フェミニズム
(Feminism)


1)ウーマンリブとフェミニズム
1960年代に「ウーマン・リブ」(Woman Liberation Movement)と呼ばれる運動があった。中心地はアメリカであったが、女性の権利を声高に主張し、女性をその置かれている隷属的地位から解放するように要求した。「女性解放運動」―その後裔がフェミニズムである。
ウーマン・リブが「男女平等」という名の下に社会的な差別の撤廃という面に目を当てたのに対し、フェミニズムは男女の差を認めながら個人の内面を含むより広い射程から女性の問題を考えようとする。
いくつかの立場があるが、「マルクス主義フェミニズム」と「ラディカル・フェミニズム」が重要である。
フェミニズムの基本的な立脚点は、両性の人間としての同一性である。伝統的に、人間の本質は「精神」であり、ゆえに自由である。肉体が偶々どちらかの性であるという所与の事実によって、精神の自由が阻害されることがあってはならない。
こういう考え方を代表するのが、ボーヴォワールである。

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。社会において人間の雌がとっている形態を定めているのは、生理的宿命、心理的宿命、経済的宿命のどれでもない。文明全体が、男と去勢者の中間物、つまり女と呼ばれるものを作りあげるのである。他人の介在があってはじめて個人は<他者>となる。」
(ボーヴォワール『第二の性』 「ボーヴォワール『第二の性』を原文で読み直す会」訳)


しかし「性」に基づく区別は、簡単に無くすことが出来るようなものではない。「性」は自己の同一性に深く根をおろしている。精神の在り方でさえ、所与の性的な差異によって決定されている部分があるかもしれない。

2)「性」とは何か?―セックスとジェンダー
セックス(sex)
ジェンダー(gender)
セクシャリティ(sexuality)
→性同一性障害の項を参照

「セックスとジェンダーのずれを問題化したのは、ジョン・マネーとパトリシア・タッカーの『性の署名』(1976)であった。ジョン・ポプキンズ大学の性診療の外来をうけもっていたふたりは、半陰陽や性転換希望者などを相手にして、ジェンダーがセックスから独立していることをつきとめた。(中略)
 マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっとも重要なことに、かれらの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。万一外性器に異常があっても、もし遺伝子やホルモンが性差を決定するならば、患者たちは周囲の性別誤認にもかかわらず、自然に「男性的」もしくは「女性的」な心理的特徴を発達させていたはずである。マネーとタッカーは、生物学的性差の基礎のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性差とはセックスではなくジェンダーであることを、明確に示した。人間においては、遺伝子やホルモンが考える、のではない。言語が考える、のである。」(上野千鶴子「性差の社会学」 岩波講座 現代社会学11『ジェンダーの社会学』より)

(注―フェミニズムがジェンダーの後天性の根拠として持ち出すこの有名な事例には、重大な問題がある。cf. ジョン・コラピント『ブレンダと呼ばれた少年』)

セクシャリティ(sexuality)の問題
「性(sex)」は、生物の進化の過程で、単為生殖から有性生殖へ移行することによって生じた。その目的は、遺伝子を多様化するためだと考えられている。性とは生殖のために生じた。この観点からだけ考えれば、「子どもを作る」という目的以外の性的活動は、倒錯だとも考えられる。従って避妊や自慰や同性愛は、「不道徳」だとも言える。(→フーコー「性の装置」
しかし、人間は精神的な存在である。生物学的な本能としての食事が、文化の中で、快楽を得ることやコミュニケーションの手段としても機能しているように、性的な活動も、快楽やコミュニケーションの手段としての性格を持っている。と言うより、避妊や人工妊娠中絶の技術が進化したことで、「性=生殖」という等号は、成立しなくなっている。文化的・精神的な活動として見れば、生殖を目的としない性行為が不道徳だと言われる理由は存在しない。言い換えれば、性行為が正式に結婚した夫婦の寝室の中に閉じ込められる必要はない。
次に、食事でも、牛肉や豚肉を食べない文化があり、また肉そのものを全く食べない人がいるように、性的な欲望も、本能に基づくものであっても、強く文化(教育・環境)の影響を受ける。フロイト流に言うと、リビドーがどのような形でその充当対象を見出すかは、言語を基礎にして形作られた文化のシステムによって決まる。その意味では、人間の全ての性的活動は「倒錯」しており、「変態」である。


