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「本当に何もなかったのだな、鳴海」
「ほんとだよ、雷堂。ライドウ、いや、昌君からも聞いただろう。あの子は全然嘘がつけない子だってのは、おまえもよく知ってるだろ?」
「それは、そうだが…」

雷堂の疑うような鋭い目はまだ鳴海から離れない。
明るい光が窓から入る、鳴海探偵社の事務所の午後である。
(早く帰って来てくれとは祈ったけど、何も朝帰りしたその日に戻ってなくても…)
そんな勝手なことを嘆きつつ、鳴海は「何もなかった」前夜のことを思い返していた。

***

「ねえ、昌君って呼んでもいいかな、あの時みたいに」
「あ、はい…?」
「いや、ほら、『ライドウ』じゃややこしいからさ」

晴海町のホテルの一室でディナーのテーブルを前に、鳴海は少年のグラスに更にワインを注ぎ足し、まずは少年の気持ちをほぐそうと努めた。
「サマナーに本名を教えてもらうのは悪いしね」
わかっている、という余裕の微笑を見せ、グラスを口に運ぶ。
(下手したら雷堂と同じかもしれないしな)
それでは余計にややこしくなる、という計算も働いている。

「そんなに、気を使うことはないんだよ。俺たちは昌君にすごく感謝してるんだし。思い出したんなら、わかるだろう?」
「でも、それは自分が世話になって…」
少年は気負いもなく言う。
「いや、普通あそこまで出来ないよ。いくら芝居でも、男と遊郭なんかに入って」
「……」
顔を赤らめるかと思ったが、少年は少し訝しげな顔をして目をしばたいただけで何も言わない。
(ないと思ったけど、案外慣れてるのか?)
それならそれで意外にやりやすいかもしれない、などと鳴海は考える。
「いや、だからさ、俺と昌君が少しくらい仲良くなったからって、雷堂は何も文句を言ったりしないよ。だって、雷堂だってそっちの俺と遊んで来たんだろう?」
「それは、そうですけど…」

(おっと、ここらはあまり突ついちゃいかんな)
少年の目がまた少し下を向くのを見て、鳴海は少し休みを入れることにした。
「そうだ、折角のご馳走が冷めちまう。なかなか良さそうな肉だよ」
「はい」
少年は素直に肯き、器用な手つきでナイフとフォークを使った。
自分たちと同じように、洋食に慣れているようだ。
食事の間はなんということもない話をしたが、少年はそれでも興味深そうに聞いていた。
若い頃読んだ本や、集めたレコードなどの話。
外国にいた頃の、さしさわりのない風俗や食べ物、面白い言葉の話。
そんな下らない話でも、世間離れした里で過ごしてきた少年には珍しいらしい。

(雷堂にはあまりこんな話はしなかったな…)
会ってしばらくは遊びには連れ出したが、享楽的な楽しみで、ゆっくり話したりということはなかったし、その後特別な関係になってからは、ますます話どころではなかった。
(女だとすぐ色々話したがるもんだけど、男の子だからな。普通にしてたって話とか、ないだろう)
だがこうして自分の他愛ない話に耳を傾けてくれる相手というのもいいものだ。
あちらの自分も同じ人生を歩んできたのだとすれば、少年はこんな話はとっくに聞いていても不思議はないのだが、
(しかしまあ、俺だってこんなことでもなければしゃべってないんだしな)
こういうのが、たまさか、ということなのだろう。

そろそろほろ酔い、という程に頬を染めた少年を鳴海はベッドルームに誘い、
「すぐ戻るからね。そうしたら話の続きをしよう」
僅かにブランデーを垂らしたエスプレッソのカップを持たせてベッドに腰を掛けさせ、自分は素早くシャワーを浴びた。
(雰囲気は上々だな。後は、あせらずに…)
鳴海がベッドに戻ると、少年は先刻と変わらない位置でカップを手にしている。
少しはだけたバスローブの合わせから覗く白い肌が、ほんのりと桜色に染まっている。
形のいい両足はすんなりと自然に下ろされ、僅かに膝頭がゆるんで開いている。
バスタオル一枚腰にまとっただけの鳴海を見ても、特に胡乱な顔は見せない。
男同士なのだから、それは自然なことだ。

