『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第3号(1942.03)



次代ゼネレーションの方向特集・次代音楽人の進路/網代栄三(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.18-23)
内容:次代ジェネレーションの方向について問われれば、一層の勉強をしてほしいと言うほかない。第一に日本的なるものへ眼を向けること。国際文化協会編『日本文化の特質』からは示唆が得られようし、思考の態度そのものについては紀平、西田、長谷川、三木らの著書は必読である。創作活動の指導理念は国家の理念に副うべきである。付随して考えるべきは観念と現実生活の遊離を厳に避けることである。ただし徒に外国文化を排斥し自己批判の契機を失ってはいけない。音楽学校卒業生は修業年限の短縮などで技術不足を感じるかもしれないが、そう重要なことではない。卒業後の生き方がいかにあるかが大切なのだ。社会的態度としては従来あった売名的行為を破棄すること。
【1999年9月29日記】
音盤芸術の生長期特集・次代音楽人の進路/関清武(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.24-27)
内容:外国では立派な演奏家であることが音盤芸術家の第一条件だが、日本では違って、レコード会社が希望するあらゆる曲をこなすことが条件だった。また少年少女が演奏界に出現すると作られた天才になる不幸もあった。日本でも一流演奏家であることを音盤芸術家の第一条件とするようにしたい。音盤愛好家は音楽鑑賞における個人主義の培養基となった。が、音楽の聴衆の最も広汎な組織を可能にするのは音盤である。レコード演奏会の重要性が認められてきたが、これを全国に広げなければならない。その際次代聴衆層の育成に貢献するように組織指導されなければならない。
【1999年10月3日記】
耳の修養 ― 作曲志望者へ特集・次代音楽人の進路/尾高尚忠(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.28-32)
内容:最近における日本人作曲家の輩出、その質的向上には著しいものがある。ただ現在もっとも欠けていることの一つは「和音に対する感覚」すなわち「耳の修養」である、指摘している。和音に対する無神経さについて文章が続き、尾高がウィーンアカデミーの作曲科でマルクスから指導を受けた経験談で締めくくられているが、勉強と努力である程度到達できると述べている。
メモ:「最近における」日本人作曲家の輩出とは、具体的にいつごろからを指しているのかわからない。
【1999年10月3日記】
◇国民学校音楽教育の方向特集・次代音楽人の進路/上田友亀(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.32-34, p.37)
内容:最近、国民学校の施行によって音楽は重視され、一躍2倍近い授業時数を与えられたが、国楽の無いことに困却した。国楽は国民の生活の中から生まれる。国民学校では音學[ママ]を生活することを指導しなければならない。国楽の確立は急務であるが次の世代に期待するほかない。
メモ:ここでいう国楽が具体的にどういうものか、明確ではない。
【1999年10月5日記】
若き声楽家へ特集・次代音楽人の進路/田中伸枝(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p..35-37)
内容:子どもの頃から学び始める器楽と違って、声楽は音楽学校入学の1〜2年前から習い始める。だから、このたびの在学年限短縮は声楽においてはかなりの痛手である。どうすればよいかを考えると、先生なり学校なりに頼りすぎずに自ら勉強して修業年限短縮に順応していこう。
メモ:在学年限短縮については「コーヒーブレイク 第37回」参照。
【1999年10月5日記】
コンクール入選者の動向特集・次代音楽人の進路/増沢健美(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.37-39)
内容:1932(昭和7)年の第1回音楽コンクールから1941(昭和16)年の第10回まで、入選者の延べ人数は220人に及ぶが、一人で2〜3回入賞した人を除いた賞味人数は170人ほど。うち80人以上は女性で、楽壇で活躍している人も多い。入選者のその後は、純芸術、大衆芸術、教育等活動の分野を異にしている。以前は各自勝手に芸術至上主義あるいは商業主義によって動いていたが、日中戦争の勃発後、音楽家も生活態度の転換期に逢着し、日本国民としての自覚を持って音楽を創り出す方向が生まれるに至った。これは、次のジェネレーションにおいても継承されるべき方向である。
メモ:相当数の音楽家の名前が出てくるが、省略した。
【1999年10月5日記】
ピアノ(読売主催新人演奏会評)/秋尾みち(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.40-43)
