『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第6号(1942.06)


新日本文化へ音楽の使命森本覚丹(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.18-23)
内容:日本の武力は世界無比であるが、文化となるとそうは言えない。これを少しでも早く世界無比にする責務は銃後の民に課せられている。音楽は新日本の文化にいかに寄与すべきかを考えてみる。/もっとも大きな問題は作曲であるが、日本的な作曲をせよと責めたてられるばかりで、何が日本的なものか、日本的なものを作るにはいかにすべきかが作曲家もわからず、教えてくれる人もいないので作曲界は悩んでいる。/作曲家がすぐれた日本人になるには「古事記」をはじめ日本の古典を充分理解し、その精神を体得しなくてはならないが、それは古来の音楽に還るためではない。作曲家は五音音階を新しい日本音楽に何とか活用しようとするよりも、むしろインド、ビルマ、タイ、マレー、ジャヴァ、その他東亜共栄圏の音楽を研究すべきである。また、反動的な言辞を弄し、昔の日本音楽を賛美し、外国の音楽をすべて排除しようとするのは、日本の大躍進に逆行するものである。たとえば徳川時代の頽廃的な遊里音楽よりも、ベートーヴェンの交響楽のほうが、われわれには必要である。/作曲家、演奏家、評論家いずれも私利私欲的な邪念を捨て、助け合っていかなければならない。そういう意図で、情報局の援助で日本音楽文化協会が誕生したことと思う。
【1999年12月15日記】
現代日本ピアニスト論(3) ― 草間加寿子論<連載>/園部三郎(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.24-27)
内容:今日、草間加寿子ほど人気があり、いろいろに評価され、期待されている人も少ない。草間の美点は、音色の美しさと多様さで他のピアニストに抜きん出ている。この美点を、草間がフランスで育ち、その伝統の中で育ったという環境によって説明しようとする向きがあるが、それだけでは足りず草間の個性そのものを考えなくればならない。/末尾に「(続く)」とある。
メモ:続きは次号で。
【1999年12月17日記】
声楽(予選) (音楽コンクール課題曲研究)/伊藤武雄(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.28-32)
内容:シューマンの『蓮の花』、シューベルトの『音楽に寄す』、アレッサンドロ・スカルラッティの『これ以上苦しめないでくれ』、ペルゴレージの『ニーナ』、山田耕筰の『野ばら』、小松耕輔の『母』の各曲について、どのように歌ったらよいかアドバイスしている。
【1999年12月19日記】
声楽(本選) (音楽コンクール課題曲研究)/木下保(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.33-36)
内容:Schubert: Aufetnhals, R.Strauss: Standchen, Caccini: Amarilli, mia bella. 以上3曲について、どのような点に注意して歌ったらよいかアドバイスしている。
【1999年12月19日記】
軽音楽論野村光一 山田耕筰 寺沢高信 久保田公平 米林豊圃 園部三郎 山根銀二(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.38-61)
