『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第8号(1942.08)


音楽と生活 ― 新文化の創造へ関清武(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.18-23)
内容:関は歴史を、人間の意識的意志的生活の流れととらえ、文化の形態は歴史的条件によって無意識的に直観的に成り立つとした長谷川如是閑の考え方を否定する。/関は、東亜的性格の理解は必要だが、その上に立っていかなる新文化の性格が築かれなければならないかを原理的に考え、実現すべきだと主張する。/生活の営みとしての勤労と音楽とを結びつけようとする努力が必要だとし、音楽がもつ規律と崇高な精神がわれわれの心を打つのだから、職場で人々がうたう歌も、ラジオやレコードの曲にも高い音楽性を要求したいと言っている。
【2000年2月17日記】
現代日本ピアニスト論(5) ― 原智恵子論<連載>園部三郎(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.24-29)
内容:原智恵子は自己耽溺的な演奏家である。その演奏の中に原作者の息吹を求めようとする人々は悪評を放つ。デビュー当時は今日と違って、演奏家の個性を優秀な技術の中に展開していた。/原の演奏において容認しがたい点は、強烈な個性を楽曲の佼成の隅々にまで行き渡らせる努力を欠き、ただ技巧の練達に物を言わせて、自分の境地だけを押し付ける点である。その技術上の破綻もあり、彼女自身の芸術的生活への反省が必要である。
【2000年2月20日記】
◇音楽紀行・1 ― ウィーン国立音楽学校訪問記/京極高純(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.30-35)
内容:
この記事は1931年1月に京極がロンドン、パリを経由してウィーンを訪れた際の報告となっている。/ウィーンに着いた京極は、まずウィーンの国立アカデミー(Fachhohchschule und Akademie fuer Musik und darstelle Kunst)の校長格、ヨゼフ・マルクスを訪問している。日本の楽壇の楽壇の現状、公立私立の音楽学校、常設のオーケストラの近況などについて会話を交わし、マルクスからは、日本の音楽愛好者がバッハやベートーヴェンを理解することは実に喜ばしいが、現代の作品に対しては演奏・紹介について不便があると信じるので、ドイツ・オーストリアの現代音楽を演奏できるよう努力しようと言われたという。またマルクスは、フロイライン・イノウエを高く評価している。/このアカデミーの修業年限は普通6年だが、特に優秀な学生は2、3年で卒業できる。ただし意志強固な者でないと卒業できない。/京極のウィーン滞在中、高松宮殿下と妃殿下がウィーンを訪問し、井上園子と田中路子が御前演奏を行なった。井上はショパンを数曲演奏し、田中はシューベルト、シューマン、ウィーンの古い民謡を歌った。井上は1930年にウィーンに来て、アカデミー入学準備を進め、同年9月に入学。以後、同校で研鑚をつむが、アカデミー卒業に際してピアノ科における唯一のディプロマ受賞者となるなど高い評価を得た。
【2000年2月22日記】
◇日本歌劇運動批判<座談会>/野村光一 増沢健美 井口基成 園部三郎(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.36-49)
内容:<日本歌劇運動の弱点>オペラは音楽の中で一番民衆的な娯楽である。しかし、西洋音楽好きの民衆のうち一番低俗な人々が行く。[制作側も]十年一日のごとき粗悪なスタッフでやっているので、楽壇的には見放されていくだろう。また、楽壇人で歌劇運動に協力[挺身という言葉も使っている――小関]しない者がいることが進歩を阻んでいる(以上、野村の指摘)。これに対し園部が、音楽が相当わかる人でも、歌劇は簡単に見られないから下手でも見ておこうという態度の人が多いと述べている。/<音楽学校にオペラ科を設けよ>音楽学校にオペラ科を設けるべきだとする野村に対し、井口が、それは社会の要求であるべきと主張。