翌日は任務はなかったようだが、ライドウは学校へ出かけた。
行ける時には行っておきたいらしいのは、雷堂と同じである。
学校にはゴウトは伴をしないのも業斗と同じだった。
「どうする雷堂、俺たちは。散歩でもするか?」
事務所で業斗が聞くと雷堂は黙って首を振る。
その目は、今は主のいない机に向けられている。
「…ちょっと…見てくる」
そう言って雷堂は事務所を出て行く。
鳴海の部屋に行くらしい。
「優しいところがあるじゃないか」
窓際で寝そべったゴウトがあくびをしながら言う。
もうすっかり、朝の二度寝に入る態勢のようだ。
(それだけなら、いいのだがな…)
少年が出て行ったドアを見やりながら業斗は思った。
***
そっとドアを開けると、鳴海はよく寝ていた。
朝の光がカーテン越しに通り、雷堂はあらためてその部屋を見回した。
(向こうと、同じだ。ただ…)
向こうのベッドはある時買い替えて、ダブルになっている。
だがこちらのベッドは、雷堂が最初に探偵社に来た時と同じ、シングルだ。
当然なのだが、なにか不思議な心持ちになる。
背の高い鳴海は少し窮屈そうに眠っている。
息が少し、酒臭い。
(あれだけ、飲んだのだから…)。
ベッド脇の椅子に座り、雷堂はそんな鳴海を眺めた。
昨日、朝のコーヒーを飲みながら鳴海は新聞を眺めていたが、
「あ、銀座町に新しい活動写真が来てる。雷堂君、これ見に行こうよ」
と、雷堂を誘ったのである。
「え、しかし、こちらのライドウが…」
雷堂は遠慮しようとしたのだが、
「あいつはねー、俺が遊ぶ話すると冷たい目で見るから駄目なんだよ。って、まあ真面目なんだけどさ。あ、もちろん君も自分とこじゃそうだろうけど、ここじゃお客さんなんだから、固いこと言わないでさ」
引っぱるように雷堂の腕を取って部屋を出る。
「業斗さん、お留守番しててね。お利巧さんだから大丈夫だよね」
そんな風に、雷堂は突然「鳴海」と二人きりの外出になってしまったのだった。
「君は活動とか、見たことあるの?」
映画館に向かいながら鳴海はそんなことを聞いてくる。
「あ、うむ、何度か」
「へえ、そうなんだ。うちのライドウはないんだよ。任務とかだったら見るんだろうけど、遊びは全然興味ないんだ。でも社会勉強には、そういうのも必要だよなあ?」
鳴海は口をとがらせてそんなことを言う。
(最初に、活動を見た時のようだな)
向こうの鳴海も最初、「社会勉強」と言って、渋る雷堂を連れ出したのだった。
里から出てきたばかりの雷堂にとって、銀座町の風物は圧倒されるばかりだった。
その後任務で来るようになっても、その印象は変わらない。
こちらの銀座町は、大きな災厄の後とかで、あちこち地面に穴が開いたりはしているものの、行き交う人々の顔には前に進もうとする明るさがあるように思えた。
活動写真の後、鳴海はカフェーに雷堂を連れて行った。
向こうの鳴海はここまでは雷堂を誘わなかった。
活動の後はミルクホールでソーダを飲ませ、
「後は大人の時間だから、子供は帰りなさい」
と、市電に乗せて終わりだった。
「ここは、初めてかい?」
物珍しそうに中を眺める雷堂に、鳴海が聞いてくる。
「うむ…」
その間にもなじみらしい女給たちが次々に声をかけてくる。
「あら、鳴海さん、お久しぶりね」
「ツケ、全部払ってもらってたかしら」
そんな女たちに対して鳴海は、
「うーん、君の顔が恋しくてつらかったよ」
「絶対、今度は払うからもう少し、ねっ」
などと愛想よく笑いながら、その手に小額のチップを渡す。
隣に座って、何かを耳打ちしていく女もいる。
鳴海は嬉しそうにその腰を抱き、またいくらかの金をつかませる。
「鳴海…さん、我はもう帰った方が」
身の置き所がない気分で雷堂が言うと、鳴海はその肩を押さえる。
「ごめんごめん、子供には刺激が強いか」
からかうように言う。
「我は…」
「猫と遊ぶ方が好きなんだよな」
頬が熱くなる雷堂を女給たちが笑う。
「あらあ学生さん、いい男なのに猫の方が好きなの?」
「もったいないわ。それならあたしが」
「いやいや、好みがうるさいんだよこいつは。君らみたいなフラッパーじゃ駄目ですよ」
「ひどーい。もう情報あげないわよ」