内容:座談会の趣旨。軽音楽が盛んになった(ファンの数は浪花節に匹敵)。しかし演奏の上で逸脱したものがあったため、当局からも希望が述べられるにいたった。軽音楽は厚生音楽としても大切なので、正しい方向に向かわせ、指導するための議論をしてほしい。/軽音楽も芸術音楽ともに、思想性、感覚性をもっているが、そのあり方が異なる。両者の関係を明確に分けることはできない。海外の軽音楽に目を向けると、ベルリンはカフェがとても多く、軽音楽がとても多い。パリは音楽学校の卒業生が軽音楽の仕事に就きながら、さらに勉強を続けている。ロンドンはレストランやティー・ルームで軽音楽をやる。日本は最近の流行で、アメリカのジャズが多く、またレコード会社の流行歌も含まれる。/ジャズについて。山田耕筰によれば、ジャズはリズムが基本で、何もなければ茶碗をたたいてもいい、という。また「非常に器用な大衆音楽の作曲者が日本に来て花柳界の芸者をあげて、ドンチャン音楽を聴いていると、これは面白いといふのがはじめぢゃないでせうか」と言っている(!!)。これに対し野村光一が「アフリカのニグロ音楽が起源だとか云ふことです」「あのシンコペーションが十九世紀の軽音楽が持っていなかった感覚」「それが餘りにデカダンになった場合には(中略)排撃しなければならない」と説き、健康なジャズもあるのに、ジャズのすべてを取り締まる姿勢に異を唱えている。取り締まる側から発言した寺沢高信によれば、昭和8年ごろにアメリカのジャズが日本に入り、いかに模倣するかに終始したため、ジャズの悪い面だけが発展してきたといえるのではないか。したがって、満州事変の当時からこれをいかにすべきかということが音楽警察の立場から論議してきたという。そして、これまでのジャズは刹那的要素を強調したものが多く、よりよいものを生み出そうという意味で、一応全面的にジャズを再検討しなければならないと思う、と述べている。/ジャズについては、ひきつづき論じられて、野村がその様式が悪いわけではなく、精神が悪いから取り締まられてもしかたないと落ち着く。山田は、演奏家協会には第三金曜会というジャズの研究団体が存在し、日本的ジャズを創造する方向の研究にとりかかっていると発言している。/さいごに劇場では楽しめるが映画館だと技術がなくて楽しめないことが取り上げられている。米林豊圃によれば、第三金曜会で委員ができて審査をして悪いものは出さないようにする、その話が聞いてもらえなければ寺沢の力を借りる方針だという。またアマチュアだけの軽音楽団が一番困るといい「これもアマチュア軽音楽協会といふものを作りまして、その委員は第三金曜会と聯絡をとりまして演奏家協会が指導していくといふことになってゐます」と締めくくっている。
メモ:山田耕筰の、ジャズの起源に関する発言は与太話もいいところで驚いた。/「音楽警察」という用語は、本文中の寺沢の発言からそのまま採った。/1941年にできた演奏家協会の、第三金曜会がいつできたか、誰によって構成されていたかなどは記載なし。/なお、座談会実施の動機や準備については「編集後記」(p.106)にも記述がある。
【内容: 1999年12月23日記、メモ: 1999年12月24日,2000年1月12日記】
声楽評(音楽会評)/久保田公平(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.62-67)
金子多代独唱会
内容:1942年4月17日、青年館で。/第1部はリサイタル、第2部はオペラの部分上演で背景[原文では背影]・衣装・振付が付く。/第1部の伴奏者、演奏曲目は記載なし。第2部は共演者に永井智子(『アイーダ』のアムネリス)、湯山光三郎(『ラ・ボエーム』のロドルフォ)が挙げられているが、その他の演奏者については記載なし。第2部では『ジョコンダ』も記録されている。
小泉裕代第1回独唱会
内容:1942年5月1日、軍人会館で。伴奏はグルリット。演奏曲目は不明。/この独唱会は関谷敏子追悼の夕べとして開催されたようだ。/個人教授出身のお嬢様が招待券を出して開くこうした音楽会は、楽界にも当人の芸の上にもプラスにならないと評している。
東響の第九
内容:1942年5月2日、公会堂で。東京交響楽団ベートーヴェン連続公演第2夜。/プログラムは、序曲『家の祝典』(作曲者の記載なし)、コンサート・アリア『ああ嘘はり者よ・・・』(作曲者の記載なし)、『交響曲第9番 ニ短調 「合唱」』(ベートーヴェン)。/『第九』の演奏者は、井崎嘉代子(ソプラノ)、千葉静子(アルト)、木下保(テノール)、矢田部勁吉(バス)、グルリット(指揮)、合唱団は不明。
【1999年12月27日記】