3)マルクス主義フェミニズム
エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』
マルクス主義では、労働は自己実現であり人間の本質であると考えられる。(しかし、それを売らなければ生きることが出来ないのが資本主義社会における労働者だ。労働が「商品」であることによって、労働者は自己の本質から疎外される。)
伝統的に、女性には、家事と育児という役割が与えられてきた。
家事と育児は労働を再生産する仕事である。夫の世話をしその労働力をリフレッシュする仕事、そして新たな労働力として子どもを産み育てるという仕事だ。
しかし家事と育児は「交換価値」を持たない(任意の誰かと「交換する=売る」ことが出来ない)ので、資本主義社会においては、女性は従属的な地位に置かれざるを得ない。
父権は、妻を夫の所有物とし、「女性」を「母性」へと限定しようとする。

歴史的に見れば、一夫一妻制は、私有財産を自分の正統な子どもに残すことが出来るように、作られたシステムである。
1)野蛮時代においては、結婚は「群婚」という形態であった。乱婚であるから、男にとってはどの子が自分の子なのか分らない(また子どもも自分の父親が分らない)が、産んだ母親は自分の子が分る。従って、女性中心の家族形態である女系制、そして「母権制」の形態が古代社会においては支配的となる。
2)未開社会においては、結婚は「対偶婚」という形態をとる。これは固定的でない一夫一妻の形態である。生産手段の発達が、財産の蓄積を可能にし、母権制から父権製への移行を促す。
3)文明社会において、一夫一妻制という妻を夫の所有物として囲い込む制度が、結婚の支配的な形態となる。
それは、その必然的な補完物として、売春や不倫を伴なう。

「家族史は、1861年に出版された、バッハオーフェンの『母権制』から始まる。ここで著者は、次のように主張している。
(1)人間は当初、「娼婦制」という不当な名前で呼ばれている、縛られることのない性生活を送っていた。
(2)このような交わりは、父性を見分け難くするので、血統は、女系において、母権によってしか辿りえなかった。…
(3)その結果、女性は、子どもにとって確認できる唯一の親である母親として、高い敬意と尊敬を払われ、著者の見解によれば、それが完全な女性支配にまで高まっていた。
(4)女性が一人の男に属する単婚への移行は、太古の宗教的な戒律の侵害を意味していた。…」
「一夫一妻制が決定的な勝利を手にすることは、文明期が始まりつつあることの指標である。それは、誰が父であるか争う余地のない子どもを産むという明白な目的を持って、男性支配の上に築かれている。そして、こういう父の確実性が要求されるのは、その子どもが血の繋がった相続人として、父親の財産を相続することになっているからである。一夫一妻制と対偶婚とが違う点は、結婚の絆が遥かに強固になっており、双方の意のままには解消できないことである。今や結婚を解消し妻を離縁できるのは、原則として夫の側だけである。」(エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』)

「シャドウ・ワーク(shadow work)」という概念(イヴァン・イリイチ)
産業化社会は、個人生活の自立の基礎を破壊し、その自律性を奪い取る傾向を持つ。
「労働」、特に近代の「賃労働」は、それ自体が疎外された労働であるが、それだけでなく、それを支える影の部分に、様々な種類の「不払い労働」を抱えている。女性の家事労働がその典型だ。
「<影の経済>が起こるとともに、賃金も支払われず、かといって家事が市場から自立することに役立つわけでもない、一種の労役が出現する。この新しい種類の活動の最もよい例は、人間生活の自立に無関係な、新しい家事という領域において行なわれる、主婦による<シャドウ・ワーク>である。」(イリイチ『シャドウ・ワーク』玉野井芳郎・栗原彬訳、から一部変更して引用)
「賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行なう大部分の家事、買物に関する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押し付けられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲信、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。」(同上)


4)「母性」という神話
フロイトが理論化したように、「母性」と「父性」は、子どもが健康に育つ上で不可欠な二つの要素である。しかし、女性が生得的に母性の持ち主であり、育児に適しているという考え方は、誤謬である。
エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)
「数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは十七世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。
だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは十八世紀になってからである。
パリは、例によって、その典型である。子どもたちはパリからはるか遠くへ、時には五十里も離れた、ノルマンディーやブルゴーニュやボーヴェジに送られた。警視庁長官ルノワール氏がハンガリーの女王に送った報告書は貴重である。一七八〇年、首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人(総人口は八十万から九十万である)の子どものうち、母親に育てられるものは千人に満たず、住み込みの乳母に育てられるのは千人である。他の一万九千人は里子に出される。」
「一七六〇年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするように勧め、子どもに授乳をあたえるように「命ずる」書物が数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作りだし、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもたちにたいして本能的な愛を抱くという神話である。」

「著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。」(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)


