『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第9号(1942.09)


現代日本ピアニスト論(6) ― 井上園子論<連載>園部三郎『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.26-29)
内容:井上園子は、原知恵子を天才型とすれば、対照的に努力型で確実な技巧を身につけている。風格の大きな演奏を示し、男性的な逞しさをも持っているが、これが同時に微細なニュアンスに欠けるといった欠点にもつながっている。たとえばフランスの作品やショパンの演奏では短所が顕著に表れ、反対にリスト、チャイコフスキー、プロコフィエフなどでは長所が思い出される。/井上には、男性的な力、豪放さといった面に限界づけずに、繊細さと温かみも望みたい。
メモ:この6回で4人のピアニストについて述べたが、この調子では当初予定したピアニストをすべて扱うには相当の期間を要するので、ひとまずこの号で連載を休稿とする、とある。
【2000年3月28日記】
日本の母の歌歌曲募集『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.29)
内容:主婦の友社では「日本の母の歌」歌詞を決定し『主婦の友』9月号で発表した。さらに今回、作曲を一般から募集することになった。/1等(1名)1000円、2等(1名)300円、佳作(10名)20円。締切:1942年9月15日。
【2000年3月28日記】
音楽紀行・2 ― コルンゴールド父子と語る京極高純『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.30-35)
内容:1931年2月6日、京極はエーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴールトをウィーンの自宅に訪問した。尊敬する作曲家はベートーヴェンのみ。推薦する指揮者は第一にコルンドールト自身、そしてブルーノ・ワルター、フランツ・シャルクを挙げている。この当時、コルンゴールトは3つのサクソフォンを主としたベビー・セレナーデを作曲中だったという。しかし当時の日本の楽壇については極めて認識が不足しており、京極の説明を聞いて驚いていたという。同年秋にも、二人はウィーンで再会している。すでに満州事変勃発後で、コルンゴールトは共産主義を協力して追い払わなくてはならないと言ったそうだ。京極は、その後渡米したコルンゴールトを気遣っている。/1931年秋、京極はエーリッヒ・ヴォルフガングの父親、ユリウス・コルンゴールトとも会った。父親は、ウィーンで有名な音楽評論家だった。ユリウスが推す演奏家を聞くことはできたが、音楽の話はあきあきしていると言われ、証券取引所の話題になり、京極も引き下がってきたという。
【2000年3月30日記】
追記:本連載・3では、シェーンベルクと会見したのが1930(昭和5)年とあり、それ以前にコルンゴルトその他の作曲家と会ったと書かれている。上記1931年2月6日と日時が合わない。どちらが正しいのかわからない。
【この箇所、2000年4月25日記】
↑上記メモについて、1931(昭和6)年が正しいことが、第2巻第11号の音楽紀行追記によって判明した。
【この箇所、2000年5月15日記】