内容:日時、会場の記載なし。/伏屋華子、聴きもらした。村松文子、ポロネーズの後半から[誰の?第何番?などの記載なし]。李仁亨、リスト『ハンガリー狂詩曲第12番嬰ハ短調』。室井摩耶子、ショパン『24の前奏曲 op.28』より6曲。尹g善、ショパン『幻想曲へ短調 op.49』。友谷和子、白石花子、ショパン『ロンド』(二重奏)[op.73のハ長調か?]。竹村光子、リスト『ポロネーズ』[どのポロネーズを指しているのか不明]。
【1999年10月7日記】
ピアノ感想(読売主催新人演奏会評)/園部三郎(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.43-46)
内容:こちらも日時、会場の記載なし。/伏屋華子、ショパン[曲目はバラードと読めるが第何番か不明]。村松文子、ショパン『ポロネーズ』[第何番か不明]。李仁亨、リスト『ハンガリー狂詩曲第12番嬰ハ短調』。室井摩耶子、ショパン『24の前奏曲 op.28』より6曲。尹g善、ショパン『幻想曲へ短調 op.49』。
【1999年10月7日記】
声楽(読売主催新人演奏会評)/久保田公平(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.46-48)
内容:今年の読売新人演奏会は日本音楽文化協会の協賛によって行なわれた。声楽は1942年2月6日、日比谷公会堂で。/飯田春代(ソプラノ)、ヴァーグナー『ローエングリン』[何を歌ったかは不明]。木下剛一(テノール)、ヴェルディ「清きアイーダ」。大野一子(ソプラノ)、ヴェルディ『椿姫』より「ああ、そは彼の人か」。矢島信子(ソプラノ)、ヴェーバー『オベロン』より[何を歌ったかは不明]。大明[ママ](バリトン)、ベートーヴェンとヴァーグナー[具体的な曲名は不明]。三枝喜美子(アルト)、ブルッフ「アヴェ・マリア」。奉鎮(バリトン)、『道化師』より「プロローグ」。岡部多喜子(メゾ・ソプラノ)、ヴェルディ『ドン・カルロス』より[何を歌ったかは不明]。
【1999年10月7日記】
提琴と洋琴による2つの演奏(音楽会評)/寺西春雄(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.50-52)
辻久子、原智恵子のソナタ合奏
内容:1942年1月21日、日比谷公会堂。出演は辻久子(ヴァイオリン)と原智恵子(ピアノ)。/演奏曲目:ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調 op.47 クロイツェル』、フランク『ヴァイオリン・ソナタ イ長調』、その他モーツァルトのソナタを弾いた模様だが、どの曲かはわからない。
巌本・草間合同演奏会
内容:1942年2月7日、日比谷公会堂。第一部は巌本メリー・エステル(ヴァイオリン)、谷康子(ピアノ)。第二部は草間加寿子(ピアノ)。/巌本はウィニアフスキーとブロッホを演奏したとあるが、作品はわからない。草間は、ショパンの3つのエチュード[具体的にはわからない]、ショパンのバラード[第何番かわからない]、ラヴェル『クープランの墓』。
【1999年10月8日記】
◇新響日曜演奏会 ― 平尾貴四男と安部幸明の作品(音楽会評)/網代栄三(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.53-54)
内容:1942年2月1日、新交響楽団の第1回日曜演奏会。演奏曲目がポピュラーなことと日本人作品が取り上げられる点に特色がある、と述べている。/批評に取り上げた作品は、平尾貴四男『古代讃歌』と安部幸明『小組曲』。他の演奏曲目には触れていない。
メモ:会場は記されていないが、前号の記事(p.94)によれば、日比谷公会堂。他の演奏曲目もわかる。
【1999年10月8日記】
◇井口基成独奏/園部三郎(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.54-55)
内容:新交響楽団第232回定期演奏会第2日目における井口基成のピアノ独奏について(演奏曲目はベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 op.73 皇帝』)。/指揮者、日時、会場は書かれていない。
【1999年10月8日記】
◇諸井三郎論/早坂文雄(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.56-61)
内容:諸井三郎は、芸術形成にあたって「理論」「構成力」「抽象的思考」が欠かせないものであることを示した作曲家である。また西欧芸術を規範においた点で、民族主義者と異なる道を歩む一派の代表的作曲家となる素地をもったが、諸井の文化形成の前提として、ゲルマン系音楽の中で把握した「理論的能力」がある。/芸術作品は一つの「秩序」をもたなければならないが、「秩序」を与えるところに「理論」が必要となる。諸井の作品はわれわれからみた西洋感覚に満ちたものだが、西欧人からはむしろ東洋的な印象を与えている。諸井は民族的伝統の実体的有を否定しないが、日本伝統の保有する古い「技巧」を否定する。異質文化との交流から生まれる文化発展の自覚がないからである。だからエキゾティックな趣味を狙った作品が無い。/西欧的世界に止まらない成長を示す作品に、『第二交響曲』『絃楽六重奏曲』『絃楽トリオ』『ピアノ・ソナタ』などがある。
