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青く広い空に浮かぶ白い雲に混じって船の吐き出す蒸気がたなびく。
水の上を風に乗って飛ぶ海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
少し冷たく感じられる風が頬を軽くなぶっていく。

「うーん、やっぱり海はいいね。心がすっきりする気がしないか」
「はい、します」
少年の顔に浮かぶかすかな柔らかい笑みを見て、晴海はほっとした。

***

朝のコーヒーの後、事務所で簡単な食事を取りながら、鳴海はゆっくりと少年に話をさせた。
濃いコーヒーで気持ちが昂ぶるといけないので、少年のカップにはたっぷりとミルクを注いでやる。
(雷堂のことは気になるが、何故この子がそんな風に思うのか、落ち着いて話させてやった方がいい…)
自分が口をはさむのは必要最小限にして、思い浮かぶことを言わせてみる方がよい、と思われたのである。

少年は、あちらの鳴海が雷堂を遊びに連れ出し、長い時間を二人で過ごしたらしいことにこだわりを感じているようだった。
それを「嫌だ、不快だ」とは言わない。
ただ、そのことをもって、「あの鳴海さんには雷堂の方が合っている」と言うだけだ。
それをも、事実として淡々と述べる。
雷堂ならば、心のうちにくすぶる不満を、隠そうとして尚更顔や口調に表しつつ言うに違いない。
だがこの子は、
「それが不満か」と聞けば否と答える。
尋ねた相手も自然にそのまま受け取るだろう。しかし、
(言葉に嘘はないんだけど、自分がその奥で何を感じてるのか、あんまり気がついてないみたいなとこがあるんだな、この子は…)
そうしてそれが、自分でもわからない涙となって溢れる。

「君は、誘われたことはないの」
鳴海は聞いてみた。
(俺は、雷堂とああなる前から活動とか誘って一緒に行ったけどなあ。その頃は特に下心もなかったけど…)
「あったと思いますけど、自分はあまりそういうことに興味がないので…」
興味がないから行かない、と平板に断ったのだろう。
相手によっては、素っ気無い、慇懃無礼、とも感じられるかもしれない。
(まあ、「俺」ならそんなのはあまり気にしなかっただろうけど)
しかし、誘って喜ばれれば嬉しくなるし、興味がないと言われ続ければ誘わなくなる。それは心の理だ。
だが今ここで少年にそんなことを言ってみても始まらない。
「まあ、君たち…というか俺たちは、上司と助手なんだから、仕事のつきあいになるのが当たり前だよな。あの雷堂をそっちの鳴海…さんが誘ったのは、お客さんてことで、気を使ったんだと思うよ。君は身内だからほっておけるけど、お客をないがしろにするわけにいかないだろう」

うむ、我ながらなかなかいい例えだ、と内心自画自賛しながら鳴海が言うと、少年は目を見開くようにする。
感心したか、と自分の機知に満足していると、
「じゃあ鳴海さん、どこかに誘ってくれますか」
「え?」
「自分も、今ここではお客ですから」
少年は、鳴海が想像もしなかったことを言い出した。
「そ、そうだったね」
自分が言い出したことの手前、断るわけにも行かない。
(やっぱり、何考えてるのかよくわからんぜ、この子…)
そう思う一方、鳴海には、
(まあこれはこれで可愛いよな。一回くらい、いけるかな…)
などという無責任な考えも、頭の片隅に浮かんでいるのだった。

***

鳴海はまず行き場所の選定に迷った。
銀座町で活動やら遊技場というのは、この子はあまり興味がなさそうだ。
カフェーでなじみの女給とのいちゃつきを見せたりするのも、あまり具合が良くない。
童心に帰って深川の遊興街、というのも考えた。
(少し足を伸ばせばちょっと「休む」のにも便利だし)
だがあそこには佐竹がいる。
雷堂の「従兄弟」ということにしてあるこの少年を、佐竹は何やらいたく気に入っているようなのだ。
時々仕事関係で話す時も、折にふれては、
「あの従兄弟さん、最近はこっち出て来いひんの?」
などと聞きたがる。
見つかれば絶対二人きりになどしてくれないだろうし、何より後日雷堂にチクられるに決まっている。
(深川は、鬼門だな)

結局、晴海町で勝鬨橋を見たり、舶来物の店でもひやかしたりしてみるか、ということになったのである。
新しいネクタイや靴下、カフスなどもそろそろ欲しいところだった。
この少年にも、ソックスサスペンダーとかハンカチでも新調してやればいい。
ごちゃごちゃビルや家並みが並ぶ街中よりも、港で潮風にでも吹かれた方が気持ちがよいだろうという考えもあった。
(あそこは海軍省が近くて軍人が多いのが難点だけど、まあ山の方には行かないようにしとけばいいよな…)
そうして二人は今、銀座町寄りの波止場で、船の荷下ろしや大川の方に入っていく船などを眺めているのだった。

