『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第7号(1942.07)


伝統と創造 ― 作曲の新生面と伝統への態度寺西春雄(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.18-23)
内容: 日本音楽が、時代に追随していけないばかりか伝統の素地を洋楽に奪われようとしている理由は、寺西がよれば「伝統が欠如している」からだという。これは日本音楽の研究者たちの所論と正反対である。伝統の持つ古典的性格は、追体験と解釈が累積することによって強固になり、それが新しい現代意識と結びついて生命を与えられる。伝統は墨守と異なり、また個人や流派によってではなく民族によって保たれることも忘れられている。民謡の中に伝統の精神を求めようとする努力と、その民謡をそのまま使用して日本的作曲をしようとする努力とは、大きな隔たりがある。豊富な経験と技術と信念とが磨かれて、高遠な目標をつかみ得た時、作曲者が民族的自覚の下に時代と歴史を呼吸しながらもたらした作品は、おのずから日本的音楽であり、大東亜的音楽であり、世界音楽として感動をもたらすのではないだろうか?
【2000年1月15日記】
現代日本ピアニスト論(4) ― 続草間加寿子論<連続>園部三郎(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.24-29)
内容:フランスに学んだ日本人で草間加寿子のみがヴィルトゥオジティ[園部は巨技主義と訳している]の粉飾を身に付けなかった(このことこそ評価が分かれる所以である)。草間の特徴は、音色が清澄であり、それが音楽に効果的なニュアンスを与え、音色の配合に敏感であると同時にフォルテとピアノの相対的な強度の選択力がある。/しかし、最近の独奏会におけるドビュッシーの『水の反映』やラヴェルの『道化師の朝の歌』では、感覚主義的な技巧主義に通じる危険がみられた。また、モーツァルトの戴冠式コンチェルトで美しい音の効果を生み出しながら、第2楽章を歌いこなせなかった。これは、現在、内面から湧き出る自然な唱法をもっていないからである。さらにバッハやベートーヴェンを演奏すると、しばしば表現に破綻をきたす。/現在の草間は、生活体験のすべてを「純粋なる音楽性」の成長のために役立たすべき時期にいる。
メモ:本稿は前号の続き。
【2000年1月17日記】
音楽鑑賞について植松傳(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.30-35)
内容:後半の「鑑賞の注意」(p.34−35)の箇所に結論が述べられている。植松は、音楽を文学的に解釈しないこと、音楽そのものにとって拠るべきものはスコアのみであること、曲と演奏は別物であること、鑑賞家も音楽家であることの4点を主張している。
【2000年1月29日記】

音楽コンクールを中心に<座談会>野村光一 増沢健美 園部三郎 山根銀二(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.36-52)
内容:はじめに山根銀二が、日本の楽壇は天才少年・天才少女という非常に若い人と女性が多いのが特徴だが、男性的な逞しい芸術意欲に燃えたものに転換せしめるべきだ、と問題提起する。野村光一が反発し、ヨーロッパでも演奏界、音楽学校、聴衆の多くは女性で、もっとも優秀な地位を占めるのは男性が多くそこだけが目立ってしまう(日本ではこの部分も女性)。音楽の世界に女性が多いのは社会現象であり、芸術活動として質が高いのが少数の男性であることとは別問題と考えるべきと主張。園部三郎は、すべての芸術活動は社会現象で、女性が多いことは質的問題にも関係し、これを是正すべきならどうしたらよいか考えようという。山根は、作品を誠実に再現することは男性がすべきだが、女性にもできるから問題が生じると指摘。野村は、社会的現象として東京音楽学校の実績と在野で行なっている音楽コンクールを挙げ、この二つがどう発展するかに関心があるという。増沢健美が音楽学校は教育機関だがコンクールは違うといい、音楽学校の生徒がコンクールに落ちると不名誉だということで参加を抑えるという噂があることを怒っている。そのコンクールに関しては、野村がテクニックを最優先に判断するというが、これには異論も出て議論となるが、園部がテクニックと芸術性を切り離すことはできないとまとめる。音楽学校については、音楽学校の校長に人がいないから文官をあて、その校長が安藤幸を一言の通告もなしに首を切ったことに座談会参加者一同が憤り、是正するようにと述べている。
【2000年1月21日記】
コンクール作曲入選者(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.52)
内容:第11回音楽コンクール作曲の入選者: 清水守、玉利英道、中瀬古和、福井文彦、保田正。/1942年7月1日、尾高尚忠指揮の日本交響楽団が入選作品を発表する予定(於・日比谷公会堂)。
メモ:入選者の入選作品については記載がない。
【2000年1月29日記】
歌劇「トスカ」公演(音楽会評)久保田公平(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.53-55)
