Winged-White インド人だったの?さんぼ 数々のギモン


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 『ちびくろさんぼ』の書かれた土地、インドでは(――そう、バターになったのは、どうもベンガルタイガーだったようなのだ、実は!)、この絵本は今でも愛読されているのだろうか???
 しかし、この国も肌の色にはナイーブなんだよな……。
 さんぼはインド人だったようだ。現地語では、『さんぼ』、『まんぼ(お母さん)』、『じゃんぼ(お父さん)』も、全部かなりポジティブなネーミングらしい。

 僕自身は、我が子に伝えるべきヒーローが、一人減っちゃったような虚しさがあるんだけど。
 普通の子どもなら、まずさんぼと自分を同一視するんじゃないかな(僕は今でもそうだ)。肌の色がどう、弱々しさがどう、非科学性がどうといった観念で、楽しめない、あるいは他人事としてバカにする、はたまた、それを先回りして怒る……。こういった感じ方ができてしまうのは、哀れな先入観を持つに至った大人達だけだ。

 衣服を順に取られていく心細さ、トラがバターになるといったスピード感、明快な幸福感でブツ切れになるラスト――むしろ絵本表現における珠玉ではないかとさえ思う。

 ただし、この本をダシに黒人がバカにされてきた経緯があるなら、これは許せない。さんぼファンとしても、なおさらこれは許せない。だが、いくらこの絵本が日本人に愛されたものでも、この場合は発禁でもしょうがない。さんぼの存在自体が許されないのだから。

 で、オマケのギモン。
 この本を直接のネタにして、黒人がバカにされてきた経緯がイギリスもしくはアメリカなどであったのか?? もしくは侮蔑が酷似していて、たとえ主人公がインド人だったしても、とてつもない嫌悪感をこの本に感じるのだろうか(確かに黒人のステレオタイプに似ている。でも……濡れ衣の虐待だな、さんぼ=THE=ヒンドゥスタニー)??

 確かに白人の書いた絵本で、時代背景はまだ奴隷制色濃い時期だったはずだ。まだまだ僕がまだ知りえない、『さんぼ』に隠された侮蔑があるのかもしれない。まあ、もし僕が書いたとしても、怒る人は怒るんだろうけど。

 しかし、『シナの五人兄弟』といい、僕が好きだった絵本は、とりあえずクセがある(と後に見なされている)。うーん。困るなぁ。

 サベツって、ホントくだらない。まったくそれに関係ないはずのところに、勝手に侵入し、奪い去っていく。

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■オマケ1:"ブラク"の思い出
 僕が子どものころ……。家からは少し離れた広場に何人かで行き、そこで知らない子ども達と友達になって、一緒に遊んでいた。普段同じクラスの子と遊ぶことがほとんどだったので、違う学区の友達ができて、刺激的で楽しかった。

 だがそれは束の間だった。
 大人が現れ、彼らをムリヤリ連れて行った。『オマエラも早よ帰れ、ブラクはブラクで遊ぶんじゃ!』と怒鳴られた。
 当時は何のことか、ほとんど分からなかった。僕らはただ、その大人の剣幕にビビって立ち尽くしていた。

 当然ながら、僕らは彼らをいじめなどしていないし、その反対も無かった。
 (正直に言うと、どちらかと言えば運動神経の鈍い、おっとりした仲間だけで集まって、『楽しい』野球をしていたのだ。差別の内回帰は生じ得ないメンツだった。
 ん? ――単に僕等がヘタすぎたから彼らは連れ去られたのか? でもそうすると、部落差別が方便的に用いられたことになる――これはあり得ない、か。(←考えすぎ))
 あの時から、僕らはその広場で遊ぶことをやめた。
 今思えば、その大人も、よほどのことがあったのかもしれない。怪我や事故などから余計な係争が発生するのを防いだのかもしれない。
 けれど……今でも、なんか悔しい。(キング牧師の演説とは、正反対だな。)

 僕は差別の形骸よりも差別意識そのものと、差別が無くなった場合でも残ってしまった被差別意識、それらから双方に生じる反目や不信こそを、憎む。そんなのに苛まれる筋合いなんて、どんな人にも、無い。

