環境危機をあおってはいけない

―地球環境のホントの実態―

ビョルン・ロンボルグ (山形浩生 訳、文藝春秋、2003)

 

地球環境問題は今や人類にとって最大にして緊急の課題で、マスメディアも頻繁に取り上げ、学校教育の場でも必須の課題となっています。しかし、どうも腑に落ちないことがあります。メディアの報道や分析はいったいどこまで本当なのか。環境保護団体の主張や活動には私心も政治的思惑も全くないのか。科学者たちの見解はどこまで一致しているのか。そして政治家たちはどこまで本気なのか。『地球温暖化論への挑戦』(表を参照)を読んでしまったからには、すべての「環境問題」に、何か裏があるのではないかと勘ぐりたくなります。

本書がデンマーク語で出版されたときから、学界、ジャーナリズム、市民レベルにおいて賞賛と批判が相半ばし、その後に英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、韓国語などに訳されると、論争は世界的規模になりました。なにしろ、世の環境保護団体の主張とはことごとく対立する内容なのですから。もちろんそれら団体のほとんどは批判的で、そのうちの多くは内容を批判するよりも、著者の動機や背景を詮索する(産業界の回し者ではないか?)といった調子のようです。

取り上げられた環境問題はかなり広範で、大気汚染、海洋汚染、水質汚濁、土壌荒廃、酸性雨などのいわゆる自然環境破壊や、農薬による土壌や農作物の汚染、生物多様性の低下、環境ホルモン、地球温暖化などにとどまらず、食糧事情、生活環境、教育水準、健康状態、貧困、死亡率、平均寿命などの社会環境や福祉状況、そしてエネルギー、水、天然資源などの枯渇問題にまで及んでいます。

著者は、誰でも手に入れることができる公的なデータを基に、これらの環境問題すべてについて、徹底的な検討を加えています。環境保護団体も同じようなデータを使っているはずなのに、なぜこれほどまでに結論が異なるのか。一言でいえば「統計のマジック」、いや「統計の嘘」ということ。『成長の限界』のローマ・クラブはもとより、『地球白書』のレスター・ブラウンも、『沈黙の春』のレイチェル・カーソンも、『奪われし未来』のシーア・コルボーンも、そして地球温暖化防止の京都議定書も、容赦なく批判されています。それにしても私は、グリーン・ピースが「本当のことをいえば、10年前から我々が戦ってきた環境問題の多くは、ほとんどが解決されたも同然の状況だ。それでも(人々が環境問題を真剣に考えなくなるといけないので)戦略として『すべてが地獄へまっしぐら』的な前提に集中し続けている」と公式に認めていたなんて、知りませんでした。はっきり言って、これは詐欺です。本当は「人々が真剣に考えなくなる」ことよりも、自分たちが食えなくなることを心配しているのでしょう。

本書における個々の議論に共通した問題意識は、「地球環境は危機に瀕している」とか「人類の未来には希望がない」といった「神話」「定番話」を鵜呑みにして真実に背を向けていると、どんな困った問題が起こるのかということです。著者の主張をまとめると、環境問題に取り組むにはお金や組織や時間といったリソース(利用可能な資源)が必要だが、それには限りがあるのだから、真に重要な問題から優先的に取り組むべきであり、したがって何が真に重要な問題なのかを正確に知る(リスクを重みづけする)必要がある、ということです。地球環境は環境保護団体が主張するようなひどい状態ではないにしても、だからといって何もしなくてもよいというわけでは決してないからです。環境保護団体などの(間違った)主張に振り回されて、「些末な」あるいは「一時的・局所的な」環境問題にかまけていると、貴重なリソースを無駄にして、場合によっては環境をもっと悪くしてしまう危険がある。さらには、取り組むべきなのは環境問題だけではない。人類の福祉と未来にとって、環境問題と同じかそれ以上に重要な多くの問題にも、やはりお金や労力が必要だ。どこにどれだけのリソースを割くべきかは、結局は政治的な決断であり、有効な政治的選択を行うためにも、一人ひとりが本当のことを知る必要がある。