5)男性学
女性の問題は同時に男性の問題である。
(続く)
小谷野敦(『もてない男』(ちくま新書))によれば、「結婚」とは、もてない男を孤独から救う制度である。逆に言えば、自分で多くの友人や恋人を獲得する能力がある「もてる男」ならば、「結婚」などする必要がない。


6)倫理学説におけるフェミニズム
教育理論家のコールバーグは、子どもの道徳意識の発達を六段階に分けた。
 (A)習慣以前の水準―命令する人の権威や行為の結果から
1)罰と服従への志向
2)道具主義的相対主義への志向
 (B)習慣の水準―自分の属する集団の期待に応える
3)対人的同調、あるいは「よい子」への志向
4)法と秩序の維持への志向
 (C)習慣以降の水準―自律性と原理からの判断
5)社会契約的な遵法への志向
6)普遍的な倫理的原理への志向
→Wikipedia―Kohlberg's stages of moral development
「ハインツのジレンマ」
「ある女性が特殊なガンで死にそうな状態にあった。彼女の命を救うには特別な薬が必要だったが、薬を開発した薬剤師は、それを法外な値段で売っていた。彼女の夫ハインツは、半分の金しか集められず、薬屋に相談したが、この新薬で私腹を肥やしたい薬剤師は値引きも分割払いも断った。思いつめたハインツは、薬屋に押し入って薬を盗んだ。―これは正しい行動だろうか?」
ある男の子は、「命はお金より尊い」という理由で、ハインツの行為を肯定し、
ある女の子は、「奥さんは助かるかもしれないが、ハインツは牢屋に行かなければならないし、そうすると奥さんはもっと悪くなるかもしれない」という理由で、ハインツの行為を否定した。
コールバーグの理論によれば、女の子は私的関係を重視する第三段階(対人的同調への志向)、男の子は一般的な理念から判断する第四・五段階(普遍的な倫理原則への志向)に立っており、男の子の方が女の子より高度な道徳意識の発達段階に達していることになる。
これに対して、その弟子であったギリガン(Carol Gilligan, In A Different Voice)は、
コールバーグは「原理重視の倫理の方が親密さ・気遣い・私的関係を強調する倫理より優れている」という間違った前提に立っていると批判し、
これまでの、「正義」の倫理に対して、「配慮(care)」の倫理を提示した。
「ギリガンは、コールバーグの発達段階が抽象性、普遍性、形式性などという男性に特有の思考原理に基づいた「道徳性」理解に基づいており、行為主体の経験的脈絡や人間関係を重視する女性に特有の道徳性を不当に低く評価していると批判した。…コールバーグ的な道徳を<男性の道徳>とし、これに対し、行為主体が現実に切り結んでいる人間関係や、他者への責任・ケアに道徳の基礎を置く<女性の道徳>を対置させるのである。」(佐野安仁・吉田謙二編『コールバーグ理論の基底』)

具体的な例として、いま、小さい子どもを二人育てながら、パートで弁当の製造販売の仕事をしている女性がいるしよう。職場で上司が賞味期限切れの食品を使って弁当を作るように指示したとする。彼女はどういう行動をとるべきだろうか?
男性的な「正義の倫理」からすれば、それは客の健康と信頼を蔑ろにする行為であり、コンプライアンスを重視する企業ではそうした不正行為はなされるべきでない。上司への反抗や場合によっては内部告発が義務であるかもしれない(→職業倫理)。
しかしそうした態度をとれば、立場の弱い彼女が社内での虐めや解雇という辛い状況に追い込まれることは目に見えている。ただでさえ苦しい生活のなか、解雇されれば、労働者として不利な条件にある彼女が新しい仕事をみつけるのは大変である。
彼女にとって一番大事なことは何なのか?―今は幼い二人の子どもを立派に育てることだろう。
女性的な「配慮(care)と応答(responsibility)の倫理」から考えれば、内部告発が最善の手段であるとは言えない。具体的な場面で、各人の立場を配慮した解決策が求められなければならないだろう。

レイチェルズ(古牧・次田訳『現実をみつめる道徳哲学』)は、
これまでの倫理学説を作ってきたのは全て男であり、現実より「理念」を重視する男性的な思考が強調されすぎてきたのではないかという疑念を表明する一方、
「配慮の倫理」は、結局は「徳の倫理」の一部であると位置づけている。


付論
売春は悪か?