野村は、井口の主張を退け、やらなければ文化に遅れるという指導的理由で始めるべきだと説く。園部は、学校というほどのものは考えない発言をしている。/<指導者の問題>グルリットがいいとする野村と、ローゼンシュトックのほうがいいという井口で意見が分かれる。園部が声楽面を実際に指導するのは誰かと問いなおすと、野村は上野の音楽学校[=東京音楽学校]、井口は歌劇団に常任の教育者をおけばいいと主張。野村は井口に対し、民間の団体には荷が重いと言っている。/<日本で歌劇は発展しうるか?>野村が疑問だと言い、それでは卒業生は飛び込めないと井口。日本には歌舞伎があり時代に即応してきたが、若いジェネレーションが歌舞伎を不要とした時に、替るものとしてオペラがくると思う(これは野村説)。増沢が、日本は声楽面が貧弱と指摘し、その意味からもわれわれ自身のものを基礎とした歌劇が一日も早く生まれてほしいと主張するが、野村は、まず西洋のものを一通りやって困ったときにわれわれの新しい発見があると説く。この点は、増沢・井口・園部vs野村という分布で意見が平行線となっている。
【2000年2月24日記】
歌劇「ファウスト」公演(音楽会評)/久保田公平(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.50-54)
内容:旧ヴォーカルフォアが「日本合唱団」と改称して初の公演で、同団の創立15周年記念公演として、1942年6月29日から7月1日まで歌舞伎座でグノーの『ファウスト』を上演した。/キャスト: 藤原義江(ファウスト)、内田栄一(メフィストフェレス)、瀧田菊江・大谷冽子(マルガレーテ)、留田武・日比野秀吉(ヴァレンチン)、小森智慧子・金子多代(マルタ)、新納一枝・瀧原栃子・梅田幸子(ジーベル)、富田義助・村尾護郎(ワグネル)、東京交響楽団、篠原正雄(指揮)。スタッフ: 青山杉作(演出)、三林亮太郎(舞台装置)。/この公演の5年前、ヴォーカルフォアの十周年記念公演のころは、歌劇運動は学芸会的であったが、その後の5年間で会場は歌舞伎座か東宝劇場などとなり、装置、演出、配色[当時の用語か?]も大掛かりとなり、オーケストラも本格化してきた。こうした変化の重大な役割を果たしたのは、山田耕筰、藤原歌劇団などの努力によるが、常にその運動に関わってきた日本合唱団の努力もあった。/演奏者各人についてのコメントが続き、5年前より高い基準で批評が書けていることを述べて、この間の進歩をたたえ、日本合唱団に対し謝意を表している。
メモ:直前の座談会における当時のオペラの捉えかたと比べてズレがあるようだ。
【2000年2月26日記】
◇作曲コンクール評(音楽会評)/山根銀二(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.55-57)
内容:作曲者名と作品の批評を書いているが、作品名は記載されていない。/中瀬古和作品: 訴えかける力に乏しいが、声部の動かし方などで面白味があった。玉利英道作品: 未熟で、今回の中で一番失敗したものだった。清水守作品: 3つの歌に表現を与え、それらを巧く対照づけて構成し、一番成功していた。保田正作品: ベートーヴェンをまずくもじったような、独創性のない作品だった。福井文彦作品: 一等を獲得した作品。声部が充実していて合奏の効果が上がったが、一等は疑問。
【2000年2月29日記】
◇ラヂオ短評/露木次男(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.58-59)
内容:1942年6月9日。マルピエロ[マリピエロのこと―小関]の『幻想の東洋』を小船幸次郎指揮の日本交響楽団が演奏。6月14日。東京室内楽団の演奏で室内楽の放送。演奏作品は不明だが、甘い通俗的な小品を品よく演奏した、とある。6月16日。三浦環の独唱。何を歌ったかは不明。6月20日。東京交響楽団の演奏で『カルメン組曲』。指揮者は不明。/6月26日。ハイドンの『チェロ協奏曲』。倉田高のチェロ、尾高尚忠指揮の日本交響楽団の演奏。6月27日。勝太郎ほかの出演で「歌のおこのみ袋」。音楽を大衆化しようとする放送局の意図が窺われて好ましいが、この際ジャズ風の歌い方を排してもらいたいと注文をつけている。7月3日。山田和男指揮の日本交響楽団の演奏で『夏祭り』(作曲者名は聞き漏らしたという)。もう一曲、福井文彦『交声曲』。『夏祭り』と同じ演奏者かどうかは不明。