わかりやすい「たとえ」を挙げてみましょう。私たちは手が汚れたときは手洗いをしますが、病原菌や有害物質がゼロになるまで洗い続けるわけではない。手洗いに費やす時間、消費する水や石鹸の量と、残っている病原菌・有害物質の影響力などを、頭の中で天秤に掛けて、適当なところで妥協するのです。時間も水も石鹸も貴重なリソースだからです。環境問題にもこれと同じ考え方で臨むべきだというのが著者の主張。具体例をいくつか。

レイチェル・カーソン以来、化学物質、中でも農薬は、水や土壌を汚染するだけでなく、農作物に残留する農薬はガンの原因になるとされ、農薬はまさに環境問題の象徴となり、農薬を使わない農業こそが理想だと考えられるようになりました。しかし、これまでに農薬などの影響によるガン発生率・死亡率増加を示すとされたデータは、厳密に検証するとその解釈が間違いであることがわかります。ガン増加の真の原因は、人口の高齢化と喫煙率の上昇、食生活の変化などによるものであり、これらの因子を除外してみると、ほとんどのガンの死亡率はむしろ低下しつつあります。発生率が上昇しているガンもありますが、それは診断技術の進歩などによるものです。結論として、現在一般に行われている規制量の範囲内なら、農薬による発ガンのリスクというのは、動物実験のデータがどうであれ、人間に関してはほとんど全く問題にならないくらいに低い。「アメリカで、農薬によるガン死亡者数の納得できる推計は、たぶん(年間)ガン死亡者総数56万人のうち約20人」(p.400)。それでも、リスクがゼロでない以上は、全面的に禁止するべきでしょうか。ここで、リスクとベネフィット(便益)を比較する必要があります。農薬を使わないことによる農業生産効率の低下、生産高の減少は、社会(国家)にとって莫大な経済的損失をもたらします。先のアメリカの推計にみる年間約20人の命を救うのに、200〜3000億ドル! 癌を減らしたいのなら「これだけのお金にはもっといい使い道があるんじゃないか」(p.402)。さらに、農産物(野菜)の生産効率が下がれば、より多くの耕作地が必要になり、森林が伐採される。野菜や果物が少なくなり高価になると人々はその分、炭水化物・蛋白質・脂肪を摂取するので、ガンなどの成人病が増える。さて、農薬を全く使わないという選択は正しいのでしょうか。

環境問題の古典ともいうべき大気汚染についても、同様のことがいえます。一般に、自動車の増加などにより都市の空気は今でもかなり汚れている(あるいはますます汚れている)と思われがちですが、実は欧米先進国において、都市部の大気汚染が歴史上最もひどかったのは、意外なことに18〜19世紀であり、20世紀に入ってからは劇的に改善し続けているのです。これは、多少の時期の相違はあるにせよ、どの国にも共通してみられる現象で、またほとんどあらゆる種類の汚染物質に共通しています。これには技術の進歩をはじめ多くの原因が関与していますが、それらの原因は発展途上国でも共通していると見られます。したがって途上国でも今後、経済成長によってある程度は大気汚染が進行するものの、やがては先進国がたどったのと同じ道をたどると予想されます。もちろん現在の先進国の大気が理想的だというわけではありませんが、たとえばアレルギーや喘息や気管支炎や肺癌などの原因としては、タバコや建材などによる室内の空気汚染の方がよほど深刻。つまり、大気汚染の規制のためにこれ以上お金をかけるよりも、もっとやるべきことがあるのです(日本のジーゼル車などは例外でしょう)。また、先進国の一部には、途上国に対しても自分たちと同様の厳しい規制を要求するべきだという考えもありますが、こういうやり方は途上国の(経済成長に対する妨害だという)反発を招くだけで、かえって逆効果。それよりも、途上国の経済成長を助けることによって、自分たちが開発した大気汚染防止技術を彼らが早く利用できるようにすれば、結果的に地球全体の大気汚染をより小規模に、そして回復を早めることができるのです。