「援助交際」という名前の売春がある。
売春の多くは、善いものではない。本人が望まないのに、金のためにしなくてはならない、というケースが多いからだ。生活のために「身を売った」江戸時代の売春制度がそうだっただろうし、今も東南アジア方面から日本に出稼ぎに来ている若い女性の事情も、同じようなものだろう。裏の組織がからんでいて、「人身売買」と言ってもいいようなケースもある。
しかし、今仮に、アルバイト気分で援助交際をしている女子高生がいたとして、「私は自分の意志でぇ、好きでぇ、やってるのぉ。お小遣もらえるしぃ、おじさんも喜んでくれるしぃ、誰にも迷惑なんかかけてないしぃ…」と言うとする。それに対して、どういう答えがあるのだろうか。
(当然、制度として認められている管理売春とか、男娼など男の売春も考える必要があるだろうが、今は考えない。)

それに答えるには、前提として、いくつかのことを考えておく必要がある。
1)「性」とは何か?
上で、「性=生殖」という等号は成り立たない、と言ったが、「性=愛」という等号も成り立たない。近代家族の根柢にある「愛→結婚→性」という幸福な三位一体(「恋愛に基づく結婚」と「夫婦の寝室で行われる性行為だけが正しいという道徳」)は解体した。
しかし、「愛」と「性」は別の物だと単純に割り切ることも出来ない。性愛がコミュニケーションの手段の一つだと考えるとしても、コミュニケーションに付随するのは「愛」ではないのか、と反問することもできるだろう。
この世の目に見えるものは、「イデア」の影であるというプラトンの説を踏襲すれば、「性愛は愛の比喩もしくはシンボル」だと考えることも出来るだろう。「愛」という「イデア」の影。目に見える具体的な形をとった「愛」。さらに『饗宴』における「エロス」の説を援用すると、「他者」へと向かう情熱(衝動)の肉体的な現われとも言える。
「愛」と「性」は、部分的に重なり合う領域であるが、100パーセント重なり合う領域でもない。コミュニケーションとして見れば、「性愛」は、互いの親密な感情を具現するものとして、特別な位置を占めていると言うことは出来るだろう。
(また、余りに当然のことであるが、性行為が子どもを産む行為の一端であり、避妊が100%の成功率を持たない以上、生まれる可能性のある子どもの命への責任が発生するということも忘れられてはならない。)

2)「売る」とはどういうことか?(工事中)
資本主義社会では、多くの人は労働を売って生活している。その「労働」は、他者に対するサービスである場合も多い。

プライベートなものを売ることの是非(愛や性は最もプライベートなもの)。
小説家も自分のプライベートなものを売っているのかもしれない。でも、売るためにという目的が第一ではない。

何を売ることが出来るか?
自由主義の立場で考えれば、個人が身体を含めた自分の所有物を売るのは自由である。
しかし、その場合に、<好ましい方向>と<好ましくない方向>を区別することは出来るだろう。
つまり、自分の能力や労力を売ることは、「好ましい」が、
自分の存在に関わるものを売ることは、「好ましくない」という方向である。
a) 自分の能力(属性)を労働力として売ることは好ましい。何もしないのに金だけ貰うという仕事は(本人はともかく、それ自体は)好ましくない。
b) 自分の存在に関わるものを売るのは好ましくない。自己の存在を売ること=奴隷、存在の一部を売ること=臓器売買、などは問題。
c) 愛は自分の存在に関わる事柄である。「性」と「愛」の関係は、単純ではない。
d) 従って、売春が自分の存在や愛を売る行為なら、好ましくない。そうでなく、擬似的な愛を売る仕事として行われるなら、それなりのサービスが提供されるべきだ。

3)「性を売る」ことは、悪いことか?
「現代のラディカル・フェミニストにとって、売春は、男女関係の原型である。Karen Lindsey は、次のようにまとめている。
『私たちはずっとこう考えてきた。すべての女性は自分を売っている。女性の取りうる唯一の役割、―妻・秘書・彼女―そのどれもが、一人の男か一人以上の男たちに自分を売ることを要求する、と。』
一世紀前にも、結婚を売春の一種と見るフェミニストたちがいた。」(Alison M. Jaggar, "Prostitution")

不能や冷感症といった性的障害を治療するために、実践的な指導をする医療のサービスがあり、その際、報酬も得られる。しかしそうしたセックス・セラピストの行為は「売春」とは呼ばれない。目的が「金を稼ぐため」ではなく、「病気を治療するため」だからだ。微妙なケースだが、これが悪いとは言えない。