内容:1942年5月27日〜29日(於・歌舞伎座。3日間でマチネを含めて4公演)、藤原歌劇団第15回公演『トスカ』。配役: 原信子/瀧田菊江(トスカ)、藤原義江(カヴァラドッシ)、下八川圭祐/留田武(スカルピア)、日比野秀吉(アンジロッティ)、村尾護郎(堂守)。装置: 三林亮太郎(装置) 演出: 堀内敬三。東京交響楽団; グルリット(指揮)。
【2000年1月31日記】
声楽評(音楽会評)久保田公平(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.55-59)
井上貫也第1回独唱会
内容:1942年5月13日、青年館で。井上は原信子門下。プログラムは歌劇のアリア(具体的な曲名は不明)、「からたちの花」「かやの木山」「宵待草」「船頭歌」のほか、鈴木二三雄の「紫」。これですべてかどうかは、不明。伴奏者、不明。
上野の聖譚曲「四季」
内容:1942年5月16日、日比谷公会堂で。プログラムはハイドンの『四季』。演奏者: 永田みや子(ソプラノ)、木下保(テノール)、藤井典明(バリトン)、東京音楽学校(管弦楽と合唱)、フェルマー(指揮)。
早川清一独唱会
内容:1942年5月28日、産業会館で。ピアノ: プリングスハイム。オール・シューベルト・プログラムだと書いてあるが、具体的な作品名は不明。
浅野千鶴子独唱会
内容:1942年6月2日、青年館で。伴奏者、不明。プログラムはスカルラッティの『すみれ』、ドビュッシーとフォーレの歌曲、山田耕筰の歌曲(これらは具体的な作品名の記述なし)。
【2000年1月31日記】
ラヂオ短評露木次男(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.60-61)
内容:1942年5月12日。香川淑子によるイタリア・オペラ[の何の曲かは不明]、伴奏者不明。次にリゴレットの四重唱。四重唱の演奏者と伴奏者は不明。5月13日。江藤俊哉のヴァイオリンと江藤秀子のピアノとあるが、演奏曲目は記述なし。5月17日。紙恭輔作曲、交響組曲『ボルネオ』。演奏者は不明。5月20日。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』を、井口基成(ピアノ)、日本交響楽団、山田和男(指揮)の演奏で。5月26日。筝曲『千鳥の曲』を中島欣一で。6月8日。藤山一郎ほかの演奏で勝利の歌曲集。
【2000年2月1日記】
チェロ(予選・本選) (音楽コンクール課題曲研究)鈴木聰(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.62-64)
内容:バッハのチェロ組曲について。作曲年代の推定(1720年ごろ)、自筆譜は発見されていないことなどを触れ、パブロ・カザルスが公衆の面前にこの組曲をレパートリーとして定着させたと指摘する。演奏に関しては、和音の構成部分とカデンツァ部分を区別し、運弓運指を研究すること、各楽章の性格に最も適応したテンポの研究をすることなどを薦めている。
【2000年2月2日記】
ピアノ(予選) (音楽コンクール課題曲研究)宅孝二(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.64-66)
内容:リストのコンサート用練習曲は、あまり神経質にならないほうがよい。同じ作曲家の『森の囁き』はメロディの奏法そ工夫するように書いていてる。ドビュッシーの『雨の庭』は、クラブサン演奏技巧の、鮮明な音色と単純な表情づけを要求し、『水の反映』では抑制したタッチで滑らかに弾くことを薦めている。
【2000年2月2日記】
提琴(予選・本選) (音楽コンクール課題曲研究)福井直弘(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.66-67)
内容:ヴュートン[ママ]のヴァイオリン協奏曲二短調を取り上げているが、本文中に「彼の死んだときから六〇年以上も経った今日」とあり、作曲者はヴュータン(1820−1881)のことと思われる。演奏するときは気品が必要と述べている。
【2000年2月2日記】
一音楽学生の手記/加波潔(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.82-88)
内容:(1)音楽学校と日本歌曲 社会では新体制が唱えられ、楽界では「日本国民音楽樹立」が言われ、文学では「日本的性格」が論議されるなど、「日本的」なるものが叫ばれているが、混沌として暗中模索をしている。音楽教育者を送り出す音楽学校が日本音楽(せめて歌曲だけでも)を顧みるべきだ。まず声楽部[ママ]と師範科の生徒に日本歌曲のレッスンを新設すべきだ。(2)現代音楽学生気質: 音楽学校の生徒はレッスンに間に合わせる曲の譜面を読むのに浮身をやつしている。(3)「学生と教養」: 教養のない人が生み出す芸術など考えられない。結婚式場へ行って、失恋の詩をもつマルティーニの『愛の歓び』を歌ったり、ドストエフスキーをロシア五人組の一人と取り違えたり、財団法人を法律家が資金を出し合ってできた団体と答えたりする者が音楽学校の中にあるに及んでは話にならない。(4)音楽学校教授論: 優れた教導者は、必ずその子弟の特徴を判別して自分の様式に反逆させる子弟を造る。しかし実際は、定刻の20分も後にレッスンに来て1回スラーときいて「ああ、いいよ」と何も助言しない教員や、逆に頭から生徒を怒鳴って自分と同じ型にはめてしまうような教員がとても多い。