「あ、嘘嘘ごめん。君の魅力は大人にしかわからないって言いたかったんだよ」
「まったく、上手なんだから」
(本当に、口が上手い…)
雷堂はなかば呆れ、なかば感心して見ていた。
あちらの鳴海もよく「情報収集」と称して一人で出かけていく。
それは遊びの口実に違いないと自分も業斗も思っていたし、半分くらいはそういう息抜きの意味もあるのだろうが、実際に「情報」を買ってもいるようだ。
それにしても、このような気まぐれな女性たちからそれを買うためには、まず相手に好かれなければなるまい。
からかったり、からかわれたりというだけの会話でも、その呼吸を外したらたぶん相手はすぐに全身を閉ざして去ってしまうだろうと思われた。
(我には、とても無理だ…)
そんな風に思うと、自分が肴にされることもほとんど気にならなくなった。
(このくらいでしか、役に立てないのだし…)
雷堂は鳴海の話術を多少とも学ぶような気持ちで聞いていた。
「ライドウには内緒だよ」
そんなことを言いながら次に鳴海が向かったのは料亭竜宮だった。
任務で、門のところまでなら来たことはあるが、その奥へ入るのは初めてである。
「あら鳴海さん、ライドウさんをこんなところに…」
玄関口で言いかけた女将は、ぽかんと口を開けたまま雷堂の顔に目をくれた。
「ライドウ」との違いに気づいたようだ。
もっともさすが客商売で、その当惑顔はほんの一瞬だった。
「ふふ、驚いただろう。これ、ライドウの従兄弟なんだよ。今日は社会見学」
鳴海はそんなことを言う。
「まあ、そうでしたの。でもお若い方がご一緒なんですから、鳴海さんあんまり無茶しないで下さいよ」
女将は苦笑するような表情だ。
「ていうと、誰かおえらいさん来てるのかい」
鳴海は目を輝かせたが、
「まあ、その辺はツケの方を少しでも何していただいてからということでお願い致しますわ」
鳴海も口が上手いが、女将は更にその上を行くようだった。
その後部屋に通された鳴海はすぐに廊下に出て、あちこちの座敷をこっそりと覗き見始めた。
指を唾で濡らして、障子の目立たないところに穴を開けてしまうのである。
「な、鳴海さん、何を」
後ろで驚く雷堂に、鳴海は、
「シーッ」
と口の前に指を立てて制する。
時々仲居や芸者たちが通りかかるが、小声でクスクス笑うだけで通り過ぎる。
いつものことらしい。
なじみらしい相手には、鳴海はカフェーと同じように素早くチップを渡している。
(ある程度金がかかるのも、仕方ないようだな…)
雷堂はそんなことを思う。
いくつめかの障子で、鳴海は獲物を発見したらしい。
「ここからは俺の仕事だ。君は最初の部屋に戻ってなさい。退屈だったら、俥を呼んで帰ったらいい」
そう言って雷堂に適当な札を渡す。
だが雷堂は部屋に戻ったふりをして引き返し、鳴海の開けた穴からこっそりと部屋の様子を見た。
鳴海はまた口の上手さを生かしたのだろうが、その座敷に入り込んでいた。
その席には雷堂も新聞で見たことがある政治家たちがいた。
よくは知らないが、実業家あたりのような顔も見える。
鳴海はそういう人間たちの間で酌をしたりされたり、こういう席での遊びをしたり、小話で笑わせたりと、幇間に徹していた。
その間に、「いやあ、さすが大臣、とても他の人間じゃ真似出来ませんよ」などと相手を持ち上げておいて、何気なく「今度のあそこのあれ、大変だったでしょう」とカマをかけては真相に近づいていく。
酔った相手は歯の浮くような世辞でも気にせず、ぽろぽろと秘密を漏らしてしまう。
メモなど取らずとも、すべてはきちんと鳴海の頭の中に納まっているに違いない。
すぐに何の役に立つというわけでなくとも、この情報がいずれ武器となる日が来るのだろう。
(鳴海…)
酔客に次々に杯を強要され、もちろん否とはいえずに諾々とそれを干す鳴海を、雷堂はそれ以上は見ていられなかった。
最初の部屋に戻り、そのまま日付が変わる頃まで待っていると、フラフラの足取りで鳴海が戻ってきた。
「あれ、なんら、らいろう君、いたの」
「鳴海…さん」
「しょーがねえなー、帰れって言ったのに…あー、もうこのまま寝るか」
「駄目だ、我が連れて帰る」