【2000年3月3日記】
◇放送された「英雄」(読者評論)/児島隆夫(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.74-75)
内容:1942年4月26日、東京交響楽団がベートーヴェンの『交響曲第3番』を放送した。ティンパニが強打されると弦楽器の音が飛んでしまって、生に近い演奏とはいえなかった。音楽放送の技術水準を上げずにいたら「洋楽はつまらないもの」と受け止められてしまうと指摘している。
メモ:当日の指揮はマンフレッド・グルリット(『音楽公論』第2巻第6号p.72−73参照)
【2000年3月7日記】
◇現代日本音楽への期待(読者評論)/広瀬正和(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.75-76)
内容:現代日本の音楽は一向に面白くない。その直接の原因は、日本的であろうとする意識が強すぎて、曲に生気がなく、のびやかな溌剌とした感情の動きがほとんど見られない。何も万葉の歌人だけが日本人ではないのだから、従来の日本化の努力を放棄して自己の感情を大胆に現すことだ。
【2000年3月7日記】
◇平原寿恵子独習会(読者評論)加田潔(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.76-77)
内容:1942年6月10日、日本青年館。/プログラムは、グリーグの『エロス』『モンテ・ピンテオ』『秋思』、ドヴォルザークの『ジプシーの歌(全7曲)』、ビゼー、シュトラウス、山田耕筰(この3人については具体的な曲名が記載されていない)。/伴奏者、記載なし。
メモ:タイトルにある「独習会」は雑誌にあるとおり。本文中には、独唱会と出てくる。
【2000年3月11日記】
◇巌本メリー・エステル小論(読者評論)/川添勝治(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.77-78)
内容:1937(昭和12)年にコンクールで1位をとって以来、成長を続けている。清澄豊富な音量、のびのびした解釈、ごまかしのない演奏、謙虚な演奏態度が認められる。ヴィラターリからブロッホ、クライスラーにいたる広いレパートリーをもつ。
【2000年3月11日記】

◇モギ・シロタ演奏会(読者評論)/安藤嘉彦(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.78)
内容:1942年6月18日、モギレフスキー・シロタ ソナタ演奏会(於・日比谷公会堂)。/プログラムは、R.シュトラウス『ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 op.18』、 フランク『ヴァイオリン・ソナタ イ長調』、ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 op.47 「クロイツェル」』。/モギレフスキーのヴァイオリンは音が悪く、シロタのピアノは一本調子だったらしい。
【2000年3月15日記】
◇楽壇消息(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.79)
芸術院の新会員
内容:
帝国芸術院第三部(音楽)は会員が定員に満たない状態だったが、6月13日に開かれた音楽部会で新会員候補として今井慶松、信時潔、山田耕筰、安藤幸子の四氏を選び、全会員に投票を求めた結果、7月14日、全員異議なく本決まりとなった。/芸術院音楽部門の定員は10名で、従来は雅楽の多忠龍、豊時義、能楽の梅若萬三郎、宝生新、ピアノの幸田延子の5人。洋楽関係者が少ないと言われていた。
コンクール作曲受賞者