メモ:本文から察するに、筆者は東京音楽学校の生徒と思われる。記事は投稿。
【2000年2月4日記】
辻久子提琴独奏会(読者評論)三谷潤(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.89-90)
内容:1942年5月19日、公会堂。伴奏者の記述なし。/プログラムは、ブラームス、ヘンデル、バッハを演奏したようだが、具体的な作品名はわからない。/さいきん、ほとんど進歩の跡がないと指摘している。
【2000年2月9日記】
浅野千鶴子独唱会(読者評論)/加田繁(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.90-91)
内容:1942年6月2日、日本青年館。伴奏者の記述なし。前年に続く2回目の独唱会になるようだ。/プログラムは、アルファーノ[当時のイタリアの中堅作曲家]の『3つの抒情詩』、ドビュッシーの歌曲(『髪』『麗しき夕暮』『涙おつわが胸の中』)、フォーレの歌曲(『月の光』)、山田耕筰の『兵士の妻の祈』が挙げられている。ただし、これですべてかどうかは不明。
【2000年2月9日記載】
「南方の音楽」を聴く(名曲鑑賞)/山中一郎(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.92-94)
内容:今回コロンビアから「南方の音楽」という音盤集が出た。山中は、南方が戦場としてクローズアップされているので反響があるだろう。レコードに収められた中で、タイ国を除いて完全に独立した国家を持っていない。いわゆる亡国の民の亡国の音楽である。/タイの劇「ラーマヤーナ」の一部、ラオスの笙[=キヤン]音楽、安南の音楽、ビルマの歌曲、マレイのバンサウン、インドネシアの民謡やバリ島のガムランなどが聴ける。
メモ:いつ、何枚組で出されたのかは、不明。収録内容も上の記事ですべてかどうかは、わからない。
【2000年2月12日記】
日本芸事の拡張(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.97)
内容:事務所の拡張移転について(住所: 京橋区木挽町5の4 電話: 銀座0746番)。
メモ:具体的な日時については不明。
京極高純氏(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.97)
内容:内閣委員となり情報局勤務となる。
メモ:具体的な日時については不明。
【2000年2月12日記、 上の2つの記事はきわめて短い記事。】

レコード界/藁科雅美(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.98)
内容:呉泰次郎『主題と変奏曲』(ポリドール)と渡邊浦人『野人』(ビクター)という二つの日本人による管弦楽作品が、6月新譜で出た。呉の作品はワインガルトナー賞入選作で、渡邊作品は1941年の音楽コンクールで文部大臣賞を受賞した。また、ポリドールは呉作品の総譜を付けたが、日本人作品の楽譜出版は録音以上に機会が少ないので、[今後も]録音とあわせて多少の無理を押して楽譜印刷を考慮してほしい。
【2000年2月15日記】
7月のレコード山根銀二(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.99)
内容:コロムビア―@ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』(ギーゼキング[ピアノ]、ザクセン国立管弦楽団、カール・ベーム[指揮])Aスペイン音楽集Bワーグナー『巡礼の合唱/水夫の合唱』(ロバート・ヘーガー[指揮]、伯林国立歌劇場合唱団)Cチャイコフスキー『トロイカ/ノクタン』(モギレフスキ[ピアノ]) ビクター―@ベートーヴェン『ヴァイオリン奏鳴曲 作品30−2 ハ短調』(メニューイン兄弟)Aシューベルト『ピアノ三重奏曲 変ロ長調』(コルトー[ピアノ]、ティボー[ヴァイオリン]、カザルス[チェロ]) テレフンケン― @ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』(メンゲルベルク[指揮]管弦楽団の記載なし)
【2000年2月15日記】
編集後記(『音楽公論』 第2巻第7号 1942年7月 p.106)
内容:本号で取り上げた記事について。/上田俊次海軍中佐(情報局第五部第三課長として日本音楽文化協会の発展について指導し、音楽雑誌に対しても支援した)は、このたび情報局を去って本務につかれることになった。後任は、歌人として知られる井上情報官が就任した。
メモ:情報局の人事についての具体的な日時は記載がない。
【2000年2月15日記】


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