●ペルシア登場:アーリア人と別れてイラン高原に入ったイラン人は、前1000年に入り、一時はアッシリアの支配に屈しましたが、やがて、メデイアがイラン高原を統一します。このメデイアの支配をくつがえしイラン高原を支配したのは同じイラン人のペルシアでした。
●ペルシア文化の伝統:インド=ヨーロッパ系のイラン人はセム系の多い西アジアでは異色の存在ですが、21世紀まで、ペルシア文化に誇りをもち、西アジアの歴史に大きな影響を与え続けてきました。山岳地帯と砂漠が広がるイラン高原は、牧畜とわき水たよるオアシスの農耕が主要な産業でした。
●ペルシアの力はカナートから:この貧しいイラン高原でペルシア文化の伝統を支えたのは、カナートと呼ばれる灌漑施設でした。山岳地帯に降った雨や雪解け水は豊かな地下水となりますが、砂漠では地表を流れません。この地下水を、地中に横穴をほってオアシスまで導くのがカナートです。イラン高原の台地にはこのカナートがはりめぐらされ、これを維持管理するおおきな権力がつねに必要とされたのでした。
●交易の要衝:また、イラン高原は、地中海とインドと中央アジアをむすぶ交易の要衝にあり、それによりおおくの富を手にすることができました。この地域は世界の交易が拡大していく心臓部となっていきました。この大事業を最初になしとげ、地中海からインド、アフリカにいたる大帝国を気づいたのがアケメネス朝ペルシアでした。
●地中海の動向:農業生産に恵まれない地中海の諸地域は穀物の不足を補うため、早くから海上貿易を活発に展開し、各地に植民市を作って、貿易の拠点にしていました。
●ギリシア的精神:特にギリシア人の中には、貿易で経済的な力を持った勢力も出現し始めていました。彼らの中から、各地で得た情報を整理して、それらを合理的に説明する自由な思考が育ち始めていました。
●伝統となったペルシアの支配:世界史で最初に登場する大帝国はアケメネス朝ペルシアです。短命に終わったアッシリア帝国とは異なり、アケメネス朝は諸国の王たちに自治を認めながら、貢納と兵役をもとめ、監視の目をつねに怠らない支配体制をひきました。こうした、異民族統治の方法は長くアジア各地の諸王朝の典型となりました。
●ユダヤ教の成立:アケメネス朝のキュロス王は新バビロニア王国に連れ去られていたユダヤ王国の人々をパレスチナにかえし、彼らの信仰もみとめました。こうした時代の中で、ユダヤ教が宗教として完成していきました。
●共通語となったアラム語:地中海、エジプト、中央アジア、インドへ至る地域が、アケメネス朝の支配下に統合されていたこの時代は、商業が盛んになります。ダマスクスを拠点とするアラム人はペルシア帝国の商業活動の中核となり、アラム語はペルシア帝国の共通語となりました。
●フェニキアとギリシアの争い:地中海ではフェニキア人とギリシア人が交易で争っていました。やがて、フェニキア人のうしろ盾となっていたアケメネス朝は直接ギリシアと戦うことになりました。ペルシア戦争です。
●ペルシア戦争の背景:ペルシア戦争については、「歴史の父」ヘロドトスがその著書「歴史」に詳しく書いています。商業で栄えたポリス、アテネは海外に多くの植民史を持っていました。その一つコリントスがペルシアに服属せず、ペルシアの攻撃を受けることになります。ほとんどのポリスが傍観するなか、アテネはギリシアに遠征してきたペルシア軍と全面対決することになります。
●ギリシアの勝利:ペルシア軍は三度、ギリシアに攻撃をしかけますが、ペルシアのギリシア征服の野望は三度とも挫折しました。アテネの市民軍は結束してペルシア軍にあたりました。
●アテネの民主政:アテネもはじめは王がいましたが、貴族とかわらない存在になり、貴族政の時代がつづいていました。それに対し、経済的に力をつけてきた中堅農民たちは重装歩兵として活躍するようになり、政治的な発言権を要求するようになります。そのようなかなおきたのがペルシア戦争でした。農民ばかりでなく、貧しい無産市民も三段櫂船とよばれた船をこいでペルシア海軍を撃退しました。こうして、アテネの民主政が完成したのでした。