功利主義の立場から考えてみよう。売春が結果として、関係する当事者たちに、どういう幸不幸をもたらすか。
もちろん、それが自由な売春であれば、売る側の得る収入と買う側の得る快楽という、双方の「幸福(満足)」が得られる、と考えられる。
しかし、他方で、「売春」は、まっとうな商売とは考えられていないという現実がある。コンビニでの時給が千円もしない時代に、若い(多少綺麗な)女性なら誰でも時給で数万円稼げるという仕事がどこにでもあるはずがない。それが売春する女性を社会的に差別された地位に置くことにもなる。日陰の仕事であるので、犯罪に巻き込まれたりする確率も高い。
また、マルクス主義者が言うように、「買春」する男の方でも、女性を物として扱い、金で他者の人格を支配することを是認するという、モラルの堕落が生じる。
(売春を肯定することによって生じる、こうしたメリットとデメリットも、規則功利主義者なら、考慮する必要がある。)

「交換価値を生み出すための労働ではなく、使用価値を生み出す労働を取り戻す」というマルクス主義の考え方は基本的には正しい。
資本主義社会は、全てを商品化する社会である。
社会の矛盾を是正するには、商品化を徹底させて行く方向と、社会と個人の領域を切り離して区別する方法がある。
(売春する者の人権を保護し公正な売春を実現する方向と、個人の価値観において「性の商品化」を阻む方向である。)
それは、産業社会の力が、ますます強く個人の価値観に侵入してくるということである。
マルクスによれば、「あらゆる賃労働は売春である。」 確かに、あらゆる労働は自分を売ることであり、売春も労働の一つであると考えることは可能だ。しかしそう言ってしまうと、売春とそれ以外の労働との違いは消去されてしまう。
(ヘーゲルは、家族が愛による共同態であるのに対して、社会が労働による共同態だと考えた。社会は個人をその能力は成果によって評価する。愛に基づく関係である家族はそうではない。家族における愛とは、時間の中で築かれる一体感だ。)
「売る」とは交換することだ。愛は交換不可能なものであり、交換出来ないものは売れない。
売ることが出来るのは、愛に似ているが愛ではない「性愛」だ。

4)まとめ
A)「売春は悪い」
1 殆んどの売春は、本人の意志で喜んで行われているのではなく、金のために仕方なく行われている。
2 売春は、女性を欲望の対象とみなすことにより、人を人格としてではなく物として取り扱う。
3 売春は「他人を単なる手段として扱ってはならない」というカントの原則に反し、人間の尊厳、個人の自尊心を傷つける。
4 金があれば何でも買えるという間違った考え方、女は若くて可愛いければ良いという間違った考え方――この二つが交差する所に成立するのが売春だ。
B)「売春は悪くない」
1 自由主義の基本原則――個人は身体を含む自己の所有物を自由に使用する権利を持つ。
2 他者へのサービスは労働であり、性的なサービスもこれに含まれる。オランダなど売春を労働として認めている国もある。
3 愛と性(性的欲望&性行為)、性行為と生殖は、無関係である。
4 「援助交際」は、本人の意志で行われる。誰にも迷惑はかからない。
C)「売春は好ましくない」
1 避妊は失敗する可能性がある。売春する者は、性行為によって生まれてくる可能性のある子どもに対する責任を負う。だから売春は普通の労働とは違う。
2 自分の所有物を売るのは自由だが、自分の存在を売ることは出来ない。
  自分の大切なものを売ってはならない。江戸時代に「愛」が「大切」と訳されたように、「愛」は最も大切なものだ。
3 愛と性は無関係だと割り切れるのなら、性を売るのは自由だ。しかし、商品として売るのなら、それなりのサービスが要求される。
4 「愛」は売るな。「愛でないもの」を売るなら、プロになれ。プロとしてのサービスを提供せよ。

という訳で、「援助交際」などという中途半端なものは許されない。


参考文献
古典的な文献として、
エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』(岩波文庫、他)―マルクス主義フェミニズムの古典;現在の目から見れば明らかな誤りも幾つかあるが、女性問題に関心があれば今でも読む価値はある。
ベーベル『婦人論』(岩波文庫)―しばらく品切れだったが、2004年11月に重版が出ている。原題は『女性と社会主義』。下巻は社会主義の話なので、女性問題に関しては、上巻だけで十分。エンゲルスの立場で書かれた、包括的な、いい本だ。
ボーヴォワール『第二の性』 (新潮文庫)―フロイトって誰?サルトルって何?というのであれば、けっこう長いし、今読むのは辛いかも。

比較的新しいところでは、
上野千鶴子『女という快楽』(1986年 勁草書房)、その他
橋爪大三郎『性愛論』(1995年 岩波書店)


→家族という問題

→男女雇用機会均等法

→倫理の公民館(表紙)
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