良き演奏家への道<座談会>草間加寿子 浅野千鶴子 福井直弘 井口基成 野村光一 園部三郎 増沢健美 山根銀二『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.36-57)
内容:戦争になる直前に帰国した人たちに集まってもらって、外国で得た経験と今の日本に欠けているものを反省したい、と記者から趣旨がのべられた。はじめに質問を受けた草間加寿子(留学ではなくフランスで育った)は、日本ではレコードから西洋音楽が入ってくる。レコードと実演は違うと思うので、ただレコードによって音楽を鑑賞するような態度は困ることと思う。また、パリにいて日本の楽壇は想像できなかったが、帰国して音楽が盛んなので驚いたとも述べている。/福井直弘は2年ドイツに留学。ユダヤ人を追い出してドイツが駄目になったといわれたが、大いに期待していいと思う。オーケストラなど若い人をどんどん良いところにつける。これは日本には無いことだと指摘。浅野千鶴子は、イタリアでは指揮や作曲など若い人に場が与えられることを報告し、草間もフランスで作曲は若い人を登用すると言っている。/草間から、日本ではピアノ科の生徒が外国語など他の勉強もしなければ駄目なのかわからないと疑問が出される。福井は、ドイツでは全員が[他の勉強を]やらなければならないと言う。/一方、浅野は学校を出たての者が、イタリアのようにオペラの端役を努める機会もなければ、立派な声や美しい声を聴くことができないと言う。/井口、草間、福井、山根らは演奏の基礎的な訓練が不足していることを話し合う。/さいごは、音楽家同士が集まってお互いを批評しあう雰囲気が日本にはなく、そうしたものが必要だ、という議論で終わっている。
【2000年3月31日記】
恩師・ラウハイゼン平原寿恵子『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.66-69)
内容:ベルリン留学当時、平原寿恵子は毎週1回ラウハイゼンを訪ね1時間ほどのレッスンを受けた。まず楽譜が取り上げられ、与えられた曲の詩を暗誦で朗読する。ラウハイゼンは、もっと詩の中に入り込めと指導し、手本を示し、平原は、やめろと言われるまで朗読を繰り返す。そうするうちに、ラウハイゼンは静かに伴奏を付けてくれる。そして歌のレッスンになる。なぜ詩から、メロディーや和音が沸いてこないのか? という具合に厳しい指導だったという。平原は、与えられた曲(8曲)を1週間のあいだにこなしていくことができずに、それをラウハイゼンに訴えたこと、レッスンで「ちがう、ちがう」と連発されるので焦ったことなどを記している。
【2000年4月2日記】
ラヂオ短評露木次男『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.70-71)
内容:1942年7月9日。岡村雅夫ほかの演奏で室内楽。女学生向けの軽音楽といった内容と書いてあるが演奏曲目はわからず。次に、バタビヤからの詩の朗読と音楽伴奏(飯田信夫作曲)。バタビヤのオーケストラは巧い。7月11日。東海林太郎ほかによる郷土民謡集。7月12日。草川信作曲「組曲夏の日記より」。プロコフィエフまがいの曲で、演奏は坂西輝信指揮の東京放送管弦楽団。高木東六作曲「追分を主題とせる幻情[ママ]曲」。ラベルのスペイン狂詩曲に似た趣きだという。7月14日。宮城道雄、杵屋六治、和田肇による箏・三味線・ピアノの三重奏。曲目は「六段」ほか。7月21日。服部正作曲「海の交響曲」。演奏は、日本交響楽団と日本放送合唱団とあるが、指揮者は不明。7月27日。貴志康一作曲「日本の写生」。演奏は斎藤登指揮の大阪放送管弦楽団。7月31日。山田耕筰作曲「日本組曲」。演奏者不明。露木は、山田のこの曲を評価していない。8月1日。和田肇編曲で「越後獅子」。演奏はピアノと管弦楽によったらしいが、演奏者は記載されていない。
メモ:7月9日の放送は、室内楽と詩の朗読が同一の時間帯に放送されたのか、別の時間だったのか不明。/7月12日の高木作品に「幻情曲」とあるが、本文にあるとおりを記した。
【2000年4月4日記】
楽壇消息『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.71)
内容:青砥道雄=ビクターを退社し、科学動員協会に入社。桂近乎=ビクター洋楽課長の氏は文芸部学芸課長兼務となる。磯野嘉久=日本ビクターを退社し名古屋住友に入社。松尾要治=大政翼賛会を辞し、日本音楽文化協会事務局主事となる。
【2000年4月4日記】
◇音楽文化協会の初総会『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.90)
内容:1942年7月27日午後1時30分より産業組合中央会館で、社団法人日本音楽文化協会第1回通常総会が開かれた。/1.会務報告(中山晋平理事長)。ならびに昭和16年度事業報告、顧問推薦、会員の加入状況等について。2.新幹事指名。山田耕筰副会長より小野好氏を指名。3.各部事業報告。作曲部=大木正夫、演奏部=山本直忠、評論部=園部三郎、教育部=柴田知常、国民部=宮田東峰。4.決算報告(野村光一)。5.会計及事業監査報告(高野高太郎)。6.昭和17年度予算報告(野村光一)。7.各部事業報告(各部理事)。8.大阪支部会務並事業報告(竹内忠雄)。9.京都支部会務並事業報告(浅井)。10.定款変更(山根銀二)。
メモ:記事の始めに、第1回通常総会を「日本音楽文化協会の新発足を意味する」と書いてあるが、具体的な意味は書かれていない。また「10.定款変更」の内容も具体的でない。
【2000年4月8日記】
編集後記『音楽公論』 第2巻第09号 1942年09月 p.106)
内容:1942年8月20日夜、対談「東京・バタビヤを結ぶ」が放送された。出演は、堀内敬三と飯田信夫。/1942年8月24日朝日新聞の記事「南方建設を見る」の中で、海軍顧問・藤山愛一郎が「日本語の普及のために日本文化と思想との教育のために映画と音楽に関心が注がれなければならない。音楽を愛する原住民の性質からみても音楽による日本語の普及と音楽による日本精神の涵養がその方法として適当である」と述べているという。これは日本音楽文化協会こそとりあげなければならない問題だと指摘している。
【2000年4月12日記】


トップページへ
昭和戦中期の音楽雑誌を読むへ
第2巻第8号へ
第2巻第10号へ