「あれはアフリカを回ってきた船だな。ほら、コーヒー豆の麻袋が見える」
「ご自分の好物には、目が速いですね」
少年は気持ちがほどけてきているのか、そんな軽いからかいもする。
(うん、いい雰囲気じゃないか。ここらは、外国人向けの小奇麗なホテルもあったよな。もうちょっと歩いてからそこで食事でもして、バーで軽く一杯やって、それから)
鳴海は既にそんな計画を頭の中で転がしている。
その時、少し離れたところから争うような声が聞こえてきた。

「貴様ら、自分たちを愚弄するか!日本に来たのなら、日本の言葉をしゃべれ!」
「オー、テリブル、バーバリアン」
そして数人の笑い声。外国人のようだ。
(え、あれ軍服じゃん。ヤバいよ)
鳴海が思う間もなく、少年はもうそちらへ走り出している。
帝都の安全を護るサマナーとしては立派な行動だが、この場合はあまり有難くない。
鳴海は身をかがめて近寄り、野次馬の陰に隠れるようにして、様子をうかがった。

争っているのは二人の若い海軍兵と、欧米人とおぼしき外人三人組だった。
外人たちも二十代半ばあたりの若僧のようだが、高そうな背広を着て随分と羽振りがよさそうだ。
この辺の商社勤めか、視察の小役人といったあたりだろう。
若いのにもう腹が出始め、体格だけなら佐竹にも匹敵している。
(しかし、中身は脂のつまったゴムまりだな、あれは)
そしてもう一人、洋装の若い女がいた。
日本人で、小柄ではあるがなかなかスタイルがよく、流行の化粧をした顔も可愛らしい。
(あれは、いかんな…)
成り行きはわからないが、とにかく女、それも若い美人がいると、男はどうも余計な意地を張って事を大きくしてしまう。
端から見ると滑稽だったりするのだが、当人たちは頭に血が上っているから引き下がれない。
もっともこの場合はカッとなっているのはもっぱら帝国海軍だけのようで、外人たちは余裕を見せて笑っている。

「貴様ら…」
軍人たちは刀の柄に手をかけ、今にも抜きそうにしている。
顔は真っ赤だ。
だが実際に町中で、それも民間人相手に武器を持ち出したりすれば厳罰処分だ。
双方ともそれがわかっているので、膠着状態なのだ。
少年はまっすぐその中心に入っていった。
(あーあ、ガキは怖いもん知らずだよな…)
「どうしたのですか」
軍人たちに向かって聞く。
「あいつら、前も見ないで歩いてきて、いきなりぶつかったんだ」
「それを謝れと言っただけなのに、日本人はチビだから見えなかったなどと馬鹿にして」
「あの女も女だ。日本人のくせに、外国人と一緒になって笑っている」
普通なら軍人であれば、学生姿の書生に安易に答えたりはしないのだが、見れば二人ともまだ初年兵あたりのようだった。
年も近いし、まだそれほど「軍ずれ」していないのだろう。

少年は反対側を向いて聞く。
「そうなのですか」
外人たちは、おやおや、今度は学生さんが現れたぞ、などと互いに言っている。
(アメリカさんだな、あのしゃべり方は)
相変わらずニヤニヤしたままで、本気で相手をするようには見えない。
それどころか、いい加減面倒になってきたのだろう、肩をすくめ、そこから去ろうとする。
回りを囲んだ人垣を乱暴に押しのけようとする。
「待ってください」
少年は一人の腕を捕えた。
男はむっとしたようにふり向く。
罵声のような声を上げ、掴まれた腕をふり払って少年に殴りかかる。
少年はたやすくそれをよけ、男は勢い余って地面に転げた。
人々がわっと歓声を上げる。
「いいぞ、書生さん」
「やっちまえ!」

(あー、まずいって…)
今度は外人たちの頭に血が上ったらしい。
三人がかりで少年に襲い掛かる。
一人は持っていたステッキを振り上げ、闇雲にふり回す。
だが普段異形を相手に闘っている身にとって、体格と力だけでかかってくる人間など、紙風船のようなものだろう。
もちろんこちらから手を出すことは憚られるので、ただ相手をよけているだけだ。
それでも腕の差は明らかで、外人たちは少年の体に触れることさえかなわず、がむしゃらに動いては、勝手に疲れていくのがわかる。
軍人たちは、一人の学生に手玉に取られる男たちを溜飲の下がる思いで見ているのだろうが、規律の点からも、加勢などは出来ない。
しかし、声の方は野次馬たちと一緒になってさかんに出てくる。
「いいぞ、いいぞ、人を馬鹿にした報いだ」
「大男、総身になんとやらってやつだな」
(おいおい、調子に乗ってる場合じゃないだろう、帝国軍人が)