鳴海はそのまま少年の横に腰を掛けた。
腰が触れる程の距離である。
少年が少しでも眉をひそめるなり、不審がる態度を見せたらすぐに、
「おっと、ごめんごめん」
と、うっかり近すぎる位置に座ってしまった、という芝居をするつもりでいたが、少年はまったく嫌がる様子を見せない。
それどころか、横を向いたまま鳴海に寄りかかってくるようにする。
(おおっ)
これは行ける。
そう判断した鳴海は座ったまま少年に面と向かい、まず空になっているカップを手から取ってベッドサイドのテーブルに乗せた。
少年は何も逆らわず、そのままにさせている。

(よし)
もう言葉はいらない。
このまま押し倒して、と思っていると、
(あれ?)
自分の体が意図しない方向に動いた。
背中を下に、ベッドに倒れているのだ。
上方にホテルの天井が見える。
そしてその間に、少年の顔が入ってきた。
鳴海は少年に押し倒されていたのである。

少年の顔からは、先程までのどこか心細そうだった表情が消え、その目は妖しいとすら言える光を放っている。
唇の端が持ち上がり、薄い笑みを浮かべている。
雷堂にも、こんな表情は見たことがない。
人というよりも、人を誘惑する異形めいている。
もちろん、そんな実物を見たことはないが、西洋の画集にそんなものを想像した絵があった。
雷堂に見せると「似ている」と言っていた、それだ。
その美しい異形が自分の上で優雅に微笑んでいる…
鳴海ははっとなった。
(飲ませすぎたのか)
思い起こせばディナーの間、話をしながら、かなり何度もワインを注いでやった。
瓶が空になりそうなくらいで、飲んだ量は話をしていた自分より多いかもしれない。
顔にはほとんど出ないタチなのだろう。

「仲良く、するんですよね。とても…」
抑えてもよく通る声がささやく。
その息が耳にかかる。
「や、あの…」
頭も口もまともに動かない。
蛇に睨まれた蛙である。
「男の人とは、よくわからないけど…」
(女とは、経験済みか)
だが男をそういう風に意識することは、まったく想像の埒外だったのだろう。
どこまでも健全な少年なのだ。
「でもあなたは細いし、綺麗だから、いいです」
(いいって、何がいいんだよ!)

その意味はすぐにわかった。
少年は鳴海の上に乗ったまま、首筋や耳元へ唇を這わせはじめた。
手があらぬところを探り出す。
(ちょ、ちょっと待って!)
「いい」というのは、鳴海を女と見なせるかどうか、ということだったのである。
「やっ、あの、駄目」
我ながら情けない声が出る。
逃げようにも、サマナーの力強い腕はしっかりと鳴海を捕えて話さない。
「大丈夫…」
女ならばうっとりとするだろう切れ長の目と声音で、そんなことを言う。

(大丈夫じゃないって!)
鳴海は必死に抵抗を続けた。
サマナーほどの力はなくても、一応はそれなりの鍛錬を積んだ体である。
そう簡単に、なすがままにされてはいない。
しかし敵とは違うのだから、闇雲に攻撃して倒したりするわけにもいかない。
その遠慮が仇になって、ついに両手を後ろにつかまれ、背後を取られてしまった。
(駄目だ…)
鳴海はこれまでと覚悟を決めた。
少年が腰に重みをかけてくる。
いよいよか…と思って息を詰めていると、少年はそのまま動かない。
(…?)
鳴海の手をつかんでいた指の力が抜けている。
そろそろと体をずらすようにすると、少年の体はそのまま下に落ちた。
ゆっくりとした寝息が聞こえる。
酔いが回って、眠ったようだ。
(助かった…)
鳴海は心からの安堵の溜息を漏らし、ベッドに倒れ込んだ。

***

そして翌朝。
まあ予想していたことではあるが、少年は前夜のことをまったく覚えていなかった。
もちろん食事をして色々と話をしたことは記憶にある。
「すみません、慣れないお酒で、酔って寝てしまったみたいですね。何かご迷惑をおかけしませんでしたか」
真っ直ぐな顔でそんなことを聞く。
「いや、全然大丈夫だったよ。ベッドまで連れていったくらいで、後は眠ってしまったから…」
鳴海としてはそんなことを言うしかない。
「そうですか、お陰でなんだか気分がすっきりしたみたいです。有難うございました」
「いや、役に立ててよかったよ…」
精一杯の微笑を浮かべ、筑土町の事務所へ帰ってきたところへ待っていたのが、不機嫌そうな雷堂だったというわけだ。
もちろん床には業斗も、お見通しという顔で座っている。