もう一つの例(p.312〜)。これはちょっと意外な話です。大型タンカーの座礁事故とか、フセイン・元イラク大統領によるペルシャ湾への石油放出など、流出した石油による大規模な海洋汚染は、人間の活動に伴うミスやエゴイズムが自然に破壊的な打撃を与える好例として報道され、高い関心を呼びます。1989年のアラスカ沖タンカー事故では、300頭のゴマフアザラシ、2800匹のラッコ、25万羽の海鳥、250羽の白頭ワシ、22頭のシャチが死にました。ところが、アメリカ政府による科学的調査によると、多くの種は数年のうちにかなり回復し、最終的にそれほど大きな被害ではなかったようです。調査団のメンバーによれば「早くも1990年には地域の73%から90%が元に戻った」、「生態系は多くの意味で、われわれとしては信じがたいほどはるかに回復力に富んでいるように思える」。驚くべきことに、20億ドルかけて行われた重油回収作業が、かえって被害を深刻にしたらしいのです。「湾岸を高圧力の水噴射で洗ったために、多くの海洋生命を奪うことになった」。さらに著者は面白い比較をしています。そもそも重油流出によって死んだとされる海鳥25万羽というのは、「アメリカでたった1日のうちに窓ガラスにぶつかって死ぬ鳥の数より少ない」。あるいは「汚染全体はアメリカで毎年モーターボートによって生じる汚染の2%より少なかった」。回収作業に投じられた20億ドルには、もっとよい使い道があったのでは?

著者が示している個々のデータ解釈などに異論はあっても、上記のような基本的な意図を無視して揚げ足取りに終止するのは、フェアではないし生産的でもありませんね。

ところで、食糧問題や生物多様性に関連して、捕鯨も取り上げられているかと思ったら、全く無視されていました。現在国際的にみても捕鯨禁止の弊害は、ミンククジラが増えすぎたことによる、そのエサになる魚の減少で、サンマやイワシの漁獲高減少はわが国のような漁業国にとって深刻な問題ですが、魚をほとんど食べない欧米人にとってはどうでもいいことなのかもしれません。本書でも「魚は人類のカロリー消費において…1%以下だ――そしてタンパク質消費量で見ても、魚はたった6%だ」なんて書かれています。ちょっとガッカリしました。

【補 足】

本書で展開されているような「リスクの重みづけ」は、実は欧米の学者たちや行政・司法関係者らがすでにかなり以前から取り組んでいる方法であることが、中西準子氏の『環境リスク学』(日本評論社、2004)に書いてありました。

環境リスクについて日本では、中西氏が1980年代半ばから研究を始め、実際に次々と成果を上げてきましたが(どのような成果かは、この本をお読みください)、政府や学界にはなかなか浸透しないようです。BSE(牛海綿状脳症、いわゆる狂牛病)をめぐって、日本政府が米国に対し全頭検査の実施を迫り、米国が拒否したために米国からの牛肉輸入がストップしている(2004年現在)のは、日本政府がリスクの概念を理解していないからとのこと。

中西氏も、ロンボルグ氏と同様に、環境保護団体、市民団体から強迫まがいの圧力を受けてきたそうです。たしかに、「発症するリスクは100年間に1人」などといわれても、その1人に当たってしまった人にとっては、「運が悪かった」ではすまされません。しかし、そういうことを言えば、交通事故だって同じです。自動車も電車も飛行機も船も、すべてなくせば交通事故はなくなりますが、それでは文明社会は維持できないのですから、何らかのリスクは覚悟しなければ成らず、したがって重要なのは個々の問題についてどの程度のリスクなら「受容」できるのかという、社会的合意を作っていく努力です。「疑わしきは禁止!」という態度は、冷静な科学的議論とは正反対であり、それはやがて「思考力の麻痺」という恐ろしい事態を招くでしょう。

 

厳選読書館・関連テーマの本
気候と文明・気候と歴史
動物保護運動の虚像
地球温暖化論への挑戦
歴史を変えた気候大変動