●アレクサンドロスの死後:アレクサンドロスの死後、帝国は西アジア(セレウコス朝)とエジプト(プトレマイオス朝)とギリシアのマケドニアに分裂します。これらの地域では、ギリシア商人らが交易で活躍し、ヘレニズムと呼ばれたギリシア風の文化が広まりました。
●ヘレニズム文化:アレクサンドリアのムセイオン(研究所)には地中海各地から学者が招かれ、研究が行われました。付属図書館には50万巻の蔵書を誇ったと言われています。
●身分闘争時代:ヘレニズム時代のローマは地中海の西で着々とその力を育てていきました。ローアもアテネと同じように、貴族に対抗して中堅農民が市民としての権利をめぐり戦いつづけていました。4世紀には平民は平民会に貴族は元老院に結集して互いに牽制しあいながら、ローマの国力を高めていきました。
●ローマの進出:イタリア半島を平定したローマはシチリア島をめぐり北アフリカのカルタゴと対立します。フェニキア人の植民市であったカルタゴアは、地中海進出をめざすローマにとっては避けられない敵でした。(この対立はペルシア戦争の時の対立と構図はまったく同じです。「第二次ペルシア戦争」と言いたくなります。)
●ポエニ戦争:100年間にわたり三度の激戦(ポエニ戦争)をへて、ローマはやっと、地中海での覇権を手に入れることが可能になりました。続くマケドニア戦争ではローマは東地中海進出の足場をきづくことができました。
●ローマの危機:うち続く戦争により、ローマは大量の奴隷と属州をえました。奴隷を使った大農場と属州から安い穀物が流入し、農民たちの生活基盤がおびやかされました。ローマ軍の強さは中堅農民が支えていました。その農民たちが没落したため、ローマ軍は弱体化し始めます。各地で征服された都市や奴隷たちが反乱をおこしました。ローマはここに危機をむかえました。
●カエサル:この危機を救ったのはカエサルをはじめとする平民派の貴族でした。元老院に結集する閥族派に対抗し、彼らは無産市民を集めて戦争に出かけ、征服した土地を兵らに与えました。こうして属州の拡大と軍隊の再建と無産市民の救済に実績をあげたカエサルらの平民派は大きな政治力を手に入れることになりました。
●内乱の1世紀:共和政の伝統を重んじる人々はカエサルに権力が集中することを嫌います。さまざまな思惑と策謀がめぐらされ、安定をとりもどしたローアは再び内乱に突入します。
●地中海の統一:カエサルの暗殺をへて内乱は将軍たちの争いへと発展し、そのなかから、カエサルの養子のオクタビアヌスが登場します。エジプトのクレオパトラと組んでローアに背いたアントニウスを討ったオクタヴィアヌスは、ローマに凱旋します。元老院もローア市民も歓呼をもってオクタヴィアヌスをむかえます。
●帝政ローマ:オクタビアヌスはアウグストウス(尊厳者)という尊称を贈られ、実質的な皇帝となりました。彼が討ったクレオパトラはプトレマイオス朝最後の女王でした。ここにヘレニズム時代が終わりをむかえました。
●セレウコス朝とローマ:「地中海の覇者」に登りつめながらローマはメソポタミアへと手をのばします。セレウコス朝シリアと交易ルートの支配権をめぐってこの対立はつづきました。
●セレウコス朝の衰退:その間、セレウコス朝は、アフガニスタンに建国したギリシア系の国バクトリアやイラン高原におきたイラン系のパルテイアに北から攻められ、中央アジアへのルートを脅かされて弱体化していきました。
●パルテイア:セレウコス朝が滅ぶと、パルテイアがイラン高原を支配し、イラン人の支配が復活しました。しかし、メソポタミア、シリア・パレスチナの支配権をめぐり、ローマとパルテイアの対立は続きます。それほどこのルートは重要なルートであったのです。