「ガッデム…」
鳴海がハラハラしていると、男の一人が、見物していた人夫たちが担いでいた材木を取り上げ、打ちかかってきた。
直径は20センチほどだが、長さは2メートルもあろうかという代物である。
そんなものを力任せにぶん回してくる。
(まったく、力だけはあるな)
野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように、男とは逆の方に逃げ出した。
ちょうどそこを通りかかったらしい親子連れがそれに巻き込まれ、小さな女の子が転んだ。
少年はすぐにそちらへ走る。
それを狙った木材の一振りはその速さに追いつけず地面を叩いたが、少年が転んだ子供を起こそうとしているところへ、第二弾が振り下ろされた。
「学生さん、危ない!」
少年は子供を守るように抱え込んで横に転がった。
子供を安全なところで放し、素早く起き上がる。
「危ないことは、しないで下さい。子供が怪我をします」
淡々と、男に向き直ってそんなことを言う。
「ユー…」
男の顔は耳まで真っ赤になっている。
言葉の意味がわかっているかどうかは不明だが、とにかくなんなく攻撃をかわされ、落ち着いた口調で物を言われれば、意味合いは通じるだろう。
あまりの激昂で、口もきけないようだ。

(しょうがない、大人の出番か…)
野次馬の居残りと一緒に建物の陰に隠れていた鳴海が渋々出ようとするところに、警官のものらしい笛の音が鳴り響いた。
ようやく誰かが通報するか何かしたのだろう。
遠巻きに見ていた人々は、警察沙汰はご免とばかりに、足早に去っていった。
外人たちもさすがにまずいと思ったのか、女の手を引っぱって逃げるように歩いていく。
そして最後の腹いせのつもりか、持っていた木材を海に投げ込んだ。
「ああ、何すんだよ!」
持ち主の人夫たちは目を剥いたが、相手はもう遠くに去っている。
波にさらわれて手の届かないところへ運ばれそうな木材を取り戻すため、躊躇を見せずに海へ入ったのは当然、働き者の書生だ。
(ほんと、サマナーってのは…)
とにかく人が困っていれば何も考えずに体が動くようだ。
着衣のまま軽々と泳いで、流れていく木材に追いつく。

「あ、学生さん!」
「おい、大丈夫かい」
人々がざわめく。
波が不規則に揺らす木材の端が少年の頭を打ったのだ。
だが少年は体勢を崩すこともなく、そのままその端に手を掛け、岸の方に押し戻した。
人夫たちは波止場のとっつきで木材を押さえ、水から上がろうとする少年に手を貸した。
「すまねえ、助かったよ」
「怪我はないかい」
少年は額の辺りに手をあてていたが、
「大丈夫です」と、肯くようにした。
「ライドウ君、頭が痛むのかい」
声をかけた鳴海に少年はふり返って、目をしばたくようにした。
「いえ…大丈夫です」
様子が少しおかしいような気がする。
(また、記憶がどうとかしたんじゃないだろうな?)
鳴海は不安になった。

***

港近くのホテルのスイートに入って医者を呼んでもらって少年を診せ、「軽い打ち身」という診断をもらって鳴海はほっと一息をついた。
部屋に入るまでに少年と話をして、記憶が正常なことは確認していた。
だがとにかく頭の怪我というのは後々危険になることもあるので、大事を取ったのだ。
部屋に入ってすぐバスルームに入り、濡れた服は全部脱いでしまったので、少年は今はバスローブ一枚の姿である。
水のシャワーも浴びて潮の汚れも落としたようだ。
雷堂と同じく、体は鍛えてあるらしいので寒さなどは特に感じないらしい。
医者に見せる間も取らなかった学帽だけはそのまま乗っている。
打ったのが額だったからまあよかったが、医者はやりにくそうにしていた。
「まあ、もし吐き気などがあればすぐ呼んで下さい」
軽く頭を打っただけのことで呼ばれたのを妙に思ったのか、医者は多少訝しげな顔で帰った。

「ここまでしていただかなくても。もう、大丈夫ですから帰りましょう」
少年もそんなことを言う。
その真摯な顔を見て、鳴海は気恥ずかしくなった。
(あの騒ぎの前までは、しょうもないこと考えてたんだよな…)
ホテルへ来ることになったのはその時考えた通りだが、その先のことなどはもう、考えることすら許されないことだった。