畳に大の字になってそのまま寝てしまいそうな鳴海の体を雷堂はどうにか起こし、腕を取って背負った。
「あー…重いだろ、もうさー…」
「この位、何ほどでもない」
事実、鍛えた体は鳴海の体重位は猫ほどにも感じなかった。
雷堂より背は高くても細身の体で、体重はいくらも違わない。
女将に俥を呼んでもらい、雷堂は外までそのまま鳴海をおぶって出た。
俥が筑土町に着いた頃には鳴海はすっかり夢の中で、雷堂は探偵社の玄関から鳴海の部屋まで再び同じように鳴海を運んだ。
ライドウとゴウトたちは、またか、という目で高いびきの鳴海を見ていた。
(ライドウたちは、あんな鳴海を見ておらぬのだ…)
泥酔の後のやや苦しそうな眠りを見ながら、雷堂はそんなことを思う。
鳴海の厳しい過去だって、知っているのかどうか。
今の鳴海は軽い遊び人に見せかけていて、聞かれても過去の話などはしないだろう。
ましてやライドウは、そんなことを聞くことすら思いつかなそうだ。
こちらでは、この二人は単なる上司と助手なのだから、それで当たり前ではあるのだが。
ゴウトは年の分、多少は察しているのかもしれないが、乱行をかばうというほどではない。
(だが、鳴海だとて、働いているのだ…)
しばらくすれば、目を覚ました鳴海は二日酔いで痛む頭を抱えながらシャワーを浴びて、髭をそって着替えをし、
「あーまいったまいった」
などとぼやきながら事務所に行ってゴウトに睨まれ、
「やっぱり二日酔いにはこれだね」
などと言いつつ、自分で好みの濃いコーヒーを淹れて、それを啜りながらのんびりと新聞でも読むのだろう。
遊び人の朝、という風景そのままに。
雷堂はあらためてベッドの鳴海の顔を見た。
うっすらと髭が伸びている。
いつも、目を覚ました自分の隣にあった顔。
もう何日、それに触れていないのだろう。
恋しさと同時に、最後の言葉が一緒によみがえる。
苦く、胸を裂く言葉。
(鳴海…)
今ここにあるのは、恋しく、そして優しさだけを見せる男の顔だ。
(触れたい…一度だけでも…)
許されないこと、とはわかっている。
それでも、気づいてしまった思いを消し去ることは出来なかった。
***
異変が起きたのはその夜だった。
いや、起きたのはもう少し前なのだろうが、気づかれたのはそろそろ夕食という時刻のことだった。
いつもはとうに事務所に帰っているはずの時刻を過ぎても、ライドウが戻って来なかったのである。
「今日は特に部活動もなかったはずだが…」
「途中で何か事件に巻き込まれたか」
ゴウトたちの言葉を雷堂が鳴海に伝え、鳴海は学校に確認の電話をかけた。
担当教師はもう帰った後だったようだが、残っていた事務員に頼んで出席簿を見てもらったところ、授業にはちゃんと最後まで出席していたらしい。
「学校帰りに何かあったんだろうな。まあ前にもこういうことはあったし、ライドウならそんなに心配はいらないけど」
「しかし、一応使者にでも聞いておいた方がよくないか」
ゴウトはやはり多少心配らしい。
雷堂がその言葉を伝えると、鳴海も思い直したようだ。
結局鳴海がゴウトと一緒に神社に行き、雷堂たちは留守番をすることにした。
別の時空の存在が「客」としていることは、先日ライドウが任務完了の報告と一緒に話しており、とりあえず「黙認」はされているようだが、それはあくまで「仕方ない、目をつぶる」ということである。
堂々と姿を現せばあちらとしても「帰れ」としか言えないのだから、わざわざ無用な摩擦を起こすことはない。
「しかし、何やら嫌な予感がするな」
鳴海たちを送り出した後、業斗は事務所の来客用のテーブルに乗ってそんなことを言った。
「業斗?」
「ゴウトの前では言えなかったが、俺たちがここに来たことで妙な歪みが生じたのかもしれぬ」
業斗の言葉を聞いて雷堂は自分の鼓動が一つ、強く打つのを感じた。
雷堂も、はっきりとはわからなかったが、妙な胸騒ぎは覚えていたのである。
「……」
「普通に考えても、同じ存在が二つ、同じ時空に存在するというのは不自然であろう」
「まさか、ライドウは、もう…」
襲う不吉な予感に、雷堂の言葉はなかばで止まった。
声に出して言えば、真になってしまう気がしたのだ。
同じ思いなのか、業斗もそれ以上は言わなかった。