●ペルシア戦争後のギリシア:ペルシア軍からギリシアをまもったアテネは、ギリシアの諸ポリスのなかで力をもつようになります。政治的にも経済的にも文化的にもこの時代のアテネは絶頂期でした。しかし、アテネに不満をもつするポリスはスパルタを中心にして、アテネと対立しました。依然、ギリシア進出をねらうペルシアもギリシアの混乱に影響をあたえつづけました。
●4世紀の地中海世界:ギリシアが混乱しているころ、北からマケドニア王国が力をつけていました。また、イタリア半島では弱小ポリスのローマがやはり力をつけつつありました。
●ペルシア対ギリシア:ギリシアの諸ポリスを支配下においたマケドニアの王フィリポス2世が急死し、若き王アレクサンドロスは彗星のように歴史に登場します。彼は諸ポリスをたばねて、ギリシア人をひきつれペルシア遠征に出かけます。戦争の天才アレクサンドロスの前にペルシアは滅び、ギリシアからインダス川にいたる広大なアレクサンドロス帝国が成立しました。
●アレクサンドロス帝国:帝国の完成後、アレクサンドロスは病死しますが、その後300年間、この地ではギリシア商人により商業活動が活発に展開されます。アレクサンドロス帝国は、メソポタミア、エジプト、ギリシア、インダスの古代都市文明が成立した範囲とかさなります。アケメネス朝ペルシアの野望はアレクサンドロスの大遠征によって実現したわけです。●ガンジス川流域の情勢:ガンジス川流域に移住してきたアーリア人は、このころになると、商業がさかえて都市国家が生まれ、十六国の分立状態にありました。
●新しい時代の機運:それまでのバラモンの権威を批判する人々もあらわれ、祭式中心主義のバラモン教にかわるさまざまな思想があらわれました。そのなかで、シャカ族の王子ゴータマ=シッダールタは、人生の苦しみの本質をみつめ、やすらぎを得る方法を説きました。
●インドの統一:十六王国のひとつマガダ国のチャンドラ=グプタが、インダス川に迫ったアレクサンドロス軍を撃退し、インド統一へと時代が動きはじめました。
●春秋時代:中国はこの時代、周王朝の力が急速におとろえ、各地の諸侯は分立状態にありました。春秋戦国と呼ばれるこの時代の中国でも、血縁中心の社会の秩序がこわれ、実力中心の時代へと移りつつありました。
●戦国時代:鉄器がひろまったこの時代の後半は、その傾向がいっそう強まり、諸国は互いに争い、生きのこりの道をさぐっていました。このような状況のなか、国のあり方や人の生き方と説く人々があらわれました。諸子百家と呼ばれた彼らは、諸国をめぐって自説をうったえその実現を図りました。●諸子百家:諸子百家のなかで孔子は、周代の政治や社会のあり方を理想化し、血縁中心社会の秩序の再建をめざしました。孔子の思想は儒家や法家の思想に発展し、中国の政治に大きな影響をあたえました。一方、人の力の限界を説いた老子の思想は民間信仰と一体となっていきました。
●中国での動乱は、朝鮮半島や日本列島にも影響を与えました。動乱を逃れて、朝鮮半島に中国の文化を伝えた人びともいました。
●ユーラシア大陸の各地で思想家や宗教家がほとんど同時に出現した紀元前600年前後の時代を、ドイツの思想家ヤスパースは「思想の枢軸時代」と表しました。なぜ、同じ時代だったのでしょう。偶然ということにしておくには、美しすぎる偶然です。
●製鉄技術の普及で、血縁を基盤とする社会の秩序がこわれ、新しい社会の秩序が求められていたこの時代、おそらくそれまで口づてに伝えられてきた伝承が消滅の危機に瀕し、それらを文字に残そうという機運があったのかもしれません。
●また、これまでは人々を納得させてこられた神話的な世界観では、物事の説明が難しくなり、新しい考え方が求められていたのかもしれません。21世紀の現在でも、これらの思想が古典として生き続けていることは示唆的です。
9.チェックポイント