メモ:文末には「未完」とある。
【1999年10月13日記】
◇ラヂオ短評/露木次男(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.74-75)
内容:1942年1月14日。長唄芳村伊四郎(唄)、吉佳小三郎(三味線)ほか、演奏曲目の記載なし。天地真佐雄(ピアノ)、演奏曲目の記載なし。宮澤如山(尺八)、『虚空』『阿字観』。ただし、尺八の演奏は吹雪のため聴き取れなかったという。1月15日。大東亜戦争行進曲集、演奏者は不明。作品は、尾高尚忠『南進』、市川都志春『闘志』、宮原禎次『戦勝』。1月16日。中田博之『筝独奏のための奏鳴曲』、江藤公雄『筝尺八二重奏』。演奏者は不明。1月22日。井口基成(ピアノ)、日本放送交響楽団、山田和[ママ]。演奏曲目は「ピアノ協奏曲第5番」とあるが作曲者は明記されていない。1月24日。辻久子(ヴァイオリン)、原智子(ピアノ)。ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調 op.47 「クロイツェル」』。1月25日。演奏者は不明。作品は、斎藤秀雄『二千六百一年』、細川碧『東亜の凱旋』。
【1999年10月18日記】
◇徳山l君と第9の公演/矢田部勁吉(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.76-77)
内容:徳山lの追悼記事。死去した年月日は記載されていない。葬儀は築地本願寺で行なわれたとあるが、こちらも日時は不明。がっちりした体格をもち、1941年秋に行なわれた新交響楽団演奏会の「フィガロの結婚」でフィガロの大役を務め、その後歌ったシューベルトの「冬の旅」が最後となった。そしてクラシック以外にも幅広く活躍する努力家であったことが述べられている。また、かつて新交響楽団の演奏会で谷田部の代役としてベートーヴェンの「第九」のソリストを務めた際の思い出が語られている。
メモ:記事の末尾には「昭和17年2月8日」と記されている。なお、シューベルトと「第九」の公演の日時などは書かれていない。
【1999年10月18日記】
◇鼎談 演奏批評の諸問題/山根銀二 野村光一 園部三郎(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.78-92)
内容:少ない字数の新聞批評をする場合の苦労、日本では批評に指導精神が求められること、批評が理解される場合とされない場合などについて論じられている。
メモ:ページ数は多いが、まとめにくい。
【1999年10月24日記】

◇軽音楽曲募集(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.97)
内容:日本ビクター会社普及部は、行進曲風の軽音楽を懸賞募集する。賞金は1等300円、2等100円。演奏時間は3分以内で、締切は1942年3月末日、発表は5月。
メモ:作品の送り先や、発表の方法などは記載されていない。
◇音楽相談所開設(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.97)
内容:日本音楽文化協会は「音楽相談所」を協会内に設置。当分、毎週月・水・金の午後2時〜5時まで。費用無料。
◇徳山l氏逝去(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.97)
内容:死去。
メモ:具体的な死亡日時、享年などの記載は無し。
◇岩井義郎氏(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.97)
内容:先程逝去と書かれている。岩井は1941年冬、大政翼賛会文化部に籍を置き楽壇新体制運動に尽力したという。
メモ:死亡日時、享年などは記載無し。
【p.97の4つの記事(いずれも短い)は、1990年10月20日記】
◇大東亜戦下の米国楽界/藁科雅美(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.98-99)
内容:日本は文化的鎖国状態にあるが、米英の敵性文化に対して厳正な批判と自覚をもつ限りにおいて、米英の文化現象を不断に監視することは日本の将来の為に有益である。先日、情報局の宮澤氏から合衆国のアンアーボー(ミシガン州)の音楽会の詳しいニュースをもらい、ミシガン大学音楽協会が催している「合唱連盟音楽会」1941−1942年シーズンのスケジュールがわかった。この音楽会は合唱連盟と名前は付いているが、オーケストラ、ピアノ、室内楽、声楽など多岐にわたっている。/このほか同大学音楽協会の「クリスマス音楽会」「第2回室内楽演奏会」「5月音楽祭」の紹介もされている。
メモ:情報局の宮澤氏とは、宮澤縦一氏のことと思われる。
【1999年10月24日記】
◇編集後記(『音楽公論』 第2巻第3号 1942年3月 p.124)
内容:1942年2月18日、戦捷第一次祝賀の日であった。/音楽学校の卒業繰上げに伴い、技術的不足の問題が横たわり「次代音楽人の方向」という特集を組んだ。
【1999年10月24日記】


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