交響楽公演(音楽会評)/牛山充(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.67-71)
東京室内交響楽[ママ]演奏会
内容:1942年4月30日、産業組合中央会館で東京室内交響楽団第3回定期演奏会(クラウス・プリングスハイム指揮)。/プログラムは、デルヴェロワの『チェロ組曲第2番』(チェロ独奏: 倉田高)、ベートーヴェン『大フーガ』、ハイドン『交響曲イ長調』。曲順は不明。/
日本交響楽団第1回公演
内容:1942年5月6日と7日、日比谷公会堂で、日本交響楽団第1回定期公演(指揮: 山田和男)。/プログラム: R.シュトラウス『ドン・キホーテ』(日本初演)以外は不明。
【1999年12月30日記】
ラヂオ短評露木次男(『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.72-73)
内容:1942年4月25日。須賀田幾太郎作曲『護国の落霊に捧ぐ』。ショパンの葬送行進曲に似ていると記しているが、器楽なのか声楽なのかもわからず、演奏者も記載されていない。4月26日。ベートーヴェン『交響曲第3番「英雄」』をマンフレッド・グルリット指揮の東京交響楽団で。4月29日。三絃主奏楽『慶雲』、『数へ唄変奏曲』。前者は作曲者がわからないそうだ。後者についても不明。演奏者も記載なし。5月4日。ブラームス『交響曲第1番』を尾高忠尚指揮の日本交響楽団で。
メモ:記事の冒頭に「当地方はラジオの騒音甚しく」「勤めの関係上昼間の放送は聴き得ない」と断り書きがある。"当地方”とは秋田県本庄のことと思われる。[『音楽芸術』1974年10月号掲載の、秋山邦晴「日本の作曲家の半世紀 10」で「露木次男は昭和九年以後、東北の一都市に住み」と書き、取材に秋田県本庄市を訪れたと書いている。また『ドキュメンタリー新興作曲家連盟 戦前の作曲家たち 1930-1940』(国立音楽大学附属図書館 1999)巻末にある名簿には1940年ころの住所が秋田県の本庄とある。]/露木は、4月29日の個所で「洋楽の人が邦楽の形式を」「邦楽の人は洋楽の形式を」採ろうとするが、その仕方に真剣な態度が見られないと批判している。
【2000年1月4日記】
空襲時に於ける演奏会は中止 (『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.105)
内容:興行者協会と芸能文化連盟が警視庁の指示に基づいて、東京府下各興行場及び各芸能団体に対して通牒を行なった。以下、全文を引用する。
引用:警視廳の指示に基き此の程興行者協会と藝能文化聨盟から、東京府下各興行場及び各藝能團體に對し左の通り空襲時に於ける興行についての推[ママ]置が通牒された。
(一)空襲警報中は興行を中止する事
(ニ)興行中に空襲警報の發令が有った時は興行を中止し觀覧者を誘導して避難させる事
(三)其他の事項に就いては所轄警察署の支持を受ける事
従って演奏會開催中にも空襲警報があったら直に中止して聽衆を避難させる事になるから演奏者も豫めその際の處置を講じ置かれたい。
メモ:警視庁の指示がいつあったのか、また興行者協会と芸能文化連盟がいつ通牒を出したのかは書かれていない。
【2000年1月9日記】
編集後記 (『音楽公論』 第2巻第6号 1942年6月 p.106)
内容:本号の座談会「軽音楽論」(p.38-61)について。実施の動機は、軽音楽がたいへんな人気を博しているが、一方で演奏態度などについてとかくの世評がある。軽音楽演奏者全員を会員に持つ演奏家協会では、官民合同の「軽音楽懇談会」をもって研究しているが、本誌も問題の重要性を痛感し、とりあげた。出席の評論家諸氏には1942年3月以来、各映画館における軽音楽演奏を聴いてもらい、さらに4月11日に日比谷公会堂で行なわれた『軽音楽の午後』も聴いてもらうなどの準備を経て座談会を催した。出席者の寺澤は警視庁文化主事、山田耕筰は演奏家協会会長。/ほかに小さい記事2本。
【2000年1月12日記】


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