●マウリア朝のアショカ王:インドをはじめて統一したマウリア朝はアショカ王の時代にもっともさかえます。アショカ王はインド征服の戦いに際し、大勢の犠牲を出したことを悔いて、仏教の教えで国を治めようと、全国に石柱を立て、仏教を保護したことで知られています。
●マウリア朝の衰退:戦争と官僚機構の維持のために財政難に苦しんだマウリア朝はアショカ王の死後は衰退します。インド統一といっても、その実態は地方分立の状態でした。
●インド世界の成立:しかし、この時代に、ガンジス川流域を中心とし、南部からインダス川流域にインド文化の共通基盤が形成されました。
●秦の台頭:中国では、西からおきた秦が国内改革に成功し、台頭します。戦国諸侯を巧みな戦略でやぶった秦は、中国の統一を完成させました。王の政は自ら始皇帝と名のり、中央集権的な国家体制をめざして様々な統一政策を実行した。
●中央集権体制:文字、度量衡、貨幣、車軸の統一を断行し(ア)、万里の長城を修復し、モンゴル高原の遊牧民匈奴を討伐のために軍隊を出しました(イ)。また、朝鮮半島とベトナムとの境にも軍隊を置き、皇帝の支配権の範囲を内外に示しました(ウ)。この三つは(ア〜ウ)は中国の歴代王朝の政策の基本テーマとなりました。
●農民の反乱:うち続く戦争、阿房宮の建設や万里の長城の修復の負担を担った農民たちは疲弊し、やがて反乱がおきました。この王朝滅亡のあり方も歴代王朝の滅亡のパターンとなり、幾度も繰り返されることになりました。
●前漢の成立:短命に終わった秦に替わり、前漢がおきます。前漢は秦の性急な改革の失敗に学びながら、同じように中央集権体制をめざしました。
●武帝:前漢の武帝の時代は中国の歴史において古典的な時代でした。この時代、文武の世界で傑出した人物たちが活躍しています。彼らは武帝の下で、漢王朝の骨格をつくっていきました。武帝は中国の歴代王朝を支える二本の巨大な柱を立てました。一本は西域経営による遊牧民対策です。他の一本は儒教を基礎に官僚制度を確立したことです。この二つは<内>と<外>の関係において互いに支え合う関係にありました。
●中国の「中」意味:<外>と戦うことで<内>を守り、<内>を統一することで<外>との境界を確立する。その境界の内側が中国です。一見、当然と思われることのようですが、<内>としての中国に中心を強調することにより、<外>が<内>に流れ込み、<内>と<外> が手を結ぶ分裂状態になることを回避できるのです。中国の歴史はこの分裂の危機との戦いの歴史です。
●日本列島では西から弥生文化が広がり、縄文文化の勢力は東北や南九州・琉球へと追い込まれていきました。
●前漢から亡命した衛満が衛氏朝鮮を建国し、漢はこれを滅ぼし、楽浪郡など4郡をおきました。このようにして、極東アジアにも古代文明の影響が及びはじめました。
●私たちは現在、物事を決めたり考えたりするとき当然のことのように、「個人」という単位を前提にしています。なんでも自分で決められると思っています。しかし、結婚とか職業選択など重要な決定において、個人の意志が尊重されるようになったのは、日本で言えば今から60年ほど前のことでした。
●世界史で言えば、近代になってからです。しかし、ヘレニズムの時代、個人としての生き方が追求されたことがありました。(コスモポリタニズム=世界市民主義)
●ギリシアの一部の思想家の間だけのことかもしれませんが、この時期の地中海でそのような動きがあったことは興味深いことです。交易がひろく行われ、戦争により滅んだ国の民が奴隷にされるような環境では、「個人」として生きることが強制されることもあったにちがいありません。
●むしろ国を奪われ、共同体から切り離された「個人」のことを古代の世界では「奴隷」と呼んだと考えるべきかもしれません。
8.チェックポイント