような状況のなかで、何度も聖書(旧約聖書)を読みこみ、「神の愛をこころから信じることこそユダヤ教の正しい信仰のあり方だ。」と説く青年があらわれました。このイエスと呼ばれたこの青年こそメシアだとする声が次第に高まり、イエスはユダヤの支配者とローマによって処刑されてしまいます。
●キリスト教の成立:イエスの死後、「イエスは復活した。」「イエスこそメシアだった。」「イエスの言っていたことは真実だ。」「われわれは神の愛につつまれ、救われているのだ。」こう信じる人々が増えはじめ、この信仰はローマの支配に苦しむ人々の間に民族を越えてひろまっていきました。
●キリスト教の弾圧:ローマはキリスト教を300年にわたって、弾圧しましたが、信仰を抑えることができなくなり、313年、皇帝コンスタンテイヌスがキリスト教の信仰を認めました。
●仏教の普及:仏陀の死後、仏教の教えはインドの商人を中心に広まっていきます。正しく考え、それを生活に生かせば、こころの安らぎがえられると考え、多くの人が修行にはげみました。
●大衆部仏教:しかし、このような修行ができたのは一部の人々だけであり、一般の民衆は相変わらず人生の苦しみの中にありました。こうした中から、仏陀が神格化されていきました。「人々が苦しみから解放されなければ、私は解脱できない。」と願い、修行した人物(菩薩)はその願いをすでに達成して、如来になっただから、もう民衆は救われているんだ、と信じる信仰が広まっていきました。
●慈悲の宗教:この思想はキリスト教の教えとよく似ています。如来の慈悲は神の愛、菩薩はイエスと考えられます。多くの人びとを救いたいと願う愛の思想がヘレニズム文化の西と東の端で同じ頃生まれたのは偶然でしょうか。
●仏教の東伝:この「大衆部仏教」(大乗仏教)の考えは仏像を拝む信仰と共に東アジアへと伝わって行きました。
●皇帝と豪族:皇帝が農民に土地をあたえて、彼らから税と兵と労働力を集めます。そのために官僚制度がつくられます。広大な帝国において官僚機構を首尾よく動かしていくためには、地元の有力者であった豪族の力を利用するしかなく、官僚はかれらのなかから選ばれることになりました。
●豪族の力:漢王朝の時代、社会は実質的に豪族が支配していました。特に、後漢の200年間は豪族との妥協によって成り立っていた政権でした。城壁を築き、砦を構えて地域社会ににらみをきかせる豪族たちは広大な土地を持って、窮乏した農民たちを支配する地方社会の大ボス的な存在だったのです。彼らの支持があってこそ、漢王朝は存続できました。
●中国の王朝興亡のパターン:周辺を脅かす諸民族との戦争や土木工事などで疲弊した農民達はその負担に耐えられなくなり、地元の実力者の支配下に入っていきます。実力者達は大土地所有者となり、いっそう官僚制度は働かなくなり、中央政治も腐敗を極めていきます。そして、最後に農民達は反乱を起こし、帝国は滅びていきました。この中国史の基本パターンも皮肉にも漢の時代に完成しました。
●外戚と宦官:中国の歴代王朝の最後は、官僚と宮廷の戦いになります。権力をほしいままにする外戚(皇帝のお后の実家)や宦官(皇帝の身の回りの世話をする者)と官僚たちの権力闘争です。後漢でも、官僚たちが宦官の専横に抗議し、逆に弾圧されるという事件が起きています。(党錮の禁)
●農民反乱:権力の自浄作用がはたらかなくなると、民衆が立ち上がります。民衆は為政者の思惑を超えた大きな力となっていきます。命がけの彼らのエネルギーは民間信仰のかたちをとって表れされるのも、中国史の基本パターンでした。
●鉄製の農具(鋤・鍬)が普及し、農業生産も向上します。
●1世紀、倭の奴国(なこく)の王が後漢に使者を送り、金印を贈られています。3世紀には邪馬台国の卑弥呼はじめ諸王が、魏や晋に遣いを送り、金印や銅鏡などを贈られています。このように、日本列島にも王権が成立し、中国との関わりを深めています。この関わりにこそ王権の権威を高める仕組みがあったようです。
●前600年ころ成立したユダヤ教と仏教が約1000年を経て、”愛の宗教”キリスト教”と”慈悲の宗教”仏教へと発展しました。
●このふたつの宗教は「他者救済」という点で共通しています。絶対、永遠なものを求めた前600世紀の思想に対して、この時代は、「他者」を救うことが前面に出てきています。
●この1000年という時間こそ、古代という時代です。この1000年の間に「個々の人間」の心の問題が宗教というかたちで問題にされるようになったわけです。
7.チェックポイント