内容:第11回音楽コンクール(東日主催、文部省、情報局後援)は作曲が演奏部門から独立した。課題は「三首の萬葉の短歌による交声曲」が出され3月下旬に募集締切、以来審査を行い、7月1日、入選者の本選発表会が行なわれた(於・日比谷公会堂)。/第1位=福井文彦、第2位=保田正、第3位=中瀬古和。
音楽文化協会第1回総会
内容:来る1942年7月27日午後1時30分より、社団法人日本音楽文化協会第1回通常総会が開かれる(於・産業組合中央会館)。議題は、1.会務及び事業報告 2.予算及び決算の報告 3.定款改正の件 4.会長の幹事指名の件。
故瀬戸口翁記念碑建設演奏会
内容:故瀬戸口藤吉の遺功を顕彰するために、記念碑建設委員会(委員長・武富邦茂海軍少将)により基金を募集中だが、演奏家協会は1942年8月8日午後4時より、後楽園スタヂオで記念碑建設資金募集演奏会を催す。
【2000年3月15日記】
◇亡き夫碓氷貞文を偲ぶ/碓氷照子(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.82-85)
内容:十字屋店主で、雑誌『音楽新潮』を出していた碓氷貞文が1942年6月25日午後5時に死去した。妻・照子による追悼文。/1931年正月、清瀬保二らと「文教楽譜」の編集をしていた照子が広告の件で十字屋へ行き、初めて貞文を知る。同年10月24日、「文教楽譜」廃刊とともに柿沼太郎の紹介で、照子は『音楽新潮』に入社。その頃貞文は、十字屋の付属的出版物と見られがちだった『音楽新潮』を独立させ、そのために貞文自身が編集してきた『十字屋タイムス』を廃刊した。編集方針は、全面的に柿沼太郎を信頼して任せた。7、8年後に二人は結婚。1941年10月、当局の指示によって『音楽新潮』は『音楽評論』と合併した。
メモ:碓氷貞文の死因、享年は記されていない。
【2000年3月16日記】
◇上野音楽学校の奉祝渡満(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.85)
内容:
満州国建国10周年奉祝のため、東京音楽学校では「奉祝音楽使節団」を結成し、来る8月5日に出発、大連、新京、ハルビン、奉天その他朝鮮各地で20余日の演奏会を行なう。
【2000年3月19日記】
◇ビクタの軽音楽懸賞作品の吹込(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.94)
内容:日本ビクターが公募した行進曲風の軽音楽は、橋本國彦、服部正が主審となり、1位当選『荒鷲は征く』(鈴木弘)、2位は『若人』(石田皚)に決定。1位作品は深海善次、2位は服部正が編曲および指揮を受け持ち、吹き込みが行なわれた。
メモ:募集については、『音楽公論』第2巻第3号p.97 参照。
【2000年3月19日記】
◇マレーの日本音楽熱(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.106)
内容:マレーのクアラ・ルンプールにある日本劇場(旧パビリオン)で、豊久部隊の渡邊眞兵長(コロンビアの新進指揮者)と高屋朗一等兵(浅草金龍館の歌手)という日本人指揮者によるオーケストラ演奏会が開かれた。これに軍○○員[ママ]の塚本画伯が舞台監督として加わり、1942年6月中旬、市内のバーやカフェから20人の楽士を集めて楽壇を組織し、さらに現地の7人の歌姫を加えた。1942年6月23日と24日、皇軍慰問演奏会を開催。翌25日には演奏会を一般に公開した。最後の日の曲目は40種以上に渡り「日本陸軍の歌」を序曲、新作を披露した。
メモ:本文には「劇場が昼夜2回とも大入り満員をつづけ」とあるが、これが6月25日だけのことなのか、23日と24日も含まれるのか不明。/楽団の編成も不明。
◇編集後記(『音楽公論』 第2巻第8号 1942年8月 p.106)
内容:十字屋楽器店の碓氷貞文が1942年6月25日、死去した。まだ40歳を過ぎたばかりだった。「音楽新潮」創刊以来いっしょに仕事をしてきた柿沼太郎氏に故人の思い出を書いてもらおうとお願いしたが、折悪しく病気で筆をとることが困難という連絡が入った。


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