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■オマケ2:桃太郎の迷走

 そう言えば、『桃太郎』。つい最近『21世紀に残したい絵本』というアンケートで、1番だったそうな(生命保険会社が調査。対象は子どもを持つ主婦199人だったと思う。TV番組で紹介されていた)。でもこの桃太郎、かなり混乱している。
 桃太郎にも、『戦前式の"征伐"意欲を助長する』という意見がある。確かに、そのまんまにも読める。(犬猿雉がいたら、勝っていたかも。きびだんご?……って、おいおい。『鬼に敗れた桃太郎』なんて、話にもならんがなぁ。)
 以下、『桃太郎』に思い入れがないワケでもないけれど、少々手荒にやります。

 桃太郎はやたら『日本一のきびだんご』を強調しているが、三国一でも世界一でも、はたまた岡山一でもかまわないんじゃないだろうか。味覚は個人のセンスなんだから、日本という地域性に限定される必要はない。この辺ですでに集権意識や対外意識が潜在していると取られても不思議ではない。コスモポリタニズムを大事にするなら、『世界一』くらいに広げておこう。(しかしきびだんごって、他の国にもあるのかな。)
 それから、犬猿雉は迂闊に擬人化しない方がいい。飽くまで動物は動物。かわいくね。  鬼が島の方角を設定しないことも大切だ。間違っても仮想敵国の経度緯度を記述したり、現実的に探求したりしてはいけない。絵の中の、桃太郎が進む方向さえも、どんどん変えた方がいい。
 優しい目をしたペットを連れた、犬公方のような方向オンチのアヤシイ桃太郎が徘徊し始める。

 で、なんとか鬼が島に到着して戦闘に移るわけだが、その前に、城門で鬼との交渉をしよう。これは最後通牒だが、交渉無しの戦闘開始はいけない。鬼には到底飲めない条件をたたきつけよう。もっとも、宣戦布告がすでに鬼側からなされていた、と考えることもできる。
 しかし『鬼』だなんて失礼な。さっきのペットも豹変して鬼を攻撃。『鬼畜の戦闘』。雉。こいつもよくない。空から地上を爆撃するのは自衛を逸脱している。そうでなくとも、戦わずに鬼を諭してしまう桃太郎もいるくらいだ。

 とにかく無事『成敗』完了。宝物を持って帰る。間違わずに村へ帰れただろうか。犬猿雉とはいつ別れたのだろう。
 実際の絵本などにもあるが、このエンディングは様々にアレンジできる。元々村人の宝物だったという北方領土式、賠償金を取らずに和解するGHQ方式、などなど。そのまま幸せに暮らさずに、犬猿雉と共に新たな冒険に出るというのもアリか、『2』狙いで。

 出版物としての絵本の世界でも、桃太郎はかなり迷走している。だが、絵本の世界をヘタにいじくると、かえってどんどんおかしくなる。
 実際の事物と一切関係ないことが、絵本世界の前提になる。確かに、この絵本を見て心中面白くない人達の気持ちも、ないがしろにしてはいけない。だが、『(ネガティブな効果を)サブリミナルに助長するのではないか』という意見になると、もうこれは対応しきれない。

 実は絵本に限らず、どんな制作物も(もちろんこの文章も)批判はつきものではないだろうか。『差別表現や好ましくない表現を全く使わない絵本』というのもあるらしいが、かえって回りくどくなって、発想がどれほど秀逸でも程度の悪い冗談にしかならないそうだ。元々ニュートラルな言葉などに差別意識などが介入して、本来の意味を台無しにしている場合も多い。

 これらを回避する最もカンタンな方法が『発禁』だ。場合によっては有効だが、時として一番安易で危険な『思想統制』にもなり得る。
 少し本論とカテゴリーが違うかもしれないが、『表現の自由』と『公序良俗』も常に議論を引き起こしているテーマだ。だが、議論自体は悪いものではない。安直な『焚書坑儒』は、それこそ現代社会にはふさわしくない野蛮な行為だろうから。

(2001/04/10-11)

(参考:→『数々のギモンについて』

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