少年が乱暴者たちを相手に見せた隙のない身のこなし。
幼いものを守り、打ちかかる武器をよける動き。
着衣のまま水の中をしなやかに動く技…
行動だけを取れば、鳴海にも同じことは出来る。
悪魔相手の戦いは無理でも、人間相手なら自分も一応の鍛錬を積んでいる。
だがそれ以前に、自分の損得や危険をまるで顧みず、助けを求めるところに飛び出していく…
それは、鳴海には決して出来ないことだ。
大人だから、事情があるのだから、と言い訳をしてみても、それはそれだけのことだ。
この少年にはかなわない。
(それだけのことだな…)
「たまには、贅沢もいいだろ。ほら、お客なんだからさ。今夜はここに泊まって行こう。夕食はルームサービスとか奮発しちゃって。ステーキなんか、どう?注文してくるよ」
鳴海はわざと軽々しく言い、少年に目くばせまでして部屋から出た。


「すみません…」
ディナーが並んだ部屋のテーブルを前に、少年は目を落としたまま言った。
濡れた服はホテルのクリーニングに出したので、相変わらずのバスローブ姿だが、ルームサービスでの食事なのだから気を使うことはない。
そこら辺を気にしているのかと鳴海は思ったが、そういうことでもないらしい。
「どうしたの」
少年は言いよどむようにしている。
鳴海は少年の前のグラスに、自分用にとったワインを少し注いだ。
「ちょっとだけ、薬代わりだよ」
「……」
少年は迷うような顔をしながらも、とりあえずグラスを手に取り、一口すすった。
「美味しいです」
かすかに微笑む。
「それはよかった」
鳴海はまた、のんびりと構えることにした。
だが、少年はいきなり鳴海を驚かせることを言い出した。

「さっき、思い出したんです。前にこっちにいた時のこと」
「え!」
鳴海はどきりとした。
「頭を打った時?」
「はい。今度は他のことを忘れるということはなくて」
「そ、そりゃよかった…」
「昌、と呼ばれていましたよね」
「そ、そうだね。うん、いい名前だ」
鳴海は自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
冷静に考えれば、別に驚いたりあせったりする必要はないのだが、突然言われたので判断がおろそかになっている。
「雷堂君がつけてくれて」
「う、うん、そう言ってたね」
そのあたりになってやっと鳴海は、それで何故この少年が謝るのかがわかっていないということに気がついた。
(今まで黙っていたから…?たって、何時間も経ってないんだし)

「お二人があの時も喧嘩をしていたっていうのは、昨日聞きましたけど…」
「あ、う、うん。で、君のお陰で仲直り出来たんだ。言ったよね」
鳴海は自分のグラスにもワインを注ぎ足し、すすり込んだ。
(こんなの、シラフじゃ聞いてられないよ…)
おのれの痴話喧嘩の顛末をあらためて思い出させられるだけでいたたまれない気持ちになるのに、それを話すのが、当の相手のそっくりさんである。
「でも、お二人が、すごく仲が良かったということは、さっき思い出すまでわかっていなくて…」
「ま、まあ喧嘩になるってのは、そういうことだからさ、はは」
力無い笑いが洩れる。
(ある意味拷問だろ、これって)
思い出したというならそれで済ませればいいものを、人の恥部をほじくり返して何が楽しいのかと、鳴海はさっきまでの感慨も忘れて少年を逆恨みするような気分になる。
「だから…今日のこと、申し訳なくて」
「ん?」

鳴海は少し風向きが変わったのを感じた。
そういう点は敏感なのである。
「ですから、今日は…」
少年はもう一口ワインをすすった。
「あちらの鳴海さんと雷堂君がもしそのままになるなら…自分はこちらの鳴海さんと仲良くした方がいいのかと思って」
少年は目を伏せ気味にしたまま言う。
(なんだ、それで遊びに誘わせたってことか。ほんとは乗り気じゃなかったと…)
本当にややこしい考え方をする子だ。
(自分以外のことなら、直球で来るくせに)
だが、そのややこしさはまだ続いていた。

「でもあの時鳴海さんは、雷堂君がすごく好きなんだとおっしゃってましたよね。だから、自分がこんな風に遊びにつきあわせてしまったのは、いけなかったんです」
(いや、そんなことはないよ!)
鳴海はもう少しで叫ぶところだった。
これはつまり、大いに脈ありということなのだ。
少年の頬が赤らんでいるのは、ワインのせいだけではないのだろう。
(そっちがその気なら、まったく問題ありませんとも!)
だが、まっすぐ行ってはこの子は雷堂に遠慮ばかりして逃げてしまう。
(ここは、腕の見せ所だな…)
夜は長い。
鳴海は内心小躍りしながら、まずは「物分りのいい大人」を装う笑顔を作った。





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