「すまない、自分が不注意で軽い怪我をしたものだから、鳴海さんにいらない心配をかけさせて、あちらで泊まることになってしまったんだ」
少年の言葉に不自然なところはないので、雷堂はそれはすぐ信じたようだった。
とにかく嘘のつけない性質であることは、前回でわかっている。
「気にするな、我もあちらでは鳴海氏に街を案内してもらったりしているのだし」
鳴海にはめったに見せないような笑みを浮かべ、
「早速だが、これを」
と、木の棒のようなものを渡した。
(あれが、アマツなんたらか)
少年は顔をほころばせてそれを受け取ると、
「それでは、鳴海さん、お世話になりました。楽しかったです。有難う。雷堂君も業斗も、お元気で」
頭を下げてさっさと事務所から出て行った。

残ったのは、少年の言葉は信じたが、鳴海の意図の方には疑いを持っている雷堂である。
「楽しかった、と…」
「いや、だからそれは、ホテルで食事して泊まるなんて初めてだし、あ、そうだ、今度おまえも連れてくよ。ステーキ、美味かったぜ」
「我には、贅沢だ」
「何言ってるんだよ。真面目に働いてる雷堂にそんなこと言われたら、俺が困るじゃないか」
「困るのなら、ちゃんと働くのだな」
そう言いつつも、雷堂の顔には以前とは少し違う柔らかさがあるように感じた。
「雷堂…あっちの俺と、何してきたの」
聞くと、今度は雷堂が言葉に詰まる。
頬が少し赤らんでいる。

(おい、ちょっと?)
「長い間サマナーとしての務めを怠って任務が溜まっている。簡単なものから手をつけねば。業斗、行くぞ」
「雷堂!」
鳴海の声が耳に入らないようなふりで、雷堂は事務所を出て行く。
(まあいい。帰ってきてからだ)
時間は十分にある。
鳴海はそのことにふっと喜びを感じ、紙巻に火をつけた。
(雷堂、帰ってきてくれたんだよな…)

***

「ただいま戻りました。遅くなってすみません」
「お帰り、ライドウ」

事務所の扉が開き、少年はいつものように入ってきた。
(二日ぶりの挨拶だな…)
鳴海は心からほっとした。
雷堂は確信ありげに言ったものの、同じ姿の分身がいなくなったらもう片方が戻ってくる…などというのは、やはり普通の人間にしてみれば迷信も同然の考えだ。
しかしとにかく実際に少年は戻ってきた。
迷信でも、おまじないでも、何でも構わない。
ゴウトも早速、自分には猫の鳴き声にしか聞こえない言葉で何やら言っている。
心配したとか、何があったのかとか、言っているのだろう。
少年がそれに答える言葉を聞いているだけで、大体のことは頭に入ってきた。
「はい、すみません。学校の帰りに…気がついたら、あの雷堂君の方の時空で…はい、あちらの鳴海さんにお世話になって」

「よーし、それじゃちょっと早いけど飯にするか。多原屋のハヤシライス。ゴウトちゃんにも冷ましてやるから」
鳴海が立ち上がって誘うと、黒猫は不満そうな鳴き声を漏らした。
「帰りにお刺身でも買ってきてくれる方が、いいそうです」
「まったく、贅沢な猫だね。まあいいや、じゃライドウ、行くか」
「はい」
少年の顔にいつにない笑みが浮かんでいるような気がして、鳴海はあらためてその顔を眺めた。
だがもう少年は普段の顔に戻り、ビルの出入り口の方に向かっていた。
(気のせいか)
鳴海は帽子を取って頭に乗せた。
そろそろ暮れようとする夕方の最後の光が、少年のシルエットを浮かび上がらせている。
鳴海は逆光にに目をしばたかせながら、その影に向かって歩いていった。





-the end-
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