陶芸エッセイ 連載36 散歩のすすめ

「単身赴任・やきもの扮戦記」 連載第36回

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     連載第36回  散歩のすすめ  ('06年/8月掲載)     
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連載第36回「散歩のすすめ」

 マンションの同じ7階に住む男性が定年を迎えた。その話を聞いたのは、まだ寒さが残るころだった。妻がゴミを出しに行って、奥さんと立ち話をしたそうだ。だれにも話していないのに、僕が会社を辞めて陶芸をやっていることも、「奥さんは知っていたわよ」、と報告した。「家にダンナがいるって、いいでしょ。洗濯物なんか取り込んでくれるし、いろいろやってくれるから助かるわ」と、言ったという。
 
 エレベーターで一緒になれば挨拶するていどのつきあいで、メガネをかけた真面目そうな顔が浮かんだ。口ぶりから「あなたもやってくれない?」という意味だろう。しかし、定年でリタイアした彼と、50歳で退職した僕では立場が違うのだ。再スタートしてまだ丸3年。会社員でいえば、やっと実戦の役に立ち始めたばかり、というところだ。どっぷり浸からなければ仕事は覚えられない。

 工房までは徒歩10分で、たしかに職住接近である。「冬は洗濯物がしけるから、4時ごろにはいちど家に戻って取り込んでくれないかな」気持ちはよく分かるが、それをやってしまうと、際限なく家事に取り込まれて、細切れの時間しか残らなくなってしまう。「近くにいることはいるが、ただ近いというだけで、いつでも戻れるわけではない。会社で働いている人が『雨だから家に戻って洗濯物を取り込んできます』と言って、許可されるとでも思っているのか!」と、まぁ、そういうようなことを、休日に掃除機をかける音に紛れて、僕は主張するのである。

 洗濯物を早めに取り込む、というのは引き受けていない。ただ、急な雨はやむをえない。工房の屋根は鉄板で、降り始めるとポツンポツンとよく響く。それを聞いてしまうと、しかたがない。僕は家へと走って帰ることになる。

 朝食を終えて工房に向かうとき、くだんの奥さんとエレベーターで一緒になったことがあった。「早いんですね、もうお仕事に行かれるんですか?」「ええ、さっき戻ってきて、これから二回目です」言わなくてもいいことまで、つい喋ってしまった。奥さんは、歌うような口調になった。「いいですわねぇ、若々しくてハツラツとしてらっしゃって。ウチのなんか、することがなくて家にいつもいて・・・。散歩にでも行ってらっしゃい、と言うんですけどねぇ」

 その会話のあと、工房に向かいながら、なんとなく違和感が残った。「若々しくてハツラツ・・・」どうやら、僕を定年退職したと思い込んでいるらしい。60歳をこえているにしては、「若々しい」と言っているのだ。それはそうだろう、僕は、まだ53歳なのだから。今ごろ、奥さんから小言の機銃掃射を浴びせられているだろうご主人に同情した。「林さん、いま、陶芸しに出かけたわよ。朝早くに一回行って、これから二回目だって。あなたもゴロゴロしてないで・・・・」リタイア後の自由を満喫できる立場にありながら、僕のせいで気の毒なことになってしまった。

 その後、ひとりで外出する姿を、よく見かけるようになった。しゃれたジャージに、ウォーキング・シューズが、サマになっている。手ぶらで早足だから、やはり散歩のようだ。一日に、二回目撃したこともある。妻も、出くわすことがよくあるという。いったい一日に何回散歩しているんだろうと話題になった。「陶芸やりませんか、って誘ってあげればいいのに。粘土を練ってくれたり、手伝ってくれるわよ」妻がそそのかすように、都合よく「人間土練機」になって働いてくれるかどうかはともかく、気分の良さそうな人には見えた。声を掛けてみようかなと思った。

 しばらくして、散歩に出るご主人と途中まで一緒になった。「近所に陶芸をする工房があるんですか?」「ええ、近いから、行ったり来たりしてます」「いいですねぇ」誘ってみようか。口を開きかけたとき、「私は、こっちに行くので、じゃ」と、横断歩道で信号待ちする僕を残して行ってしまった。

 話を出さないままになったことに、少しホッとしていた。100パーセント自分ひとりの時間をすごす、というのは気に入っている。ここでひとりで空想したり、妄想したりしている時間が、僕はけっこう好きなのだ。

 今では、ご主人の足取りは以前よりもずっと軽快になり、身体も引き締まってきたように見える。いまの60代はほんとうに若い。奥さんから言われて、おそらくシブシブ始めただろう散歩も、いまや「趣味」と呼べるものに成長したのではなかろうか。僕も散歩が好きだが、同じ道でも人によって立ち止まったり発見するものが違うだろう。こんど、一緒に散歩しませんか、と声をかけてみようかしらん。そうそう、僕が定年退職でないことは、まだ打ちあけていない。このままにしておいたほうが、良さそうな気がしている。




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