陶芸エッセイ 14 単身赴任から5年ぶりに東京に戻ってきた。そこで待ち受けていたものは!?

「単身赴任・やきもの扮戦記」 連載第14回

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   連載第14回  東京に戻っては来たものの 下  ('01年/3月掲載)       
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「東京に戻っては来たものの 下」

  地元の不動産さんに電話を入れた。地べたを探すためである。
マンションのアンペア増量を諦めたわけではない。マンションの管理会社とは、なにか別の方法はないか話し合いを続けている。サラリーマンが、大英断で購入したセカンド・マンションなのだ。そう簡単にあきらめてたまるか。

 不動産屋さんに付けた条件は次のようなものだった。候補地の条件は自宅から歩いて10分以内であること。歩いてすぐという条件はゆずれない。本業を持つ身としては、作業はどうしても、夜か早朝ということになる。

行き来に時間は使えない。広さについては、狭ければ狭いほどいいと言うしかない。しかし、10坪というわけにもいかないだろう。自宅の僕の部屋はすでに娘に開放してしまっている。陶芸道具のもろもろや、机や本棚も運び込まなくてはならない。不動産屋さんと一緒に見に行くと、身の破滅をもたらすさらに大胆な決断に踏み切ってしまいそうで、物件についてはファックスを入れてもらうことにした。

 数日後、四、五件の情報が送られてきた。地図で見当をつけて自転車をとばして見に行く。
どれも20坪ほどの土地なのだが、あまりにも坪単価が高すぎる。自宅マンションは、JRの駅から歩いて7分の「駅近・買物至便」。従ってそこから10分以内の場所だって立地条件としては悪くない。このあたりは、東京で働くサラリーマンが一生働いてやっと手に入るかどうかというマイホームのための土地なのだ。

工房を作るとなると、土地だけではすまない。スレート葺きの「こうば」のようなものを建てるにしても、水道や電気の工事が必要だ。土地だけでも手が出ないのに、それらをどこからひねり出せばいいのだ。 不動産屋さんからは最初に「ご予算はどのくらいでお考えですか」と訊かれた。こう訊かれると困ってしまう。もはや、「ご予算」などどこにもないのである。銀行が貸してくれるだけのものが予算なのだ。「安いほどいいです」と応えるほかない。これでは本気だとは思ってくれない。

いくつ見てまわっても煮え切らないこちらの態度にあきれ果てられ、送られてくるファックスも間遠になった。やはり、マンションの電気をなんとか確保することのほうが現実的なのだろうか。しかし、解決の糸口は依然として見つかっていない。悶々とした日々が過ぎていった。

 不動産屋さんから久しぶりに電話が入ったのは、そんなある日のことだった。「こうばのようなものを建てるんですよね」。「はい・・・」。「工場ならあるんですけど、見てみますか?」。「工場!?」。
 一緒に見に行きますか、という提案を振り切って、またしてもファックスを送ってもらった。市内地図で確かめると、歩いて7、8分の所だった。神社を背にして、前はすぐに私鉄の線路が走っている。工場は建坪が30坪もある。なによりも魅力は、安いことで、近辺の地価の三分の一ほど。しかも土地だけの値段で、上物の工場はタダだという。そんなうまい話があるだろうかと疑った。くわしい話を聞くことにした。

 その工場は不動産会社の自社物件で、ビルの内外装を請け負っていた石材屋さんが廃業したために頼まれて買い取ったのだそうだ。工場を取り壊して「建て売り」にしようとして建築申請をすでに済ませているという。しっかりした作りの工場で、更地にするのに経費が嵩むから。ご希望なら、土地代だけで譲ってもいい。こういう話だった。担当者は好感の持てる若者で、僕の要望に応えようと社長にかけあってくれたようだ。新聞の折り込みチラシで確かめると、彼が言ったとおり一戸建てのプランが付いて売り出していた。

 自転車をとばして見に行った。工場は神社のうっそうとした森を背景に建っていた。「でかい・・・」。僕が欲しかった、まさにその「こうば」が目の前にあった。いや、夢想していたものの二倍はゆうにある威容を誇っていた。一人で見に行ったので工場の中には入れず、外側をぐるっと見てまわった。といっても前は線路なので、それをへだててながめた。工場にはすでに太い電気の線が電信柱から引かれていた。

 それからの顛末は省く。購入したいと告白するのに5日かかり、そのあと一週間、口をきいてくれなかった家人のことはともかく、資金調達のために社内預金を解約し、さらに銀行ローンを組むために駈けずりまわった。工場は名目が「倉庫」となっていたために、有利な「セカンドハウス・ローン」が組めず、商工自営の人が組むローンになってしまった。これは、いまだに納得がいかない。家人については、後日、人から「理解のある奥さんですねぇ」と言われるたびに心中穏やかではない様子である。

 いちおうの改造が終わったときには盛夏を迎えていた。太陽が鉄板の屋根とスレート葺きの壁にまともに照り付けて、風の抜けない「こうば」の中は頭がぼーっとするような熱さになった。井戸水の水道で(そう、井戸水なのだ。工場が使っていたもので、簡単なモーターの修理で使えるようになった)顔を洗う。地下60メートルからの地下水はきりりと冷えて気持ちがいい。上半身はだかになって、博多以来三ヵ月半ぶりにロクロを挽いた。粘土に触るというのが、こんなにも気持ちを落ち着けてくれるものかと自分でも驚く。手始めに作ってみた湯飲みは失敗の連続。それでも、10個ほど挽くうちには勘が戻ってきた。手や体が覚えていることというのは、いちばん信じられることではないか、そんなことをあらためて思った。

 マンションは、それから半年経った今も、まだ売れていない。窯を入れるつもりさえないなら、いい物件だと思うのだが。
※信じられないことが起きた。最後の二行を書いて、三分もしないうちに電話が入り、売れることになった。昨日と今日がオープンハウスの日だったのだが、それにしても・・・。

 



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